中東の火薬庫   歴史年表                ヨーロッパ史
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パレスチナ問題

第一次世界大戦は、1919年に終結しました。
イギリスを含む連合国側が勝利し、パレスチナを統治していたオスマン帝国を含む同盟国側は敗北しました。

パレスチナは、トルコとエジプトにはさまれた 地中海沿いの細長い地域です。
面積は、日本の四国をひと回り大きくした程度。

多くのアラブ人が住んでいたパレスチナは、イギリスが国際連盟から委任されて統治することになりました。
パレスチナでは、「バルフォア宣言」を信じたユダヤ人が、パレスチナへ次々と移住をはじめました。

(1917年、戦費が不足していたイギリスは、ユダヤ人の財閥ロスチャイルドに資金援助を求めました。
そのひきかえとして、オスマン帝国からパレスチナを奪ったら、ユダヤ人のための祖国の建設を支援すると約束をしたのです。
これが「バルフォア宣言」です)


第二次世界大戦が始まると、ナチスによるユダヤ人迫害がはじまり、ユダヤ人の移住に拍車がかかりました。
パレスチナでは、移住してきたユダヤ人と、もとから住んでいたアラブ人とのあいだに、土地をめぐって対立が生じるようになりました。

第二次世界大戦後、新しく誕生した国際連合は、1947年に、パレスチナをアラブ人とユダヤ人が住む地域に分けることを決定しました。
この決定をユダヤ人は受け入れ、アラブ人は強く反対しました。


イスラエル建国とパレスチナ戦争

1948年、ユダヤ人は、パレスチナにイスラエル共和国を建国しました。
このとき、エジプトやシリア、イラク、ヨルダンなど、まわりのアラブ人の国々が、イスラエルの建国にはげしく反対し、第一次中東戦争(パレスチナ戦争)が起こりました。

この戦いで、アラブの国々は敗れ、またパレスチナに住むアラブ人は故郷を追われ、多くのパレスチナ難民が発生しました。

(パレスチナ戦争では、アラブ側の兵力15万人に対し、イスラエル側は3万人という圧倒的な兵力の差がありましたが、勝利したのはイスラエルでした。
これは、アメリカの後ろ盾があったからです。

冷戦時代、アラブ諸国の多くはソ連寄りでした。
エジプト、シリア、イラクなどの国々は、ソ連製の兵器を購入してイスラエルと対抗していたのです。
中東の石油をソ連に抑えられると、石油資源を中東に依存していた西側陣営にとって致命傷となるため、アメリカはイスラエルを中東の要衝としたのです。

また、多くのユダヤ人が政治家や企業家としてアメリカ社会の中枢を占めており、こういった背景がイスラエルを支持する原動力となっているのです)


繰り返される中東戦争

1956年、エジプトのナセル大統領は、スエズ運河株式会社を国のものにするという「スエズ運河国有化宣言」を発表しました。
運河会社の株の大半をもっていたイギリスとフランスは、これに反対し、イスラエルに働きかけて、イスラエルがエジプトを攻撃したのです。

イギリス、フランスもエジプトを攻撃しました。こうして、スエズ戦争(第ニ次中東戦争)が起こりました。
国際連合は、すぐに戦争をやめるようにうったえ、イギリスやフランス、イスラエルは世界中から非難されて、軍隊をひきあげました。


1964年、パレスチナ難民は、自分たちの土地を回復することを目標に、パレスチナ解放機構(PLO)をつくり、アラブ諸国の助けを受けて過激な行動でイスラエルを攻撃してきました。
それに対し、イスラエルも武力で対抗するなど、対立は続きます。

1967年、イスラエル軍がエジプトに侵攻、わずか6日間の戦争でイスラエルが圧倒的勝利を収め、シナイ半島、ガザ地区、さらにヨルダン川西岸地区などを占領しました。
(第三次中東戦争)

その後も、イスラエルはエジプトやヨルダンなどと中東戦争をくりかえし、占領地を広げていきました。
1979年、アメリカがあいだに立って、イスラエルとエジプトが平和条約を結びました。(中東平和条約)

1993年、PLOとイスラエルは、争いを交渉によって解決することで合意しました。(オスロ合意)

PLOがイスラエルを国家として正式に承認し、武力による抵抗を放棄する。
この見返りとして、イスラエルは、1967年の占領地の一部分にパレスチナ人による自治を認めることになりました。



パレスチナ自治区

1993年のオスロ合意によって、パレスチナ全土の4分の3がイスラエルの領土、残りの地域もイスラエルの占領下に置かれました。
占領地は、 ひとつながりの土地ではなく、地中海に面した「ガザ地区」と、内陸の「ヨルダン川西岸地区」に分かれています。

