国名 | モンゴル国 | ||||
英語 | Mongolia | ||||
首都 | ウランバートル(Ulaanbaatar) | ||||
独立年 | |||||
主要言語 | モンゴル語 | ||||
面積 | 156万4116km2 | ||||
人口 | 306万8243人 | ||||
通貨単位 | トグログ | ||||
宗教 | 伝統信仰32%、チベット仏教23% | ||||
主要産業 | 銅鉱、石炭、金、石油 |
地理
モンゴル国は、アジア大陸の中部、モンゴル高原にある内陸国。
北をロシア、他の3方を中国に囲まれる。
行政上は 18の州と3特別市 (ウラーンバートル、ダルハン、エルデネト) に分かれる。
地形は北西部の山地と、南東部の東部モンゴル高原に大別される。
国土の平均標高は 1580m。
アルタイ山脈が 4000m級の高山を連ね、山容も険しいが、北西部のハンガイ山脈では
高度も減じ、山容も穏やかである。
東部モンゴル高原は大部分が砂礫土壌の半ステップで、ヤギ、ヒツジ、ラクダが放牧されている。
南部の国境沿いには植生のまばらなゴビが広がる。
内陸の高原にあるため、大陸性気候で、年降水量は 50〜300mm、気温の日較差、年較差がともに大きい。
ハンガイ山脈ではなだらかな山腹に草原が広がり、ヒツジとウシの放牧が盛ん。
北斜面を流れるオルホン川流域ではコムギや飼料作物などが栽培されている。
住民の大部分はモンゴル系のハルハ族で、西部や北部には同じモンゴル系のオイラート族やブリヤート族も住む。
主産業は牧畜と、畜産品加工の軽工業であるが、建設・建材工業、
また特に鉱業の発展に力が注がれており、三つの特別市がその中心となっている。
鉄道は未発達であるが、自動車道と航空路が首都と州都の間を結んでいる。
歴史
モンゴル高原にもっとも古い統一国家として匈奴が現れたのは紀元前3世紀ごろとされるが、
その後この地ではモンゴル系、トルコ系、チベット系など多くの遊牧系民族が興亡を繰り返した。
しかし13世紀、チンギス・ハンが出現し、これら遊牧系諸部を統一してモンゴル帝国を建てて以来、
モンゴル民族がこの高原の中心民族となり今日に至っている。
フビライ・ハンの建てた元朝の最盛期、モンゴル帝国全体の版図は、当時知られていた世界の5分の3を占めるという隆盛ぶりであった。
しかし元朝崩壊後、モンゴル高原に北帰したモンゴル民族は、内部対立を繰り返して力を弱めていった。
15世紀後半から16世紀中ごろにかけてのモンゴル族は、一時、明朝を脅かすほどに勢力を盛り返したが、
これが騎馬民族としての最後の華やかな時代でもあった。
1206年、チンギス・ハンの即位により成立したモンゴル帝国(1206〜1635年)は、その後継者たちにより、ユーラシア大陸全土へその版図を広げていった。
その後、皇位争いに勝利したフビライ・ハン(在位1260〜1294年)は、1271年国号を「元」と改め、中国史に新たな統一王朝の名を刻むこととなった。
この時点で、当時の中央アジアには、チンギス・ハンの諸子分封に由来する4ハン国が存在していたが、元朝が成立すると、それぞれ分離独立していった。
元朝は、その後も宗主国の地位にはあったが、諸ハン国への支配権は及ばず、いよいよモンゴル本国と中国とを支配する中国王朝の性格を強めることになった。
(4ハン国)
チャガタイ・ハン国 (Chagatai Khanate 1225〜1680年)
1225年チンギス・ハンの次男チャガタイ(Chagatai)が建国。都はイリ川(Ili)流域のアルマリク(Almaliq)。
