承久の乱 1221年 (承久3年)       歴史年表        真日本史       人名事典)(用語事典
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頼朝の死後、わずか三代で源氏の血筋は絶える。その後の実権を握ったのは頼朝の家臣である北条氏だった。

だが御家人の北条氏は将軍になる立場になかった。将軍は京から皇族を迎え、自らは補佐役(執権)に留まる。
将軍の権威の下で、執権が権力を行使する。この権威と権力の分離は、その後の歴史に長く受け継がれていく。

頼朝の子孫が途絶えたとき、時の後鳥羽上皇は、幕府打倒の絶好の機会と捉えた。東国の蛮族出身の北条氏の下では
武士たちは団結しないだろうと考え、幕府に不満をもつ武士や僧兵をたきつけて、倒幕の兵を挙げたのである。

だが鎌倉幕府には、頼朝の妻であった北条政子という女傑がいた。彼女の呼びかけに「いざ鎌倉」とばかりに
各地の御家人たちが続々と駆けつけ、その数は19万騎にも及んだという。

幕府の大軍は、時の執権、北条義時の長子、泰時を総大将とし、京都に向かって軍をすすめた。
一方、後鳥羽上皇に組する武士は、2万数千ほどであり、幕府の大軍の前になすすべもなく潰走をはじめた。

こうして挙兵から一ヵ月たらずで、幕府軍が京都を占領。後鳥羽上皇は隠岐に流され、上皇に味方した武士たちは
所領没収や斬罪・流罪など厳しく処分された。1221年(承久3年)に起きた承久の乱である。

この乱の勝利を契機に、幕府はその力を全国に及ぼすことになり、反対に朝廷の権威は減衰していったのである。


朝廷から東国の蛮族よばわりされた北条氏だが、彼ら自身、自分たちが無粋な田舎者だということは認めている。
北条氏にかぎらず、鎌倉武士たちが、漢字もろくに読めなかったことは確かで、こんなエピソードが残っている。

承久の乱後、朝廷から講和文書が下されたが、大将の北条泰時には、漢文で書かれたその文書が読めなかった。
そこで家来たちに「この文書を読める者はいないか?」と尋ねた。

すると御家人の一人が「武蔵国の何某と申す者は学問があり、読めると思います」と答えた。
つまり、鎌倉武士には漢文が読める者が、わずか一人しかいなかったのだ。

当時、鎌倉武士は武芸に励み、学問を軽視していた。漢詩や古典文学などに興味をもつ者はまずいなかったのだ。
ただし、漢文が読めずに恥をかいた北条泰時は、鎌倉に帰ると猛勉強をはじめた。

その後の1232年(貞永元年)には、のちの武士の法律の手本となった「御成敗式目」を完成させている。

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                          歴代将軍、執権名、生没年、在位期間