国名 フランス共和国
英語 French Republic
首都 パリ
独立年 -
主要言語 仏語
面積 (千Km2) 544
人口 (百万人) 65.8
通貨単位 ユーロ
宗教 カトリック、イスラム教、プロテスタント、ユダヤ教
主要産業 化学、機械、食品、繊維、航空、原子力等。農業は西欧最大の規模。
工業においては宇宙・航空産業、原子力産業などの先端産業が発達。
地理 
南西部はピレネー山脈を挟んでスペインと接し、東部はアルプス山脈でイタリア、
ジュラ山脈でスイス、ライン川を隔ててドイツと接し、北東部はフランドル平野および
アルデンヌ高地でベルギー、ルクセンブルクと接する。

ピレネー、アルプス、ジュラの諸山脈はアルプス造山運動によるもので、高峻な山系を形成、
交通の障害をなす一方、観光・保養地も提供している。
峠がほとんど無いピレネー山脈は、フランスとスペインとの交易を困難なものにした。

フランス全土の最高峰はイタリア国境に位置するモンブラン (4,810m)。
主な河川は北から反時計回りに、セーヌ川 (776km)、ロワール川 (1012km)、
ガロンヌ川 (647km)、ローヌ川 (812km)。

気候は大部分が西岸海洋性気候の地域で、比較的温暖で降水も一年を通じている。
しかし、地中海岸は夏季高温で雨の少ない地中海性気候を示し、コートダジュール
は世界的な観光地となっている。

フランスは、高度に発展した資本主義国のうちでは農業の占める比重が高く、
経営面積5~35haをもつ独立経営の「小農民の国」として知られる。
農業では伝統的にコムギとブドウづくりが中心であり、コムギは輸出能力があり、
ワインは食生活に欠くことのできないものとなっている。

工業は長い間、織物が中心で重工業化は遅れたが、ロレーヌの豊富な鉄鉱資源を
生かして発展した。
第2次世界大戦後は経済の民主化や産業の国有化の計画が進められ、
電力、ガス、銀行、鉄道、航空などの国有化に加え、自動車、航空機、アルミニウム
工業の3分の1から3分の2が国有化されるなど、国営企業と私企業の「混合経済」に
よって発展してきたが、1980年代半ばから徐々に民営化が進んだ。 