中央アジアで権勢を振るったが、1330年内紛により東西に分裂。西は1363年イスラム系ティムール帝国に奪われ滅亡、
東は1680年モンゴル系遊牧民族ジュンガル・ハン国(Dzungar Khanate)に併合された。
オゴタイ・ハン国 (Ogedei Khanate 1229〜1310年)
1229年チンギス・ハンの三男オゴタイ(Ogodei)が建国。都はイリ川(Ili)北西のエミル(Emil)。
北西モンゴルを支配したが、1310年勢力争いによりチャガタイ・ハン国に併合された。
キプチャク・ハン国 (Kipchak Khanate 1243〜1502年)
1243年チンギス・ハンの孫バトゥ(Batu)がキルギス草原にロシアのキプチャク草原を加えて建国。都はヴォルガ河畔のサライ(Sarai)。
領土は東はカザフ草原から西はクリミア地方。14世紀前半に最も繁栄したが、1502年イスラム系ティムール帝国の攻撃を受け滅亡した。
イル・ハン国 (Ilkhanate 1258〜1353年)
1258年、チンギス・ハンの孫フラグ(Hulagu)がイスラム帝国アッバース朝を倒し、イランの地を中心に建国。
都はイラン北西部のタブリーズ(Tabriz)。7代目のカザン・ハン(Ghazan 在位1295〜1304)の時代にイスラム教を国教とし、
領土を広げ全盛期を迎えたが、1335年以降は内紛で衰退、1353年に滅亡した。イルハン朝とも呼ばれる。
一方、元朝の世祖フビライ・ハンは、一時中断していた南宋征討を、周到な準備を経て再開し、1276年正月には都の臨安(杭州)を陥落させた。
南宋はこのとき事実上滅亡した。なおも抵抗を続ける文天祥らを追撃、1279年になって完全に南宋を征服した。
その勢いに乗じて、高麗を服属させ、さらに日本にも遠征軍を二度にわたり派遣(元寇)したが、失敗した。
また南方には安南(ベトナム)、ビルマ(現ミャンマー)、ジャワに遠征して、ジャワを除く東南アジア諸国を従属国にした。
元朝は中国統治に際して、モンゴル至上主義政策を採り、モンゴル人に社会的特権を与え、支配者の地位を保証する体制を構築した。
モンゴル人が政治の要職を独占してあらゆる特権を享受し、数のうえでは圧倒的に多い漢人は被支配者の地位に置かれ、
政治の中枢に参画できず、法律上でも著しい差別があった。
一方、元朝の成立により、中央アジアに政治的安定がもたらされ、シルクロード交易が活況を呈し、元の首都、大都は政治・経済の中心地となって繁栄した。
ベネチア商人マルコ・ポーロは、1275年から1292年まで大都でフビライに仕え、帰国後「東方見聞録」を著した。
この繁栄の時代は、ローマ帝国のもたらしたパクス・ロマーナ(ローマの平和)になぞらえてパクス・モンゴリカと呼ばれる。
元朝の最盛期は世祖フビライ・ハンの治世20年の間であって、その後はしだいに衰亡の道をたどった。
衰退の原因の一つは、帝位継承をめぐる宮廷の内紛であった。
皇帝の死後には、重臣の間でかならず相続争いが起こり、その結果、第3代武宗から第10代寧宗までの26年間で実に8人の皇帝がかわった。
そうした政情不安につけこんで、私利私欲をたくましゅうする権臣が現れ、政治の混乱に拍車をかけた。
そのうえ歴代皇帝はチベット仏教(ラマ教)を狂信し、五台山などに盛んに寺塔を建立して乱費を重ね、
国家経費の3分の2はチベット仏教への布施にあてられた。その補填のために紙幣を乱発して国家財政を混乱させた。
さらに天災が相次いで大量の流民が発生、モンゴル至上主義に対する民族的反感も急激に高まり各地に反乱が続発した。
その中心勢力を形成したのは、浄土宗の一派「白蓮教徒」であった。
彼らは頭に紅い布を巻いたので「紅巾党」と呼ばれた。
