国名 フランス共和国                       
英語 French Republic  
首都 パリ  
独立年 -  
主要言語 仏語  
面積 (千Km2) 544  
人口 (百万人) 65.8  
通貨単位 ユーロ  
宗教 カトリック、イスラム教  
プロテスタント、ユダヤ教  
主要産業  化学、機械、食品、繊維、航空   
         
         
カルーゼル凱旋門 (Arc de Triomphe du Carrousel)

ナポレオンの戦勝を祝い、古代ローマのコンスタンティヌス凱旋門を模範として、1806年から1808年にかけて建設された。
高さ19メートル、幅23メートル、外回りには花崗岩でできた8本のコリント式円柱がある。

ルーヴル美術館の敷地内、カルーゼル広場にある。
この凱旋門のアーチの中から、チュルリー公園、コンコルド広場、シャンゼリゼ大通り、エトワール凱旋門を一望に見ることができる。

なお、シャンゼリゼ通りの西の起点であるドゴール広場には、もうひとつの凱旋門であるエトワール凱旋門(Arc de Triomphe)がある。
同じく戦勝記念碑として、1806年から1836年にかけて建設されたもので、高さ50メートル、幅45メートル、古代ギリシアの建築様式を模範としている。


         
         

地理

南西部はピレネー山脈を挟んでスペインと接し、東部はアルプス山脈でイタリア、ジュラ山脈でスイス、ライン川を隔ててドイツと接する。

北東部はフランドル平野およびアルデンヌ高地でベルギー、ルクセンブルクと接する。

ピレネー、アルプス、ジュラの諸山脈はアルプス造山運動によるもので、高峻な山系を形成、交通の障害をなす一方、観光・保養地も提供している。
峠がほとんど無いピレネー山脈は、フランスとスペインとの交易を困難なものにした。

フランス全土の最高峰はイタリア国境に位置するモンブラン (4807m)。
主な河川は北から反時計回りに、セーヌ川 (776km)、ロワール川 (1012km)、ガロンヌ川 (647km)、ローヌ川 (812km)。

気候は大部分が西岸海洋性気候の地域で、比較的温暖で降水も一年を通じている。
しかし、地中海岸は夏季高温で雨の少ない地中海性気候を示し、コート・ダジュールは世界的な観光地となっている。

フランスは、高度に発展した資本主義国のうちでは農業の占める比重が高く、経営面積5~35haをもつ独立経営の「小農民の国」として知られる。

農業では伝統的にコムギとブドウづくりが中心であり、コムギは輸出能力があり、ワインは食生活に欠くことのできないものとなっている。

工業は長い間、織物が中心で重工業化は遅れたが、ロレーヌの豊富な鉄鉱資源を生かして発展した。
   









歴史

古代、フランスの地はガリア(Gaul)と呼ばれ、そこにはケルト人(Celts)が居住していた。
彼らの話す言語(ケルト語 Celtic)から、原住地は黒海沿岸地方と推定される。

ケルト人は、紀元前700年頃にはガリア地方に定住を完了し、主として農業を生活手段とし、
司祭(ドルイド Druid)、戦士、農民による階層社会を形成していた。

彼らは自然物を神々として崇め、樫の木を聖樹として仰いだ。
崇拝の対象は、泉や森、岩山にまで及び、それらが聖地とされた。

司祭は、彼らの宗教的指導者であるとともに立法、裁判、戦争の調停などの実権を握り、
占星術や病気の治療なども行ったとされている。

紀元前500年頃、ケルト人はこの地でラ・テーヌ文化(La Tene culture)と呼ばれる
高度な鉄器文化の担い手となっていた。

紀元前52年、ローマのシーザーによってガリアの地は征服され、ローマ属州となった。

ローマ支配に組み込まれたケルト人たちは、ローマへの同化が進み、
やがてゲルマン人とも混血が進んで、後のフランク王国を形成していった。




5世紀後半にゲルマン系サリ族(Salian Franks)の族長クロービスが全フランクを統一し、
481年にメロヴィング朝を建てフランク王国が始まった。

このフランク王国をはじめとするゲルマン諸国家で忘れてはいけないのが、ローマ系住民との関係である。
ゲルマン国家は、少数のゲルマン人に対して、多数のローマ(ラテン)系住民を抱える国家であった。

ローマ系住民は、ローマで正統とされたアタナシウス派を信奉していた。
これに対してゲルマン人は、アリウス派などの異端や異教を信奉していた。
そのため民族に加えて、宗教的にも対立が生じていた。


その中でフランク王国のクロービスは496年に、ランスの教会でアタナシウス派に改宗して、国内のローマ系住民と同じ宗教となった。
そのためローマ系住民との関係は改善され、ローマ教会との連携も強まった。

フランク王国は、534年にはフランス東南部に建国したブルグンド王国を滅ぼし、着実にその領土を広げていった。
(このブルクンド王国を建国したブルグンド人は、ワインで有名なフランス東部のブルコーニュ地方にその名前を残している)









大陸のゲルマン国家宮宰(きゅうさい 王の補佐役)となったカロリング家のカール・マルテルは、
732年にはイベリア半島から進出してきたイスラム勢力のウマイヤ朝をトゥール・ポワティエの戦いで破っている。

カール・マルテルの子であるピピン(ピピン3世)は、751年に力ロリング朝を開いて、王位を承認してくれた
法王の要請で北イタリアのロンバルド王国を討伐し、イタリア北東部のラヴェンナ地方を756年に寄進した。
(ピピンの寄進)

ピピンの子カールは、774年にロンバルド王国を滅ぼし、北のザクセン人を力トリックに改宗させ、
東ではモンゴル系アヴァール人に打撃を与えた。
さらに西ではイべリア半島の後ウマイヤ朝と戦い、現在のフランス・ドイツのほとんどを支配した。

800年には法王レオ3世によって、サン・ピエトロ大聖堂でカールの戴冠が行われ、西ローマ帝国の復活が宣言された。
カールはカール大帝として、西ローマ帝国を受け継く支配者となった。

しかし、フランク王国はカールの子ルートヴィヒ1世の死後、843年のヴェルダン条約と870年のメルセン条約によって
三分され、西フランク王国が現在のフランスに発展することになる。








ノルマンディー公国

当時の西フランク王国では、ノルマン人の海賊が北部を荒らしまわっていた。

西フランク王シャルル3世(Charles III)は、やっかいなノルマン人を手なづけるために、一策を案じた。

911年、ノルマン人の首長ロロ(Rollo)に対して、主従関係を結ぶことを条件に、
セーヌ川の下流のノルマンディーに領土を与えて定住を許したのである。(ノルマンディー公国の成立)

こうしてノルマンディー公ロロは、フランス内の諸侯となり、形式上、フランス国王の臣下となった。


ロロから6代目の子孫が、ノルマン朝(House of Normandy)を創始したウィリアム1世(William I)である。

1066年、ノルマンディー公国のウィリアム1世は、ブリテン島に侵攻。
歩兵中心のイングランド軍に対し、ノルマン軍は「ノルマン騎士」とよばれる騎士軍が主力部隊だった。

へイスティングスの戦い(Battle of Hastings)で勝利を収めると、ウィリアム1世は、
イングランド国王として即位し、ノルマン朝(House of Normandy)を開いた。(1066年)

