国名 | イスラエル国 | ||
英語 | State of Israel | ||
首都 | エルサレム | ||
独立年 | 1948年 | ||
民族 | ユダヤ人(約75%) | ||
その他 | 他にアラブ人他(約25%) | ||
主要言語 | ヘブライ語,アラビア語 | ||
面積 | 2万1643km2 | ||
人口 | 768万6000(2013推計) | ||
通貨単位 | 新シェケル(NIS) | ||
宗教 | ユダヤ教75%、イスラム教17% | ||
その他 | 他にキリスト教2% | ||
主要産業 | 農業、ダイヤモンドの加工 |
地理
イスラエルの国土は、レバノンの南に続き、南西はエジプト国境、
南端はアカバ湾に臨み、東はヨルダン・シリアに接する。
主要河川のヨルダン川がガリラヤ湖(海抜マイナス 209m)を経て死海
(海抜マイナス 430m、塩分は通常海洋の 10倍)に注ぐ。
死海の湖面は毎年1m程度下がっており、以前は細長い一つの湖だったが、
現在では南北二つに分かれてしまっている。
国土の大半は乾燥気候だが、北部は地中海性気候となっており、柑橘類、ユーカリ、
針葉樹などの植林地と牧草地が広がり、果実や酪農品などの農牧業が行われている。
鉱物資源の量は少ないが、カリウム、臭素、マグネシウム、
銅、リン酸塩などの一部を輸出する。
ダイヤモンド加工、機械工業、特に航空機工業が発達し、
また巡礼を含む観光産業も盛んである。
人口の約 75%がユダヤ人、約 20%がアラブ人。公用語はヘブライ語とアラビア語。
宗教事情は複雑で、ユダヤ教は西ヨーロッパ系のアシュケナジ派と
アジア系のセファルディ派に分かれ、イスラム教はスンニ派が主。
キリスト教は各派ともその代表機関を置いている。
歴史
メソポタミア文明
BC7000年、ティグリス・ユーフラテス川の流域、メソポタミアの丘陵地帯に世界最古の文明が発祥し、
BC5000年にはシュメール人が灌漑農業の社会を形成した。
メソポタミアとは、現在のトルコ東部山中の水源からシリア北部を通過して、
イラク領内に入り、バスラ(Basra)付近で合流して
ぺルシア湾に注ぎ込むティグリス川(Tigris)とユーフラテス川(Euphrates)に挟まれた地域を指す。
バグダッド付近から北部はアッシリア(Assyria)、南部はバビロニア(Babylonia)と呼ばれ、
バビロニア地方はさらに聖都ニップル(Nippur)から北部はアッカド(Akkad)、
南部はシュメール(Sumer)と呼ばれた。
人類最初の都市文明が開化したのは南部のシュメールでBC3500年頃であった。
シュメール人は、楔形文字、太陰暦、60進法などを発明しており、これらはシュメール文化と総称される。
それから約千年間シュメール・アッカドの地が文化の中心であったが、BC1757年、バビロニア王国(Babylonia)
のハンムラビ王(Hammurabi)がメソポタミアを統一して以来、
バビロニア文化が当時の世界の頂点に立ち、その影響は、東はイラン西部のエラム(Elam)、
西は地中海沿岸地方からトルコ中央部のアナトリア高原(Anatolian Plateau)にまで及んだ。
ヘブライ王国
ヘブライ人(Hebrew)は、もともと遊牧民であったが、BC1500年頃エルサレムに定住し、
一部はエジプトに移住した。
エジプトのヘブライ人は、新王国の圧政に耐えかね、BC1270年、モーセに率いられてエジプトを脱出し、
エルサレムにヘブライ王国を建国した。
ヘブライ王国は、ダビデとその子ソロモンの頃に栄えた。
ソロモンの死後、BC931年、ヘブライ王国は、イスラエル王国(北)とユダ王国(南)に分裂した。
BC722年、イスラエル王国は、アッシリアに滅ぼされ、BC586年、ユダ王国は、新バビロニアに滅ぼされる。
ユダ王国が新バビロニアに滅ぼされた時、住民の大部分はバビロンに捕虜として連れていかれた。
捕虜としての期間は、BC586年〜 BC538年まで48年間続いた。
BC536年、新バビロニアに代わり、アケメネス朝ペルシアがバビロンを占領した時、
ユダヤ人は帰国を許され、パレスチナの地にもどった。
BC63年、ローマ帝国により、ユダヤ人国家の独立が失われ、ローマの保護国となる。
