ナチスの台頭          歴史年表          ヨーロッパ史
直線上に配置                


イタリア「ファシスト党」の独裁政治


第一次世界大戦が終わったあと、イタリアでは、経済が混乱し、労働者や農民の不満が爆発し、各地で暴動が起こり、また共産党の力ものびてきました。

こうしたなか、ムッソリーニ(Mussolini)がひきいる「ファシスト党」(National Fascist Party)が資本家や大地主、キリスト教会の支持を得て勢力をのばしました。
1922年、黒シャツの制服に身をつつむ、およそ4万人のファシスト党の人々が、ロ〜マに進軍して政治の権力をおさえました。

そして、党首ムッソリーニが首相になりました。
ムッソリーニは、共産党などほかの政党の活動を禁止して、独裁政治をおこないました。

首都ローマにローマ教皇が支配する全世界のカトリック教徒の総本山として、「バチカン市国」(Vatican City)の独立をみとめました。
また、国民の不満をそらせるため、1935年にアフリカのエチオピアに侵略して征服してしまいました。


ドイツ「ナチス」の台頭

ファシスト党をひきいるムッソリーニにつづいて、ドイツではナチス(Nazi Germany)のヒトラー(Adolf Hitler)が首相になりました。

このふたつの政権の特色は、力の強い指導者(独裁者)が国民をまとめ、国民のひとりひとりの自由や権利よりも、国家や民族の利益を優先すること、そして、強力な軍事力で領土を広げていったことです。

こうした独裁政治を「ファシズム」(Fascism)といいます。



スペイン内戦


ファシズムの台頭に対して、世界各地に自由と平和を求める運動が起こりました。

1936年、スペインでは、市民や労働者、農民の支持を受けた人民戦線内閣が生まれましたが、資本家や地主などのあと押しを受けた軍人のフランコ将軍(Franco)が反乱を起こしました。

スペインで内戦が始まると、ファシズムのイタリアやドイツは、フランコ将軍側を助け、ソ連が人民戦線側を助けてはげしい戦いとなりました。
このとき、イギリスやフランスは、国内の意見が大きくわれたため、スペイン内戦に干渉しないことにしました。

1939年、フランコ将軍が勝利をおさめて、スペイン内戦は終わりました。
ファシズムと民主勢力が戦ったスペイン内戦は、第二次世界大戦の前ぶれともいえる戦争でした。

スペイン内戦では、ファシズムに反対する人々が、人民戦線側を助けて義勇兵として戦いました。

アメリカからかけつけた文学者のヘミングウェイ(Ernest Hemingway)は、義勇兵として戦った体験から、小説「誰がために鐘は鳴る」を書きのこしました。

またナチスドイツの爆撃で、1654人が殺されたスペイン北部の小さな町の惨事を、スペイン生まれの画家のピカソ(Pablo Picasso)は、怒りをこめて「ゲルニカ」(Guernica)にえがきました。


ヒトラー内閣が誕生

世界恐慌が起こると、ドイツの経済は完全に行きづまり、1932年には560万人もの失業者で町はあふれかえりました。

このようななか、労働者を味方につけた共産党が勢力をのばすいっぽう、ドイツいじめのベルサイユ条約に不満をもつ人たちを味方につけた、ヒトラーのひきいる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が勢力をのばしました。

1932年、ナチスは総選挙で230議席を得て第1党となり、つぎの年にヒトラ一内閣が成立しました。


ヒトラーの独裁政治

ヒトラー内閣の成立につづいて、国会議事堂が放火される事件が起こると、ヒトラ〜は、放火の犯人を共産党員だといって、共産党を弾圧しました。
さらに政党や労働組合を解散させて、ナチスー党の独裁体制をつくりあげました。

ヒトラーは、国民が安い値段で買える自動車「ファルクスワーゲン」を開発したり、ベルリン・オリンピック大会を利用して、ナチスのすばらしさを宣伝したりしました。
そして、高速自動車道路「アウトバーン」(Autobahn)を建設して失業者をへらし、国民の人気を得ました。