この出来事は、のちにノルマン・コンクェスト(Norman Conquest ノルマン人の征服)と呼ばれている。

ウイリアム1世は、ノルマンディーも領地としたため、フランス国土のなかにイングランド領が生まれることになった。






カペー朝の成立

一方、西フランク王国では、922年にシャルル3世が死去した後、
後継者が相次いで死亡し、短命な治世が続いた。

しかも凡庸な王が続き、求心力の低下を止めることができなかった。
この状況を背景として、各地に自律的な権力が生じてきた。

王権の弱体化に伴い、各地で有力者が勢力を蓄え、小国家を建設していった。



これらの小国家は、フランドル伯領、アンジュー伯領、ギエンヌ公国
などを形成し、その長はみずから君主を名乗った。

このような君主が支配する領域を「領邦」と称し、西フランクでは、
9世紀末から10世紀初頭にかけて領邦が形成されていった。

領邦君主は、世襲制を確立するとともに、自領内の王領地を吸収し、
裁判権などの国王大権を簒奪した。

10世紀後半、西フランク王国内は、独立した支配を達成した領邦君主の
群雄割拠状態となったのである。



こうして台頭してきた領邦君主のなかで、最有力であったのが、
後にカペー朝を開くロベール家であった。

987年、西フランク王ルイ5世が狩猟中に落馬し急死した。
ルイ5世には後継者がいなかったため、有力諸侯による会議で新王を選出することになった。

この会議で、国王に推挙されたのが、ロベール家のユーグ・カペー(Hugh Capet)であった。

これによって新たな王朝であるカペー朝(Capetian dynasty 987~1328年)が誕生した。

だがカペー朝の王領地は、パリ周辺などの狭い地域のみであり、きわめて限られていた。
大部分の領土については、複数の有力な諸侯が統治することに変わりはなかった。



1180年、7代目のフィリップ2世(Philip II  在位1180~1223)が即位したとき、カペー朝は新たな局面を迎えた。

この時期、イングランドでは、ヘンリー2世(Henry II 在位1154~1189)が、
プランタジネット朝(House of Plantagenet)を開いていた。

このヘンリー2世の父親は、フランスの大諸侯であるアンジュー伯爵、母親はイングランドの王族だった。

王になってからは、カペー朝6代目ルイ7世と戦って、1181年ブルターニュ地方を獲得した。

これによってイングランドはフランスに広大な領土をもつことになった。



このような状況下で即位したフィリップ2世は、状況の打開に努めた。

1189年、ヘンリー2世が死去したあとの混乱に付けこみ、その息子ジョン王(King John)が受け継いだフランスの領土の大部分を奪回した。

これにより、フランスの王権は強化され、フィリップ2世は名実ともに、ヨーロッパの覇者として名乗りを上げることになった。


一方、敗北したジョン王は、領地を失ったイングランド諸侯から突き上げを食い
「マグナ・カルタ」(Magna Carta 大憲章)を認めさせられることになった。







百年戦争

14世紀に入ると、国王のもとに国家統一を進めるフランスは、毛織物工業の中心地フランドル地方(Flanders)
とワインの産地ギエンヌ地方(Guyenne)の支配をめぐって、イングランドと対立を深めていた。

1328年、フランスでは、カペー家の第15代フランス王シャルル4世(Charles IV)が後継者を残さず没すると、
ヴァロア家からフィリップ6世(Philip VI)が即位し、ヴァロア朝(Valois Dynasty 1328~1589年)を創始した。

すると、フランス王家出身の母をもつイングランド王エドワード3世(Edward III)が「自分こそフランス王である」
といってフランス王と対立。こうして百年戦争(1339~1453年)が始まった。


イングランドは1346年のクレシーの戦いで勝利し、1356年のポワティエの戦いでは、
エドワード3世の長男エドワード黒太子が、フランス国王ジャン2世を捕虜とした。

百年戦争は、イングランド軍が優勢に戦いを進め、各地でフランス軍は敗北を続けた。



百年戦争は、イングランドのエドワード3世がフランス王になりたくて始めた戦争のように言われているが、
実際には、フランス国内における支配権確保が目的だった。


当時のイングランドは、羊毛をフランドル地方に輸出して儲けていた。

現在のベルギー王国のあるフランドル地方は、11世紀ころから毛織物産業が繁栄していて、
ヨーロッパ経済の一大中心地になっていたのである。

また、ギエンヌ地方はぶどう酒の特産地として知られ、ボルドーからイギリスに輸出され、
イギリスの王侯・貴族に愛飲されていた。

だがフランス王フィリップ6世は、王の権威を高めるために、フランドルとギエンヌを直接の支配下に置き、
イングランド勢力をフランスから締め出そうとした。



これに対し、イングランド王エドワード3世は、この二つの地域にフランス王の勢力が及ぶことを阻止するとともに、
逆にフランス全土を征服しようと狙いはじめた。

百年戦争のきっかけは王位継承問題だったが、最大の争点はこのフランドルとギエンヌをめぐる英仏の争いであった。



ジャンヌ・ダルク

1415年、アジャンクールの戦い(Battle of Agincourt)でフランス軍は大敗し、
トロアの和約(Treaty of Troyes)が結ばれた。

和約では、フランス王位はイングランド王が兼ねることが定められた。

この結果、当時のフランス皇太子シャルル (のちのシャルル7世) は王位継承権を奪われた。


1422年、フランス王シャルル6世が死去すると、イングランド王ヘンリー6世がパリでフランス王として即位した。
ここに史上はじめてのイングランド・フランス連合王国が誕生した。

シャルルも同時にフランス王シャルル7世を称したが、すでに国土の大部分はイングランドの支配下にあり、
正式に即位することはかなわなかった。



フランス軍の敗北が続くなか、1429年、最後の砦オルレアン城(Orleans)がイングランド軍に包囲された。

このオルレアン城が陥落すれば、フランス全土はイングランドの手に落ちることは確実であった。


その頃、オルレアン近郊のシノン城(Chinon)に立てこもっていたシャルル7世のもとへ、
ジャンヌ・ダルク(Jeanne d'Arc)と名乗る農民の娘が面会に訪れた。

城の守備兵は、ジャンヌを追い返そうとしたが、シャルル7世は、神のお告げでやって来たと
主張するその娘に興味を示し、会ってみることにした。


ジャンヌがシノン城に入城すると、シャルル7世は、わざと家臣の中にまぎれて目立たなくしていた。

だがジャンヌは、大勢の中から一目で、王を見抜いてしまった。

はじめシャルル7世は、自分が王ではないと言い張ったが、彼女は跪いて王の膝に接吻した。


王はいたく感心し、彼女を信用することにした。
そしてジャンヌの願いを聞き入れ、彼女に軍勢を与え、指揮を任せた。

ジャンヌはすぐさま、軍勢を率いて、イングランド軍にとりかこまれているオルレアン城に向かった。


白馬にまたがったジャンヌが姿を現すと、籠城していたフランスの兵士たちは勇気をとりもどし、
イングランド軍と勇敢に戦い、包囲網を突破した。

このオルレアン城の攻防で、戦争の流れは完全に変わった。
その後のフランス軍は、神がかりの快進撃を続けることになった。

ジャンヌが率いるフランス軍は、その後、フランス北部のランス(Reims)を解放し、シャルル7世を国王の座にすえた。


ジャンヌの活躍により、一気に形勢が逆転、1453年にボルドーが陥落してイングランドは敗北、フランスにおけるほとんどの領土を失った。

フランス軍の勝利により、ジャンヌ・ダルクはオルレアン解放と、シャルル7世の戴冠という役割を無事に果たした。
だが彼女のその後は、悲劇が待ち受けていた。

国王シャルル7世の指示により、ジャンヌはパリの解放を試みたが失敗し、イングランド軍の捕虜となってしまう。
そして半年にわたる教会の裁判の結果、「悪魔にとりつかれた女」として、1431年、火あぶりの刑にされた。

ジャンヌは「イエス・キリスト」のことばを最後に、19歳の生涯を終えた。



イングランド側が、ジャンヌを宗教裁判にかけたのは理由があった。

ジャンヌの罪状は「悪魔の啓示により、イングランド軍を苦しめた
憎むべき魔女にほかならない」というものだった。

フランス軍との戦いに敗れたのは、魔女ジャンヌのせいだということになれば、
自分たちの体面を保てるし、都合もよいと考えたのである。


魔女狩りとは、中世のキリスト教社会で行われた異端者に対する迫害行為である。
そのねらいは、社会の弱者を魔女に仕立て上げ、社会の不満をそらす意味合いがあった。

火あぶりになったジャンヌ・ダルクのように、王権を守るための口実としても利用された。
また黒死病の流行した時代には、魔女(男性含む)の仕業として、ユダヤ人が捕らえられた。

