GHQ占領政策 1945年(昭和20年)    歴史年表      真日本史       人名事典)(用語事典

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昭和20年9月27日、天皇がGHQ最高司令官・マッカーサーを訪問し、二人並んだ写真が各新聞に掲載された。
天皇は自発的に訪問したとされるが、実際は写真を撮影し、公表するために、わざわざ呼びつけたのである。

写真掲載の意図は、天皇に対するGHQの地位を国民に示威することにあった。正装した天皇の横で、略装で
くつろいだ表情のマッカーサー。天皇に替わる新しい統治者を、国民に印象づけるには十分すぎる演出であった。


天皇を利用することが、占領政策の成否を左右すると考えたGHQは、天皇を戦犯として処刑する代わりに、
国民から絶大な尊敬を受ける天皇が、GHQ当局と対等な関係を築いているという状況を作り出す方策をとった。

この結果、GHQが最も危惧した軍部残党による占領軍への武力闘争という懸念は完全に払拭された。
同時に、天皇の戦争責任を追及しようとするソ連、中国などの連合国から天皇を庇護することにつながった。

占領政策では、徹底した言論統制が行われた。新聞、雑誌、ラジオ、映画は、全てGHQの管理下におかれ、
国民に知らせる情報に厳しい制限をつけた。GHQが教えたいことのみが日本人に教えられた。


昭和20年12月31日、修身や日本歴史、地理に関する授業が停止された。皇国史観(天皇中心の歴史)による教育を
廃止するためであった。小学校の国語の教科書は、軍国主義的な内容を墨で塗りつぶして使われた。

「兵隊さん・日の丸・君が代・愛国心・武士道・伊勢神宮・軍艦・大和魂・靖国神社」 などの単語が塗りつぶされ、
塗りつぶし箇所はGHQから命令された。剣道、柔道、弓道等も軍国主義のスポーツだとして禁止された。


昭和21年5月3日、東京裁判が開廷。侵略戦争を行った罪や、非人道的行為を行った罪が審理の対象とされ、
戦争を指導したA級戦犯25名が有罪となり、東条英機ら7名が絞首刑となった。

東京裁判では、天皇の戦争責任が不問にされ、原爆投下など戦勝国の残虐行為が一切棚上げされるなど、
さまざまな欠陥と限界があった。だが最大の問題点は、裁判の早期打ち切りが行われたことである。


昭和23年12月23日、死刑判決を受けた7名の処刑が行われると、翌24日、岸信介、児玉誉士夫ら
A級戦犯容疑者17名を、裁判にかけないまま全員不起訴・釈放した。

岸は講和条約発効後、政界に復帰、昭和32年から三期にわたって首相となり、保守政界のトップに返り咲いた。
児玉はロッキード事件で失脚するまで、政財界に隠然たる勢力をもつ黒幕となった。

こうして東京裁判の途中打ち切りは、戦後日本の指導層の間に、侵略戦争の責任者を残存させ、
その強固な帝国意識が、世襲によって受け継がれるという結果を招いたのである。

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