国名 | リビア | |||
英語 | State of Libya | |||
首都 | トリポリ(Tripoli) | |||
独立年 | 1951.12(イタリア) | |||
主要言語 | アラビア語 | |||
面積 | 175万9540km2 | |||
人口 | 665万3210人 | |||
通貨単位 | リビア・ディナール | |||
宗教 | イスラム教96% | |||
主要産業 | 石油、天然ガス、炭化水素 |
地理
北アフリカの地中海に面する国。西はチュニジア、アルジェリア、南はニジェール、
チャド、南東はスーダン、東はエジプトに接する。
国土の大部分がサハラ砂漠の一部で、散在するオアシスのほかは海岸地帯に人口、都市が集中している。
リビアは、東隣のエジプトと同じく、全体が広大な乾燥した高原と低地からなる。
全般に南部国境地域の標高1000メートル前後の高原から、地中海沿岸へとしだいに低くなり、
国土の70%が500メートル以下の高原や低地である。
高原には深いワジ(涸れ谷)が刻まれているが、これはサハラの乾燥化以前の湿潤期の大河の跡である。
沿岸は西のトリポリタニアからシドラ湾にかけては海岸平野がみられるが、
ベンガジより東では、アフダル山地が海に臨み、断崖が続いている。
大部分を占める内陸の砂漠では、低所の砂丘群のほか、礫砂漠、岩石砂漠も広くみられる。
気候は年間を通じてサハラの高気圧に覆われるため、晴天が多く、大部分の地域が年降水量100ミリメートル未満の砂漠気候である。
200ミリメートル以上の降雨をみるのは、トリポリタニア、キレナイカの突出した沿岸地域のみで、
冬季に地中海低気圧の影響で雨が降り、地中海性、ステップ気候を示す。
気温は、沿岸のトリポリ、ベンガジでも8月の平均気温が28℃と暑く、日中の最高気温は40℃を超える。
しかし1月の平均気温は12℃とかなり涼しくなり、背後の高原では降雪をみる。
内陸では日較差、年較差ともさらに大きく、夜間は低温となり、冬は零下気温になることも多い。
なお晩春から初秋にかけ、ジブリとよばれる砂まじりの熱風が吹き、農作物が被害を受けることがある。
主産業は農業、軽工業であったが、1950年代からゼルテンなどで石油が発見され、
1970年代には外国資本の石油会社を接収して国有化、輸出の大部分を占めるようになった。
歴史
先史時代からベルベル人が居住していたが、11〜12世紀にアラブ系スンニ派のイスラム教徒が移住、国民の大多数を占めている。
かつてはギリシアやローマ帝国の植民地であり、16世紀以降はオスマン帝国の支配下にあったが、イタリア・トルコ戦争(1911〜1912年)で
イタリアが勝ち、1912年にイタリアの植民地となった。
その後、ベドウィン人(アラブ系遊牧民)の指導者オマール・ムフタール(Omar al-Mukhtar)が、激しい抵抗を繰り広げたが、
1931年にオマールは捕えられて処刑。1932年、イタリアはリビアの完全平定を果たした。
第二次世界大戦中の1943年、リビアの地は連合軍に占領されたが、1949年国連が独立を決議、1951年にリビア連合王国として独立した。
1969年カダフィらの軍事クーデターにより、リビア・アラブ共和国となり、1977年社会主義人民リビア・アラブ・ジャマーヒリーヤ国となった。
1970年代以降、数々のテロ活動への関与を指摘され、欧米諸国と対立。
1985年には一連のテロ事件により経済制裁を、また 1986年にはアメリカ軍の空爆を受けたが、
その報復として 1988年12月に 270人の死者を出したパンアメリカン航空機爆破事件を起こした。
1992年に採択された国際連合のリビア制裁決議により、リビアは事件の首謀者を 1999年4月に引き渡し、
さらに後年、遺族に対する補償金の支払いも約束した。
そして 2001年のアメリカ同時テロを機に、一転して西側欧米諸国との協調路線をとりつつ親アラブ外交から親アフリカ外交へと移行した。
2011年、チュニジアに端を発したアラブおよび北アフリカ諸国の民主化の流れが波及し、反体制派と政権側による内戦状態に陥った。
反体制派は 2011年8月23日に首都トリポリを制圧。同年 10月14日、国名を「リビア」に改称。
