国名 | ヨルダン・ハシミテ王国 | ||||
英語 | Hashemite Kingdom of Jordan | ||||
首都 | アンマン | ||||
独立年 | 1946年(トランスヨルダン王国) | ||||
民族 | アラブ人 | ||||
その他 | |||||
主要言語 | アラビア語 | ||||
面積 | 8万8778km2 | ||||
人口 | 618万(2011推計) | ||||
通貨単位 | ヨルダン・ディナール(JOD) | ||||
宗教 | イスラム教スンニ派93%、キリスト教7% | ||||
その他 | |||||
主要産業 | 製造業、運輸・通信業、金融業、観光業 |
地理
国土の80%以上が不毛の砂漠または半砂漠である。
国土の西部は、世界でもっとも低い大地溝帯を南北に形成し、
平均して海面下300メートルのヨルダン渓谷となる。
ここには死海もあり、標高が極めて低い。
ヨルダン渓谷は幅5〜10キロメートル、長さ約100キロメートルの細い緑地で、
亜熱帯性気候を呈し、夏は40℃の酷暑となるが、高温多湿の気候を生かして
農耕や果樹栽培が行われている。
ヨルダン高原は、ヨルダン渓谷の東側に位置する高原地帯で、
南部にはヨルダン最高峰のラム山 (1,754m) がある。
国土の大半を占める東部砂漠は乾燥し、降水量は年間50ミリメートル以下である。
アンマン地方は温暖な高原性気候で年平均気温は17.2℃、
8月の平均気温25.3℃、1月は7.7℃、冬は雨期となり積雪もみられる。
農業 (コムギ、オオムギ) と牧畜が主産業。果実、野菜、たばこ、リン酸塩を輸出し、
工業製品と食料を輸入するが、貿易収支は赤字で、大幅に外国の援助に頼る。
住民の大部分がスンニ派のイスラム教徒。
パレスチナ難民は 2002年の推計で総人口の約 30%、167万 5000人に上る。
歴史
7世紀からイスラム諸王朝の支配を受け、1518年からはオスマントルコの支配下に入る。
第一次大戦後のイギリスの委任統治時代を経て、1946年に独立。
それ以前はトランスヨルダンと呼ばれていた。
1967年の第三次中東戦争 (六日戦争)により、重要な農業地帯であるヨルダン川西岸地区はイスラエルの占領下におかれた。
その後、イスラエルは、ヨルダン川西岸地区を自国領であると主張しているが、国際的には受け入れられていない。
中東戦争によってパレスチナ難民が多数ヨルダン国内に移住した。
さらにパレスチナ・ゲリラ組織(PLO)もヨルダンを拠点に活動し、イスラエルを攻撃したため、イスラエルもしばしばゲリラ鎮圧の名目でヨルダン領内に侵攻してきた。
ヨルダン政府は、パレスチナ難民とPLOの存在は、ヨルダンを危険にさらすものと考え、1970年9月に国外退去を宣告し、弾圧を加えた。
首都アンマンのパレスチナ難民キャンプが戦場となり、一般市民も巻き込んで、多くの死傷者が出た。(ヨルダン内戦)
PLOは敗れて撤退し、レバノンのベイルートに移らざるを得なくなった。この屈辱をパレスチナ・ゲリラ側は「黒い9月」と呼んだ。
PLO内部の過激化ゲリラ組織ファタハは、報復に出て、1971年11月、ヨルダンの首相を殺害した。(黒い9月事件)
ヨルダンはPLOと断交し、同じアラブ人同士が対立する事態となった。
ヨルダン史 | ||
BC1300年 | エドム人(Edom)がヨルダンの地(エジプトの支配下)に定住 | |
BC552年 | 新バビロニアの支配下に入る | |
BC538年 | アケメネス朝ペルシアの支配下に入る | |
106年 | ローマ帝国の保護領となる | |
638年 | イスラム帝国(正統カリフ)の支配下に入る | |
1518年 | オスマン帝国の支配下に入る | |
1919年 | イギリス統治領となる | |
1923年 | トランスヨルダン王国成立 | |
1946年 | トランスヨルダン、イギリスから独立 | |
1949年 | 国名をヨルダン・ハシミテ王国に改称 | |
1953年 | ヨルダン、フセイン国王即位(〜1999) | |
1967年 | 第三次中東戦争で、ヨルダン川西岸地区をイスラエルに奪われる。(パレスチナ難民の発生) | |
1970年 | ヨルダン内戦 | |
1971年 | ヨルダン首相暗殺事件(黒い9月事件) | |
1988年 | ヨルダン、ヨルダン川西岸地区放棄を声明 | |
1994年 | イスラエルとヨルダン平和条約に調印 |
ペトラ遺跡 (Petra)
ペトラは、死海の南80kmに位置する古代ナバテア王国の遺跡。
紀元前2世紀、隊商として富をなしたナバテア人は、その財宝を
異民族に狙われるのを恐れ、岩山に街を造り、定住していた。
砂岩を彫り抜いた壮麗な神殿が立ち並ぶペトラの街は、
交易商人たちから「バラ色の隊商都市」と呼ばれていた。
驚くべきことは、乾燥した砂漠地帯にもかかわらず、ペトラの街の
いたるところに大量の水が供給されていたことだ。
街の通りの左右には、飲料水を通す岩の水路が整備されていた。
また噴水やプール、公衆浴場などの水利施設も存在していた。
主要な水源は、約6km東のモーセの泉(Mosa Spring 現存)である。
そこから引かれた水路が街の中心部をとおり、生活用水や
市場などに常時使用されていた。
それ以外にも、ラム山から流れる水や雨水など、複数の水源が
確保され、大勢の隊商の到着に対応できるようになっていた。
だがナバテア王国は、106年にローマ帝国に併合されてしまった。
高度な給水技術を誇るローマ帝国は、新たな征服地ではまず、
水利設備を整えるのが習わしであった。
ペトラの水利システムは、すでに当時最高水準に達しており、
ローマが手を加えるところは、ほとんどなかったという。