さらに経済的理由もあった。
ローマ教会は、裁判官と告発者に犠牲者の財産を手に入れることを認めていて、聖職者に富をもたらした。

とくに小国の領主でもある聖職者は、収入のために猛り狂ったように魔女狩りをした。
15世紀から16世紀までに、数十万人が犠牲になり投獄、拷問、処刑されたと言われている。




ユグノー戦争


16世紀以降、ルターやカルヴァンの宗教改革によって、腐敗や堕落を批判されたカトリック教会は、
反省するどころか、ますます宗教裁判を強化するようになった。

フランスにおいても、アンリ2世(在位 1547~1559)の治世になると、
異端弾圧は一層激しさを増し、カトリックの教義に反する者を次々と処刑した。

だがこうした迫害にもかかわらず、ユグノー(Huguenot)とよばれるカルヴァン派の新教徒が増え続けた。

1562年、ついに新教徒とカトリック教徒が対立して、ユグノー戦争(French Wars of Religion)
と呼ばれる内乱が起こる。


アンリ2世の王妃カトリーヌは、カトリック教徒の貴族と手を結び、自分の娘の結婚で祝いにかけつけた新教徒を
数千人も殺す事件「サン・バルテルミの虐殺」(St. Bartholomew's Day Massacre)を起こし、戦いは長引いた。

やがてブルボン家のアンリ4世(Henry IV)がブルボン朝(Bourbon Dynasty)を開き、1598年、ナントの勅令
(Edict of Nantes)を出して国民に信仰の自由を認めたため、40年にも渡って続いた戦争はようやく終了した。

だがアンリ4世は、1610年、急進的なカトリック教徒に暗殺されてしまった。
有能な国王の突然の死は、フランスにとって痛手であった。






絶対王政

ブルボン朝2代目の王ルイ13世は、父のアンリ4世が暗殺されると、
わずか9歳でフランス王となり、母に助けられて政治を行った。

彼は、宰相のリシュリュー(Richelieu)を厚く信頼し、はじめ新教徒を厳しく取り締まったが、
ドイツで三十年戦争(1618~1648)が起こると、今度は新教徒を助けるようになった。

これは、ドイツの新教徒を支援して、カトリックの神聖ローマ皇帝に対抗させ、
それによってフランスの地位を高めるためだった。

1642年にリシュリューが亡くなった半年後にルイ13世も死去。
息子のルイ14世の治世に移ることになる。



1643年、ルイ14世(在位1643~1715)はわずか5歳で即位し、
母や宰相のマザラン(Mazarin)に助けられて成長した。

この頃のフランスは「三十年戦争」に介入して神聖ローマ帝国と戦っている真っ最中だった。

宰相のマザランは、戦費を賄うための重税を課したため、貴族と民衆の反発を買った。

彼らの不満が高まり、やがて「フロンドの乱」(Civil War of the Fronde)へと発展していった。

フロンドとは、当時流行していた子供の投石おもちゃで、パリの民衆がマザラン邸めざして
投石したことから呼ばれるようになった。

大貴族も含めた反乱に拡大したが、市民革命には至らず1653年に鎮圧された。
これによって国内の大貴族の権勢が削減され、王の権力が強化されることになった。

このフロンドの乱が始まった14648年10月、ウェストファリア条約が結ばれ、三十年戦争が終結した。



1661年、マザランが亡くなると、ルイ14世が、自ら政治を行うようになった。

パリ郊外にベルサイユ宮殿(Palace of Versailles)を建設し、ここに国王政府とした。
この宮殿は、ルイ14世の華やかな治世を象徴するものとなった。

彼は聖職者や大貴族を抑制するためにブルジョア層出身者を重用した。
そうした重臣のなかでも、陸軍大臣のルーヴォワ(Louvois)、財務長官のコルベール(Colbert)を重く用いた。

ルーヴォワは、傑出した軍政家で、軍制改革でフランス軍の質量両面の増強を成し遂げ、
彼の作り上げた軍隊が、ルイ14世治世下で行われた幾多の戦争を支えることになった。

コルベールは、国内の産業を徹底的に保護する政策(重商主義)を採用した。

国内企業に、財政援助、市場の独占権などの特権を与え、輸出を増やし輸入を抑えることによって、
戦争を遂行するための財源である外貨準備高を蓄積していった。



ルイ14世は、60年間という長期間、王位にあったが、その治世の大半は、1667年のフランドル戦争
(スペインとの領土争い)を皮切りに、ほとんど対外戦争に費やされた。

まさにルイ14世の時代は、フランス王権の絶頂期であり、為政者の国王の恣意によって、
好んで侵略戦争を行う絶対王政の性格を最もよくあらわしていた。

こうして彼は、フランスがこれまで蓄積した富と国力をすべて戦争に費やし、
莫大な借金を残して、1715年に死去したのである。


それにもかかわらず、以後の歴代フランス王も、勢力拡大のための侵略戦争を推し進めた。

ルイ14世が即位した1643年から、1789年のフランス革命までの150年間に、
なんと120年間の戦争の時期、つまり、約80%の期間が戦争であった。

戦争が常態化していたこの時期には、フランス政府は税金を集め、それで戦争という
事業を行うことを仕事としていた。

財政がひっ迫すると増税し、より多くの兵員をということで傭兵を雇ったため、
軍事費の増大はとどまることがなかった。

やがて民衆の窮乏は頂点に達し、フランス革命が起こるべくして起こったのである。






フランス革命


フランス革命(1789年)直前のフランスの人口は、約2800万人と推定されている。

そのフランス社会は、3つの身分によって構成されていた。
第一身分である聖職者が14万人、第二身分である貴族が40万人、第三身分である平民が、その他の大部分を占めていた。

全国人口のわずか2%を占めるに過ぎない聖職者と貴族の支配階級が、国土の3分の1以上の広大な土地を所有し、
絶対王権に寄生して官職を独占し、しかも年金支給や免税などの特権を持っていた。

一方、人口の95%以上を占める平民のほとんどは農民であり、重い税と封建的負担に苦しんでいた。

当時のフランスでは、45億ルーブルにも及ぶ巨額の財政赤字が大きな問題となっていた。
赤字が膨らんた主な原因は、ルイ14世以来の対外戦争の出費、アメリカ独立戦争への援助、そして宮廷の浪費であった。

国家財政の歳入は、5億ルーブルであり、歳入の9倍の赤字を抱えていたことになる。



そこで当時の国王ルイ16世(在位 1774~1792)は、財政改革を行うことにした。

第3身分からは、すでにこれ以上増税しようがないほどの税を徴収していたので、
それ以外の聖職者と貴族階級の特権を制限して改革を行おうとした。

さらにルイ16世は、世論を味方につけて改革を進めようと考え、三部会(各身分の代表から構成される身分制議会)
を開催し、そこで聖職者と貴族階級への徴税を提案した。


しかし、これに反発した聖職者と貴族階級は、三部会の決議を身分別投票で行うことを主張する。

身分別投票にすれば、聖職者と貴族階級は、1+1=2であるのに対し、
平民は1であるから、自分たちが有利になると考えたのである。

だがこれに対して平民が猛反発し、個人別投票を主張したので会議は大いに紛糾した。

国王ルイ16世は、やむなく議場を閉鎖するという断固たる措置を講じる。


この結果、議場から締め出された平民たちは、議場に隣接する庭球場で、憲法を制定することと、
国王が平民による国民議会を正式な議会と認めるまでは解散しないことを誓った。

