天皇が生存中、位を次の天皇に譲ると、前天皇は「太上天皇」と呼ばれた。略して「上皇」という。
太上とは、道教における老子の尊称「太上老君」から来ており、至高の存在という意味あいである。
至高の存在である上皇は、事実上の権力者として天皇家に君臨するようになる。これが院政である。
院政により、天皇家は外戚から実権を取り戻し、長く続いた貴族政治の時代に終止符が打たれた。
だが強大な発言力を持つ院政は、往々にして暴走を招きやすく、新たな火種を灯すことになった。
院政の弊害をまともに喰らったのが崇徳天皇である。父の鳥羽天皇から譲位され、5歳で天皇に即位。
だが父から徹底して嫌われ、崇徳天皇の次の天皇も、その次の天皇も、実の弟が即位することになる。
父の鳥羽上皇は、天皇の時代、自分の妃がときの白河上皇と密通し、崇徳天皇を産んでしまったのだ。
鳥羽上皇は、我が子を恨んでいた。いや、我が子ではない。実際には自分の妃と白河上皇の子なのだ。
崇徳天皇は上皇になったものの、鳥羽院政が続く限り、自分の息子を天皇にすることが出来なかった。
抑圧され続けた崇徳上皇は、鳥羽上皇が崩御すると、ついに弟である後白河天皇に対して兵を挙げた。
崇徳上皇は、権力奪還のため、左大臣の藤原頼長と手を組む。頼長も、天皇側の兄の忠通から関白の座を
奪い取るには、絶好のチャンスであった。また源為義、平忠正らの武士勢力も、崇徳上皇側に加わった。
一方の後白河天皇、忠通陣営には、崇徳方の敗北を予測した源義朝や平清盛が従った。源氏と平氏が、
それぞれ敵味方に分かれたのは、どちらが勝っても氏族の全滅を免れたいという思惑があったからである。
かくして保元元年(1156年)肉親同士が二つの勢力に分かれ、激しくせめぎ合う、保元の乱が勃発した。
後白河天皇軍は、夜襲をかけ、白河北殿の周囲に火を放ち、戦闘開始から8時間ほどで勝利をおさめた。
崇徳上皇側の頼長は討ち死に、源為義と平忠正は死刑、崇徳上皇は、讃岐国(香川県)に流された。
この乱以降、後白河天皇は武士の力を頼るようになり、政治勢力として武士が表舞台に登場することになる。
平家の盛衰と鎌倉幕府
保元の乱で後白河天皇方についた平清盛と源義朝は、それぞれ武士団を率いる棟梁であった。
やがて二人は対立、平治の乱(1159年)で敗れた義朝は殺され、息子の頼朝は伊豆に流された。
ほどなく平清盛は太政大臣になった。平家一門は高い官職を独占し「平家一門にあらざれば、
人ではない」とさえ豪語する輩も出てきた。だが平家の権勢を快く思わない者も出てきた。
後白河天皇は出家して法皇となっていた。
武士を利用して大きな権力を築いた後白河法皇だが、協調関係だった平清盛が政治の
実権を握るようになると、不満を持ち始め、一転して平氏打倒を図るようになった。
やがて法皇の側近の貴族たちが、平家打倒を計画する。
清盛はそれを見つけて処罰し、後白河法皇も幽閉、清盛の孫である幼い安徳天皇を位につける。
1180年(治承4年)後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)が平家打倒の兵を挙げた。
伊豆に流されていた頼朝が呼応して挙兵すると、代々源氏に仕えていた武士たちが続々と馳せ参じた。
平清盛は頼朝追討の軍勢を派遣し、源平両軍は富士川をはさんで対峙した。だが源氏方の盛んな
勢いを見た平家軍は、戦わずして敗走。頼朝は、弟の義経に平家追討を命じた。
1185年(元暦2年)義経は讃岐国・屋島に平家を急襲し、さらに長門国・壇ノ浦に追い詰めた。
義経との壇ノ浦の戦いに敗れた平家は、安徳天皇とともに海中に没し、ここに平家一門は滅亡した。
頼朝の勢力増大を恐れた後白河法皇は、軍事に優れた源義経を重く用い、頼朝追討の命令を下した。
だが頼朝を重んじる武士たちは動こうとせず、孤立した義経は、奥州藤原秀衡のもとに落ち延びる。
1189年(文治5年)秀衡の死後、その子の藤原泰衡は義経を殺害し頼朝との協調をはかった。
しかし頼朝は自ら大軍を率いて奥州に進み、藤原一族を滅ぼした。
1192年(建久3年)法皇の死去にともない、源頼朝は、後鳥羽天皇より征夷大将軍に任ぜられた。
頼朝は、源氏ゆかりの地、鎌倉を根拠地として政権を樹立、ここに鎌倉幕府が成立した。