それぞれの地区では、 パレスチナ自治政府による行政や 治安の維持が認められています。
これが、「パレスチナ自治区」です。

第一次中東戦争で、イスラエル軍から追われたパレスチナ難民がこの地区に多数逃げ込みました。
その結果、ガザ地区には100万人、西岸地区には180万人のパレスチナ住民が住むまでになりました。

この地区は、もともと国連による「パレスチナ分割案」で「アラブ人国家」に割り当てられていた地域であったので、パレスチナ自治区を始める場所として選ばれたのです。




石油ショックにゆれる世界

1973年10月、エジプトとシリアがイスラエルを奇襲攻撃して、第四次中東戦争がはじまりました。

石油資源にめぐまれたアラブの国々は、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)を結成し、イスラエルに味方する国々に石油の輸出を禁じ、原油の値段を高くしました。

石油の値段が上がったことで、アメリカや日本など先進工業国は、大ショックを受けて世界の経済は混乱しました。

第四次中東戦争は、11月に停戦となり、石油ショックはひとまずおさまりましたが、アラブの石油戦略により、アラブの産油国には膨大なオイル・マネーが流れ込みました。

オイル・マネーで武器を大量に買い、軍備を拡張する動きも進み、中東の軍拡競争にさらに拍車がかかるようになりました。




イラン革命

イランは、イスラム教を信仰する国で、ゆたかな石油資源にめぐまれていました。
しかし、アメリカから援助を受けて急激な近代化を進めた結果、貧富の格差が拡大するなど国民の不満が高まっていました。

親米独裁政権だったパーレビ国王は、欧米化に反対する民衆を弾圧しました。
イスラム法学者のホメイニ師は、独裁政権を公然と批判したため、1964年、パリへ国外追放されてしまいます。

国王の強引でひとりよがりの政策に対する国民の不満はますます高まりました。ホメイニ師はパリからイランの民衆へ反政府運動を呼びかけ、1979年、各地の学生や労働者約2000万人がデモを起こしました。(イラン革命)

軍隊が出動し無差別発砲で多くの民衆が死亡。民衆の怒りは激しく燃え上がり、独裁者パーレビ国王は国外へ逃亡。
こうして、イスラム教シーア派の最高指導者ホメイニ師のもとで、シーア派の教えをきびしく守る「イラン・イスラム共和国」が成立しました。



イラン・イラク戦争

イランは、イスラム法に基づいた共同体社会の実現をめざすイスラム原理主義国家でありました。
イスラム原理主義運動とは、ムハンマド時代のイスラム教に復帰し、その教えを厳格におこなうことで、いまのイスラム教を正していこうとする運動です。

イラン革命は、イランのとなりにあるイラクのサダム・フセイン大統領に脅威を与えました。

イラン革命の翌年1980年、イスラム原理主義の運動が国内におよぶことをおそれたイラクは、国境をめぐる衝突からイランに攻め入りました。
これがイラン・イラク戦争です。

アメリカは、この時のイラクを密かに応援します。
イランのパーレビ前国王は親米派であったのですが、この時はイランとアメリカの関係が悪化していたからです。

そのため、イラクの軍事力は強大になります。
こうして緒戦はイラク軍の優勢で進行しましたが、反米のシリアがイランを支援します。

反撃の体制が整ったことにより、戦いは一進一退となり、互いの都市や石油精製施設を攻撃し合います。
戦争は、両国に多くの犠牲者を出し、国連が仲立ちして、1988年、ようやく終結しました。

アメリカは、イランの革命輸出路線をくじき、革命をイラン一国に封じ込めることに成功しましたが、強大なイラク軍の育成に手を貸すこととなりました。
これがイラクのクウェート侵攻の伏線となったのです。


湾岸戦争

1990年、国力を強めようとするイラクは、突然、石油資源にめぐまれたクウェートに攻め入り、占領しました。
国際連合は、イラクのクウェート侵攻を違法とし、アメリカ軍を中心にした多国籍軍が送られ、「湾岸戦争」が起こりました。
    
この戦いでイラクは敗れて、クウェートから軍隊をひきあげました。ふたつの戦争は、イスラムの国々の結びつきをひきさいていったのです。

(19世紀には、イラクやクウェート一帯は、オスマン帝国の領土でした。
第一次世界大戦でオスマン帝国は敗北し、イラクとクウェートはイギリスの植民地となります。
その後、イラクとクェートは、それぞれ独立を果たします。
しかし、サダム・フセインがイラク大統領に就任すると、クウェートはもともとイラクの領土であり、イギリスによって不当に分離されたのだと主張したのです)