この誓いは、後に「テニスコートの誓い」と呼ばれた。
やがて、聖職者と貴族階級の中にも、この国民議会に同調する者が現れた。


ルイ16世は、こうした動きに対して、2万の兵をパリに終結させ、武力で弾圧しようとした。

だがこの武力による弾圧は、王妃アントワネットと強硬派貴族による独断であった。

国王は、民衆に対する武力鎮圧には消極的であったが、もはや国王政府は強硬派で占められ、
ルイ16世の意向が通らないほどになっていたのである。

さらに加えて、昨年1788年から続く凶作による麦価高騰と食料危機に襲われ、社会不安が高まっていた。
改革を求める民衆運動が、都市でも農村でも発生していた。




1789年7月14日、パリの民衆が一斉に蜂起し、パスティーユ牢獄を襲撃して武器弾薬を奪取した。

またこれと前後して、農村では農民たちが各地で領主・貴族の館を襲ったために、多くの貴族たちが国外に亡命した。

この農民反乱の広がりに対して平民による国民議会が開催され、8月4日に農奴制や領主裁判権などを
無償で廃止する封建的特権の廃止を宣言。

8月26日には人権宣言(人間および市民の権利の宣言)が国民議会で採択された。

この人権宣言は、のちに制定される憲法の前文として作成されたものであり、
個人の生存権、言論の自由、財産の不可侵、そして主権在民をうたっている。

これにより、フランスは「国民主権」を宣言したヨーロッパで最初の国となった。



10月5日、食料が高騰したことから、女性たち数千人がパリからベルサイユに行進して宮殿に乱入し、
国王夫妻をパリに連行してテュイルリー宮殿に押し込めた。


だがその後、フランス革命の先行きに不安をもった国王夫妻は、国外逃亡をはかった。

1791年6月20日の深夜、荷物をまとめ、宮殿を馬車であとにした。
むかう先は、王妃アントワネットの祖国オーストリアである。(バレンヌ逃亡事件)

だが実のところ、この脱出は予定日よりすでに一か月もズレこんでいた。
というのは、王妃が脱出用の馬車のサイズや内装を特注していたからである。

脱出の当日、国王一家は大型馬車に乗り込んだ。
馬車には、銀食器やワインの樽、その他もろもろが積まれていた。

荷物の積みすぎのため、馬車はスピードを出せなかった。
結局、国王夫妻は、国境近くのバレンヌで、追っ手に捕らえられてパリに連れ戻される。

事件を知った国民は、国王への不信をさらにつのらせた。
その結果、王と王妃はギロチン台に近づくことになってしまった。



1791年9月3日、国民議会はフランス最初の憲法となる1791年憲法を採択した。
1792年9月21日、王政の廃止と共和政の成立を宣言。(第一共和政の成立)


1793年1月21日、革命広場(現在のコンコルド広場)で、国王ルイ16世は、ギロチンの露と消えた。

すると、広場につめかけていた約2万人の群衆から「国王万歳」の叫びが一斉にあがった。



フランス革命によって国王ルイ16世が処刑されると、ヨーロッパ諸国は危機感を抱いた。

フランスの革命政権が王制の否定に至ったことを意味するからである。

1793年3月、革命思想の波及を恐れたイギリス、オーストリアをはじめとする諸国は、
同盟を組んでフランスの革命政権を打倒することを目指した。(第一次対仏大同盟戦争)


対仏同盟軍は、フランス革命軍を陸海から包囲し攻撃を加えた。
危機に陥ったフランスは、内部崩壊の瀬戸際に立たされた。

フランス革命政府は、国家総動員を発令し、各階層の国民を徴兵し、120万人の兵士が軍に加わった。

しかも、フランス革命以降、国家は王でなく国民のものであるという建前になったため、
愛国精神に溢れた士気の高い兵力となった。




ナポレオン戦争


1793年9月、フランス軍はオンドスコートの戦い(Battle of Hondschoote)で、イギリス軍を破り、
12月には、ナポレオンの砲兵部隊の活躍により、トゥーロン包囲戦で、再びイギリス軍に勝利した。

残るは北イタリアに駐留するオーストリア軍であり、国境を接するフランスに脅威を与えていた。

1796年3月、トゥーロン包囲戦で功績のあったナポレオンがイタリア遠征軍司令官に任命された。



だがナポレオンに与えられた兵士の多くは、国土を失い流浪の民となっていたポーランド人傭兵だった。

ナポレオンは戦いに先立ち、次のように兵士たちを鼓舞した。

「兵士諸君、君たちは裸同然で食べ物もない。だが私は諸君を最も肥沃な平原に連れて行く。
諸君はそこで、名誉・栄光・富を得るであろう」

この肥沃な平原(Poland)とは、彼らの祖国ポーランドを意味する言葉であった。

この戦いは、自分たちの国土を奪ったオーストリアから、祖国奪回の機会になるかも知れない。

軍服、軍靴だけでなく、弾薬や食料をも欠く貧相なポーランド兵たちの士気は大いに向上した。


ポーランド人たちは勇敢に戦い、ナポレオン軍は、北イタリア各地で勝利を重ねた。

1797年4月、ナポレオン軍はオーストリアの首都ウィーンに迫り、同年10月、講和条約を結んだ。
講和条約でフランスは、オーストリア領ベルギーとライン左岸地方を獲得した。

これにより、第一次対仏大同盟は崩壊し、フランスはイタリア北部に広大な領土を獲得し、また膨大な戦利品を得た。



1797年12月、パリへと帰還したナポレオンは、熱狂的な歓迎をもって迎えられ、国民的英雄となった。

占領地からフランスに送られた戦利品は、革命政府の財政を助けた。
だがこれは、ある意味でナポレオンに財政を握られた形となり、革命政府はナポレオンに不安を持つようになった。


続いてナポレオンは、エジプト遠征を決行した。これは当時イギリスと、その植民地であるインドとの
中継地点であったエジプトを占領して、通商を妨害することが目的だった。

だがナポレオンは、100人以上の考古学者や技術者をエジプト遠征に同道させて、ロゼッタストーンの発見や、
ピラミッドの詳細な調査など、戦争とあまり関係のない学術調査に専念し始めたのである。

これはナポレオン自身、個人的に歴史に強い興味を持っていたのかも知れないが、趣味にしてはあまりにも度がすぎていた。



こうしてナポレオンが、エジプトに釘付けになっている間、イギリスをはじめ、オーストリアやロシアなどが、
1798年12月、第二次対仏大同盟を結成、フランス国境に迫った。

これに対して、フランス軍は敗北を重ね、手に入れた北イタリアやライン左岸地方などの領土を失ってしまう。
革命政府は、なすすべを知らず、国民の信頼を失っていった。


この消息を知ったナポレオンは、すぐさまパリに帰還しようとしたが、この時すでに、
地中海の制海権はイギリス海軍に握られており、簡単には撤退できなかった。

やむなくナポレオンは、軍をエジプトに残したまま、少数の側近だけを連れ、
1799年10月、ようやくフランス本土へ舞い戻った。

フランスの民衆は、ナポレオンの到着を、歓喜をもって迎えた。



帰国したナポレオンは、政府打倒の計画を立て、1799年11月、革命政府から実権を奪うことに成功。
これによって、ナポレオンが新たに統領政府を樹立し、第一統領となった。

統領政府は、3人の統領を置く体制であったが、権力のほとんどはナポレオンが掌握しており、
事実上ナポレオンの独裁政権といってもおかしくないものだった。

その後、ナポレオンは、奪われた領土を奪回するため、1800年5月、再度イタリア遠征を決行する。



ナポレオンは、多くの戦闘において、奇襲戦法を好んだ。
敵を攻撃する場合、高い位置から敵の背後を狙い撃つ、というのが、彼の必勝戦術であった。

そのため、今回のイタリア遠征では、大砲を装備してアルプス山脈を越え、
オーストリア軍の背後に進出するという作戦を採った。

アルプス越えは、典型的な奇襲であるが、まだ雪が残るアルプスを越えることが可能なのか。

当時の一般的な軍事常識では、この時期のアルプス山脈は、積雪および凍結した山道のために、
砲兵の通過は不可能と考えられていた。


余の辞書に不可能の文字はない。Il n'y a pas de mot tel que "impossible" dans mon dictionnaire.