こうして群雄が蜂起し華南地域は大混乱となった。
やがて紅巾党の中から現れた朱元璋が、他の反乱者たちを平定して華南を統一、1368年に南京で帝位につき、国号を明と定めた。
朱元璋は即位するや大軍を率いて元の都、大都に迫った。
ここに至ってモンゴル人たちは最早、中国の保持は不可能であると見切りをつけ、1368年大都を放棄して北のモンゴル高原へと退去した。
これ以降の元朝は北元と称し、明朝は彼らモンゴル人を韃靼人(タタール人)と呼んだ。
17世紀に入ると、中国北方にツングース系の清朝が興り、この勢力はしだいにモンゴル高原に押し寄せた。
1635年、北元は清朝に帰順し、400年続いたモンゴル帝国はここに滅亡した。
その後1911年の辛亥革命で清朝が倒れるまでの250年近く、モンゴルは清朝の植民地としての地位に甘んじることになる。
1911年の辛亥革命で清朝が倒れたのを機に、モンゴルは帝政ロシアの支援を得て独立を宣言し、
第8代ボグド・ゲゲンが帝位についた。(第一次独立宣言)
しかし中国(中華民国)の強い反対にあい、ロシア・中国間の覚書などによって「独立」は「自治」へと後退させられていった。
さらにロシアに十月革命が起こると、その混乱に乗じた中国がモンゴル支配を強め、
1919年には中国大総統令によって「自治」さえも撤廃させられた。
こうした状況下で十月革命の影響を受けた下級役人や知識人らがスフバートルらを中心に反中国、民族解放、封建制度打破などを目標に
人民党(のち人民革命党と改称)を結成し(1920年6月)、さらに1921年3月には臨時革命政府を樹立し、
革命軍を組織してコミンテルンやソ連赤軍の支援を得て中国軍を駆逐した。
そしてさらに、モンゴルに侵入していたロシア白衛軍をも追放してウランバートルを解放し、1921年7月11日には新政府を樹立した。
この7月11日は革命記念日としてモンゴルの国慶日となっている。
新政府は最初第8代ボグド・ゲゲンを元首としたが、1924年にボグド・ゲゲンが死去すると、
社会主義を目ざす新憲法を発布し、活仏による君主制を廃して共和政体に改めた。
以後、モンゴルは1992年2月の新憲法発布まで、社会主義国家としての道を歩んできた。
社会主義体制下の約70年間、モンゴルの国家建設の歩みはけっして平坦なものではなかった。
1930年代初め、聖俗封建勢力の徹底排除や牧畜の集団化の強行に対して各地で反乱が頻発した。
1930年代後半にはソ連のスターリン政治の影響もあって「反革命分子追放」の名の下に大量粛清が行われた。
また第二次世界大戦終結までは日本の大陸進出、満州国建国などによって東南部国境地帯が脅威にさらされ、
国家建設よりも国防に全力を集中せざるをえなかった。
1939年にモンゴル東部国境で日本との間に起こったノモンハン事件などは、こうした建国期の苦渋の象徴でもある。
国の内外が落ち着きをみせ、計画経済を導入することができるようになるのは、ようやく1948年からである。
1949年に中華人民共和国が誕生し、1950年代に入ると中ソが蜜月時代を迎え、モンゴル・中国間にも友好的な関係が開かれた。
モンゴルが国際的認知を受けるのもこのころからである。
1940年代末から1950年代に入ると社会主義諸国、1960年代に入ると非同盟諸国を中心にモンゴル承認が相次ぎ、
1961年には国連加盟が実現して国際的地位を確立するに至る。
中ソの蜜月時代、モンゴルは中ソ両国の支援を受けて、本格的な国家建設の時代に入った。
しかしその時代は約10年で幕を閉じる。
中ソ対立が起こると、モンゴルはソ連側に立って中国との関係を冷却化させた。
