イタリア統一戦争  (Italian Unification)         歴史年表         ヨーロッパ史       人名事典)(用語事典)
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自由と統一をめざして

9世紀にフランク王国が分裂したあと、イタリア半島は、いくつもの小さな国々に分かれていました。

ウィーン会議後も、オーストリアがイタリアの北部を支配し、イタリアの統一をさまたげていました。
やがてイタリアでも自由と統一を求めて、革命運動がはげしくなりました。

(1815年のウィーン会議の議定書で、イタリア北部のミラノなどをふくむロンバルディア地方とベネチア地方は、オーストリアの領土とされていました)



ローマでは青年イタリア党(Young Italy)のマッツィーニ(Mazzini)が、一時、共和国を建てましたが、失敗しました。

(青年イタリア党とは、1831年にマッツィーニが結成したイタリア民族の統一国家実現を目的とする政治結社です)





サルデーニャ王国の挑戦

いっぽう、イタリア西北部のサルデーニャ王国(Sardinia)で、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(Vittorio Emanuele II)が国王になり、
首相カヴール(Cavour)とともに、国の近代化にとりくみました。

このころ、イタリア人のあいだで「椿姫」や「リゴレット」などを作曲したヴェルディ(Verdi)の人気が高まっていました。
演奏会では「ヴェルディ万歳」がいつもさけばれました。



歌劇がすばらしいのはとうぜんでしたが、ほんとうの理由は、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の頭文字をちぢめると、「ヴェルディ」となったためでした。

ヴェルディと国王は、イタリア人にとって希望の星だったのです。

国王と首相カヴールは、イタリアを統一するには、サルデーニャの国際的地位をひきあげるこが大切だと考え、
イギリス、フランスとともにクリミア戦争(Crimean War 1853〜1856年)に参加しました。





出発する兵士に向かってカヴールは、「諸君の肩に、イタリアの運命がかかっている」といって送り出しました。

兵士はカヴールの期待にこたえ、よく戦いました。


(クリミア戦争とは、南下政策をとってオスマン帝国を圧迫したロシアと、イギリス・フランス・オスマン帝国・サルデーニャ連合軍の戦いです。

1855年、連合軍は、ロシア黒海艦隊が立てこもるセヴァストポリ要塞(Sevastopol)をおとし、ロシアの南下政策をくじきました。

1856年のパリ条約で戦争は終結しました。

この戦争で、野戦病院の婦長として敵味方の区別なく傷病兵の看護にあたり「クリミアの天使」とよばれたナイチンゲールの看護活動はよく知られています)







イタリアの統一

このあと、サルデーニャ王国は、フランスののナポレオン3世とひそかに手を結び、イタリア統一戦争を始めました。

オーストリアをやぶってイタリア北部のロンパルディアを獲得し、つづいて中部を併合しました。

そのころ青年イタリア党のガリパルデイ(Garibaldi)が、義勇兵をひきいてナポリ王国を征服し、サルデーニャ国王に献上しました。
こうして1861年、イタリア王国が成立しました。

その後、ベネチアをとりもどし、さらにローマ法王領を占領して、1871年、ローマを首都に定めました。



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ヴェルディ(Giuseppe Verdi)(1813〜1901年)

イタリアの歌劇作曲家。北イタリアの寒村レ・ロンコレ(Le Roncole)で生まれました。
ミラノで音楽を学び、1839年に自作のオペラ「オベルト」(Oberto)をスカラ座で初演、成功を収めます。

1851年、「リゴレット」(Rigoletto)の空前の大成功により、世界的なオペラ作曲家としての地位を確立。
イタリア人にとって、ヴェルディは国民的英雄であり、イタリアの父とも呼ばれています。

「椿姫」(La traviata)は、アレクサンドル・デュマ(Alexandre Dumas)の原作小説に基づき、1853年に発表したオペラです。
17世紀のパリを舞台に、高級娼婦ヴィオレッタと田舎の青年アルフレードの恋物語をテーマとして取り上げたことで、当時はセンセーショナルな作品として扱われました。

悲劇の物語ですが、音楽的には明るさ、華やかさ、力強さを失わないヴェルディの特質がもっとも良く発揮されており、人気の源泉となっています。


            歌劇「椿姫」より「プロヴァンスの海と陸」(Provenza il mar,il suol)



アルフレードは、不審に思って届けられた手紙の封を切ると、それは恋人からの離縁状であった。彼は読んで驚き、そして絶望する。
父親は、落ち込んでいる息子をなぐさめようと、アリア「プロヴァンスの海と陸」を切々と歌いあげる。

故郷の風景に託した父親の愛情が見事に感じられる名曲である。
しかし、父の説得は息子の心には届かず、彼は父親が追いかけるのを振りきって飛びだしていく。


                                歌唱:フィッシャー・ディスカウ(Dietrich Fischer Dieskau)        

        Di Provenza il mar,il suol chi dal cor ti cancello?
Chi dal cor ti cancello di Provenza il mar, il suol?

Al natio fulgente sol qual destino ti furo?
Qual destino ti furo al natio fulgente sol?
Oh rammenta pur nel duol ch'ivi gioia a te brillo,

e che pace cola sol su te splendere ancor puo,
e che pace cola sol su te splendere ancor puo...
Dio mi guido! Dio mi guido! Dio mi guido!
  プロヴァンスの海と  その地を   誰がお前に  忘れさせたのだ


ふるさとの  輝く太陽を   何がお前から  奪ったのだ


思い出しておくれ    そこで喜びが  お前に  輝いていたことを


神様が  私をここへ  導いてくださったのだよ!


             





そのままでいい


デュマの小説「椿姫」は大好評となり、いよいよ舞台化されることになった。

リハーサルにあたって、主演女優が衣装のことで、デュマに意見を求めた。

「わたくし、ああした女のひとが、どんな格好をしているかわかりませんの」

するとデュマ 「ご心配なさるな。あなたがふだん着ていらっしゃるのと同じで結構です」