同年 10月20日、カダフィが殺害され、カダフィ政権は終焉を迎えた。
1951年12月 | リビア連合王国(イドリース王国)として独立。 |
1959年 | 油田発見 |
1963年 | 連邦制を廃止し、国名を「リビア王国」に改称。 |
1969年9月 | 9月1日革命、カダフィ大尉(当時)によるクーデターにて王政廃止。同年11月に暫定憲法公布により、 カダフィ大尉を議長とする革命評議会が最高統治機関として設立、国名を「リビア・アラブ共和国」に改称。 |
1971年 | 英国石油(BP)を接収 |
1977年3月 | 人民主権確立宣言(ジャマーヒリーヤ宣言)発表。 |
国名を「社会主義リビア・アラブ・ジャマーヒリーヤ国」に改称。 | |
2011年2月 | カダフィ政権に対する反政府デモがリビア全土で勃発、これより半年間内戦状態に陥る。 |
2011年8月 | カダフィ政権とリビア国民暫定評議会を中心とする反体制派との間の数か月にわたる武力衝突を経て、 反体制派が首都トリポリを制圧。カダフィ政権が崩壊。 |
2011年10月 | 国名を「リビア」に改称。 |
砂漠のライオン(Lion of the Desert)1980年(リビア・アメリカ合作映画) イタリアの独裁者ムッソリーニは、北アフリカのリビアにローマ帝国を再建する野望に燃えていた。 そして1929年、近代装備で固めた大軍を現地へ派遣。 一方、老いたベドウィンの指導者オマール・ムクター(アンソニー)は、勇敢なる砂漠の戦士たちを 率いて、民族の誇りを賭けた不屈の闘志で徹底抗戦を繰り広げる。 イタリア軍のリビア侵略を阻止せんとする現地遊牧民の生きざまを描く。近代兵器何するものぞ、 砂漠の自由こそ民族の命と、ひるむ事を知らない男たち。そして哀調を帯びた独特の叫びを挙げて 彼らを称える黒いベールの女たち。イスラム世界のエキゾチシズムとパワーに、改めて圧倒される。 (監督)ムスタファ・アッカド(Moustapha Akkad) (出演)アンソニー・クイン(Anthony Quinn)オリヴァー・リード(Oliver Reed) |
カダフィ (Gaddafi)
なぜ中東紛争は止まないのだろうか。
中東が平和になると、一番困ってしまうのが、
米国の軍需産業とイスラエルの中央銀行である。
リビアはかつて反米・反イスラエルの強硬国家だった。
カダフィは、金貨による「リビア通貨」を発行しようとした。
理由は、原油取引は「USドル」が原則だったからである。
原油を輸出しても「中央銀行が印刷機で刷った紙」で支払われる。
カダフィは、それが許せなかったのだ。
結局、他の中東国家へのみせしめとして、彼は殺害されてしまった。
リビアはかつて世界で最も貧しい国だった。
カダフィ政権になってからは、全アフリカでトップクラスの豊かな国になった。
内政面では、石油の富を国民に還元し、教育と医療費を無料化。
全アフリカで最も低い幼児死亡率、最も長い平均余命を誇るという超福祉国家となった。
だが石油資源をもつ中東国家の近代化は、覇権国家アメリカの崩壊を意味する。
そこでアメリカは反政府軍を支援し、カダフィを追い詰め裁判なしに殺害した。
同じ年の2011年、チュニジアのベリ・アリ政権、そしてエジプトの
ムバラク政権も同じ手口によって瓦解した。
世界史の教科書では、これらを「アラブの春」と称し、独裁政権が
打倒され、中東諸国の民主化の契機となったと説明されている。
旧政権が打倒されたこれら諸国には、前後してイスラエル中央銀行が設立された。
だが、これら諸国が、その後、民主的になったという情報は未だ聞いた事はない。
アメリカの他国介入の際に、常に唱えられるのが、民主化、近代化、
人権の擁護といった価値観である。
こうした誰も反対できない価値観を用いて、強引に外国に介入するのだ。
だが、その後に成立した親米傀儡政権は、アメリカが言う「独裁政権」よりも、
さらに独善的になり、国民生活は貧困や失業に追い込まれるという悲惨な状況になった。
アメリカの軍需産業、中央銀行が、自らの権益のために行った政権転覆の試みは、
中東、北アフリカの大混乱と、それらの国民の生活基盤を失わせてしまったのである。