日本書紀によれば、西暦239年、倭の女王が、魏国に使者を派遣し、魏の天子に謁見を求めたと伝えられている。
だが、日本書紀にはヒミコの名は現れず、また倭国(邪馬台国)の伝承についても、いっさい記されていない。
つまり、当時の日本書紀の編者は、大和政権と倭国との繋がりは存在しないという立場であったと考えられる。
したがって、以下のヒミコに関する伝承は、中国の史書「魏志倭人伝」等の記述をもとに再現したものである。
西暦170年頃、邪馬台国の神官の家系に生まれたヒミコは、幼少のころより、不思議な能力があり、
雨乞いをして雨を降らせたり、皆既月食を予測するなど、神がかり的な存在であったといわれる。
当時の邪馬台国は、男性が王となり、北九州地方約30か国を治めていたが、常に争いが絶えなかった。
西暦190年頃、ヒミコは女王に推挙され、約30の小国連合である倭国のオサ(長)となった。
彼女の国の治め方は、非常にユニークなもので、呪術を用いることによって大衆を操作した。
結婚はせず、巫女として神の意思をつたえ、その意思は彼女の弟によって実行された。
ヒミコ自身は婢1000人をしたがえて宮室にこもり、姿をみせることはなかったという。
その結果、国どうしの戦闘はおさまり、しばらくの間、平和な時間が流れたといわれる。
実はヒミコという名は、神官の職名であり、霊(ひ)の巫女(みこ)の意味であった。
古代日本人は万物に神が宿ると信じ、霊的な力のあるものを巫女としてあがめたのである。
西暦239年6月、ヒミコは使者を魏国に派遣し、魏の天子に謁見して朝貢する事を求めた。
その年の12月、ヒミコは「親魏倭王」という破格の称号を受けたのである。
だが西暦247年、南方の狗奴国との間に戦が起こり、魏に助けを求めたが、戦況は思わしくなかった。
そして西暦248年9月5日、はるか頭上に燃え上がる真っ赤な太陽が、突然にその姿を消した。
邪馬台国は不気味な闇に包まれる。そのさなか、ヒミコは静かに息を引きとったのである。
日本書紀における「倭の女王」の記述について
日本書紀は、奈良時代(720年)に完成した編年体(年代別)の史書である。三十巻。
その第九巻「神功39年」の段に、倭の女王が中国・魏へ朝貢した内容が記されている。
「魏志云、明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝献」
(魏志にいう、明帝の景初三年(239年)六月、倭の女王は、大夫の難升米等を派遣して
帯方郡に至り、天子にお目通りして献上品をささげたいと求めた)
倭国の女王が、使節を派遣して、中国の皇帝に朝献を求めた、という内容であるが、
女王の名は記載されておらず、倭国の伝承についても、いっさい記されていない。
すなわち、三世紀初頭の大和朝廷にとって、倭国という一豪族の女王の朝献など、
取るに足らない地方の一事件に過ぎないという立場をとっていたものと考えられる。
魏志倭人伝について
魏志倭人伝は、中国の史書「三国志」(280年)の一部であり、全部で2000字程度の記述である。
東洋史の研究で知られる東京外語大名誉教授の岡田英弘氏は、この魏志倭人伝について、
歴史資料としての価値に疑問を投げかけている。
第一に、著者である陳寿が、実際に日本を訪問したのではなく、人から聞いた噂や伝聞
をもとに、まとめた文献であり、位置関係や里程にズレが大きく信憑性に欠けること。
第二に、日本の古典には邪馬台国に触れた古い文書が一冊もないうえ、古事記や日本書紀
にも邪馬台国の事は一行も出てこない。この矛盾を明らかにする必要があると指摘している。
今もなお日本では、邪馬台国は北九州だ、いや畿内だと論争喧しく、およそ千冊以上にのぼる
書物が出版されている。
確かに、魏志倭人伝自体が、伝聞や噂に基づく文献である以上、邪馬台国探しは徒労であり、
また、卑弥呼が誰かなどという詮索も、無意味な作業でしかないようにも思われる。