AD6年、ローマ帝国(BC27〜AD395)の属州(ローマの征服地で、総督が統治)となり、同地にいたユダヤ人は、
総督に反抗して反乱をおこした(ユダヤ戦争。第一次 AD66年、第二次 AD131年)。
132年、反乱に失敗したユダヤ人は、エルサレムから追放され、圧政を逃れて各地に分散していった。
ユダヤ人はユダヤ戦争後、1948年のイスラエル建国まで、およそ2000年近く祖国を失った状態となる。
ユダヤが立ち退いたパレスチナにはアラブ人が住みつき、7世紀イスラム教徒となり、
エルサレムはメッカやメディナに次ぐ第三の聖地となっていった。
ユダヤ、キリスト、イスラムの三宗教の聖地エルサレムをかかえたパレスチナは、
その後十字軍をはじめとして、宗教的見解から様々な勢力興亡の舞台となった。
オスマン帝国の支配とイギリスの二重外交
13世紀末、小アジアに建国されたオスマン帝国は領土を広げ、1453年には、ビザンツ帝国を滅ぼした。
1516年、オスマン帝国は、パレスチナを征服する。
1517年、オスマン帝国は、マムルーク朝(エジプト・シリア)を滅ぼし、一大帝国を築く。
オスマン帝国は、1914に勃発した第一次世界大戦で、ドイツ・オーストリアの同盟国のメンバーとして参戦し、
連合国軍(イギリス・フランス・ロシアの三国協商ほか27国)を相手に戦うことになった。
大戦中の1915年、イギリスは、オスマン帝国の支配下にあったアラブ諸国に対して、戦争協力を条件に、
アラブ人の独立とその居住地区を保証するフセイン・マクマホン協定を結ぶ。
ところが翌年の1916年、イギリスはフランス・ロシアとともに、オスマン帝国の領土分割協定である
サイクス・ピコ協定と呼ばれる協定を結ぶ。
さらにイギリスは、ユダヤ人から戦争資金を引き出すことを目的として、パレスチナにおける
ユダヤ人居住地の建設を約束したバルフォア宣言を1917年に行った。
このバルフォア宣言は、イギリス外相バルフォアが、ユダヤ系金融資本家ロスチャイルド家に対して送った書簡で表明された。
そして、第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れると、パレスチナはイギリスの委任統治領となつた。
しかし、当時パレスチナの住民の多くはアラブ人で、長きにわたって「アラブ人の土地」であった。
そのため、しだいにユダヤ人とアラブ人との問の衝突は避けられない状況となった。
イスラエルの建国と中東戦争
第二次世界大戦後、1947年に国際連合によってパレスチナ分割案が決議された。
パレスチナの56.5%をユダヤ人に、そして43.5%の土地をアラブ人のものとし、エルサレムを国際管理とするもので、
アメリカ、ソ連、フランスなどが賛成し、イギリスは棄権、アラブ諸国は反対した。
結局、この分割案にもとづいて、ユダヤ人はパレスチナに1948年5月、イスラエルを建国した。
だがこれは、周辺のエジプト・トランスヨルダン・シリア・レバノン・イラクも「アラブ人の国」であり
「アラブ人の土地」であるパレスチナに「ユダヤ人の国」であるイスラエルが、突然建国されたことになる。
そのため、イスラエルの建国を認めないアラブ連盟の5か国(エジプト・トランスヨルダン・シリア・レバノン・イラク)
がパレスチナに進攻し、パレスチナ戦争(第一次中東戦争)が発生した。
第一次中東戦争では、イスラエルが勝利し、ガザ地区とヨルダン川西岸を除くほぼすべての地域はイスラエルの占領下に入った。
パレスチナにいたアラブ人の多くは国を失い、周辺のアラブ諸国に逃れて多くのパレスチナ難民(パレスチナ人)が発生した。
この後、中東戦争と呼ばれるイスラエルと周辺のアラブ国家との問の戦争が、1948年から1968年までに4回起こることになる。
エジプト共和国のナセルが1956年にスエズ運河国有化を宣言すると、イスラエルが突如エジプト侵入を開始し、
続いてイギリス・フランスが出兵してスエズ戦争(第二次中東戦争)が起こった。
スエズ戦争では、国連の即時停戦決議とソ連のエジプト支援声明が出され、三国はそれぞれ撤退した。
イスラエルを撤退させたこの戦争を契機にアラブ民族主義が盛り上がり、1964年にはパレスチナ人がイスラエルに奪われた領土や権利を取り戻すための
パレスチナ解放機構(PLO)が設立され、1969年からはアラファトが議長となった。
