国名 チュニジア共和国          
英語 Republic of Tunisia  
首都 チュニス(Tunis)  
独立年 1956.3(フランス)  
主要言語 アラビア語  
面積 16万3610km2  
人口 1140万3800人  
通貨単位 チェニジア・ディナール  
宗教 イスラム教99%  
主要産業 機械、衣類、オリーブ油  





地理


北部、東部は地中海性気候で、オリーブなどの果実を栽培、
中央西部の台地では穀物栽培と牧畜などが行なわれる。

南部は砂漠で、オアシスを利用してナツメヤシなどを栽培する。

沿岸部は地中海性気候で夏季は高温乾燥、冬季は温暖湿潤となる。
中部はステップ気候、南部は砂漠気候である。
チュニス 11.8℃(1月) 27.6℃(7月) 年降水量470mm

先住民はベルベル人であるが、海岸地方ではアラブ人をはじめとして、黒人、ヨーロッパ人との
混血がみられ、99%以上が国教であるイスラム教徒。

公用語はアラビア語であるが、フランス語も広く用いられる。
農業国であるが、輸出は繊維製品、リン鉱石、石油製品など。

首都チュニスは、地中海最古の都市の一つ。太古、リビア人によって建てられ、
BC800年頃からフェニキア人の植民都市カルタゴの衛星都市となった。
BC146年第3次ポエニ戦争でカルタゴとともに破壊されたが、ローマ皇帝治下に再建、繁栄した。


現在はリン酸肥料、製粉、セメント、鉄道修理、オリーブなどの果実加工などの工場が立地。
オリーブ油、ワイン、穀類、皮革、羊毛製品などを輸出する。

旧市街は「オリーブの木のモスク」と呼ばれる大モスクをはじめ、多数のイスラム建造物、スーク (市場)
などがあり、1979年世界遺産の文化遺産に登録。

港の周辺にはフランス風の整然とした市街がある。カルタゴの遺跡は北東 16km、南東には
ザグワーン山からカルタゴへ給水したローマ時代の水道の跡がある。

バルドー博物館はフェニキア、ローマ時代の遺物、美術品の収集で知られる。人口 75万9000(2009年)





歴史

紀元前12世紀以来、フェニキアの植民地カルタゴとして栄えた。
紀元前146年にローマがカルタゴを征服(ポエニ戦争)共和政ローマ領となる。

375年のゲルマン民族移動後、435年ヴァンダル族がヴァンダル王国を建国。
534年ユスティニアヌス帝により征服されて東ローマ帝国領となる。

697年イスラム帝国ウマイヤ朝の支配に服した。
この後イスラム化が進み、多くのイスラム政権が興亡した。

1574年オスマン帝国の支配下にはいったが、18世紀初頭にフサイン・ベンアリ(Husayn ibn Ali)が実権を握り、
オスマン帝国から世襲大守を認められフサイン朝(在位1705〜1735)を建国した。

この一門は、以後250年間支配を続けたが、その間、イギリス・フランスの勢力がしだいにのび、
1881年フランス軍がチュニジアを占領し、保護領化した。

第二次世界大戦後、民族運動が高揚し、ついに1956年フランスは独立を認め、翌年ブルギバ(Bourguiba)
が初代大統領(在位1957〜1987)に選ばれて、チュニジア共和国が成立。

当初社会主義化を進めたが、1970年代から自由主義・穏健路線に転換。
1975年ブルギバが終身大統領になる。

しかし、1978年労働総同盟によるゼネストが反政府暴動に発展、
また1983年末から食糧暴動が発生するなど政情不安が続く。

1987年無血クーデタでベンアリ首相(Ben Ali)がブルギバ大統領を解任し、みずから大統領(在位1987〜2011)に就任。
その後23年間独裁体制を築いた。

2010年末から反政府デモが拡大し、軍の離反を見て2011年1月、サウジに逃亡。政変はチュニジアを代表する花から
「ジャスミン革命」と呼ばれ、影響は隣国リビア、エジプト、シリアなど中東各地へ波及し「アラブの春」となった。


BC146年 ローマ帝国がカルタゴを征服
435年 ゲルマン系ヴァンダル族がカルタゴを占領し、ヴァンダル王国を建設
534年 東ローマ帝国がヴァンダル王国を滅ぼし、ビザンチン文化が開花
697年 アラブ侵入、イスラム化の始まり
1574年 オスマン帝国の属州となる
1881年 フランスの保護領となる
1956年3月 フランスから独立
1957年7月 共和制に移行し、ブルギバ大統領就任。チュニジア共和国の成立
1959年6月 共和国憲法発布
1987年11月 ベン・アリ大統領就任





カルタゴ (Carthage)


紀元前900年、海洋民族フェニキア人によって建国されたカルタゴ。

ローマ人はフェニキア人をなまってポエニ人(Poeni)と呼んだ。

カルタゴは、地中海に面した良港と肥沃な後背地を抱え、海上貿易都市として大いに繁栄した。
だが第2次ポエニ戦争(BC218〜201年)でローマに敗れたカルタゴは衰退への道を歩むことになる。

勝利したローマが、カルタゴに提示した講和条約は、カルタゴの海外領土はすべて放棄すべきこと、
50年にわたって膨大な賠償金を支払うべきことなど過酷なものだった。

ローマはカルタゴを経済でおいつめて国家が成り立たないようにしようとしたのである。
だがその後、カルタゴは驚くべき経済復興をなしとげ、50年賦の賠償金を10年で一度に支払った。

こうしたカルタゴの驚異的な潜在力に対して、ローマでは「カルタゴを滅ぼすべし」の声が高まり、
第3次ポエニ戦争(BC149〜146年)が起った。

BC146年、ローマの将軍、小スキピオは、大軍を率いてカルタゴを攻撃し陥落させた。

彼の指示のもと、カルタゴが再び復活することがないように、女性や子供も含むすべての
カルタゴ人が虐殺され、港や町は17日間にわたって焼き払われ、破壊された。

カルタゴの土地には雑草一本すら生えることを許さないという意味で塩がまかれたといわれる。
こうして750年間続いた海洋帝国カルタゴはついに滅亡してしまった。