2月11日
神武天皇
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真日本史
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古事記や日本書紀によれば、神武天皇は、アマテラス(天照大神)の子孫であり、日本の初代天皇である。
日本書紀によると、日向(ひむか)にいたとき、東の方に都をつくるのによい土地があると聞いて「東征」の旅に出る。
海路や陸路で近畿へ進み、地元勢力と戦いを交えながら、大和の橿原(かしはら)に都を定めたと伝えられる。
その後、大和を平定、紀元前660年2月11日に初代天皇として即位、これが現在の建国記念の日になっている。
神武天皇はすべての民を、百姓(おほみたから)と呼び、皇祖・アマテラスから託された守るべき宝物として大切にした。
そして神の国、高天原(たかあまはら)を地上界に実現することを自らの使命と考え、それを建国の理念としたのである。
農業神であった神武天皇は即位から三年間、大和の百姓に稲種をもたらし、水稲栽培の普及に尽力した。
そして即位四年目に、稲の収穫を祝い国家安泰を祈願する大嘗祭(おほなめさい)を行っている。(日本書紀・神武紀)
大和の地に定着した水稲栽培は、弥生時代の幕開けを告げ、ここに農業立国日本の礎が築かれたのである。
なお、日本書紀の記述によれば、神武天皇は紀元前711年に生まれ、紀元前585年に崩御したとされている。
享年127歳という驚異的な長寿であるため、神武天皇の実在が疑問視されるのではないかという説がある。
だが実をいえば、アマテラスという最高神の子孫にしては、寿命が短すぎるというのが正しい認識なのだ。
古事記の伝承によれぱ、神武天皇の曾祖父であるニニギノミコトは、山神(やまつみ)の娘である
木花咲夜姫(このはなさくやひめ)を妃にしたのだが、この姫は、美人だが薄命の象徴であった。
そのため、子孫の天皇の寿命は、神々に比べて短くなってしまったと伝えられている。(古事記・天孫降臨)
歴代天皇名、生没年、在位期間
大和政権の発展と三韓征伐
神武天皇(在位BC660〜BC585)の大和政権は、大和地方の豪族たちの盟主といった国家体制であった。
豪族の長たちは、天皇(大王)から姓(かばね)を与えられ、国造(くにのみやつこ)に任命され、
それぞれ決まった仕事を受けもって政治に参加していた。
やがて大穀倉地帯として大和が栄え、国力が充実すると、遠征によって周辺の豪族を従えていった。
第10代崇神天皇(在位BC97〜BC30)の時代には、近畿一帯から東海、北陸に至るまで各地を平定し、版図を拡大した。
崇神天皇は、平定した諸国の民に農耕を奨励し、人々の生活を安定させたうえで租税を納めさせた。
大和政権は、徴税という国家システムによって、国家権力を拡大再生産していったのである。
第14代仲哀天皇(在位192〜200)の時代には、神功皇后が朝鮮出兵を行い、朝鮮半島の広い地域を服属下においた。
これは当初、九州の熊襲が背いたため、征伐に向かったのだが、途中で仲哀天皇が崩御してしまった。
その後、熊襲が騒ぐ背後には朝鮮半島の三韓の動きありとして、妃である神功皇后が出兵した結果、
三韓を降伏させ、ついで高句麗も帰順させることが出来たのである。(三韓征伐)