これは、異説もあるが、このときに発したナポレオンの名文句として知られている。



アルプス越えのために、およそ500人の山岳住民を雇い、弾薬はロバで運搬し、
砲架、砲車は分解して、人力で搬送、砲身は、くり抜いた松材に積んで、ソリとして運搬した。

こうして不可能と考えられていた大砲のすべてが、アルプスを越えて、イタリア側の村落で結合できたのである。



1800年6月14日、ベルナード峠(Bernard Pass)から、ナポレオン軍砲兵の猛砲撃を受け、オーストリア軍は敗走した。

1801年2月、講和条約を結び、フランスは北イタリアとライン左岸地方を奪回、これをもって第二次対仏大同盟は崩壊した。


1804年5月18日、ナポレオンは、国民投票を経てフランス皇帝に即位。ナポレオン1世となり、
同年12月2日、パリのノートルダム大聖堂でローマ法王立会いのもと、戴冠式が行われた。




ナポレオンの皇帝即位は、ヨーロッパ諸国にとって、革命が自国へ及ぶ恐怖に加えて、
軍事面での脅威も加わることになった。

フランスの強大化を恐れるイギリスは、1805年8月、オーストリア、ロシアと第三次対仏大同盟を結成した。



1805年10月、ナポレオンは海上からイギリス軍を一掃することを決断、
海軍国スペインと組んで連合艦隊を編成、イギリスに戦いを挑んだ。

だがトラファルガーの海戦(Battle of Trafalgar)で、ネルソン提督率いるイギリス艦隊に敗戦。


イギリス海軍制圧の野望を砕かれたナポレオンは、一転して、大陸での勝利に専念、アウステルリッツの戦い
(Battle of Austerlitz)で、オーストリア・ロシア連合軍に勝利した。

ここに第三次対仏大同盟は崩壊した。


1806年、ナポレオンは神聖ローマ帝国を解体し、ドイツ人の国家であるライン同盟(Rheinbund)
を成立させ、みずからその保護者となった。

だがこのライン同盟の成立に反発したプロイセンがフランスに宣戦布告。

これに対しナポレオンは、1806年10月のイエナの戦い(Battle of Jena–Auerstedt)
でプロイセン軍に大勝、ベルリンを占領し、プロイセンの大半の領土を獲得した。

ナポレオンは、プロイセンから奪った領土に、ポーランド人の国家である
ワルシャワ大公国(Duchy of Warsaw)を建国した。

ライン同盟とワルシャワ大公国は、フランスの保護下にあったが、それぞれ独自の軍隊を持ち、
ナポレオン法典を範とした近代的憲法を制定した。


だがいずれにしても、海のイギリス、陸のフランスの形勢は、
この時点では変わりそうにないことがはっきりした。

そこでナポレオンは、イギリスへの対抗策として、1806年11月、大陸封鎖令を発布した。
これはヨーロッパ諸国とイギリスとの貿易を禁止してイギリスを経済的な困窮に落とすことが目的だった。

だがこれは、産業革命後のイギリスの製品を輸入していたヨーロッパ諸国の不満を買うことになった。

その後、ロシアが大陸封鎖令を守らず、イギリスへの穀物輸出をしていたことを知ると、
ナポレオンはロシア遠征を決意する。

1812年6月、ナポレオンは、数十万もの大軍勢を率いてロシアの首都モスクワを目指した。



この時期のフランスは、ヨーロッパ大陸の覇権を握り、まさに絶頂期だった。

しかし、このナポレオン大帝国の内情はもろく、みせかけだけのものであった。

フランス革命軍が強くなった一つの理由は、国民徴兵制による大量の兵士だった。

だがナポレオンの時代になると、毎年15万人の兵士を新たに徴募して50万人以上の規模をもつ軍隊を
長期にわたって養わなければならなかった。

もともとブルボン王朝の増税からフランス革命が起こったのだが、ナポレオンはそれを越える増税をした。


だが増税だけではとても足りず、ナポレオン帝国のかなりの部分が略奪によって支えられていた。

敗戦国の王室から資産を没収し、敵の宝物庫などから戦利品を略奪し、
巨額の賠償金を取り立て、フランスに経済的利益をもたらした。

プロイセンはイエナの敗北の後、莫大な賠償金を支払わされたが、
これはフランス政府の通常の歳入の半額に当たっていた。

オーストリアも敗戦のたびに領土を削り取られ、そのうえ多額の賠償金を支払わなければならなかった。

ナポレオン帝国は勝ち続けることによってのみ、自国の経済を維持できたのである。


またフランス軍の兵士は消耗品であったが、その消耗品にも限界があった。

歴戦の兵士が少なくなり、後になればなるほど、被征服国や従属国の兵士が多く含まれるようになった。

その行き着く先がどうなるかは明らかであった。

ロシア遠征に従軍した67万5000人のうち、フランス兵は30万人に過ぎなかった。
もちろん、大敗北でその多くがロシアの土になった。



ロシア遠征で敗退したナポレオンの運命は暗転する。

1813年、今まで屈服していたヨーロッパ各国は、一斉に離反し、解放戦争と呼ばれる
ナポレオン体制打倒の戦争が行われた。

ライプツィヒの戦い(1813年)、ワーテルローの戦い(1815年)で大敗したナポレオンは
セントヘレナ島に流されて生涯を終えた。

1815年、ウィーン体制と呼ばれる国際会議を経て、フランスは再びブルボン朝が復活、
ルイ18世が即位した。(復古王政の成立)




七月革命


1815年、ブルボン朝が復活し、フランスは革命以前の政治体制にもどることになった。

とはいえ、すんなりと王政を、民衆が再び受け入れられるはずはなかった。

市民が自由に政治に参加できて、貧富の差のない平等な社会、そういったフランス革命の理念が、
すでに民衆の中に広がっていたからである。

復古王政から16年後の1830年7月、パリで反乱が起き、国王シャルル10世は亡命に追い込まれ、
ブルボン王朝は倒れた。(七月革命)

革命政権は、かわりにオルレアン家の王族ルイ・フィリップをフランス国王にした。


革命によって国王が追い出されたのだから当然、共和政に移行するはずであった。
ところが共和派を自称する王族のルイ・フィリップが王座につき、七月王政を成立させてしまった。

これは、ナポレオンの外相であったタレーラン(Talleyrand)の策略によるものだった。

彼は富裕層から賄賂を受け取り、市民の自由や権利に理解があるルイ・フィリップなら、
善良な政治をしてくれるとの期待を市民に植えつけ、七月革命を首謀したのである。


こうして市民のための王ルイ・フィリップが即位したのだが、ふたを開けてみれば、
彼は富裕層ばかりを優遇した。

選挙権も金持ちの貴族階級だけにしか与えず「金持ち優遇政策」に邁進する国王に、
農民や労働者階級は大いに不満を募らせることになった。


1848年2月、パリで再び市民による蜂起が起こった。

市民によって王宮や政府機関が占拠され、フランス史上最後の国王となったルイ・フィリップは、
ロンドンに亡命した。(二月革命)

ほどなくして革命政府により憲法が制定され、フランス第二共和政府が成立した。




ナポレオン3世


フランス第二共和政府で憲法が制定されると、大統領制が導入され、
1948年12月、国民投票による大統領選挙が実施された。

この選挙で、ナポレオンの甥であるルイ・ナポレオン(Louis Napoleon)が、
総投票数の75%を獲得して大統領になった。


彼はナポレオンが失脚したとき、イギリスに亡命していたのだが、
二月革命の勃発後に、フランスに帰国し、大統領選挙に立候補したのである。

その後、ルイ・ナポレオンは、国民のあいだに残っていたナポレオンの人気を
たくみに利用して、1852年12月、ナポレオン3世として皇帝に即位した。(第二帝政の成立)


ナポレオン3世は、フランス国民の人気を獲得するためにパリをつくりかえ、
1855年にはパリ万国博覧会を開いた。

また、フランスの栄光を取り戻すため、ナポレオンをまねて、いくつもの戦争を起こした。

クリミア戦争(Crimean War 1853~1856年)では、イギリスと組んでロシアを破り、
イタリア統一戦争にも軍を派遣し、フランスの国際的影響力を高めた。