1935年、ヒトラーは、ベルサイユ条約で決められた軍備についての約束をやぶって「再軍備宣言」をし、翌年にはライン川の非武装地帯に軍を進めました。


ミュンヘン会談で領土を広げる

1938年、ヒトラーはオーストリアを併合し、ドイツ人が多く住んでいるチェコスロバキアのズデーテン地方(Sudetenland)をゆずりわたすように要求しました。

この問題をめぐって、南ドイツのミュンヘンで、ドイツ・イタリア・フランス・イギリスの4か国による会談が開かれました。
イギリス首相チェンバレン(Chamberlain)は、ヒトラーがこれ以上領土を求めないことを条件に、ズデーテン地方をドイツの領土とみとめました。

(世界恐慌で国内の失業問題をかかえていた各国は、労働者による共産主義革命の波及を、もっとも恐れていました。
そのため、いったんドイツの要求をみとめて、ヒトラーをソ連や共産主義勢力に対抗させようと考えたのです)



迫害されるユダヤ人

1940年、ドイツ・イタリア・日本のあいだで、ともに共産勢力をふせぐという「日独伊三国同盟」(Tripartite Pact)を結び、日本は、中国との戦いを強めていきました。

ナチスはドイツ人こそ、世界でいちばんすぐれた民族だと主張し、とくに、ユダヤ人をにくみました。
ヒトラーが首相になると、ユダヤ人は市民権をうばわれ、ドイツ人との結婚も禁止されました。

また、ユダヤ人は強制収容所に送られ、アウシュヴィッツ(Auschwitz Concentration Camp)などで虐殺されました。
その数は、400万人とも500万人ともいわれています。

(ヒトラーは演説の天才でありました。彼は、たくみな演説で、人々にドイツ民族の優秀さと、愛国心をうったえました。
彼はまた、ドイツが不況であるのは、ユダヤ人が富を独占しているからだ、という演説をしました。

戦争に敗れ、苦しい生活を送っていた人々は、とにかくユダヤ人は最低だと思い込まされていたのです。
ユダヤ人の差別は、ドイツの民衆の不満をそらすためでしたが、それだけではありません。

ヒトラーは、ユダヤ人の資産が欲しかったのです。
ユダヤ人を収容所に送って、不動産や金融資産、宝石、美術品を没収したのです)





ハイドン(Joseph Haydn)(1732〜1809)

ウィーン古典派を代表するオーストリアの作曲家。
数多くの交響曲、弦楽四重奏曲を作曲し、交響曲の父、弦楽四重奏曲の父と呼ばれている。

弦楽四重奏曲第77番第2楽章に用いられた皇帝讃歌「神よ、皇帝フランツを守り給え」の旋律は、1922年、ドイツ国歌に採用された。
第二次世界大戦後の西ドイツでも「世界に冠たる我がドイツ」という歌詞の部分を変え、歌いつがれている。


          「世界に冠たる我がドイツ」(Deutschland uber alles) 作詞:H・ホフマン (Heinrich Hoffmann)

  Deutschland, Deutschland uber alles,
Uber alles in der Welt,
Wenn es stets zu Schutz und Trutze
Bruderlich zusammenhalt,
Von der Maas bis an die Memel,
Von der Etsch bis an den Belt
Deutschland, Deutschland uber alles,
Uber alles in der Welt.

Einigkeit und Recht und Freiheit
Fur das deutsche Vaterland!
Danach last uns alle streben
Bruderlich mit Herz und Hand!
Einigkeit und Recht und Freiheit
Sind des Gluckes Unterpfand.
Bluh' im Glanze dieses Gluckes,
Bluhe, deutsches Vaterland.

  ドイツよ  全てに冠たる  世界に 冠たる  我がドイツよ

マース川から  メーメル川  エッシュ川から  ベルト海峡まで

護(まも)りの為めに いつも  兄弟(はらから)の如く  団結せば

ドイツよ  汝は全てに冠たる  世界に 冠たる  我がドイツなり


団結と権利と自由を  祖国ドイツの為に

我ら兄弟(はらから)の如く  挙(こぞ)りて  その為に  努めようぞ

団結と権利と自由こそ  幸福(さいわい)の  証(あか)しなれ

この幸福(さいわい)のもと  栄光(さかえ)あれ  栄光あれ  祖国ドイツよ


                                           「世界に冠たる我がドイツ」(PAN AM TVドラマ/2011 ABC)