歴史
BC.5世紀 ケルト人がガリアに定着
BC58-51年 シーザーのガリア征服。ローマによるガリア支配はじまる
375年 このころからゲルマン系諸部族の民族大移動始まる
395年 ローマ帝国が東西に分裂
476年 西ローマ帝国滅亡
481-751年 メロヴィング朝
481年 クロービス1世、メロヴィング朝フランク王国を創始
732年 カール・マルテル、トゥール・ポアティエの戦いでイスラム教徒(ウマイヤ朝)を撃退
751-987年 カロリング朝
751年 小ピピン(-768)、カロリング朝を創始
768年 カール大帝即位(-814)
843年 ヴェルダン条約。フランク王国三分される
911年 ノルマン人、ノルマンディーに定着。ノルマンディー公国が成立
987-1328年 カペー朝
987年 ユーグ・カペー即位(-996)、カペー朝開始(-1328) (フランス王国成立)
1066年 ノルマンディー公ウィリアム、イングランド征服
1096-1099年 第1回十字軍
1154年 アンジュー家アンリ・プランタジュネ(ヘンリー2世)、
  イングランド王位につく(プランタジネット朝、-1399) 
1209-1229年 アルビジョワ十字軍
1226年 ルイ9世即位(-1270)
1248-1270年 ルイ9世、末期十字軍を主導
1302年 フィリップ4世、最初の全国三部会を開く
1301年 アナーニ事件
1328-1589年 ヴァロワ朝
1328年 フィリップ6世即位(-1350)、ヴァロア朝開始(-1589)
1337年 英仏百年戦争始まる(-1453)
1358年 エチエンヌ・マルセルの乱(パリ)、ジャクリーの乱(北フランス)
1429年 ジャンヌ・ダルク、オルレアンを解放。シャルル7世、ランスで戴冠
1477年 ブルゴーニュ公国、フランス王領となる
1494年 シャルル8世、ナポリ王国へ遠征
1516年 ローマ教皇と政教和約(コンコルダート)。フランス教会の独立開始(ガリカニズム)
1521年 フランソア1世、イタリア戦争を開始(-1544)
1532年 ブルターニュ公国、フランスに併合
1560年 シャルル9世即位(-1574)。王母カトリーヌ・ド・メディシス摂政となる
1562年 宗教戦争(ユグノー戦争)開始(-1598)
1572年 サン・バルテルミの虐殺
1589-1792年 ブルボン朝
1589年 アンリ3世暗殺。アンリ・ド・ナバラ、アンリ4世として即位(-1610)、ブルボン朝を創始(-1792、1814-1830)
1598年 ナントの勅令により宗教戦争終わる
1610年 ルイ13世即位(-1643)。マリ・ド・メディシス摂政となる
1614年 全国三部会開く(1789年まで無開催)
1624年 リシュリュー、宰相となる(-1643)
1635年 フランス、三十年戦争に介入(フランス・スウェーデン戦争)
1643年 ルイ14世即位(-1715)。マザラン、宰相となる
1648年 フロンドの乱開始(-1653)。ウェストファリア条約締結、三十年戦争終わる
1665年 コルベール、財政総監となる(-1683)
1667年 南ネーデルランド継承戦争(-1668)
1672年 オランダ侵略戦争開始(-1678)
1685年 ナントの勅令廃止
1688年 ファルツ継承戦争(-1697)
1701年 スペイン継承戦争始まる(-1714)
1715年 ルイ15世即位(-1774)。オルレアン公フィリップ摂政となる
1740年 オーストリア継承戦争に介入(-1748)
1756年 七年戦争始まる(-1763)
1774年 ルイ16世即位(-1792)。チュルゴー、財政総監となる
1778年 アメリカ独立戦争(アメリカ独立革命)に介入(-1783)。財政危機深まる
1787年 名士会招集。高等法院貴族の反抗強まる
1789年 フランス革命始まる(-1799)
1789年 5月5日 三部会招集
1789年 6月17日 第三身分、国民議会を宣言
1789年 7月14日 バスチーユ攻略。地方で農民暴動
1789年 8月4日 封建制度廃止宣言
1789年 8月26日 人権宣言
1789年 11月2日 教会財産の国有化
1790年 1月 行政区画を変革。州を廃止し、83県を設ける
1791年 6月20日 国王一家、バレンヌ逃亡事件
1791年 9月14日 フイヤン憲法
1791年 10月1日 立法議会成立
1792年 4月20日 ジロンド派政権、オーストリアに宣戦(革命戦争)
1792-1804年 第一共和政(フランス共和国成立)  
1792年 8月10日 パリ民衆蜂起(八月十日事件)、コミューン(自治市会)成立
1792年 9月21日 普選による国民公会成立(-1795)、共和制宣言
1793年 1月21日 ルイ16世処刑
1793年 2月 第一次対仏大同盟成立
1793年 3月 バンデーの反乱始まる(-1795)
1793年 4月6日 公安委員会設置
1793年 6月 恐怖政治開始(-1794)
1793年 7月17日 領主地代の無償廃止
1794年 7月27日 テルミドールの反動、ロベスピエール逮捕
1795年 9-10月 「1795年憲法」により総裁政府成立(-1799)
1798年 5月19日 ナポレオン1世、エジプト遠征
1799年 3月 第二次対仏大同盟
1799年 11月9日 ブリュメール一八日のクーデター。統領政府(執政政府)成立
1804-1814年 第一帝政(フランス帝国)
1804年 3月 ナポレオン法典成立
1804年 5月10日 ナポレオン、皇帝となる(第一帝政 -1814) 
1806年 11月21日 ナポレオンの大陸封鎖令
1812年 6-10月 ナポレオン、モスクワ遠征
1814年 4月 ナポレオン退位、エルバ島に流される
1814-1830年 王政復古(フランス王国) 
1814年  5月 ルイ18世即位(-1824) 
1815年 第一帝政再興(百日天下)
1815年 3月20日-6月29日 ナポレオンの百日天下
1815年 6月18日 ワーテルローの戦い
1824年 シャルル10世即位(-1830)
1830-1848年 七月王政(フランス王国)
1830年 7月27-29日 パリ民衆蜂起、七月革命。
  オルレアン朝ルイ・フィリップ即位(-1848) 
1848-1852年 第二共和政(フランス共和国)
1848年 2月22-24日 2月革命起こる。共和政臨時政府成立
1848年 6月22-26日 パリ民衆暴動(6月事件)
1848年 12月10日 ナポレオン3世、大統領選挙で圧勝
1851年 12月2日 ナポレオン3世のクーデター
1852年 1月 新憲法布告
1852-1870年 第二帝政(フランス帝国)
1852年 12月2日 人民投票で第二帝政成立(-1870)
1854年 3月 クリミア戦争。英仏、ロシアと対戦(-1856)
1859年 4月 イタリア統一戦争(-1860)(リソルジメント)
1860年 1月 英仏自由通商条約
1860年 3月 ニース、サヴォア併合
1861年 12月 メキシコ遠征(-1867)
1870年 5月 人民投票で議会主義帝制成立
1870年 7月19日 プロイセン・フランス戦争開始(-1871)
1870-1871年 国防政府(パリ・コミューン)
1870年 9月4日 パリで共和制革命、国防政府樹立(-1871)
1871年 1月28日 休戦成立
1871-1940年  第三共和政(フランス共和国) 
1871年 2月8日 普選によりボルドーに国民議会成立。チエール、行政長官となる
1871年 2月26日 仮講和条約によりアルザス・ロレーヌを割譲(5月成立)
1871年 3月18日 パリ・コミューン革命(-5月28日)
1871年 8月31日 チエール、大統領に指名、第三共和政開始(-1940)
1875年 1月-7月 ワロン法などにより、第三共和政憲法成立
1879年 共和派上・下両院を制し、王党派大統領マクマオン辞任、
  共和派グレビ、大統領となる(1月30日) 
1881年 選挙でオポルチュニスト(日和見派)政権掌握(-1899)
1887年 ブーランジェ将軍に結集する反議会運動始まる
1889年 1月27日 ブーランジェ、セーヌ県選挙で大勝。ブーランジスムの運動、頂点から没落へ
1894年 1月 ロシア・フランス同盟成立
1894年 10月15日 ドレフュス大尉、スパイ容疑で逮捕、流刑。ドレフュス事件始まる(-1899)
1898年 9月 アフリカで英仏の衝突(ファショダ事件)
1899年 2月18日 ルーベ、大統領となる
1899年 6月22日 ワルデック・ルソー、共和制防衛内閣
1899年 9月19日 ドレフュス特赦
1904年 4月8日 イギリス・フランス協商成立
1905年 3月 第一次モロッコ事件(タンジール事件)
1905年 12月 政教分離法
1907年 8月 英仏露三国協商成立
1911年 7月1日 第二次モロッコ事件(アガディール事件)
1914年 7月31日 ジョレス暗殺
1914年 8月3日 独仏開戦、第一次世界大戦勃発(-1918)
1917年 11月15日 クレマンソー政権、反戦運動を弾圧
1918年 11月11日 ドイツ降服、休戦条約締結。第一次世界大戦終わる
1919年 1月 パリ講和会議
1919年 6月28日 ベルサイユ条約、アルザス・ロレーヌ復帰(アルザス・ロレーヌ問題)
1919年 11月16日 選挙で共和右派圧勝
1923年 1月11日 フランス・ベルギー軍のルール占領(-1925)(ドイツ賠償問題)
1924年 5月 選挙で左翼連合勝利、エリオ内閣成立
1925年 10月16日 ロカルノ条約など、ブリアン平和外交展開
1926年 7月 左翼政権没落、共和右派ポアンカレ政権
1928年 8月27日 ケロッグ・ブリアン条約
1931年 世界恐慌フランスに波及、農業危機深刻化
1934年 2月6日 パリで右翼大暴動
1934年 2月12日 労働者、反ファシズムの大ゼネスト
1934年 7月27日 社共統一行動協定成立
1935年 5月2日 仏ソ相互援助条約
1935年 6月 急進社会党、社会党、共産党による人民連合(人民戦線)成立
1936年 5月 選挙で人民戦線派勝利。レオン・ブルム内閣成立
1938年 4月 第二次ブルム内閣辞職(人民戦線の事実上の崩壊)、ダラディエ政権成立(-1940)
1938年 9月 ミュンヘン会談
1939年 9月2日 英仏、対独宣戦。第二次世界大戦始まる(-1945)
1940年 5月 ドイツ軍の電撃戦で英仏軍大敗
1940年 6月18日 ドゴール、ロンドンから抗戦呼びかけ
1940年 6月22日 独仏休戦条約
1940年 7月2日 ペタン政府、ビシーに移転
1840-1944年  ヴィシー政権(フランス国)  
1940年 7月10-11日 第三共和政廃止、ペタン(国家首席)独裁制成立
1942年 11月 連合軍北アフリカに上陸。ドイツ、全フランス占領
1943年 5月 全国抵抗評議会(CNR)成立
1943年 6月 ドゴール、アルジェで国民解放委員会を設立
1944年 6月6日 連合軍、ノルマンディー上陸作戦実施
1944年 8月19-25日 パリ解放
1944-1946年  ドゴール臨時政府(フランス共和国臨時政府)  
1944年 9月 ドゴール臨時政府成立
1945年 5月 フランスのドイツ軍降服
1945年 11月 レジスタンス3党連合によるドゴール政権成立
1946年 1月20日 ドゴール辞任
1946-1958年  第四共和政(フランス共和国)   
1946年 10月13日 国民投票で第四共和政憲法成立(-1958)、
  11月選挙で共産党第一党、ブルム内閣成立(-1947) 
1947年 5月 米ソ冷戦下、共産党閣僚をラマディエ政権から排除、
  中道(第三勢力)政治時代へ(-1958) 
1954年 4月 ジュネーブ会議(軍縮会議)
1954年 5月7日 ベトナムのディエン・ビエン・フーでフランス軍降服
1954年 6月20日 マンデス・フランス政権成立
1954年 7月21日 ジュネーブ協定でベトナム戦争終わる
1954年 11月 アルジェリア戦争開始(-1962)
1956年 3月 モロッコ、チュニジア独立
1956年 11月5日 英仏軍、エジプト出兵。12月22日撤兵(スエズ戦争)
1958年 1月1日 EEC(ヨーロッパ経済共同体)発足
1958年 5月13日 アルジェでコロン(植民者)と軍の反乱(アルジェリア民族解放戦線)
1958年 5月24日 反乱軍コルシカ占領
1958年 5月28日 フリムラン内閣辞職
1958年 6月1日 ドゴール政権成立
1958年-  第五共和政(フランス共和国)   
1958年 9月28日 第五共和政憲法を国民投票で可決
1958年 12月21日 ドゴール、大統領に当選
1960年 2月13日 サハラで第1回核実験
1962年 3月 エビアン協定でアルジェリア戦争終わる。アルジェリア独立達成
1964年 1月27日 中国承認
1966年 3月7日 北大西洋条約機構(NATO)脱退を通告
1968年 5月 「5月危機」(「5月革命」)始まる。全土の労働者ゼネストに拡大(6月上旬まで)
1968年 6月 選挙でドゴール派圧勝
1969年 4月28日 上院改革などの国民投票でドゴール敗れ、引退
1969年 6月15日 大統領選挙でポンピドー当選
1974年 5月19日 大統領選挙で、独立共和派のジスカール・デスタン、ミッテランに辛勝
1981年 5月10日 大統領選挙でミッテラン勝利
1981年 6月21日 議会選挙で社会党進出し左翼勝利。左翼連立政権発足
1982年 2月 9大企業、39銀行の国有化法成立
1982年 3月 旧知事制の廃止を含む地方分権の推進
1984年 6月 欧州議会選挙、極右「国民戦線」進出
1986年 3月 国民議会選挙、保守勝利、シラク内閣成立
1993年 1月 EC統一市場発足
1995年 5月7日 シラク、大統領に当選、ドゴール派ジュペ首相となる
1995年 9月 核実験再開(ムルロア環礁)
1996年 1月27日 ファンガタウファ環礁で地下核実験
1996年 3月 南太平洋非核地帯条約(ラロトンガ条約)に調印
1997年 6月4日 総選挙で社会党が勝利、ジョスパン内閣成立
1998年 3月 地方選挙で左翼勝利、しかし国民戦線の支持率も記録的増大
2000年 7月25日 パリ発ニューヨーク行きのコンコルドが
  シャルル・ドゴール空港出発直後、墜落(113人死亡) 
2002年 1月1日 ユーロ流通
2002年 5月5日 シラク、大統領再選(16日就任式)。ラファラン内閣発足(5月7日)
2003年 3月2日 シラク、元首としてアルジェリアを訪問。
  1962年にアルジェリアがフランスから独立後初
2004年 3月3日 宗教的シンボル(イスラム教のスカーフやベールなど)
  の着用を公立学校で禁止する「宗教色排除法」が成立 
2005年 5月29日 ヨーロッパ連合(EU)の憲法批准を問う国民投票で否決。
  これを受けラファランは事実上更迭、ドビルパン内閣発足(6月2日) 
2005年 10月 パリ郊外で発生した移民系の若者による暴動がフランス全土に広がる。
  政府が非常事態宣言(11月8日) 
2007年 3月11日 シラク大統領、5月の大統領選挙不出馬を正式表明
2007年 5月6日 フランス大統領選挙決選投票が行われ、
  その結果、国民運動連合(UMP)のニコラ・サルコジが当選。5月16日、就任  