また、アメリカ南北戦争の勃発に乗じて、勢力拡大のためにメキシコに出兵しようとしたが、
これは失敗に終わった。



メキシコ遠征の失敗でフランスの国力が衰えると、あせったナポレオン3世は、
1870年7月、スペイン王位継承問題をめぐってプロイセンとの戦争に突入した。(普仏戦争)

しかし、1870年9月、ベルギーとの国境に近いセダンの戦い(Battle of Sedan )で、
ドイツ軍に捕らえられ、皇帝の位を退くことになった。



普仏戦争のいきさつは、次のようなことだった。

1868年、スペインでクーデターが起こり、スペイン王イサベル2世(Isabel II)
がフランスへ亡命。

空いてしまったスペイン王位をめぐり、スペイン王位継承問題が発生した。


一時はプロイセン家のレオポルト公(Leopold)がスペイン王に即位すると決まったが、
その話を聞いたナポレオン3世が猛反対する。

レオポルト公がスペイン王になると、フランスはプロイセンとスペインの両大国に
挟まれてしまうからだった。



その後、プロイセン王ヴィルヘルム1世(William I)は、ナポレオン3世の抗議を受け入れ、
レオポルトに即位の取りやめを勧告する。

これによって事件は終わったかに見えたが、 ナポレオン3世は、プロイセン王のもとに、
大使を送り、将来にわたってプロイセン家からスペイン王を出さないよう保証を迫った。

