ロシアの近代化      歴史年表          ヨーロッパ史       人名事典)(用語事典)
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デカブリストの乱


ナポレオン戦争に参戦したロシアの青年貴族たちは、フランス革命の生み出した「自由や平等」の精神の影響を受け、
ロシアでも改革が必要であると考えました。

1825年、ニコライ1世(Nicholas I)が即位したとき、青年貴族たちは農奴解放や議会の開設を要求して、
「デカブリストの乱」(Decembrist Revolt)を起こしました。

しかし、政府におさえつけられてしまいました。





ロシアの近代化にとりくむ

クリミア戦争中にニコライ1世が死に、新しく即位したアレクサンドル2世(Alexander II)は、
戦争に負けたのは、ロシアの社会がおくれているためと考え、さっそく国の近代化にとりくみました。

1861年には「農奴解放令」を出して農民に自由をあたえました。
当時、売買の対象にもされ、人口の3分の1以上を占めていたロシアの農奴は、「農奴解放令」によって土地の所有が認められました。



農奴解放後も大部分の農民は農村に残りましたが、一部の人々は工場労働者の担い手になっていったため、
次第にロシアの工業生産性は増大していきました。

その後、ロシアはフランスから資本の導入を受け、シベリア鉄道建設や、重工業を発展させていきます。

(クリミア戦争とは、バルカン半島に勢力を拡大しようとするロシアと、イギリス・フランス・オスマン帝国・サルデーニャ連合軍の戦いです。


黒海に突き出たクリミア半島が主戦場だったので、クリミア戦争という名がつけられています。
この戦争は、ロシアが大敗し、工業化を進めていたイギリス・フランスと、遅れをとったロシアとの力の違いがはっきりとしめされました)




領土の拡大をめざして

アレクサンドル2世は、東地中海への進出がイギリスなどの反対で思うようにできないため、東アジアへの進出を考えました。


1858年、アロー戦争(Arrow War)や太平天国の動乱に苦しむ清とアイグン条約(Treaty of Aigun)で
黒竜江の北側の土地を獲得し、北京条約では沿海州も領土にしました。

そして、ふたたび地中海への進出をくわだて、バルカン半島のスラブ民族の独立運動を助けて、
1877年にオスマン帝国との戦争(露土戦争)を起こし、勝利をおさめました。


こうして、バルカン半島でロシアの力が強まると、イギリスとオーストリアが反対しました。
そこで、ドイツの宰相ビスマルク(Bismarck)の仲立ちで、1878年、ベルリン会議(Congress of Berlin)が開かれました。

ベルリン会議では、オスマン帝国からセルビア、モンテネグロ、ルーマニアの3国の独立がみとめられました。
また、イギリスは、東地中海のキプロス島を、オーストリアは、バルカン半島のボスニア・ヘルツェゴビナを支配する権利をみとめられました。






アレクサンドル2世の暗殺

このころロシア国内では、大学生を中心にした知識人が、農民に新しい知識を教える「ヴ・ナロード」(V narod 人民のなかへ)の運動が起こりました。
この運動を進めた人々を、「ナロードニキ」(Narodniks 人民主義者)といいます。

しかし、農民はむずかしいナロードニキたちの考えを理解することはできませんでした。
やがて、希望を失って人生にむなしさを感じたナロードニキのなかから、テロで政府の役人を殺す青年も現れ、1881年、アレクサンドル2世も、彼らによって殺されました。




シベリア鉄道

東アジアへの進出を強めたロシアは、1891年、フランスから資金をかり入れて、シベリアを横断して沿岸のウラジヴオストクへ通じるシペリア鉄道の建設を始めました。
シベリア鉄道は全長は約7600kmにおよび、1906年に完成しました。


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ピョートル・チャイコフスキー(Pyotr Tchaikovsky)(1840〜1893年)


チャイコフスキーはロシア帝国の末期に活躍した作曲家です。
ロシアはナポレオンの侵攻を防いだものの、南下政策が失敗し、クリミア戦争では敗北を喫してしまいます。

それまで社会の主役だった貴族の力が衰退し、産業の近代化によって工場などを経営する中産階級が生まれ、次第に勢力を拡大していきました。
また農奴解放令が出され、農民や労働者も一定の権利を獲得していきます。

このような変化は、音楽家たちにも影響を与えました。
それまで宮廷に仕える身だった音楽家たちは、中産階級から援助を受け、職業音楽家として自立するようになります。


1866年、ペテルブルク音楽院を卒業したチャイコフスキーは、モスクワ音楽院の教師に就任、教職と作曲家をかねる身分になりました。

やがてチャイコフスキーの名を一躍高める機会がやってきました。 
それは、彼がドイツの童話をもとに、1876年に作曲したバレエ音楽「白鳥の湖」です。

台本はボリショイ劇場支配人、ウラジミール・ベギチェフが執筆し、1877年、モスクワのボリショイ劇場で初演されました。
初演当時は酷評をうけましたが、やがて真価が認められ、世界で最も多く上演されるようになりました。



                                             バレエ組曲「白鳥の湖〜情景」(Swan Lake〜Scene)

                                      「Swan Lake」the Moscow Classical Ballet(1988)
                                        Odette : Marina Rzhannikova/Siegfried: Nikolai Chevichelov