カルーゼル凱旋門(Arc de Triomphe du Carrousel)
ナポレオンの戦勝を祝い、ローマのコンスタンティヌスの凱旋門をモデルに、1806年から1808年にかけて建設された。
高さ19メートル、幅23メートル、外回りには花崗岩でできた8本のコリント式円柱がある。

ルーヴル美術館の敷地内、カルーゼル広場にある。
この凱旋門のアーチの中から、チュルリー公園、コンコルド広場、シャンゼリゼ大通り、エトワール凱旋門を一望に見ることができる。



BC7世紀からBC5世紀にかけて、この地にケルト人が移住し、ローマ人は、この地域をガリアと呼んだ。

ガリアは、その後ローマの属州となったが、5世紀後半にサリ族(Salian Franks)の族長クロービスが全フランクを統一し、481年にメロヴィング朝を建てフランク王国が始まる。

このフランク王国をはじめとするゲルマン諸国家で忘れてはいけないのが、ローマ系住民との関係である。
ゲルマン国家は、少数のゲルマン人に対して、多数のローマ(ラテン)系住民を抱える国家であった。

ローマ系住民は、ローマで正統とされたアタナシウス派を信奉していた。
これに対してゲルマン人は、アリウス派などの異端や異教を信奉していた。
そのため民族に加えて、宗教的にも対立が生じていた。


その中でフランク王国のクロービスは496年に、ランスの教会でアタナシウス派に改宗して、国内のローマ系住民と同じ宗教となった。
そのためローマ系住民との関係は改善され、ローマ教会との連携も強まった。

フランク王国は、534年にはフランス東南部に建国したブルグンド王国を滅ぼし、着実にその領土を広げていった。
(このブルクンド王国を建国したブルグンド人は、ワインで有名なフランス東部のブルコーニュ地方にその名前を残している)




大陸のゲルマン国家宮宰(きゅうさい 王の補佐役)となったカロリング家のカール・マルテルは、732年にはイベリア半島から進出してきたイスラム勢力のウマイヤ朝をトゥール・ポワティエの戦いで破っている。

カール・マルテルの子であるピピン(ピピン3世)は、751年に力ロリング朝を開いて、王位を承認してくれた法王の要請で北イタリアのロンバルド王国を討伐し、イタリア北東部のラヴェンナ地方を756年に寄進した。
(ピピンの寄進)

ピピンの子カールは、774年にロンバルド王国を滅ぼし、北のザクセン人を力トリックに改宗させ、東ではモンゴル系アヴァール人に打撃を与えた。
さらに西ではイべリア半島の後ウマイヤ朝と戦い、現在のフランス・ドイツのほとんどを支配した。

800年には法王レオ3世によって、サン・ピエトロ大聖堂でカールの戴冠が行われ、西ローマ帝国の復活が宣言された。カールはカール大帝として、西ローマ帝国を受け継く支配者となった。

しかし、フランク王国はカールの子ルートヴィヒ1世の死後、843年のヴェルダン条約と870年のメルセン条約によって三分され、西フランク王国が現在のフランスになる。

王権は当初から弱体で北方ゲルマン人のノルマン人の攻撃に対処できずに、911年には西フランク王シャルル3世がノルマン人の首長ロロに、セーヌ川下流域を与えてノルマンディー公国が成立している。







987年、カロリング朝のルイ5世が、後継ぎのないまま没すると、カロリング家は断絶し、パリ伯のユーグ・力ペーが国王に選ばれ、力ペ一朝が成立する。
フランス王国のスタートとなるカペー朝。しかし、王権はパリ周辺などの狭い地域のみできわめて弱かった。

その当初の王権は弱かったが、カペー朝第7代フィリップ2世は、ジョン王と争って、イングランド領を奪った。
カペー朝第9代ルイ9世は、アルビジョワ十字軍を成功させ、フランス南部に王権を拡大させている。