温泉地で療養中であったプロイセン王は、とりあえず検討するからと言って、大使を返させた。



しかし、このいきさつを聞いたプロイセンの宰相ビスマルク(Bismarck)は、
すぐさまナポレオン3世あてに電報を打つ。

「フランス大使はプロイセンを脅迫しようとし、王はこれに激怒して追い返した」
という内容だった。

ビスマルクは、ナポレオン3世を怒らせ、戦争にまきこむために、わざと偽りの電報を
送ってよこしたのだ。

ナポレオン3世は、その電報の内容をまんまと信じ、プロイセンに対し宣戦布告し、
普仏戦争が勃発した。



この戦争は半年間続き、最終的にプロイセン軍は、フランスの首都パリを占領した。

1871年、プロイセン占領下のベルサイユ宮殿で、ヴィルヘルム1世がドイツ帝国皇帝となる儀式をあげ、
ここにドイツ帝国(German Empire)が成立。

ナポレオン3世は捕虜にされ、フランスの帝政はここに崩壊した。

ビスマルクは、自分にとって人生最大の戦争が、この普仏戦争だったと、のちに回想している。



ナポレオン3世が、皇帝を退いたのち、フランスで結成した臨時政府は、
1871年2月、ドイツ帝国と講和条約を結んだ。

ところが、講和条件には、巨額の賠償金支払いや、フランス北東部のアルザス・ロレーヌ地方
などの譲渡が含まれており、フランス国民の多くは反発した。

愛国心にもえるパリの民衆は、武器を持って立ち上がり、1871年3月には自治政府(コミューン)
を成立させ、あくまでもドイツと戦う決意を示した。

これが、「パリ・コミューン」(Paris Commune)と呼ばれる、世界ではじめての労働者を中心とする政府だった。


だがドイツとの停戦を急ぐ臨時政府は、ドイツ軍と手を結び、自治政府に弾圧を加えた。
激しい市街戦を経て、1871年5月、パリ・コミューンはついに崩壊。

1875年、臨時政府は、新たな憲法を制定し、ここに第三共和政府が成立した。




パリを訪れると、その美しい街並に目を奪われる。

凱旋門を中心に放射状に伸びるシャンゼリゼを中心とした大通り、
整った建物、街を彩る街路樹。

ナポレオン3世は、当時のセーヌ県知事オスマン(Haussmann)に命じて、
中世都市のままだったパリの再開発を行った。



景観の美しさを整えただけではない。不衛生だった上下水道を整備し、
道路や橋を整備し、犯罪の温床になっていたスラム街を一掃した。

これによってパリは清潔な街になり、通りにはガス灯が並び、
夜も安心して歩けるようになった。



そして役所や学校をはじめ、街の至る処に国旗がはためいている。

青、白、赤の三色旗が誕生したのはフランス革命期。
革命の自由、平等、友愛の理念を体現したものである。


フランス人ほど母国に誇りを持つ国民はいない気がする。
彼らは、自分たちが暮らす国が世界で一番良い場所だと思っている。

その思いの裏にあるものは、戦うべき時に戦い、自らの手で
国と政治を決めてきた自負に他ならない。






BC700年 ケルト人がガリアに定着
BC58-52年 シーザーのガリア征服。ローマによるガリア支配はじまる
375年 このころからゲルマン系諸部族の民族大移動始まる
395年 ローマ帝国が東西に分裂
476年 西ローマ帝国滅亡
481-751年 メロヴィング朝
481年 クロービス1世、メロヴィング朝フランク王国を創始
732年 カール・マルテル、トゥール・ポアティエの戦いでイスラム教徒(ウマイヤ朝)を撃退
751-987年 カロリング朝
751年 小ピピン(-768)、カロリング朝を創始
768年 カール大帝即位(-814)
843年 ヴェルダン条約。フランク王国三分される
911年 ノルマン人、ノルマンディーに定着。ノルマンディー公国が成立
987-1328年 カペー朝
987年 ユーグ・カペー即位(-996)、カペー朝開始(-1328) (フランス王国成立)
1066年 ノルマンディー公ウィリアム、イングランド征服
1096-1099年 第1回十字軍
1154年 アンジュー家アンリ・プランタジュネ(ヘンリー2世)、
  イングランド王位につく(プランタジネット朝、-1399) 
1209-1229年 アルビジョワ十字軍
1226年 ルイ9世即位(-1270)
1248-1270年 ルイ9世、末期十字軍を主導
1302年 フィリップ4世、最初の全国三部会を開く
1301年 アナーニ事件
1328-1589年 ヴァロワ朝
1328年 フィリップ6世即位(-1350)、ヴァロア朝開始(-1589)
1337年 英仏百年戦争始まる(-1453)
1358年 エチエンヌ・マルセルの乱(パリ)、ジャクリーの乱(北フランス)
1429年 ジャンヌ・ダルク、オルレアンを解放。シャルル7世、ランスで戴冠
1477年 ブルゴーニュ公国、フランス王領となる
1494年 シャルル8世、ナポリ王国へ遠征
1516年 ローマ教皇と政教和約(コンコルダート)。フランス教会の独立開始(ガリカニズム)
1521年 フランソア1世、イタリア戦争を開始(-1544)
1532年 ブルターニュ公国、フランスに併合
1560年 シャルル9世即位(-1574)。王母カトリーヌ・ド・メディシス摂政となる
1562年 宗教戦争(ユグノー戦争)開始(-1598)
1572年 サン・バルテルミの虐殺
1589-1792年 ブルボン朝
1589年 アンリ3世暗殺。アンリ・ド・ナバラ、アンリ4世として即位(-1610)、ブルボン朝を創始(-1792、1814-1830)
1598年 ナントの勅令により宗教戦争終わる
1610年 ルイ13世即位(-1643)。マリ・ド・メディシス摂政となる
1614年 全国三部会開く(1789年まで無開催)
1624年 リシュリュー、宰相となる(-1643)
1635年 フランス、三十年戦争に介入(フランス・スウェーデン戦争)
1643年 ルイ14世即位(-1715)。マザラン、宰相となる
1648年 フロンドの乱開始(-1653)。ウェストファリア条約締結、三十年戦争終わる
1665年 コルベール、財政総監となる(-1683)
1667年 南ネーデルランド継承戦争(-1668)
1672年 オランダ侵略戦争開始(-1678)
1685年 ナントの勅令廃止
1688年 ファルツ継承戦争(-1697)
1701年 スペイン継承戦争始まる(-1714)
1715年 ルイ15世即位(-1774)。オルレアン公フィリップ摂政となる
1740年 オーストリア継承戦争に介入(-1748)
1756年 七年戦争始まる(-1763)
1774年 ルイ16世即位(-1792)。チュルゴー、財政総監となる
1778年 アメリカ独立戦争(アメリカ独立革命)に介入(-1783)。財政危機深まる
1787年 名士会招集。高等法院貴族の反抗強まる
1789年 フランス革命始まる(-1799)
1789年 5月5日 三部会招集
1789年 6月17日 第三身分、国民議会を宣言
1789年 7月14日 バスチーユ攻略。地方で農民暴動
1789年 8月4日 封建制度廃止宣言
1789年 8月26日 人権宣言
1789年 11月2日 教会財産の国有化
1790年 1月 行政区画を変革。州を廃止し、83県を設ける
1791年 6月20日 国王一家、バレンヌ逃亡事件
1791年 9月14日 フイヤン憲法
1791年 10月1日 立法議会成立
1792年 4月20日 ジロンド派政権、オーストリアに宣戦(革命戦争)
1792-1804年 第一共和政(フランス共和国成立)  
1792年 8月10日 パリ民衆蜂起(八月十日事件)、コミューン(自治市会)成立
1792年 9月21日 普選による国民公会成立(-1795)、共和制宣言
1793年 1月21日 ルイ16世処刑
1793年 2月 第一次対仏大同盟成立
1793年 3月 バンデーの反乱始まる(-1795)
1793年 4月6日 公安委員会設置
1793年 6月 恐怖政治開始(-1794)
1793年 7月17日 領主地代の無償廃止
1794年 7月27日 テルミドールの反動、ロベスピエール逮捕
1795年 9-10月 「1795年憲法」により総裁政府成立(-1799)
1798年 5月19日 ナポレオン1世、エジプト遠征
1799年 3月 第二次対仏大同盟
1799年 11月9日 ブリュメール一八日のクーデター。統領政府(執政政府)成立
1804-1814年 第一帝政(フランス帝国)
1804年 3月 ナポレオン法典成立
1804年 5月10日 ナポレオン、皇帝となる(第一帝政 -1814) 
1806年 11月21日 ナポレオンの大陸封鎖令
1812年 6-10月 ナポレオン、モスクワ遠征
1814年 4月 ナポレオン退位、エルバ島に流される
1814-1830年 王政復古(フランス王国) 
1814年  5月 ルイ18世即位(-1824) 
1815年 第一帝政再興(百日天下)
1815年 3月20日-6月29日 ナポレオンの百日天下
1815年 6月18日 ワーテルローの戦い
1824年 シャルル10世即位(-1830)
1830-1848年 七月王政(フランス王国)
1830年 7月27-29日 パリ民衆蜂起、七月革命。
  オルレアン朝ルイ・フィリップ即位(-1848) 
1848-1852年 第二共和政(フランス共和国)
1848年 2月22-24日 2月革命起こる。共和政臨時政府成立
1848年 6月22-26日 パリ民衆暴動(6月事件)
1848年 12月10日 ナポレオン3世、大統領選挙で圧勝
1851年 12月2日 ナポレオン3世のクーデター
1852年 1月 新憲法布告
1852-1870年 第二帝政(フランス帝国)
1852年 12月2日 人民投票で第二帝政成立(-1870)
1854年 3月 クリミア戦争。英仏、ロシアと対戦(-1856)
1859年 4月 イタリア統一戦争(-1860)(リソルジメント)
1860年 1月 英仏自由通商条約
1860年 3月 ニース、サヴォア併合
1861年 12月 メキシコ遠征(-1867)
1870年 5月 人民投票で議会主義帝制成立
1870年 7月19日 プロイセン・フランス戦争開始(-1871)
1870-1871年 国防政府(パリ・コミューン)
1870年 9月4日 パリで共和制革命、国防政府樹立(-1871)
1871年 1月28日 休戦成立
1871-1940年  第三共和政(フランス共和国) 
1871年 2月8日 普選によりボルドーに国民議会成立。チエール、行政長官となる
1871年 2月26日 仮講和条約によりアルザス・ロレーヌを割譲(5月成立)
1871年 3月18日 パリ・コミューン革命(-5月28日)
1871年 8月31日 チエール、大統領に指名、第三共和政開始(-1940)
1875年 1月-7月 ワロン法などにより、第三共和政憲法成立
1879年 共和派上・下両院を制し、王党派大統領マクマオン辞任、
  共和派グレビ、大統領となる(1月30日) 
1881年 選挙でオポルチュニスト(日和見派)政権掌握(-1899)
1887年 ブーランジェ将軍に結集する反議会運動始まる
1889年 1月27日 ブーランジェ、セーヌ県選挙で大勝。ブーランジスムの運動、頂点から没落へ
1894年 1月 ロシア・フランス同盟成立
1894年 10月15日 ドレフュス大尉、スパイ容疑で逮捕、流刑。ドレフュス事件始まる(-1899)
1898年 9月 アフリカで英仏の衝突(ファショダ事件)
1899年 2月18日 ルーベ、大統領となる
1899年 6月22日 ワルデック・ルソー、共和制防衛内閣
1899年 9月19日 ドレフュス特赦
1904年 4月8日 イギリス・フランス協商成立
1905年 3月 第一次モロッコ事件(タンジール事件)
1905年 12月 政教分離法
1907年 8月 英仏露三国協商成立
1911年 7月1日 第二次モロッコ事件(アガディール事件)
1914年 7月31日 ジョレス暗殺
1914年 8月3日 独仏開戦、第一次世界大戦勃発(-1918)
1917年 11月15日 クレマンソー政権、反戦運動を弾圧
1918年 11月11日 ドイツ降服、休戦条約締結。第一次世界大戦終わる
1919年 1月 パリ講和会議
1919年 6月28日 ベルサイユ条約、アルザス・ロレーヌ復帰(アルザス・ロレーヌ問題)
1919年 11月16日 選挙で共和右派圧勝
1923年 1月11日 フランス・ベルギー軍のルール占領(-1925)(ドイツ賠償問題)
1924年 5月 選挙で左翼連合勝利、エリオ内閣成立
1925年 10月16日 ロカルノ条約など、ブリアン平和外交展開
1926年 7月 左翼政権没落、共和右派ポアンカレ政権
1928年 8月27日 ケロッグ・ブリアン条約
1931年 世界恐慌フランスに波及、農業危機深刻化
1934年 2月6日 パリで右翼大暴動
1934年 2月12日 労働者、反ファシズムの大ゼネスト
1934年 7月27日 社共統一行動協定成立
1935年 5月2日 仏ソ相互援助条約
1935年 6月 急進社会党、社会党、共産党による人民連合(人民戦線)成立
1936年 5月 選挙で人民戦線派勝利。レオン・ブルム内閣成立
1938年 4月 第二次ブルム内閣辞職(人民戦線の事実上の崩壊)、ダラディエ政権成立(-1940)
1938年 9月 ミュンヘン会談
1939年  9月1日 ドイツ軍、ポーランド侵攻
1939年 9月2日 英仏、対独宣戦。第二次世界大戦始まる(-1945)
1940年 5月 ドイツ軍の電撃戦で英仏軍大敗
1940年  6月14日 パリ陥落、ドイツ軍に占領される
1940年 6月18日 ドゴール、ロンドンから抗戦呼びかけ
1940年 6月22日 独仏休戦条約
1940年 7月2日 ペタン政府、ビシーに移転
1940-1944年  ヴィシー政権(フランス国)  
1940年 7月10-11日 第三共和政廃止、ペタン(国家首席)独裁制成立
1942年 11月 連合軍北アフリカに上陸。ドイツ、全フランス占領
1943年 5月 全国抵抗評議会(CNR)成立
1943年 6月 ドゴール、アルジェで国民解放委員会を設立
1944年 6月6日 連合軍、ノルマンディー上陸作戦実施
1944年 8月19-25日 パリ解放
1944-1946年  ドゴール臨時政府(フランス共和国臨時政府)  
1944年 9月 ドゴール臨時政府成立
1945年 5月 フランスのドイツ軍降服
1945年 11月 レジスタンス3党連合によるドゴール政権成立
1946年 1月20日 ドゴール辞任
1946-1958年  第四共和政(フランス共和国)   
1946年 10月13日 国民投票で第四共和政憲法成立(-1958)、
  11月選挙で共産党第一党、ブルム内閣成立(-1947) 
1947年 5月 米ソ冷戦下、共産党閣僚をラマディエ政権から排除、
  中道(第三勢力)政治時代へ(-1958) 
1954年 4月 ジュネーブ会議(軍縮会議)
1954年 5月7日 ベトナムのディエン・ビエン・フーでフランス軍降服
1954年 6月20日 マンデス・フランス政権成立
1954年 7月21日 ジュネーブ協定でベトナム戦争終わる
1954年 11月 アルジェリア戦争開始(-1962)
1956年 3月 モロッコ、チュニジア独立
1956年 11月5日 英仏軍、エジプト出兵。12月22日撤兵(スエズ戦争)
1958年 1月1日 EEC(ヨーロッパ経済共同体)発足
1958年 5月13日 アルジェでコロン(植民者)と軍の反乱(アルジェリア民族解放戦線)
1958年 5月24日 反乱軍コルシカ占領
1958年 5月28日 フリムラン内閣辞職
1958年 6月1日 ドゴール政権成立
1958年-  第五共和政(フランス共和国)   
1958年 9月28日 第五共和政憲法を国民投票で可決
1958年 12月21日 ドゴール、大統領に当選
1960年 2月13日 サハラで第1回核実験
1962年 3月 エビアン協定でアルジェリア戦争終わる。アルジェリア独立達成
1964年 1月27日 中国承認
1966年 3月7日 北大西洋条約機構(NATO)脱退を通告
1968年 5月 「5月危機」(「5月革命」)始まる。全土の労働者ゼネストに拡大(6月上旬まで)
1968年 6月 選挙でドゴール派圧勝
1969年 4月28日 上院改革などの国民投票でドゴール敗れ、引退
1969年 6月15日 大統領選挙でポンピドー当選
1974年 5月19日 大統領選挙で、独立共和派のジスカール・デスタン、ミッテランに辛勝
1981年 5月10日 大統領選挙でミッテラン勝利
1981年 6月21日 議会選挙で社会党進出し左翼勝利。左翼連立政権発足
1982年 2月 9大企業、39銀行の国有化法成立
1982年 3月 旧知事制の廃止を含む地方分権の推進
1984年 6月 欧州議会選挙、極右「国民戦線」進出
1986年 3月 国民議会選挙、保守勝利、シラク内閣成立
1993年 1月 EC統一市場発足
1995年 5月7日 シラク、大統領に当選、ドゴール派ジュペ首相となる
1995年 9月 核実験再開(ムルロア環礁)
1996年 1月27日 ファンガタウファ環礁で地下核実験
1996年 3月 南太平洋非核地帯条約(ラロトンガ条約)に調印
1997年 6月4日 総選挙で社会党が勝利、ジョスパン内閣成立
1998年 3月 地方選挙で左翼勝利、しかし国民戦線の支持率も記録的増大
2000年 7月25日 パリ発ニューヨーク行きのコンコルドが
  シャルル・ドゴール空港出発直後、墜落(113人死亡) 
2002年 1月1日 ユーロ流通
2002年 5月5日 シラク、大統領再選(16日就任式)。ラファラン内閣発足(5月7日)
2003年 3月2日 シラク、元首としてアルジェリアを訪問。
  1962年にアルジェリアがフランスから独立後初
2004年 3月3日 宗教的シンボル(イスラム教のスカーフやベールなど)
  の着用を公立学校で禁止する「宗教色排除法」が成立 
2005年 5月29日 ヨーロッパ連合(EU)の憲法批准を問う国民投票で否決。
  これを受けラファランは事実上更迭、ドビルパン内閣発足(6月2日) 
2005年 10月 パリ郊外で発生した移民系の若者による暴動がフランス全土に広がる。
  政府が非常事態宣言(11月8日) 
2007年 3月11日 シラク大統領、5月の大統領選挙不出馬を正式表明
2007年 5月6日 フランス大統領選挙決選投票が行われ、
  その結果、国民運動連合(UMP)のニコラ・サルコジが当選。5月16日、就任  