そして1962年にはCOMECON(コメコン)(経済相互援助会議)に加盟し、以後、ソ連・コメコン体制の崩壊する1990年代初めまで、
それらの支援を得ながら国家建設を進めてきた。
1980年代末からのソ連・東欧諸国の激変を受けて、1989年末にはモンゴルにも民主化の波が押し寄せた。
1990年5月には憲法を改正して多党制を導入、1992年2月には社会主義イデオロギーを放棄した新憲法を発布し、
国名、国旗、国章も変えて民主主義と市場経済の原理による国家建設を目ざすこととなった。
以後、新憲法下で五度の国政選挙と大統領選挙を経て民主主義は定着し、市場経済への移行が進められている。
1206年 | テムジン、モンゴルを統一。チンギス・ハンと称する。モンゴル帝国(1206〜1635年)の成立 |
1211年 | チンギス・ハン、金に遠征 |
1219年 | チンギス・ハン、ホラズム・シャー朝攻略のため西征(〜1225) |
1225年 | チンギス・ハンの次男チャガタイがチャガタイ・ハン国を建国。都はアルマリク |
1227年 | チンギス・ハン、西夏を滅ぼしたのち、六盤山で死去 |
1229年 | チンギス・ハンの三男オゴタイが第2代ハンに即位してオゴタイ・ハン国を建国。都はエミル |
1231年 | オゴタイ、高麗に侵入 |
1234年 | オゴタイ、中国北部を占領していた金を滅ぼす |
1235年 | オゴタイ、カラコルム(和林)にモンゴル帝国の首都を建設 |
1236年 | チンギス・ハンの孫バトゥによるヨーロッパ遠征が始まる |
1240年 | バトゥ、キエフ公国のキエフを攻略 |
1241年 | バトゥ、ポーランド連合軍を撃破(ワールシュタットの戦い) |
1241年 | バトゥ、ハンガリー軍を撃破(モヒの戦い) |
1241年 | オゴタイが死去し、バトゥは遠征を中止 |
1243年 | バトゥ、南ルーシ・キプチャク草原を支配しキプチャク・ハン国を建国 |
1246年 | 法王インノケンティウス4世の使節カルピニ、モンゴル帝国を訪問(〜1247) |
1246年 | グユクが第3代ハンに即位 |
1248年 | グユクが死去 |
1251年 | モンケが第4代ハンに即位 |
1253年 | チンギス・ハンの孫フビライが大理国を降伏させる |
1254年 | フランシスコ会修道士リュブリュキ、カラコルム到着 |
1255年 | バトゥが死去 |
1256年 | モンケ、弟のフラグに西アジア遠征を命じる |
1258年 | フラグ、バグダッドを征服しアッバース朝を滅ぼす |
1258年 | フラグ、タブリーズを都としイルハン朝を創始する |
1259年 | 高麗、モンゴル帝国に服属 |
1259年 | モンケが死去 |
1260年 | フビライが第5代ハンに即位 |
1260年 | シリアのマムルーク軍がモンゴル軍を破る(アイン・ジャルートの戦い) |
1271年 | フビライ、モンゴル帝国を元と改称。元朝(1271年〜1368年)の成立。都は大都(北京) |
1274年 | マルコ・ポーロ、フビライ・ハンと会見 |
1274年 | 元軍、日本遠征に失敗(文永の役。元寇) |
1275年 | 南宋の文天祥、反元義勇軍を起こす |
1279年 | 元、克Rで南宋を滅ぼし、中国を統一 |
1281年 | 元軍、日本再遠征に失敗(弘安の役。元寇) |
1288年 | 白藤江の戦い(ベトナム軍が元軍を退ける) |
1294年 | フビライ死去 |
1294年 | フビライの孫テムルが第2代元朝皇帝に即位 |
1294年 | 法王ニコラウス4世の使節モンテ・コルヴィノ、元の首都大都に入り伝道開始 |