(アルビジョア十字軍(Albigensian Crusade 1209-1229年)
南フランスで盛んだった異端アルビジョア派を征伐するために、ローマ教皇インノケンティウス3世が呼びかけた十字軍。
指揮官シモン・ド・モンフォールのもと、北フランスの諸侯の多くが参加し激しい攻撃が行われた。
これによってフランス国内の異端は殲滅され、南フランスまでフランス王権が拡大された)

さらに、国内の聖職者への課税をめぐって法王ポニファティウス8世と対立した第11代フィリップ4世は、1302年のフランス初の身分制議会である三部会を開催し、国内の支持を得て1303年のアナーニ事件で法王を憤死させた。

(アナーニ事件(Anagni)
1303年、フランス国王フィリップ4世が、ローマ法王ボニファティウス8世をイタリアの山間都市アナーニで拉致し、退位を迫った事件。
ボニファティウス8世は頑固に拒否を続けるうち、ローマからの援軍に救出された。しかし1ヶ月後に急死した)

しかもフィリップ4世は、次にフランス人法王のクレメンス5世を擁立させたうえに、1309年に法王庁をローマからアヴィニョンに移転させている。
以後、1377年までの約70年間、「法王のバビロン捕囚」と呼ばれる状態を生じさせている。
しかしフィリップ4世の死後、3人の息子があいついで急逝し、カベ一朝は断絶してしまう。





1328年、フィリップ6世が即位してヴァロワ朝が始まると、イギリスのエドワード3世が王位継承権を主張して百年戦争が始まった。

フランスは1346年のクレシーの戦いや1356年のポワティエの戦いでも敗北し、国内では、1358年にギヨーム・カールを指導者とするジャックリーの乱といった農民反乱が起こっている。
(この百年戦争中の1378-1417年の問に、ローマとフランスのアヴィニョンにローマ法王が並び立つ教会大分裂(シスマ)も起こっている)

ヴァロワ朝第5代シャルル7世のときには崩壊寸前の危機にあったフランスでジャンヌ・ダルクが現れると、彼女はオルレアンの包囲を破ってイングランド軍を大敗させて、フランスは一気に勝利に向かい、1453年にカレーを除く大陸におけるイングランドの領土を一掃することに成功している。

百年戦争後、事実上のフランス統一を成しとげた第7代シャルル8世は、1494年にイタリア戦争を開始し、イタリアへとその領土を広げようとした。
この戦争は失敗に終わったものの、次の第8代ルイ12世、さらに次の第9代フランソワ1世もこの戦争を引き継ぐこととなった。

(イタリア戦争(The Italian War 1494-1559年)
スペイン・ハプスブルク家とフランス・ヴァロワ家がイタリアを巡って繰り広げた戦争。
1559年、カトー・カンブレジ講和条約で、フランスはイタリアへの権利を放棄し、ミラノ、ナポリ、シチリア、サルデーニャ、トスカーナ西南岸がハプスブルク家の統治下に定まった。
代わりにフランスはロレーヌを譲受した)




ハブスブルク家のスペイン国王、カルロス1世が、1519年、神聖ローマ皇帝カール5世として即位すると、フランスはハブスプルク家によって東西をはさまれる形になってしまう。
そのため、フランソワ1世はキリスト教国でありながらイスラム教国のオスマン帝国のスルタン(君主)、スレイマン1世と協力関係を結んだ。

フランソワ1世はスレイマン1世からカピチュレーション(Capitulation)を与えられている。
これはフランス人に対する領事裁判権や租税の免除を与えるもので、当時は圧倒的に強かったオスマン帝国が、フランスへの恩恵として与えたものだった。

国外においてフランソワ1世は、新大陸の中南米をおさえたカール5世に対抗して、アメリゴ・ヴェスプッチを援助している。
そして、新大陸の北米を狙ってジャック・カルティエをカナダに送り出し、カルティエは、ヨーロッパ人として初めてセントローレンス湾とセントローレンス川岸に到達して、後のフランス領カナダ(ケベック州)の基礎を築いている。
フランソワ1世の死後に即位した第10代アンリ2世は、スペイン王フェリペ2世と1559年に力トー・カンプレジ条約(Peace of Cateau-Cambresis )を結んでイタリア戦争を終結させている。


アンリ2世が急死すると、息子のシャルル9世にかわって摂政となったメディチ家出身の母力トリーヌは、国内で力をもっていた旧教(力トリック)のギーズ家に対抗するために、新教(ユグノー)のブルボン家を優遇した。
これに不満をもったギーズ家の一団がユグノー教徒を殺害する事件が1562年に発生して、36年にわたるユグノー戦争が始まった。
そして1572年には、ユグノーをカトリックが襲撃して大量虐殺したサンバルテルミの虐殺のような悲劇も起こっている。

シャルル9世の弟のアンリ3世が即位するものの、暗殺されてヴァロワ朝は断絶した。


このため、唯一の王位継承権者となったブルボン家のアンリが、1589年にアンリ4世として即位して、ブルボン朝が始まった。
アンリ4世はフランスのほとんどが力トリックであることを念頭において、自らカトリックに改宗している。

その一方で1598年にはナントの勅令を出し、ユグノーの信仰の自由を確認した。
これは近代ヨーロッパで初めて信仰の自由を認めるもので、宗教上の和解が成立したことにより長かったユグノー戦争は終わりを迎えた。
ブルポン朝をはじめ、ナントの勅令によってユグノー戦争を終結させたアンリ4世は、財務長官にシュリを起用して1604年に東インド会社を設立している。

次のルイ13世は、宰相リシュリューらに助けられて絶対王政の基礎を確立している。
その一つが三部会招集停止で、1614年に招集した三部会を翌年に解散させ、その後は1789年のフランス革命の直前まで開かれることはなかった。
また1618年に始まったドイツの三十年戦争で、旧教国でありながら、新教国側に加担し勝利している。

次のルイ14世もマザランが実権をにぎり、この時代にフランスは三十年戦争に勝利して、1648年のウェストファリア条約でアルザスやロレーヌ地方を獲得している。
しかし王室の政策に対して、高等法院(フランスの最高司法機関)や貴族、民衆がブロンドの乱を起こし鎮圧された結果、抵抗勢力が一掃されている。
1661年にマザランが死ぬと、ルイ14世は親政を始め、財務長官にコルベールを採用し、重商主義政策をとって1664年の東インド会社の再建などを行っている。

また対外的には自然国境説を強調して、1667年に南ネーデルラント継承戦争を起こしている。
続いて、オランダ侵略戦争(1672年)やファルツ継承戦争(1688年)も引き起こしている。

(南ネーデルランド継承戦争(War of Devolution 1667-1668年)
フランスとスペイン間のネーデルラントの南部にあたるフランドル地方を巡る戦争。
現在のベルギー・ルクセンブルクに当たる南ネーデルラントは当時スペイン領であったが、1665年にスペイン王フェリペ4世の死後、ルイ14世は王妃マリー・テレーズがフェリペ4世の王女だったことから継承権を主張し、1667年5月に南ネーデルラントに侵攻した)

