本能寺の変 1582年(天正10年)   歴史年表     真日本史       人名事典)(用語事典
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天正10年(1582年)6月2日未明、明智光秀率いる軍勢が、織田信長の

京都の宿所である本能寺を包囲して、一斉攻撃を行った。


信長はわずか数十名の小姓して連れておらず、応戦したものの、

燃え盛る炎の中で自刃して果てた。享年49歳。



本能寺の変の直前、羽柴秀吉を主力とする毛利征討軍を支援するため、

信長自身が出陣することが決まり、明智光秀はその先陣を命じられた。


光秀は、1万3000人の手勢を率いて出陣したものの、進軍の途中で京都に

向きを変え、本能寺を急襲し信長を討ち取った。


その後光秀軍は、本能寺の変を知って急遽毛利と和睦し、大急ぎで引き返してきた

秀吉の軍勢約4万と、京都の山崎で激突する。


だが多勢に無勢、光秀軍は次第に敗戦の色が濃くなり、退却を余儀なくされる。


敗走を続ける光秀は、途中で落ち武者狩りに遭い、あえなく落命してしまう。

本能寺の変から、わずか11日後のことであった。





しかし何故、明智光秀は謀反を起こしたのだろうか?


歴史小説で知られる司馬遼太郎は、その動機として、光秀の怨恨説を挙げている。


信長からパワハラまがいの行為を受けていた光秀が、積もりに積もった鬱憤を爆発させた

というもので、史料の中には、信長が、光秀の頭を欄干に叩きつけたとの逸話も見られる。

短気で暴虐な信長に絶望感を抱いた光秀は、ついに謀反を決意するというものだ。




そのほか歴史作家によって「本能寺の変」は、様々な解釈がなされている。

津本陽「下天は夢か」池宮彰一郎「本能寺」では、秀吉の黒幕説が採用されている。

秀吉が派遣した密使の説得で、光秀は謀反を決意するというものだ。



また堺屋太一「鬼と人と 信長と光秀」では、光秀の義憤説を挙げている。

比叡山の焼き討ちなど、信長の蛮行に終止符を打つために、謀反を起こすというものだ。


それぞれの作家が思い描く「本能寺の真相」を堪能してみるのも面白いだろう。



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室町時代(1336年〜1573年)
1338年 (延元3年) 足利尊氏、征夷大将軍となる
1378年 (天授4年) 足利義満、室町に幕府を移す
1392年 (元中9年) 南北朝が合一される
1404年 (応永11年) 足利義満が日明貿易を開始
1428年 (正長1年) 正長の土一揆
1429年 (正長2年) 尚氏によって、琉球が統一される
1467年 (応仁1年) 応仁の乱がはじまる(〜1477)
1485年 (文明17年) 山城の国一揆、守護を追放(〜1493) 
1488年 (長享2年) 加賀の一向一揆(〜1580)
1543年 (天文12年) 種子島に鉄砲が伝わる
1549年 (天文18年) ザビエルがキリスト教を伝える      
1553年 (天文22年) 川中島の戦い
1560年 (永禄3年) 桶狭間の戦い
1568年 (永禄11年) 織田信長が将軍足利義昭を奉じて入京
安土桃山時代(1573年〜1603年)
1573年 (元亀4年) 信長が義昭を追放、室町幕府滅亡
1582年 (天正10年) 本能寺の変
1582年 (天正10年) 豊臣秀吉の太閤検地(〜98)石高制を確立
1585年 (天正13年) 秀吉が関白に就任する
1587年 (天正15年) バテレン追放令 
1588年 (天正16年) 刀狩令によって兵農分離を行う
1590年 (天正18年) 秀吉、全国統一
1592年 (文禄1年) 秀吉、朝鮮に出兵(文禄の役)
1597年 (慶長2年) 秀吉と明との和平交渉が決裂し、
再び朝鮮に出兵(慶長の役)
  1598年 (慶長3年)   豊臣秀吉病没     
1600年 (慶長5年) 関ヶ原の戦い


室町時代

室町時代(1336年〜1573年)は、足利尊氏が建武式目を定め、幕府を開いた
1336年から、足利将軍家15代義昭が織田信長に京都を追放され、
足利幕府が滅亡した1573年まで約240年間を指す。

正長の土一揆

1428年(正長1年)畿内一帯に起きた農民による武装蜂起。酒屋・土倉を襲い、
幕府に徳政(債権・債務の破棄)を要求し、幕府の拒否にもかかわらず、
実力で債務破棄を断行した。一揆は畿内一帯に波及し、その規模の大きさと
社会に対する影響は大きかった。

応仁の乱

1467年(応仁1年)守護大名の細川勝元と山名持豊(宗全)の対立に、
将軍足利義政のあとつぎ問題などがからんで起こった11年間の大乱。
京都は焼け野原になり、幕府の権威はおとろえた。乱の後、戦乱は地方に
広がり、約100年間の戦国時代に入った。

山城の国一揆

1485年(文明17年)山城(京都府)の地侍(じざむらい)らが、守護の畠山氏
を追放した。地侍と農民が連合して、自治による政治を8年近く続けた。

加賀の一向一揆
 
1488年(長享2年)加賀国(石川県)の一向宗信者による一揆。
加賀国守護・富樫政親を攻め、これを同国高尾城で自殺させた。
これによって一揆を指導した僧官や地侍、農民門徒の代表らは、加賀一国の
実質的な支配権を獲得。この守護大名による支配を排除した史上類のない
共和体制は、1575年、織田信長軍によって占領されるまで約100年間続いた。

川中島の戦い     

戦国末期、甲斐(山梨県)から信濃(長野県)に進出した武田信玄が、
越後(新潟県)の上杉謙信と川中島(現・長野市)で、1553年(天文22年)から
5回にわたって争った戦い。最も激戦だった1561(永禄4年)の4度目が有名。
武田軍は「風林火山」、上杉軍は「毘(沙門天)」の旗を使った。

桶狭間の戦い

1560年(永禄3年)織田信長の領内桶狭間に陣取った今川義元を、
信長が奇襲して破った戦い。信長の天下統一の第一歩となった。







安土桃山時代

安土桃山時代(1573年〜1603年)は、足利義昭が信長に追われ、室町幕府が
滅びた1573年から徳川家康が江戸幕府を開いた1603年までを指す。

本能寺の変

1582年(天正10年)明智光秀が織田信長を京都本能寺に襲い、滅ぼした事件。
羽柴秀吉の高松城攻撃を救援するため本能寺に宿泊中であった信長を、
先に増援を命じられて丹波亀山城にいた光秀が引き返して急襲し自害させた。

関ヶ原の戦い

1600年(慶長5年)関ヶ原(岐阜県)で、石田三成らの西軍と、徳川家康らの
東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝し、
石田三成らは処刑され、豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。
これにより徳川氏の覇権が確立した。