1305年 | モンゴル帝国(元)が5つに分裂 |
1310年 | チャガタイ・ハン国、オゴタイ・ハン国を滅ぼす |
1330年 | チャガタイ・ハン国が遊牧派と定住派の対立で東西に分裂。 |
1346年 | モロッコ人の旅行家イブン・バットゥータ、元の首都大都訪問 |
1351年 | 元で紅巾軍蜂起 |
1353年 | 明、朱元璋(洪武帝)、紅巾軍に呼応して挙兵 |
1353年 | イルハン朝滅亡 |
1359年 | 紅巾軍、高麗に入寇(〜1362) |
1363年 | ティムール、サマルカンドを占領。西チャガタイ・ハン国滅亡。 |
1368年 | 朱元璋によって、元朝最後の皇帝トゴン・テムルはモンゴル高原に敗走。以降、北元(1368〜1635年)と称される |
1368年 | 明朝(中国)の成立(1368年〜1644年) |
1370年 | ティムールが中央アジアを制圧、ティムール帝国の成立 |
1380年 | キプチャク・ハン国、モスクワ大公国に敗れる(クリコヴォの戦い) |
1398年 | ティムール、インドに遠征し、デリーを略奪 |
1401年 | ティムール、ダマスクス占領、バグダッドを破壊 |
1401年 | ティムール、オスマン帝国を破り、バヤジット1世を捕虜にする(アンカラの戦い) |
1402年 | 明、永楽帝(成祖)即位 |
1405年 | ティムール、明遠征の途上で病死 |
1406年 | 明、ベトナム(安南)を征服(〜1428) |
1410年 | 明、永楽帝のモンゴル親征(1414、1422、1423、1424) |
1421年 | 明、北平を北京と改め遷都 |
1438年 | ヴォルガ川中流域にカザン・ハン国が建国 |
1441年 | 黒海北岸のクリミア半島にクリミア・ハン国が成立 |
1449年 | 明にモンゴル系遊牧民族オイラト(瓦剌)軍侵攻、正統帝を捕える(土木の変) |
1466年 | カシム・ハンがカスピ海河口にアストラ・ハン国を建国 |
1480年 | モスクワ大公国がモンゴル勢力から独立する |
1487年 | 北元のダヤン・ハン(達延汗)即位 |
1502年 | キプチャク・ハン国、ティムールの攻撃を受け滅亡 |
1507年 | ティムール帝国がシャイバーン朝に滅ぼされる |
1520年 | モンゴル系遊牧民族タタール(モンゴル)、明に侵入 |
1521年 | 明の嘉靖帝(世宗)即位 |
1522年 | 明、タタールと倭寇の脅威に悩む(北虜南倭) |
1550年 | タタールのアルタン(俺答)、明に侵入、北京を包囲(庚戌の変) |
1552年? | カザン・ハン国、モスクワ大公国に併合される |
1556年 | アストラ・ハン国、モスクワ大公国に併合される |
1571年 | 明、タタールのアルタン(俺答)と和議成立 |
1603年 | 女真のヌルハチ(奴児哈赤)、ヘト・アラ(赫図阿拉)を都とする |
1616年 | 女真のヌルハチ(奴児哈赤)、ハン位につき、後金成立 |
1616年 | 清朝(1616年〜1912年)の成立。首都は盛京(瀋陽) |
1619年 | ヌルハチ(奴児哈赤)、明を破る(サルフの戦い) |
1627年 | 後金、朝鮮に侵入(丁卯胡乱) |
1628年 | 明で李自成の乱(〜1644) |
1635年 | モンゴル高原は清の支配下に置かれ、北元滅亡。モンゴル帝国の滅亡 |
1636年 | 後金、国号を清と改める(〜1912) |
1636年 | 清、朝鮮に侵入(丙子胡乱) |
1637年 | 朝鮮、清に服属。清の年号を使う |