その後、イスラエルがエジプト・シリア・ヨルダンを先制攻撃して始まった1967年の第三次中東戦争(六日間戦争)においてイスラエルは圧勝し、
ガザ地区・ヨルダン川西地区も含むパレスチナ全土はイスラエルのものとなった。
さらにイスラエルは、シリアのゴラン高原、エジプトのシナイ半島を支配してその領土を五倍に拡大した。
エジプトで1970年にナセルが急死すると、大統領となったサダトはシリアとともにイスラエルヘの攻撃を行い、1973年に第四次中東戦争(十月戦争)が起こった。
またしてもイスラエルが勝利したものの、1968年に設立されたアラブ石油輸出国機構(OAPEC)が、親イスラエル国への石油禁輸、石油の減産、
原油価格の引き上げなどの石油戦略を行ったために、第一次石油危機(オイル・ショック)が起こった。
この戦争後、1979年にエジプトのサダトとイスラエルのベギンの両首脳によるエジプト・イスラエル平和条約が調印され、
両国の国交正常化が実現した。(キャンプ・デービッド合意)
しかし、エジプトがイスラエルと単独和平を結んだ行為は、アラブ諸国とPLOからは裏切りとされ、
エジプトは締結直後にアラブ連盟資格の停止を受け、アラブ諸国内で孤立した。
さらに1981年10月、サダト大統領は、カイロでの軍事パレード閲兵中、過激なイスラム原理主義者に銃殺された。
サダト政権崩壊後、大統領にムバラクが選ばれ、シナイ半島返還を実現(1982年)、そしてアラブ諸国との関係修復に努力し、
1989年にようやくアラブ連盟に復帰が認められた。
パレスチナ暫定自治協定
一方で軍事負担に苦しむイスラエルが、ノルウェー政府の仲介で秘密交渉を進めた結果、
1993年8月にイスラエル占領地における
ガザ地区とヨルダン川西岸地区のイェリコでの、パレスチナ人の暫定自治を認める協定が成立した。(オスロ合意)
そして9月にアメリカ大統領クリントンの仲介のもと、ワシントンでパレスチナ暫定自治協定が、PLOのアラファト議長と、
イスラエルのラビン首相によって調印され、1994年にはガザとヨルダン川西岸のイェリコで先行自治が開始された。
この結果、アラファト議長とラビン首相はノーベル平和賞を受賞した。
ところが1995年に、イスラエルのラビン首相はこの和平路線に反対するユダヤ人青年によって暗殺されてしまう。
その後、2001年にイスラエルの首相となつたシャロンは、パレスチナ人に対する強硬策をとったために中東和平は大きく後退した。
そんな中、先行自治が開始されたパレスチナ自治政府では、PLO穏健派政党「ファタハ」(Fatah)が政権を運営していた。
2004年にアラファトが死去すると、アッバスがPLO議長に就任した。
その後、徐々に力をもつようになったのがハマース党(Hamas パレスチナ人の中でもイスラエルに対して過激的な党)で、2006年には、
ガザ地区でファタハとハマースの武装組織が衝突し、ハマースはガザ地区を武力制圧した。
結果、ハマース党率いるガザ地区と、ファタハ党率いるヨルダン川西岸地区とにパレスチナ自治政府は分裂している状態となっている。
その後、パレスチナ自治政府を国家として承認する国は増加し、2011年にパレスチナ自治政府は国連の加盟を申請して、
10月にはユネスコ(UNESCO)の加盟国として承認されている。
イスラエル史 | ||
BC3500年 | シュメール人(Sumerian)、シュメール文化を築く | |
BC2500年 | シュメール人、北イラクにアッシリア王国(Assyrian Empire)建国 | |
BC2350年 | アッカド王(Akkad)サルゴン(Sargon)、シュメールを征服してアッカド王国(Akkadian Empire)を建国。メソポタミアを統一 | |
BC2150年 | 内紛により、アッカド滅亡。 | |
BC2000年 | アムル人(Amorites)、バビロン(Babylon)にバビロニア王国(Babylonian Empire)建国 | |
BC1757年 | バビロニア王ハンムラビ(Hammurabi)、メソポタミア全土を統一 | |
BC1680年 | ヒッタイト王国(Kingdom of Hittites) 、小アジアに建国 | |
BC1490年 | エジプトのトトメス3世(Thutmose III)、シリア、パレスチナ征服 | |