(オランダ侵略戦争(Franco-Dutch War 1672-1678年)
ネーデルラント継承戦争でフランス王ルイ14世はスペイン領ネーデルラントに侵攻したが、オランダがイングランド・スウェーデンと三国同盟を締結、フランスに圧力をかけたため領有に失敗した。
ルイ14世はこの時のオランダの行為を不快視し、オランダ侵略の意志を露わにした。
そのために三国同盟の切り崩しを図り、イングランドに接近した。

1670年にイングランド王チャールズ2世とルイ14世との間でドーヴァーの密約が成立。
1671年までに神聖ローマ帝国諸侯のほとんどと同盟・中立関係を結び、スウェーデンとも1672年に仏瑞同盟を締結してオランダを包囲した。
そして1672年3月にイングランドがオランダに宣戦布告して第三次英蘭戦争を始めるとフランスも4月に宣戦布告、係争中のオランダに侵攻した)

(ファルツ継承戦争(Nine Years' War 1688-1697年)
フランス王ルイ14世のファルツ領割譲の要求に端を発した国際戦争。
アルザス北部のファルツ伯家に男系が絶えると、ルイ 14世は弟オルレアン公の妃が同家の出であるのを理由に領土を要求、これを恐れた神聖ローマ皇帝、バイエルン、ザクセンなどのドイツ諸侯、スペイン、オランダ、スウェーデン諸王はアウクスブルク同盟を結んで反対し、名誉革命後のイギリスも参加、戦争はフランスのファルツ侵入で開始され、アメリカ植民地にも戦闘は拡大した)

これらの戦争による負担から王政への不満が高まる中、ルイ14世はカトリックを強化し、王権を強化しようとする。
そのために1685年にナントの勅令が廃止された。この結果、多くのユグノーが国外へ逃れた。

ユグノーの多くは技術やノウハウをもった職人や商人が多かったたために、フランス経済が大打撃を受けることになる。
隣国スペインで、1700年にカルロス2世が死んでスペイン・ハブスブルク家が断絶すると、ルイ14世は、妻がスペイン王女だったために孫のフィリップをフェリペ5世として、スペイン・ブルボン朝を成立させた。
これに対して起こった1701年のスペイン継承戦争は、1713年のユトレヒト条約によって終結し、スペインとフランスの合邦は永久に禁止するという条件で、フェリペ5世のスペイン王位が認められている。

(スペイン継承戦争(War of the Spanish Succession 1701-1714年)
スペイン王位の継承者を巡ってフランス、スペイン対イングランド、オーストリア、オランダ間で行われた戦争。
スペイン王カルロス2世が王位をルイ14世の孫、フィリップ(フェリペ5世)に遺して1700年に没すると、イングランドら3国は同盟を結び、フィリップの王位継承に反対した)

1715年にルイ14世の曾孫のルイ15世が即位した。
1740年にマリア・テレジアの即位に対してオーストリア継承戦争が起こると、フランスはオーストリアの敵となっている。

この戦争でプロイセンのフリードリヒ2世にシュレジェンを奪われたマリア・テレジアは、フランスと同盟を結び、七年戦争が1756年に起こっている。
(この外交革命によってマリア・テレジアの末娘、マリ・アントワネットが後のフランス国王ルイ16世のもとに嫁いでいる)

(七年戦争(Seven Years' War 1756-1763年)
プロイセンとオーストリアの対立を軸に、プロイセンはイギリスと、オーストリアはフランス、ロシアと結び、全ヨーロッパに広がった戦争。
プロイセンとオーストリア間ではシュレジェンの帰属を決定する戦争となった。
同時にイギリスとフランスの植民地における英仏植民地戦争(第2次英仏百年戦争)も並行して行われ、世界的な広がりを持つ戦争となった。
結果はプロイセンとイギリスの勝利となり、ヨーロッパでのプロイセンと地位を向上させ、イギリスの植民地帝国としての繁栄がもたらされた。
同時にこの戦争は絶対王政各国の財政を圧迫し、イギリスからのアメリカ独立戦争、フランスではフランス革命という市民革命が起こる契機となった)


この七年戦争でフランスは新大陸やインドの植民地を失い、多くの不満や国内の矛盾がフランス革命を引き起こすこととなる。

1774年にルイ16世が即位すると、重農主義経済学者のテュルゴーを登用して財政問題を解決しようとしたが失敗する。
1778年にはアメリカ独立戦争に参戦し、戦争には勝利したもののアフリカ西岸のセネガルを獲得しただけで、さらなる財政難におちいってしまう。

財政改革のため、蔵相となって財政再建に取り組んだネッケルやカロンヌは、免税特権をもっている第一・第二身分への課税を行おうとした。
しかし当然のように特権身分は改革を拒否し、新しい税に対して、より広い国民の意見を求めるべきだとして三部会の開催を要求した。

そうして三部会が1789年5月5日、175年ぶりに招集された。
ヴェルサイユ宮殿で行われたこの三部会において、第一、第二身分は伝統的な身分別議決法である一身分一票を主張したのに対して、課税を求める第三身分は個人別票決を主張した。

第三身分の議員たちは「第三身分とは何か」を著したシェイエスらの提案によって、三部会より分離して国民議会を結成した。
この国民議会の議員たちは球戯場に集まり、憲法の制定までは解散しないことを誓い合った。(テニスコートの誓い)

国王はしぶしぶこれを認め、国民議会は後に憲法制定議会と改称している。
国王は議会を弾圧するための軍隊をヴェルサイユに集結し始めた。
これに対してパリ市民は、1789年7月14日にパスティーユ牢獄を襲撃して武器弾薬の奪取に成功した。

またこの事件と前後して、農村では農民たちが各地で領主・貴族の館を襲ったために、多くの貴族たちが国外に亡命している。
この農民反乱の広がりに対して国民議会は、8月4日に農奴制や領主裁判権などを無償で廃止する封建的特権の廃止を宣言した。
8月26日には人権宣言(人間および市民の権利の宣言)が国民議会で採択された。

10月5日、食料が高騰したことから、女性たち数千人がパリからベルサイユに行進して宮殿に乱入し、国王一家をパリに連行してテュイルリー宮殿に押し込めた。
この事件によってパリに移った国民議会は教会財産を国有化し、アシニア紙幣を発行している。
さらにはギルドを廃止して経済の自由を確立している。

1791年6月に国王一家が王妃の実家であるオースリア逃亡を企てるバレンヌ逃亡事件が起こると、国王への信頼は急速に薄れて、国王を不要とする共和派が急速に台頭することになる。
1791年9月3日、国民議会はフランス最初の憲法となる1791年憲法を採択した。この憲法の規定で制限選挙が行われ、国民議会は解散して、10月に立法議会が招集された。
1792年3月、立法議会では立憲君主派のフィヤン派をおさえて、商工業者を中心とするブルジョワ共和派のジロンド派が政権についた。

そして、ジロンド派内闇は内外の反革命派を一掃するために、4月20日にオーストリアに宣戦布告を行った。
しかし、フランス軍は敗戦と後退が続き、この状況に対して全国各地から義勇軍がパリに集まった。
(ここでパリに集まったマルセイユ義勇軍が歌ったラ・マルセイエーズが1795年にフランス国歌になっている)

革命の高まりは偶発的に8月10日事件を生んだ。
これは共和派の中でも過激なジャコパン派(山岳派)が、サンキュロット(都市下層民)や義勇軍に呼びかけて王のいるテュイルリー宮殿を襲った事件で、彼らによって国王は捕らえられ、国王一家はタンプル塔に幽閉された。

