太陽王「ルイ14世」(Louis XIV)    歴史年表     ヨーロッパ史
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イタリア戦争


百年戦争(1339〜1453年)後のフランスは、国土の統一的な支配を実現して、ヴァロワ朝(Valois Dynasty)のシャルル7世(Charles VII)のもとで王権による支配が強化されていきます。

1494年、ヴァロワ朝7代目のシャルル8世は、過去にイタリアのナポリ王国を支配していたフランスのアンジュー家(Angevin)より支配権を受け継いだと主張し、アラゴン王国の支配下になっていたナポリ王国の奪還をねらってイタリアへと侵攻を開始します。(イタリア戦争)

(ナポリ王国は、建国の1282年からアラゴン王国(後のスペイン・ハプスブルグ)に征服される1442年まで、フランス・アンジュー家の支配下にありました)

イタリアへの侵攻を開始したシャルル8世率いる大軍は、フィレンツェを占領、ナポリ攻略を急ぐシャルル8世はすぐに全軍を率いて南下し、ローマを経て一路ナポリを目指します。
1495年5月、ナポリに入城、シャルル8世は戴冠して念願のナポリ王となります。

しかしシャルル王の天下も長くは続きませんでした。

フランスのイタリア介入を嫌った時のローマ法王アレクサンデル6世の画策により、神聖ローマ帝国、ベネチア、ミラノなどの諸国が同盟を結び、これらの連合軍によって包囲されたシャルル8世率いるフランス軍は、慣れない異国での戦闘に大損害を受けてフランス本国に逃げ帰りました。


ユグノー戦争

16世紀後半になると、ユグノー戦争(French Wars of Religion 1562〜1598年)が始まります。

フランスでは、国の迫害にもかかわらず、「ユグノー」(Huguenot)とよばれるカルヴァン派の新教徒がふえつづけました。
1562年、ついに新教徒とカトリック教徒が対立して「ユグノー戦争」とよばれる内乱が起こりました。

1572年、フランス国王シャルル9世の母カトリーヌは、カトリック教徒の貴族と手を結び、自分の娘の結婚でお祝いにかけつけた新教徒を数千人も殺す事件「サン・パルテルミの虐殺」(St. Bartholomew's Day Massacre)を起こし、戦いは長引きました。

やがて、ブルボン家のアンリ4世(Henry IV)がブルボン朝(Bourbon Dynasty)を開き、1598年、ナントの勅令(Edict of Nantes)を出して国民に信仰の自由をみとめ、やっと戦争は終わりました。

アンリ4世は、内乱後の国内を安定させるため、租税の軽減や農民の保護政策を打ち出します。

こうして、ブルボン朝のもと、フランスは復興し絶対王政の基礎が確立されることになります。
しかし、アンリ4世は、1610年、急進的な旧教徒に暗殺されてしまいました。


ルイ13世

ルイ13世は、父のアンリ4世が暗殺されると、わずか9歳でフランス王となり、母に助けられて政治を行いました。
彼は、宰相のリシュリュー(Richelieu)をあつく信頼し、大貴族や新教徒をきびしくとりしまりましたが、ドイツで三十年戦争(1618〜1648)が起こると新教徒を助けました。

これは、カトリック教の神聖ローマ皇帝と、それを助けるスペインの力を弱めてフランスの地位を高めるためでした。
そしてリシュリューが亡くなった半年後にルイ13世も死去。息子のルイ14世の治世に移ります。


ルイ14世

1643年、ルイ14世(在位:1643〜1715)はわずか5歳で即位し、母や宰相のマザラン(Mazarin)に助けられて成長しました。
即位してまもなく起こった、貴族の反乱「フロンドの乱」(Civil War of the Fronde)はおさえられ、王の権力はさらに強まりました。

(この頃のフランスは「三十年戦争」に介入して神聖ローマ帝国やスペインと戦っている真っ最中でした。
宰相のマザランは、戦費を賄うために次々と新税を導入し、さらに王室の権力を増大させるために国内の大貴族の権勢を削ぐ努力を行いました。

フロンドの乱は、マザランの王権強化政策に反発する貴族たちが起こした反乱です。
一時期反乱軍がパリを占領し、マザランは幼いルイ14世をつれてパリから逃れたほどでした)


やがて、マザランが亡くなり、ルイ14世が、みずから政治をおこなうようになると、「朕は国家なり」(We are the states)といって、だれのロ出しもゆるしませんでした。

さらに、財務長官にコルベール(Colbert)を用いて産業や貿易をさかんにし、パリ郊外にベルサイユ宮殿(Palace of Versailles)を建てて、はなやかな生活をくりひろげました。
フランスに黄金時代をもたらしたルイ14世は、「太陽王」(Sun King)そのものでした。

ルイ14世は、フランスの栄光を求め、ヨーロッパ最大の軍隊をつくりました。
そして、フランスの国境は、ライン川やピレネ一山脈などと考えたルイ14世は、その国境を守るため、つぎつぎと戦争を起こしました。

(ルイ14世は、「自然国境説」を主張していました。
フランスの国土は、地中海、ピレネー山脈、大西洋、ライン川、そしてアルプス山脈に囲まれていると解釈できます。これが自然国境説です。
ルイ14世は、自分の自然国境説を実現するため、オランダ侵略戦争、ファルツ・ボヘミア戦争、スペイン継承戦争などの侵略戦争をおこなったのです)


スペイン継承戦争

スペイン継承戦争(War of the Spanish Successio 1701〜1713)のいきさつは次のようなことです。

1700年、スペイン王カルロス2世(Charles II)が病死して、跡取りがなくスペイン・ハプスブルグ家は断絶します。
スペインのハプスブルク王家が途絶えたあと、ルイ14世は、自分の孫がスペインのハブスブルク家の血すじを引いているという理由でスペイン王にしようと考えました。

そうなると将来は両国が合体するかもしれない。
ブルボン家があまりにも大きくなりすぎるのを警戒した周辺諸国が、ルイ14世の孫の即位に反対する。
その結果起きた戦争です。

13年もの戦いの末、この戦争は1713年のユトレヒト条約(Treaty of Utrecht)で終結します。
この条約で、ルイ14世は自分の孫をスペイン王にする事を列国に認めさせることができました。

ただし、将来にわたってフランスとスペインが合体しないことを条件としてです。

また、この条約で、海外の植民地の多くを失いました。領土と引き換えに反対する国を買収したということです。
特にイギリスが、北アメリカのカナダ東部の植民地を増やして得をしました。

ルイ14世は、72年間もフランス国王として力をふるいました。
しかし、あいつぐ戦争とはなやかな宮廷生活で国の財政は行きづまり、農民たちは、重い税金に苦しみました。

また、ナントの勅令が廃されたため、ユグノー(Huguenot カルヴァン派)を中心にした商エ業者たちが国をはなれ、経済は大きな痛手を受けました。


   
                フランス王国歴代君主、生没年、在位期間





一猫二利


ルイ13世の宰相だったリシュリューは愛猫家で、たくさんの猫を飼っていた。

そして彼は食事の際、まず食べ物を猫たちに分けてやるのだった。

彼はこうして猫をかわいがりながら、実は毒殺の用心もしているのだった。


(Richelieu playing with his pet cats by Maurice Leloir)