1637年 | ジュンガル盆地に、モンゴル系遊牧民族ジュンガル・ハン国が興る |
1644年 | 明、李自成の軍により滅亡。清、李自成を滅ぼし、北京遷都(李自成の乱) |
1644年 | 清、薙髪令 |
1661年 | 清、康煕帝即位。遷界令発布(〜1684) |
1680年 | 東チャガタイ・ハン国、ジュンガル・ハン国(Dzungar Khanate)に併合される |
1689年 | 清とロシア、ネルチンスク条約締結。国境を定める |
1696年 | 清、ジュンガル・ハン国のガルダン(爾丹)を大破。外モンゴルを支配 |
1722年 | 清、康熙帝没。1723雍正帝即位 |
1735年 | 清、乾隆帝即位 |
1755年 | ジュンガル・ハン国が清朝に滅ぼされる |
1783年 | クリミア・ハン国、ロシア帝国に滅ぼされる |
1796年 | 清、白蓮教徒の乱(〜1804。白蓮教) |
1839年 | 清、林則徐を欽差大臣として広州に派遣。イギリス船のアヘンを没収 |
1840年 | アヘン戦争(〜1842) |
1842年 | 南京条約締結。清が 5港を開き、ホンコン(香港)をイギリスに割譲 |
1843年 | 清、イギリスと虎門寨追加条約締結 |
1844年 | 清、アメリカと望厦条約、フランスと黄埔条約を締桔 |
1851年 | 太平天国の乱(〜1864)。洪秀全、国名を太平天国とし天王を称する |
1853年 | 太平天国、南京を占領。天京と改める |
1856年 | 清でアロー号事件(アロー戦争) |
1857年 | 英仏連合軍、広東占領(アロー戦争) |
1858年 | 英仏連合軍、華北侵略(天津条約) |
1858年 | 清、ロシアと愛琿条約締結 |
1860年 | 英仏連合軍が北京占領。円明園、頤和園焼失。北京条約締結(アロー戦争) |
1860年 | 清、ロシアにウスリー川以東を割譲(北京条約) |
1861年 | 清、同治帝即位。生母西太后摂政となり、政治の実権を握る |
1864年 | 洪秀全死去。太平天国滅ぶ |
1875年 | 清、光緒帝即位(〜1908)、伯母の西太后摂政となる |
1911年 | 辛亥革命、モンゴルは中国(清朝)より分離、自治政府を樹立 |
1919年 | モンゴル、自治を撤廃し中国軍閥の支配下に入る |
1921年 | 活仏(ボグド・ゲゲン)を元首とする君主制人民政府成立、独立を宣言(人民革命)モンゴル人民政府の成立 |
1924年 | 活仏の死去に伴い人民共和国を宣言。モンゴル人民共和国の成立 |
1961年 | モンゴル人民共和国、国連加盟 |
1990年 | モンゴル人民共和国、複数政党制を導入、社会主義を事実上放棄 |
1992年 | モンゴル国憲法施行(国名を「モンゴル国」に変更) |
パオ (Yurt 蒙古包)
モンゴル人の組立式テント。
その形が包子 (パオズ 饅頭) に似ているので、
中国人がつけた呼名である。
モンゴルの草原で暮らす遊牧民は、毎年一定の
サイクルで決まった場所を移動する場合が多い。
なぜ移動するかといえば、家畜のえさである牧草を
一気に食べつくさないようにするためである。
まず、ある場所で家畜を飼い、
そこで家畜が牧草をある程度食べる。
そして別の場所に移動し、そこでまた
家畜が牧草をある程度食べる。
そして、また元の場所に戻る頃には
新しい牧草が生えているという訳である。
柳やニレなどの木材を組み合わせて骨格を
作り、外側を羊毛のフェルトで覆う。
床に炉を作り、頂上に明りとりと煙出しの
穴をあけ、側面にはめこんだ扉から出入する。
組立て、分解が自由で、動物の背に積んで
簡単に移動できるのが特徴である。