BC1270年 | ヘブライ人(Hebrew)、モーセ(Moses)に率いられてエジプトを出る | |
BC1200年 | 内紛により、ヒッタイト滅亡 | |
BC1000年 | ヘブライ人、エルサレムにヘブライ王国(kingdom of Israel)建国 | |
BC965年 | ソロモン(Solomon)、ヘブライ人の王となる | |
BC931年 | ヘブライ王国、イスラエル王国(kingdom of Israel)とユダ王国(kingdom of Judah)に分裂 | |
BC722年 | アッシリアがイスラエル王国を滅ぼし、オリエントを統一 | |
BC625年 | カルデア人(Chaldean)、新バビロニア(Neo-Babylonian)建国(〜BC539) | |
BC612年 | 新バビロニアにより、アッシリア滅亡。 | |
BC586年 | 新バビロニアにより、ユダ王国滅亡。(バビロン捕囚 Babylonian Captivity) | |
BC550年 | アケメネスがイランにアケメネス朝ペルシア(Achaemenid Persian)建国 | |
BC536年 | アケメネス朝ペルシアにより、新バビロニア滅亡。ユダヤはペルシアの支配下に入る | |
BC525年 | アケメネス朝ペルシア、エジプトを征服。全オリエントの統一 | |
BC332年 | シリア、ユダヤ、エジプトがマケドニア(Macedonia)の支配下に入る | |
BC330年 | マケドニアのアレクサンドロス(Alexandros)により、アケメネス朝ペルシア滅亡 | |
BC312年 | ユダヤは、セレウコス朝シリア(BC312〜BC63)の支配下に入る | |
BC63年 | ユダヤは、共和政ローマの保護国となる | |
BC4年 | イエス・キリストの誕生。 | |
6年 | ユダヤ、ローマ帝国の属州になる。(パレスチナ属州) | |
26年 | ピラト、ユダヤ総督になる。(〜36) | |
66年 | 第一次ユダヤ戦争始まる(〜70) | |
70年 | 「ユダヤ」が「フィリスティナ」(パレスチナ)という名称に変えられる。 | |
132年 | ローマ、ユダヤの反乱(第二次ユダヤ戦争)を制圧し、ユダヤ人の放浪(ディアスポラ)始まる | |
395年 | 東ローマ帝国領 | |
614年 | ササン朝ペルシア領 | |
638年 | イスラム帝国領 | |
970年 | ファーティマ朝領 | |
1073年 | セルジュク・トルコ領 | |
1098年 | ファーティマ朝領 | |
1099年 | 十字軍がエルサレムを占領し、エルサレム王国建設(〜1291) | |
1187年 | ヒッティーンの戦いでサラディンがエルサレム王国を破り、聖地を奪回 | |
1229年 | 第5回十字軍、アイユーブ朝との交渉でエルサレム回復(〜1244) | |
1244年 | アイユーブ朝が再びエルサレムを占領 | |
1882年 | 第一次アリヤー(ロシアからパレスチナへのユダヤ人移住)、パレスチナの開拓が始まる | |
1894年 | 「ドレフュス事件」をきっかけに、テオドール・ヘルツルによる近代シオニズム運動が展開 | |
1897年 | 第一回世界シオニスト会議 | |
1905年 | 第二次アリヤー(主にロシアからの移住) | |
1917年 | パレスチナの地にユダヤ人国家独立を支持する「バルフォア宣言」がイギリスで採択される | |
1919年 | 第三次アリヤー | |
1922年 | イギリスによるパレスチナの委任統治が始まる | |
1929年 | エルサレムで「嘆きの壁」事件が起こる(8月) | |
1936年 | パレスチナにアラブの反乱起こる(4月)。 | |
1939年 | ナチス・ドイツによるホロコースト(大虐殺)が始まり、600万人のユダヤ人が虐殺される | |
1939年 | パレスチナ問題でロンドン円卓会議(2月) | |
1945年 | アラブ連盟結成 | |
1948年 | イスラエル共和国成立 | |
1948年 | 周辺アラブ諸国との間でパレスチナ独立戦争(第一次中東戦争)勃発。パレスチナ系アラブ人難民の発生 | |
1952年 | エジプト革命起こる | |
1956年 | スエズ戦争(第二次中東戦争) | |