湾岸戦争のあと、西アジア地域ではアメリカの力が強まりました。
これに対して、一部の過激なイスラム教徒は、アメリカの口出しに反発を強め、2001年9月11日にはアメリカで同時多発テロを起こし、多くの犠牲者を出しました。

同時多発テロでは、旅客機4機が乗っ取られ、2機がニューヨークの世界貿易センタービルに突入しビルは崩壊しました。
3機目はワシントン近郊の国防総省に激突、4機目はペンシルベニア州に墜落しました。死者は計約3千人にものぼりました。

(アラブ人のほとんどはイスラム教徒です。
イスラム教徒の一部のアラブ人が、パレスチナの土地を奪還しようと過激な行動をして、ニュースで報道されることも少なくありません。

同時多発テロで、アメリカがイスラムの過激派に攻撃されたのは、アメリカがイスラエルに味方するからと言われています。
こういった事件の背景には、パレスチナ問題が深く関わっているのです)


サウジアラビア

アラビア半島の大部分をしめるサウジアラビア王国。
国土のほとんどが乾燥したきびしい砂漠地帯ですが、そこには大油田があり、世界でも有数の石油輸出国となっています。

国名は「サウード家のアラビア」を意味します。
一万人を超えるサウード家の王族が政治の要職を占め、首相は国王が兼任しています。

西部に位置する都市メッカは、ムハンマドが生誕した地として世界のイスラム教徒にとって最高の聖地であり、一生に一度はこのメッカにあるカーバ神殿に赴くこと(聖地巡礼)がイスラム教徒の義務となっています。


サウジアラビアとイラン

イスラム教スンニ派の盟主サウジアラビアと、シーア派の大国イランは犬猿の仲です。
イスラム教の教えに厳格なサウジアラビアは、シーア派イランの存在が気に入らず、事あるごとにイランともめてきました。

両国とも国民の大多数はシーア派ですが、サウジアラビアの王族と上流階層はスンニ派で構成されています。
サウジアラビアとしてはシーア派が強くなると自分達の身が危なくなる危険があるのです。

ですから国の重要機関は全てスンニ派か外国人を雇って運営しています。
軍隊ですらシーア派はほとんどいません。

これは王制を打倒してシーア派の政府が誕生してしまうおそれがあるからです。

また、イランがアメリカを敵国視しているのに対し、サウジアラビアはアメリカと友好的な関係を築いています。

石油など豊富な地下資源を有するサウジアラビアは、以前からイランやイラクなど周辺国から領土を侵略される危険に晒されていました。
湾岸戦争でフセイン率いるイラクがクウェートを侵攻したのも、最終的な狙いはサウジアラビアを手中にすることを目的としていました。

その危険から逃れるため、サウジアラビアはアメリカと手を結び自国の安全を確保したのです。
反米的なイランにとっては、サウジアラビアは同じイスラム教徒であっても許しがたい存在なのでしょう。


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正義のための戦い

イランのパーレビ国王は、アメリカの後押しを受けた傀儡政権だった。
しかし、ホメイニが現れて、パーレビ体制はあっけなく倒れてしまった。(イラン革命 1979年)

ホメイニはイスラムの教えに忠実な、厳格な政治を布いた。
そして、イラン国民もこれを歓迎したのである。

イランの石油利権を失ったアメリカは、このイラン革命が他の産油国に波及しては困ると考えた。
そこで今度はイラクを支援して、武器と資金を提供した。

イラクはアメリカの後押しを受けてイラン・イラク戦争に突入、
双方合わせて数十万を軽く越えるという死者を出した。(イラン・イラク戦争 1980〜1988年)

イランが倒れないとなると、アメリカは、一転してイラクのフセインを敵視するようになる。
大量破壊兵器を保有していると難癖をつけ、国連決議もないまま、イラクに軍事侵攻したのである。
(イラク戦争 2003年)

フセイン元大統領は「真のテロリストはブッシュ(米大統領)だ」と述べたそうだが、フセイン政権崩壊後のイラク国内の混迷は、
アメリカの作戦がテロ撲滅どころかテロリズムにせっせと油を注いでいる事を示している。

誰の目にも明らかであるが、世界最大の大量破壊兵器保有国はアメリカであり、アメリカこそが世界最大のテロ国家なのだ。
アメリカがそれを「正義のための戦い」と言っているだけのことである。