ローマ教会の発展        歴史年表     ヨーロッパ史       人名事典)(用語事典)
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ローマ教会の発展

ローマ教会は、イエスの弟子(使徒)ペテロが殉教したところとして、コンスタンティノーブル教会などよりも高い地位にあると主張してきました。

さらにゲルマン人への布教に力を入れ、とくにフランク王国と協力して各地に教会をつくり、勢力を広げていきました。
ローマ教会の首長は「法王」とよばれ、信仰を通して人々の心を支配していきました。

6世紀にべネディクトゥス(Benedict of Nursia)が、「祈り、働け」をモットーにイタリアに修道院を開きました。
その後、修道院は西ヨーロッパ各地に建てられ、修道士たちは神に祈り、神のために畑をたがやし、神のために学問をし、神の教えを広めました。

10世紀にできたクリュニー修道院(Cluny Abbey)は、教会改革運動で知られています。
また、11世紀に成立したフォントネー修道院(Abbey of Fontenay)は、森におおわれていた西ヨーロッパの大地を大規模に開墾して、農地に変えていきました。

クリュニー修道院出身の法王グレゴリウス7世(Pope Gregory VII)は、高位聖職者(大司教や修道院長など、教会の組織で高い位にある人たち)
の位がお金で売買されることを批判して、聖職者の任命権をめぐってドイツ国王とはげしく対立しました。

このときドイツ王のハインリヒ4世(Henry IV)は、法王から「破門」されます。




カノッサの屈辱

動揺したハインリヒ4世は、1077年、北イタリアのカノッサ城で雪のなかにはだしで立ち、法王に謝罪しました。
これが「カノッサの屈辱」(Road to Canossa)です。

この法王と国王の対立は、1122年のヴォルムス協約(Concordat of Worms)で法王に聖職者の任命権があることをみとめて終わりました。

この間、1095年のクレルモン公会議(Council of Clermont)での、ウルバヌス2世(Pope Urban II)のよびかけから始まった、
聖地をうばい返そうという「十字軍」が起こったこともあり、法王の権威はどんどん大きくなりました。

12世紀の末に即位したインノケンティウス3世(Pope Innocent III)の時代に、法王の権力は最高のものとなり、
「法王は太陽、皇帝は月」といわれるようになりました。
イングランドやフランスの国王も、法王の力の強さの前には抵抗できませんでした。



修道士の生活

中世ヨーロッパでキリスト教が広まると、ミサで使うワインが必要になりました。
そのため、修道士は荒れ地をたがやしてブドウを栽培し、ワインづくりに力を注ぎます。

修道士は、チーズも自分たちでつくりました。肉食を禁止された修道士には、チーズは貴重な栄養源でした。

中世の修道士たちは田畑を開墾し、ワインやチーズをつくる技術者でもあったのです。
また、教会の鐘を鳴らして、人々に時刻を知らせる役目もありました。




中世ヨーロッパの社会

西ヨーロッパでは、カール大帝の死後、フランク王国は分裂し、イスラム教徒や、ノルマン人、アジアからマジャール人(ハンガリー人)などの侵入があいつぎました。

そこで、諸侯たちは自分の財産を守るため、とりきめで、いっぽうが臣下となり、いっぽうが主君となり、
臣下は主君になる諸侯へ軍人として仕え、外敵にそなえる約束(契約)をします。

このとき、臣下は主君から土地をみとめられます。
このような関係を「封建制」といいます。

9世紀ころまでに国王を頂点にして、その家臣の諸侯、さらに諸侯のもとには、忠誠を誓った騎士へとつながるピラミッド型の社会が成立しました。

諸侯や騎士は、戦う人として、農民を守るいっぽう、領主として農民を支配していました。

領主の支配する土地を「荘園(しょうえん)」といいます。
農民は、領主の土地で、ふつう週3日間働くほか、領主から土地を借りて、年貢をさし出し、また教会にも、とれた作物の10分の1をおさめる義務がありました。

農民はいくら生活が苦しくても、ほかの土地へうつったり、仕事を変えることはできませんでした。
このような自由のない農民を「農奴(のうど)」といいます。

領主は、自分の支配する荘園で、裁判をする権利をもち、違反者を罰することができました。
国王といえども、領主の荘園に口出ししたり、税をかけたりすることはできませんでした。


11世紀ごろから、荘園では「三圃制(さんぼせい)」とよばれる農業がおこなわれるようになりました。

これは、耕地を春にたがやす土地(春耕地)、秋にたがやす秋耕地、休ませておく土地(休耕地)の3つにわけて、年ごとに入れかえ、3年でもとにもどる農地の利用法です。
休耕地では家畜 (牛、馬、羊、豚など) が放牧され、その排泄物が肥料になり、土地を回復させる手助けとなったのです。

また商業もさかんになり、人の多く集まる場所に、市が開かれ、やがて都市が生まれました。

都市は、あつい城壁でかこまれ、そこに住む商人や手工業者は、その経済力をもとに領主の支配からはなれて独立しました。
このような都市を「自由都市」といいます。

都市の人口は、数千人で、商人や手工業者は、ギルド(組合)をつくって、おたがいに商売上の権利を守りました。

都市はギルドの親方たちによって運営されますが、最初、力をもっていたのは商人ギルドでしたが、のちに手工業ギルドにも同じ権利がみとめられました。
手工業ギルドの親方は、職人や徒弟をきびしく指導しました。




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カノッサの屈辱(Road to Canossa)

ドイツ王はイタリア王を兼ねたため、法王としばしば対立していた。

ドイツ王ハインリヒ4世は、イタリアにおける影響力を増すために、子飼いの司祭たちを
ミラノ大司教・フェルモ司教などに次々と任命した。

これに対して法王グレゴリウス7世は、司教の任命権は、国王ではなく教会にあることを通達したが、
ハインリヒが聞き入れないため、法王は彼を破門した。(任命権闘争)

さらに、ドイツ王の権力が強化することを恐れたドイツ諸侯は、法王に味方してしまった。
廃位を恐れたハインリヒはやむなく、法王に謝罪し、破門の解除を乞うことにした。

そこで彼は、アルプスを越え、北イタリアのカノッサ城に滞在中の法王を訪れ、
ざんげ服ではだしのまま、雪の中で三日間待ったのちに破門を許された。

1077年に起きたこの事件を「カノッサの屈辱」といい、法王権力の強化を物語るエピソードとして、
後の世に伝わっている。だが、ハインリヒ4世はその後、屈辱を晴らしている。

彼はドイツに戻り、直ちに反対派の諸侯を制圧して国内の憂いを断った。その後兵を率いてローマを包囲、
グレゴリウス7世を廃位に追い込むと、対立法王クレメンス3世をたて、神聖ローマ皇帝の帝冠を受けたのである。