1960年 | 石油輸出国機構(OPEC)結成 | |
1964年 | 第一回アラブ首脳会議開催。パレスチナ解放機構(PLO)設立 | |
1967年 | 六日戦争(第三次中東戦争) | |
1967年 | イスラエル、当時ヨルダン領だった東エルサレムを含むヨルダン西岸、ガザ、ゴラン高原、およびシナイ半島を占領 | |
1968年 | 消耗戦争(第四次中東戦争) | |
1970年 | エジプト、ナセル大統領死去 | |
1972年 | イスラエルの空港で日本赤軍派による乱射事件 | |
1975年 | レバノン内戦始まる | |
1977年 | エジプトのサダト大統領、イスラエル訪問(11月) | |
1978年 | アメリカ、エジプト、イスラエルが中東和平会談(キャンプデービッド合意) | |
1979年 | エジプト・イスラエル平和条約締結(キャンプ・デービッド合意)。シナイ半島からの撤退 | |
1982年 | イスラエル、シナイ半島をエジプトに全面返還 | |
1982年 | イスラエル、レバノンへ進攻(レバノン戦争) | |
1987年 | ガザ地区でインティファーダ(アラブ人による武装蜂起)発生 | |
1987年 | ハマース党、ヒズボラ、反イスラエルテロを激化 | |
1993年 | ラビン首相とPLOのアラファト議長によるオスロ合意(パレスチナ暫定自治合意) | |
1994年 | イスラエルとヨルダン平和条約に調印 | |
1995年 | イスラエルとパレスチナ解放機構、パレスチナ自治拡大で合意。イスラエル、ラビン首相暗殺される | |
2000年 | インティファーダ勃発、パレスチナ人によるテロが激化 | |
2002年 | イスラエル、アラファト議長をパレスチナ自治区ヨルダン川西岸ラマッラーの大統領府に軟禁(3月) | |
2004年 | ラマッラーで軟禁中のアラファト議長、体調をくずしパリの病院に入院するが、そのまま死去(11月11日) | |
2005年 | アラファトの後任としてPLO議長にアッバスが選出され就任(1月9日) | |
2005年 | イスラエルがガザ地区から撤退を完了(9月12日)、1967年の第三次中東戦争以来38年間続いた「占領」が終結 | |
2006年 | 10年ぶりにパレスチナ評議会選挙が行われ、イスラム原理主義組織で武力闘争を掲げるハマース党が勝利(1月25日) | |
2006年 | レバノンのイスラム教シーア派系武装勢力ヒズボラが、イスラエル軍兵士を拉致したことにより、 | |
イスラエル軍がレバノン領内へ侵攻(7月12日)、国連安保理の決議を受け停戦が発効(8月14日) | ||
2006年 | レバノン南部からイスラエル軍が撤退し国連レバノン暫定軍に支配地域を引き渡した(10月1日) | |
2007年 | ハマース党とファタハ党を中心とするパレスチナ挙国一致内閣が成立(3月17日) | |
2007年 | ハマース党武装勢力がガザ地区制圧、アッバス大統領が自治区全域に緊急事態宣言(6月14日) |
死海 (Dead Sea)
死海は、海面下マイナス430mと、最も低地にある塩水湖。
細長い形をした湖は、ヨルダンとの国境に位置している。
塩分の含有量は、通常の10倍の約33%もある。
そのため浮かびながら、週刊誌が読めるという不思議な塩湖だ。
ヨルダン川から流入する水の出口がなく、たまった水は太陽光線でどんどん蒸発する。
そのため水中の塩分が極端に濃縮されてしまうのだ。
だが豊富なミネラルを含んだ死海の水は、美容や健康にも効果があるといわれる。
皮膚病やリウマチ、エステを受けに訪れる人々も多い。
みやげ物店では、エステグッズ「死海の泥」が観光客に人気だ。
死海周辺は、国立公園になっており、有名な史跡も多い。
「ダビデの滝」や「ヘロデ王の宮殿跡」などは、ぜひ訪ねてみたいところだ。
死海へのアクセスは、日本からイスタンブールまで12時間。
イスタンブール(トルコ航空)からテルアビブまで15時間。
テルアビブ(イスラエル航空)からエルサレムまで1時間。
エルサレム(イスラエル航空)から死海沿岸のエン・ボケック(Ein Bokek)まで2時間。
(The Dead Sea Ein-Bokek public beaches, Israel)