そして立法議会は王権の停止を宣言して解散し、これ以降、革命は共和政へとむかっていく。
またこの頃、パリに迫ろうとしたオーストリア・プロイセン軍に対して、フランス軍が初めて勝利している。
(ヴァルミーの戦い)。

このヴァルミーの戦いの翌日、立法議会にかわり、男性普通選挙によって国民公会が成立した。
国民公会は王政の廃止と共和政の成立を宣言し(第一共和政)、1793年1月にはルイ16世の処刑を行っている。
国王が処刑される中、フランスは対外戦争ではベルギーを占領していた。
これに危機を抱いたイギリス首相ピットは、対仏軍事同盟を呼びかけて、ロシア・スペイン・プロイセン・オランダ・オーストリアなどが参加する第1回対仏大同盟を結成した。

この大同盟に対して、全ヨーロッパと戦う覚悟を決めた政府は徴兵制を実施した。
すると、フランス西部のバンデーで農民反乱が起きた。
しかしジロンド派は何の政策も打ち出すことができず、マラー・ダントン・ロベスピエールなどのジャコバン派の力が増すようになった。

6月にジャコバン派はジロンド派を追放して国民公会の主導権をにぎり、革命に反対する者に対しては弾圧を強行する恐怖政治を行った。
そして恐怖政治の中、主権在民・人民の生活権・労働権・男性普通選挙制を認める史上最初の徹底した民主的な憲法である1793年(ジャコバン)憲法が可決されている。
(ただし革命の激化を理由に実施はされず)

さらに封建地代の無償廃止を行って、フランスの農民解放を一応完了させると、5月に定められた最高価格令の対象を拡大している。
また、第一共和政が成立した1792年9月22日をスタートとする革命暦(共和暦)を採用し、メートル法を制定するなどの多くの改革を行っている。

さらにジャコバン派の中でもエペールは、理性の崇拝を掲げ、キリスト教否定運動も行っている。
しかし、ロペスピエ一ルの個人独裁が進むにつれ、ジャコバン派内部でも対立が起こって、ダントンやエペールらが相次いで処刑された。
そして反ロベスピエール派が1794年7月にテルミドール(9日)のクーデタを起こし、ロベスピエール派は逮捕・処刑されて恐怖政治は終わりを告げた。

ジャコバン派の独裁が打倒されると、ジロンド派が復活して1795年憲法(共和国第3年憲法)を制定した。
この憲法によって財産資格による制限選挙も復活して、二院制議会と五人の総裁を置く総裁政府が成立する。

しかし、この新憲法による選挙前に王党派の反乱が起こっている。
これを鎮圧したのがコルシカ島出身の軍人、ナポレオン・ボナパルトだった。
1796年5月には、私有財産制の廃止による共産主義社会の建設を掲げたパブーフが、民衆による革命を推進し、クーデタを起こそうとしている。

これは直前に計画がもれて未遂に終わり、バブーフは処刑されている。
王党派の反乱を鎮圧してその才能を認められたナポレオンは、1796年にイタリア遠征を総裁政府から命じられている。

ナポレオンはオーストリア軍を破り、カンポ・フォルミオの和約で多くの領土を獲得し、第1回対仏大同盟も崩壊させることに成功している。
1798年には、イギリスとインドとの連絡路を絶つ目的でエジプト遠征を行っている。

当時のエジプトはオスマン帝国領で、ナポレオンの軍は陸ではイギリス・オスマン帝国軍を撃破するが、海上ではアブキール湾の戦いで敗北するなど、苦戦を続けた。
ロゼッタ・ストーンが発見されたことでも有名なこの遠征に対して、1799年に第2回対仏大同盟が結ばれている。

この同盟国であるイギリス・ロシア・オーストリアなどが国境を脅かすと、ナポレオンは本国の情勢悪化をみて帰国し、ブリュメール18日のクーデタによって総裁政府を倒し、3人の統領からなる統領(執政)政府を成立させる。
統領(執政)政府を成立させて第一統領となったナポレオンは、1802年に英仏間の休戦条約であるアミアンの和約をフランス優位で結んだことで、第2回対仏大同盟を解消させて、終身統領に就任している。

1804年には国民投票で皇帝に即位し、ナポレオン1世となって妻のジョゼフィーヌも皇后となった。
こうして開始されたナポレオン帝国(ボナパルト朝)とも呼ばれる第一帝政に対して、1805年に第3回対仏大同盟がイギリス首相ピットの呼びかけによって結成され、10月のジブラルタル海峡北西沖でのトラファルガー海戦では、ネルソン提督率いるイギリス艦隊にフランスは破れている。

しかし、12月にアウステルリッツの戦い(三帝会戦)で第3回対仏大同盟を崩壊させたナポレオンは1806年に、西南ドイツ諸邦の同盟であるライン同盟(ライン連邦)を結成させ、神聖ローマ帝国を滅亡させた。
10月にはイエナの戦いでプロイセンに勝利してベルリンを占領すると、11月に大陸諸国とイギリスとの通商・交通を禁止する大陸封鎖令(ベルリン勅令)を発布している。

しかし、1808年のスペイン反乱や大陸封鎖令を破ったロシアに対する1812年のロシア(モスクワ)遠征が失敗すると、第4国対仏大同盟が結成され、1813年に解放戦争と呼ばれるナポレオン体制打倒の戦争が行われる。
そして10月、ライプチヒの戦い(諸国民戦争)にナポレオンは敗北して、1814年4月にナポレオンは退位して地中海のエルバ島に流されることになった。

ナポレオン退位後、ウィーン会議が開かれたが「会議はおどる、されど進まず」といわれる状態だった。
この状況を見たナポレオンは、1815年2月にエルバ島を脱出して、3月にはパリで皇帝として復位した。
この緊急事態に対して急遽、タレーランが提唱した「フランス革命前の領土と政治体制(主権)を正統とする」正統主義を基本理念として、ウィーン議定書が6月に締結されている。

そしてワーテルローの戦いでナポレオンが大敗して、百日天下と呼ばれた一時的な復活劇が終焉を迎えると、ナポレオンは南大西洋のセントヘレナ島に流された。
そしてウィーン体制と呼ばれる国際秩序体制で、フランスは再びブルボン朝が復活してルイ18世が即位し、復古王政となった。

しかし、ルイ18世の弟で次の王となったシャルル10世は反動政治を行い、1830年のアルジェリア出兵も長期化して、国内の不満は高まった。
さらに1830年、七月勅令によって議会政治の停止を行おうとしたために7月革命が起きて、シャルル10世はイギリスに亡命しブルボン復古王朝は終わることとになった。

七月革命の結果、オルレアン家のルイ・フィリップが国王となって、七月王政が始まった。
この王政下では産業革命が進展し、労働者による社会主義運動も起こっている。
極端な制限選挙のうえに、1831-1833年、1839-1840年のエジプト・トルコ戦争(エジプト事件)に介入し、東方問題における外交上の失敗もあって、国民は政府に対して多くの不満を抱えるようになった。
この不満は「改革宴会」という組織を中心とした選挙法改正運動へ結びついた。

