アフリカの分割        歴史年表      ヨーロッパ史        人名事典)(用語事典)
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エジプトに進出するイギリス

1869年、フランス人のレセップスによって、地中海と紅海を結ぶスエズ運河が完成しました。

これに目をつけたイギリスは、スエズ運河会社の株を買い取り、さらに1881年、エジプトでアラービー・パシャ(Ahmad Ourabi)らによる
反政府運動が起こると、軍隊を送って鎮圧し、エジプトを支配化におきます。

さらにイギリスは、1815年にオランダから南アフリカのケープ植民地を譲り受けました。
そのため、ここに住んでいたオランダ人の子孫ボーア人(Boer)は、この北に新しい国をつくって移り住みました。

ところが、その国に金とダイアモンドが発見されると、イギリスはこれらの国を侵略し、ボーア戦争(Boer Wars)を起こしました。
この戦争に勝ったイギリスは、1910年、南アフリカ連邦をつくりました。




ヨーロッパ諸国の南アフリカ進出

1883年、ベルギー国王は、学術調査をよそおって、アフリカ大陸中央部のコンゴをベルギー領にすると宣言しました。

この宣言にイギリスなどが反対したため、ドイツのベルリンで会議が開かれ、先に占領して支配した国に優先権が認められ、
コンゴはベルギー領となりました。

こうして、わずか20年の間に、アフリカ大陸は分割され、ヨーロッパの国々の植民地にされてしまいました。

フランスはモロッコやアルジェリア、そしてマダガスカルを、ベルギーはコンゴを、ドイツはナミビアやタンザニアなどを、
イタリアはリビアやソマリアを植民地にしました。20世紀初め、独立していた国は、エチオピアとリベリアの2ヵ国だけでした。




ファショダ事件

イギリスは、エジプトのカイロとケープ・タウンを結ぶ、アフリカ縦断政策を進めていました。

一方、フランスも、サハラと紅海沿岸のジブチを結ぶアフリカ横断政策を進めまていました。
こうして1898年、イギリスとフランスはスーダン南部のファショダ(Fashoda)でぶつかったのです。

一時両国関係は緊張しましたが、1904年に英仏協商が結ばれ、フランス政府の譲歩によって、スーダンはイギリスの勢力圏として認められました。
フランスは、当時急速に勢力を拡大していたドイツとの衝突に備えて、イギリスとの関係悪化は避けるべきだと考えたのです。





アパルトヘイト


1910年、ボーア戦争に勝ち、南アフリカ連邦を成立させたイギリスは、本国から移民を送り込み、
もとから住んでいた先住民の黒人を荒れ果てた土地にすまわせました。

さらに黒人を安い賃金で働かせ、劇場やレストラン、タクシー、バスなどで白人と差別する政策をとりました。

この差別政策は、アパルトヘイト(apartheid)と呼ばれ、その目的は、黒人たちにさまざな制限を加えて、
少数の白人だけの社会を守ろうとするものでした。

その後、1960年代になると、黒人解放運動が活発化し、1980年代後半には国際社会もアパルトヘイトを非難、
経済制裁などを実施しました。

この結果、1991年6月までにアパルトヘイト関連の法律は廃止され、
1994年5月には黒人初の大統領であるネルソン・マンデラ大統領が誕生しました。




アフリカ諸国の独立

第二次世界大戦後、アフリカ各地で独立運動が本格化します。

ネルソン・マンデラのような独立運動の指導者が、民衆を率いて戦い、独立後、その指導者が共和国の大統領などの元首になるというケースがほとんどでした。
1957年に独立したガーナのエンクルマ大統領、1958年に独立したギニアのセク・トゥーレ大統領などがその代表です、

1960年10月、国際連合総会において、ガーナのエンクルマ大統領が演説、アフリカの独立への支援と、南アフリカにおけるアパルトヘイトの不当を訴え、大きな反響を呼びました。
それを受けた国連総会は、同年12月の総会で、すべての植民地支配は人権の侵害であり、すべての人々は自己決定権を有すると宣言しました。

1960年には、アフリカの17ヵ国が一斉に独立を達成したので、その年を「アフリカの年」と言います。
その主要な国として、モーリタニア、マリ、マダガスカル(フランスから)・ナイジェリア(イギリスから)・コンゴ(ベルギーから)などがあります。

これらの国の多くは共和国となりましたが、独立後の経済基盤が弱く、インフラの不備や教育の遅れなどのために社会不安が続き、
また植民地時代にはなかった飢餓が発生するなど、まださまざまな問題をかかえたままになっています。



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ビックホール

南ア共和国のキンバリー市に「ビックホール」と呼ばれる巨大な穴がある。
穴の直径は約500m。ダイヤモンドを採掘するために掘られた穴である。

1870年、ここでダイヤモンド鉱山が発見され、大がかりな露天掘りが始まった。
たちまち鉱山周辺には、一万人もの鉱夫(山師)たちのテントが立ち並んだ。

1890年、イギリスのデビアス社が、ロスチャイルド財閥の融資を得て、
当時70社にのぼる鉱山会社の全部を買収、傘下に収めた。

同社はその後、シンジケートを組織し、生産・加工・販売に至るまで、
全世界のダイヤモンドのほとんどを独占支配し、価格も統制している。