バスチーユ牢獄 (Bastille)


バスチーユ牢獄は、1370年、シャルル5世の時代に建てられた要塞。

城壁の周囲は堀で囲まれ、その堅固な造りが牢獄に適していました。
ヴォルテールなど王政を批判した学者や政治犯などが収容されていました。

しかし牢獄内は想像と異なり、食事も豊富で快適な環境だったようです。
囚人は自分の愛用の家具や専属の料理人を雇うことも可能でした。

服装も自由で、好きなデザインをオーダーすることができました。
意外にも過ごしやすい場所だったようですね。

現在、バスチーユ牢獄の跡地は広場(Place de la Bastille)になっており、
周辺にはカフェやバーが立ち並び、パリ市民の憩いの場所となっています。






ルーブル美術館 (Louvre Museum)


世界で最も有名な「美の殿堂」といわれています。

古代オリエントから18世紀までの彫刻、絵画、工芸品など、コレクションの数は30万点以上。

美術館の入口は、ガラスのピラミッドの下にあるナポレオンホール。

ピラミッドの入口は、いつも長蛇の列ですが、隣接する地下名店街「カルーゼル・デュ・ルーヴル」
(Carrousel du Louvre)からも入場できます。
       

 

主な展示作品

  モナリザ(ダ・ビンチ) 美術館の一番人気。何度も盗難にあっているため、作品は防弾ガラスのケースに収められている。 ミロのビーナス(作者不詳)、キプロス島出身の女神。気の強い性格の女神で、BC1200年のトロイ戦争では、トロイ軍の参謀を務めていた。
 
民衆を導く自由の女神(ドラクロア)
世界中のどの神話を調べても、こんな女神は登場しないのだが、この作品でいちやく有名になった。
サモトラケのニケ(作者不詳)ギリシア神話の勝利の女神。ローマ神話ではヴィクトリア。サッカーのFIFAワールドカップのトロフィの図柄で使われていた。






カンヌ国際映画祭(Festival de Cannes)

5月の陽光の下、世紀の大スターが一堂に集まるカンヌ国際映画祭。
この期間、早朝から深夜まで、街中が華やかなパーティ会場と化す。

映画祭の象徴となるのが、メイン会場の正面に敷かれるレッドカーペット。
美しいドレスを着飾った各国のスターやセレブが次々と登場するカーペットには、
何百台ものカメラが並び、フラッシュが降り注ぐ。

そこは地球上で最も人々の視線が集まる場所の一つとなっている。

(カンヌ国際映画祭とは)ベネチア・ベルリンとともに世界三大映画祭のひとつ。
第1回は1946年に開催された。審査委員長には著名な映画監督や俳優が担当している。
最高賞パルムドールのほか、監督賞や男優・女優賞などがある。

映画芸術の発展のために設立された映画祭であるが、同時に各国のスターや映画人の
集いの場であり、文化交流の場であることも目ざしている。

(カンヌへアクセス)ニースのコートダジュール国際空港から地中海沿いに車で40分。





カンヌは温暖な気候と美しい海岸沿いの風景が人気で、ニースと並ぶ南仏のリゾート地
として大変人気のある場所。

海岸沿いのラ・クロワゼット通り(Bd. de la Croisette)はカンヌの目抜き通り。
高級ホテルやブランドショップが立ち並び、ヤシや四季折々の花が通りを飾っている。


カンヌのビーチは、ニースの石浜と違い砂浜の海岸。市内48か所あるビーチのうち、
33か所は入場料の必要なプライベートビーチとなっている。

公共のビーチで気軽に遊泳を楽しむこともできるが、カラフルなパラソルの下で
優雅なリゾート気分を味わうのも、カンヌの醍醐味のひとつだ。