1848年2月、この組織をギゾ一内閣が弾圧したために2月革命が起こって、ルイ・フィリップはイギリスに亡命、フランス国内には臨時政府が樹立し、第二共和政が成立した。
臨時政府にはルイ・ブランら社会主義者が入閣し、失業者救済のための国立作業場が設置された。
しかし、この作業所の運営費は税金で、仕事がなくても日給が出るために労働者以外から大きな反発を受けた。

この反発もあって、4月普通選挙で社会主義者は大敗した。
そして国立作業場も廃止されたために、労働者による6月暴動(6月蜂起)が起きている。
これは徹底した弾圧を受けて、ルイ・ブランもイギリスに亡命する結果となった。

この暴動の鎮圧後、12月に行われた大統領選挙では、ナポレオン1世の弟ルイの子ルイ・ナポレオンが当選し、さらには1851年クーデタによって議会を解散させて独裁権をにぎった。
また1852年の国民投票によって皇帝となり、ナポレオン3世として第二帝政を開始した。
ナポレオン3世は、1853年のクリミア戦争にトルコ側で参戦して勝利し、ロシアの南下を阻止する。

1855年にはパリ万国博覧会を開いて皇帝の威信を高めている。
さらに、セーヌ県知事となったオスマンにパリの改造事業を行わせ、現在のパリの街並みの原型をつくっている。
1856年にはイギリスとともに中国の清朝に対し、宣教師殺害事件を口実にしてアロー戦争を行い、さらに1858年には、スペイン宣教師の処刑を口実にスペインと連合してインドシナ出兵をも行っている。
1859年のイタリア統一戦争では、ナポレオン3世はプロンピエールの密約でイタリアを支持し、サヴォアやニースを手に入れている。

(プロンビエールの密約(Plombieres Agreement 1858年)
19世紀のイタリア統一戦争の際にフランスとサルデーニャ王国との間に結ばれた1858年の密約。
サルデーニャはフランスにサヴォアとニースを割譲する代わりに軍事支援を受け、ロンバルディア獲得に成功した)

しかし、1861年のメキシコ出兵では失敗して、ナポレオン3世の人気は低下することになる。
これに対して威信回復をかけたナポレオン3世は、ドイツ統一の妨害を行って1870年にプロイセン・フランス(普仏)戦争を起こした。

しかし、ナポレオン3世はセダンの戦い(Battle of Sedan)で捕虜となって廃位され、第二帝政は崩壊した。
捕虜となったナポレオン3世はその後、イギリスに亡命し、イギリスで没している。

第二帝政が消滅すると、国防政府が組織された。
しかし、1871年1月にパリ砲撃を開始したプロイセンはドイツ帝国の成立を宣言し、占領下のベルサイユ宮殿でヴィルヘルム1世の戴冠式を行うといった暴挙にでた。

しかし、国民防衛府はベルサイユで休戦条約を結び、2月にはティエールを首班とする臨時政府がボルドーで成立した。
そして、休戦条約に続いてベルサイユ仮講和条約を締結して、プロイセンに対する50億フランの賠償金の支払いと、アルザス・ロレーヌの割譲を約束した。
これに激怒したパリ市民は、史上初の労働者による自治政府であるパリ・コミューンを成立させ、壮絶な市街戦を行っている。
しかし、「血の1週間」と呼ばれる弾圧の結果、5月には崩壊している。
(またこのパリ・コミューンを支持した第1インターナショナル(国際労働者協会)が、各国政府から弾圧されて解散に追い込まれている)

仮講和条約の内容を正式に決定したフランクフルト講和条約を結んだティエールは、初代大統領となり、1875年には三権分立・二院制・任期7年の大統領制などを規定した第三共和政憲法が制定された。
一方で、ドイツ帝国宰相ビスマルクはフランスの孤立化を画策した。
そして、孤立化させられたフランスは、国威発揚のためにも植民地政策を拡大することになる。

しかしフランスが対外進出を続けていた境、国内では二度、共和政の危機が起こっている。
一度目は1887-1889年のプーランジェ事件である。
この事件の主役であるプーランジェは、元軍人の政治家でドイツに対する復讐を声高に唱えて人気を集めていた。

そしてこのプーランジュを担いで、ルイ・ナポレオンのように共和政を打倒するクーデタが計画された。
しかし、まさにそのクーデター歩手前でプーランジュが実行をためらい、クーデタは失敗に終わっている。

こうして一度目の共和政の危機を乗り切った頃、フランスに国際的な転機が訪れる。
1890年、ドイツにおいて皇帝ヴィルヘルム2世と対立したビスマルクが辞職し、ヴイルヘルム2世が親政を開始した。
ヴイルヘルム2世は「世界政策」を掲げて海軍の大拡張を始め、ロシアの再保障条約の更新の要求を拒否した。
孤立したロシアは、同じく孤立していたフランスに接近して、1891年に露仏同盟が結ばれた。

(再保障条約(Reinsurance Treaty)
1887年6月、ドイツとロシアの間に結ばれた秘密条約。
すでにドイツとロシアの間には、三帝同盟(独墺露)が結ばれていたが、これが期限切れとなる1887年に、両国は3年の期限で、第三国との戦争に際し、双方が好意的中立を守ることを約束。
ただし締約国の一方がオーストリアおよびフランスを攻撃した場合には適用されない。
ビスマルクはこれによってロシアのフランスへの接近を妨げ、対立するロシアとオーストリアをともにドイツに結びつけることに成功した)

こうしてビスマルク体制によって孤立していたフランスは、外向的な孤立を脱している。
しかし、その後すくに第三共和故に二度目の危機が訪れる。

それは1894-1899年のドレフュス事件である。
この事件は、ユダヤ系のフランス軍人ドレフュスが、ドイツのスパイ容疑で終身刑とされたにもかかわらず、後に真犯人が判明した事件である。
ところが軍部はこれを認めず、反ユダヤ感情を利用してドレフュスを有罪とした。
この判決に対して、後に首相となるクレマンソーや自然主義作家のゾラは、新聞に「わたしは弾劾する」との公開状を表して、ドレフュスの無罪と軍部の陰謀を証明するために活躍した。

フランス国内の世論は真っ二つに割れたが、最終的にはドレフュスは無罪となり、軍部の威信は失墜して共和政が守られた。
また、このドレフュス事件は国内だけでなく、国外においてもフランスに変化をもたらしている。

フランスは、イギリスとスーダンで衝突した1898年のファショダ事件において、ドレフュス事件のためにイギリスに譲歩し、イギリスがスーダンを、フランスがモロッコを確保することで解決している。
この平和的解決を機に1904年に英仏協商が締結され、イギリスはエジプト、フランスはモロッコでの優越権を互いに認めることになった。

(ファショダ事件(Fashoda Incident 1898年)
1898年、アフリカ大陸の植民地化を競う、イギリスの大陸縦貫政策とフランスの大陸横断政策が衝突した事件。
先に到着したフランスに対し、イギリスが退去を要求し英仏の開戦の危機が生じたが、フランスの譲歩で妥協が図られた。
フランスは、「横断政策」を断念し、その関心をモロッコへ向けることとなった)


