ロシア革命  (Russian Revolution)      歴史年表         ヨーロッパ史
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血の日曜日事件

日露戦争中の1905年1月9日、ロシア帝国の首都ペテルブルクで、労働者や市民が生活の苦しさを皇帝にうったえようと宮殿前の広場に集まりました。

このとき集まった人々に軍隊が発砲し、2000人あまりの死傷者が出ました。
この「血の日曜日事件」(Bloody Sunday)をきっかけに、各地に暴動が起こりましたが、革命は政府によってしずめられました。


二月革命が起こる

第一次世界大戦が始まると、ロシアの人々の生活はますます苦しくなりました。
1917年2月23日、首都で労働者のストライキや兵士の反乱が起こりました。

(第一次世界大戦では、多くの農民が戦場に送られ、農業生産力が低下しました。
生活必需物資も不足して物価は高騰し、大戦後の3年間で、パンの値段は5倍にもはねあがっていたのです。

そうした状況の中、首都ペテルブルクでは、約8万人の労働者や兵士がストライキを行い、「パンをよこせ」「戦争反対」のスローガンを掲げて大規模な抗議のデモを起こし、ついに暴動にまで発展したのです)

この反乱は、たちまち全国に広がり、1917年2月27日、各地に労働者と兵士の代表による評議会(Soviet ソビエト)ができました。
続いて1917年3月2日、ソビエト評議会の支援のもと、資本家階級からなる臨時政府が成立しました。

これにより、皇帝ニコライ2世(Nicholas II)は退位させられて、約300年つづいたロマノフ朝(House of Romanov)は滅びました。
この革命を、ロシア暦の2月に起こったことから「二月革命」といいます。



十月革命が起こる

新しくできた臨時政府は、資本家の代表が多く、戦争をつづける政策をとったので、労働者・兵士の不満は、いっそう高まりました。

革命家のレーニン(Lenin)は、こうした労働者・兵士、さらに農民を味方につけ、1917年11月7日に革命を起こし、臨時政府をたおしてソビエト政府を建てました。
レーニンはただちに戦争をやめ、大地主の土地をとりあげて農民に分配することを発表しました。

こうして、世界ではじめての社会主義の政府ができました。
ロシア暦の10月に起こったので、「十月革命」といいます。


革命に反対する争い

レーニンの指導するソビエト政府は、1918年3月、ドイツと講和条約を結んで第一次世界大戦からはなれました。

いっぽう、国内では地主、資本家などが革命に反対し、ソビエト政府に対抗して、内戦が起こりました。
さらにイギリス、フランスなどはソビエト政府に反対して軍隊を送りました。

また、日本やアメリカなどは、シベリアに出兵しました。
ソビエト政府は、これらの危機を乗りこえ、1922年12月、ソビエト社会主義共和国連邦が誕生しました。








セルゲイ・ラフマニノフ(Sergei Rachmaninoff)(1873〜1943)

ラフマニノフは、ロシア帝国の由緒ある貴族の家に生まれました。
9歳のときに奨学生として名門ペテルブルク音楽院に入学。12歳のときにモスクワ音楽院に転学し、ピアノと作曲を学びました。

卒業後、1901年に発表した「協奏曲第2番」で、彼の名は一気にロシア中に広まりました。

しかし、1917年、皇帝ニコライ2世の退位によってロシア革命が幕を開けると、国内での音楽活動が困難と判断したラフマニノフは、家族とともにスイスに亡命。
再び祖国・ロシアの地に帰ることはありませんでした。


           ピアノ協奏曲第2番(Piano Concerto No.2)ハ短調 第1楽章


ラフマニノフは、最初の交響曲を酷評され、すっかり自信を喪失しましたが、精神科医ダール博士の「協奏曲を書けば傑作になる」という暗示で、この曲を書き、大成功を収めました。

第1楽章は、なにかを予感させるような、ゆっくり重々しい冒頭の和音の後、緩やかに高揚して緊迫にみちびく管と弦の悲愴なまでの旋律が繰り返されます。
ロシアの批評家は、これをロシア革命前夜のパトスから生まれた「高ぶった情感」と表現しています。



           



つめに火をともす

レーニンは、革命後もつましい生活をつづけた。

あるとき、何人かの農民がレーニンを訪ねてきた。
部屋の中が、かなり寒かったので、農民のひとりが聞いた。

「ウラジミル、なんでここは、こんなに寒いのかね?」

彼は答えた。「そう、薪がないのだ。節約しなくてはいけない」

数日後、レーニンあてに、薪を積んだ車両が届いた。
そして、農民からの手紙に、こう書いてあった。

「薪を一車両送る。ペチカを造りなさい。ペチカ造りがいないようなら、
手紙を欲しい。自分たちの造り手を派遣する。村にはいるから」