8月23日   真珠湾攻撃 1941年(昭和16年)     歴史年表      真日本史
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昭和16年11月26日早朝、南雲中将率いる機動部隊は、密かにハワイ真珠湾に向け、南千島を出発した。
機動部隊の編成は「赤城」「加賀」「飛龍」をはじめとする空母6隻を擁した計31隻。

開戦が御前会議で決定されたのは、12月1日。にもかかわらず出発を急いだのは、開戦と同時に、真珠湾米軍基地に
奇襲をかけ、敵の主力を攻撃し、優位につくと同時に、米軍の士気を失わせるという作戦だった。

この奇襲戦法を計画し、実行に移したのは連合艦隊司令長官、山本五十六海軍大将である。
だが当初、海軍軍令部は、この奇襲作戦に猛反対した。航空機で戦艦を撃沈できるわけがないというのだ。

海軍の対米作戦は、日露戦争の日本海海戦で行った敵艦隊を近海で迎え撃ち、撃退するという戦法だった。
戦艦こそ最強であるという「大砲巨艦主義」に凝り固まっていたのである。

これに対し山本は、空母と航空機が主力となった現在、近海まで米艦隊が来ればとても勝てないと主張。
航空部隊を経験した彼は、大編成の航空機による開戦直後の奇襲攻撃しか勝つ道はないと考えたのである。

12月8日午前3時19分、オアフ島北方約420kmに展開した6隻の空母から、先発部隊183機が発艦。
3時25分、フォード島の米軍格納庫への爆撃を皮切りに真珠湾攻撃が開始された。

新型の航空魚雷が放たれ、戦艦「カリフォルニア」を撃沈。さらに「ネバダ」「オクラホマ」そして「アリゾナ」
といった米太平洋艦隊の誇る戦艦群が、ことごとく黒煙を噴き上げ始める。

完全に不意を突かれたハワイ米軍は、ほとんど組織的な反撃が出来なかった。対空砲火もまばらで、迎撃すべく離陸した
米軍機は十数機に過ぎない。地上に残された米陸海軍の航空機は、急降下爆撃によって次々と破壊されていった。

真珠湾攻撃に要した時間は、2時間という一瞬の出来事だった。日本側の損害は、航空機29機、死傷者64名。
米国側は、戦艦8隻を含む計19隻、航空機188機を喪失、死傷者は、民間人68名を含む計2,413名。日本側の圧勝であった。

日本側の攻撃が開始された直後、航空機の爆音に気付いたハワイ米軍司令官は、米軍海兵隊のパイロットが迫真的な
演習をしているものと勘違いした。

だが日本軍の奇襲攻撃と知ると無線室に走り、当番兵に次の電文を打てと命じた。「真珠湾空襲さる。これは演習ではない!」
受電したワシントンの海軍長官は仰天して叫んだ。「そんなバカなッ。そりゃフィリピンじゃないのか!?」

米国首脳部は、暗号解読で近く日本が攻撃することを知っていた。しかし、ハワイが攻撃されるとは予期していなかった。
米国は謀略をめぐらせ、日本に先手を打たせることに成功した。だが攻撃場所を勘違いし、大打撃を被ってしまったのだ。

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御前会議


大本営と政府との合同会議である「大本営政府連絡会議」に、天皇が臨席すると「御前会議」と呼ばれた。

1937年(昭和12年)大本営設置以来、終戦までの間に、御前会議は15回開催され、日独伊三国同盟締結、
日米開戦、ポツダム宣言の受諾などが決定された。

天皇は、立憲君主制の立場から、議事を聴取するのみで発言しないのが慣例だった。
だがポツダム宣言受諾に関する二回の御前会議では、天皇自らの意志と発言によって議事が採決された。

大本営政府連絡会議は、戦争指導の一元化のため設置された、大本営と政府間の意思統一のための会議である。
連絡会議の決定は、天皇に上奏し、裁可を受けた時点で、国家の最高意思である国策となった。

連絡会議の出席者は、政府側は、総理、外相、陸海軍大臣の四名であり、大本営側は、陸軍参謀総長、
海軍軍令部総長の二名であった。必要に応じて、他の閣僚や枢密院議長などがこれに加わった。

また幹事として、内閣書記官長と陸海軍軍務局長の三名が、会議召集などの事務連絡に当たっていた。