このフランスのモロッコ保護国化に対し、1905年に第1次モロッコ事件(タンジール事件)と、1911年に第2次モロッコ事件(アガディール事件)をドイツが起こしている。
しかし、この事件ではどちらもイギリスがフランスに味方して、フランスはモロッコ保護国化を行っている。
また1907年6月にフランスは日仏協約を締結した。(この結果、ベトナムのドンズー(東遊)運動が挫折)

日露戦争後に接近した英露によって8月に英露協商が締結されると、すでに結ばれていた露仏同盟・英仏協商に英露協商が加わって三国協商が成立した。
そして1914年に第一次世界大戦が勃発すると、フランスは連合国(協商国)側として参戦した。
フランスは開戦後まもなく侵入してきたドイツをマルヌの戦いで撃退し、ドイツの短期決戦の野望は砕かれて、西部戦線は膠着して長期戦に突入する。

1916年のヴェルダン要塞へのドイツの猛攻も、ベタン将軍率いるフランス軍が要塞を死守して決着はつかなかった。
フランスで対独強硬論であるクレマンソー内閣の挙国一致体制が成立した頃、1917年にロシアでロシア革命が起き、世界で最初の社会主義政権であるソビエ卜政権が誕生する。

するとフランスは、イギリスなどとともに1918年から対ソ干渉戦争を行っている。
この1918年11月にドイツ革命が起こり、皇帝ヴィルヘルム2世は退位してオランダへ亡命し、ドイツ帝国は崩壊した。
そして、パリのコンビエーニュの森でドイツ休戦協定(条約)が連合国と結ばれて、第一次世界大戦は終結した。


1919年1月に開かれたパリ講和会議には、フランスのクレマンソーが出席している。
1919年6月のベルサイユ条約で、フランスは普仏戦争で奪われたアルザス・ロレーヌを奪還しただけでなく、ドイツとフランスの国境地帯であるラインラントの非武装化を義務づけ、巨額な賠償金を獲得している。
さらにフランスは、1920年に設立した国際連盟の理事会の常任理事国となり、委任統治という形で分配されて、シリアやレバノンなどを獲得している。

1923年にポワンカレ右派内闇は、賠償金支払いの遅れを理由にベルギーとともにルール占領を行っている。
しかし、この行動はフランスも何も得るところがなかった。

1924年に急進社会党のエリオを首班に、社会党と急進社会党が連合した左派連合政権が成立して、フランスはソ連を承認し、同年のアメリカによるドーズ案で賠償金支払いの道筋が立つと、外相のブリアンのドイツに対する協調外交もあって、1925年にルール撤退を完了させている。

平和外交を推進したブリアンは、1925年にラインラント非武装と相互不可侵を約束するロカルノ条約を提唱している。
国際協調と軍縮が進む中、1928年の「国際紛争の解決は武力によらない」とする不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)をパリで調印している。
しかし、1929年にニューヨーク株式市場(ウォール街)の株価大暴落をきっかけとして世界恐慌が起こると、その状況は一変する。

フランスは本国と海外の領土を特恵関税制度などで結びつけたブロック経済(フラン・ブロック)をつくって経済の安定をはかった。
これに対して、海外領土をもたない隣国ドイツでは、国民(国家)社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が台頭し、1935年3月には再軍備宣言を行って徴兵制(義務兵役制)を復活した。

このドイツに対してフランスは、ソ連と仏ソ相互援助条約を結んでドイツを東西から牽制し、ソ連・チェコ相互援助条約に続いてフランス・チェコ相互援助条約を結んでいる。
ところが、イギリスはドイツと英独海軍協定を結び、ベルサイユ条約を無視してドイツの再軍備を公認してしまった。

一方で、コミンテルンが1935年のコミンテルン第7回大会で、ファシズムに反対するすべての勢力が協力する人民戦線の結成を提唱すると、フランスではフランス社会党、フランス共産党、急進社会党が協力してフランス人民戦線が結成され、社会党のブルムを首相とした人民戦線内閣が1936年に誕生している。
(コミンテルン(Communist International)
レーニンらロシア共産党(ロシア社会民主労働党)を中心とし、各国共産党を支部とする国際組織。
1919年から1943年まで存在した。別名第三インターナショナル)

1936年には、仏ソ相互援助条約を口実としてドイツがラインラント進駐を行っている。
これも結局、フランスはイギリスの同意を得ることができずに黙認してしまう。

同年、スペインでもスペイン人民戦線が成立し、アサーニャを大統領とする人民戦線内閣が成立した。
しかしこれに対して、フランコがモロッコで反乱を起こしスペイン内戦が起こると、フランスは不干渉政策を主張する急進社会党と、アサーニャ支援を主張する共産党とが対立し、人民戦線内閣は崩壊した。

1938年に成立したタラディエ内閣は、ドイツのズデーテン地方要求に対して開かれたミュンヘン会談において、イギリスのネヴィル・チェンバレン首相に同調して併合を容認する宥和政策をとった。
この英・仏の態度に不信をもったソ連は、仏ソの挟み撃ちを避けたいドイツと接近し、1939年8月に独ソ不可侵条約を締結することとなった。
そして9月にドイツがポーランドに侵攻すると、宥和政策の失敗を悟ったイギリスは、フランスとともにドイツに宣戦して第二次世界大戦が始まることになる。

1946年に第四共和国憲法が制定され、第四共和政が成立した。
しかしインドシナ戦争に敗北し、1954年のジュネーヴ休戦協定によってフランスはインドシナから撤退した。
さらにアルジェリアでは1954年に民族解放戦線(FLN)が武力抵抗を行ってアルジェリア戦争が起こった。

1958年にド・ゴール内閣が成立すると、第五共和国憲法が制定されて第五共和政が成立し、1962年のエヴィアン協定によってアルジェリア独立が実現した。そして1966年には北大西洋条約機構(NATO)の軍事機構から脱退している。

しかし、1968年に5月危機(5月革命)によって、1969年、ド・ゴールは退陣した。
後任のボンピドゥーのもとで1973年にイギリスのEC加盟が実現した(拡大EC)。
次のジスカール・デスタンは、第1次石油危機に対する協議のために第1回サミット(先進国首脳会議)をパリ郊外のランブイエで1975年に開催した。

1981年に大統領となった社会党のミッテランは、フランス共産党の連合政権のもとで主要な産業や銀行の国有化を行った。

1995年に就任したシラクは、ムルロア環礁における核実験を行う一方で、2003年のイラク戦争に反対した。
このためにアメリカとの関係が冷え込み、米仏関係を重視したサルコジが2007年に大統領に就任し、2009年にNATOの軍事機構への完全復帰を宣言している。



フランスは、高度に発展した資本主義国のうちでは農業の占める比重が高く、経営面積5~35haをもつ独立経営の「小農民の国」として知られる。
農業では伝統的にコムギとブドウづくりが中心であり、コムギは輸出能力があり、ワインは食生活に欠くことのできないものとなっている。
工業は長い間、織物が中心で重工業化は遅れたが、ロレーヌの豊富な鉄鉱資源を生かして発展した。

第ニ次世界大戦後は経済の民主化や産業の国有化の計画が進められ、電力、ガス、銀行、鉄道、航空などの国有化に加え、自動車、航空機、アルミニウム工業の3分の1から3分の2が国有化されるなど、国営企業と私企業の「混合経済」によって発展してきたが、1980年代半ばから徐々に民営化が進んだ。