カール大帝 (Charlemagne)    歴史年表    ヨーロッパ史    人名事典)(用語事典)
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フランク王国


古代ローマ帝国がヨーロッパの大部分を支配していた時代、ローマ人は現在のドイツを含む一帯を
ゲルマニア(Germania)と呼び、そこに住む民族をゲルマン民族と呼んでいました。

古代ローマ帝国のアウグストゥス帝(オクタヴィアヌス Octavius)はローマ軍団をゲルマニアに侵攻させましたが、
ゲルマン民族はローマ軍を撃退しました。

395年、古代ローマ帝国は東西に分裂し、476年、西ローマ帝国はゲルマン民族の大移動によって滅亡してしまいます。

その後、ゲルマン民族はかつての西ローマ帝国の領土に、自分たちの国を建てて、キリスト教を信仰していました。

ゲルマン民族のさまざまな部族のうちで、もっとも力が強かったのは、フランク族(Franks)でした。

彼らは、5世紀の終わりに、ライン川流域からガリア(Gallia 現在のフランス)にフランク王国(Francia)を建てます。



         

カール大帝

フランク王国は、カロリング朝(Carolingian dynasty)のカール大帝(在位768〜814年)の時代に全盛期をむかえます。

カール大帝は、文武両道の優れた王だといわれています。
古典文学を好み、馬術や水泳を得意としていました。また、大食漢で頑強、知略にも富み、いくさは負け知らずでした。


彼は、フランク王国の北方にいたサクソン人(Saxons)や、父王ピピン(Pepin I)のときからの敵だった
ロンパルド王国(Kingdom of the Lombards)、イベリア半島のイスラム軍などと戦って、領土をどんどん広げていきます。

広大な領土を手にしたカール大帝は、各地に長官を派遣して治めさせ、みずからも足を運んで見てまわりました。
敵国との戦いと、領土の視察と、それは休むひまのない日々でした。



800年のクリスマス、カール大帝は、ミサに出席するため、アルプスを越えて、
ローマのサン・ピエトロ大聖堂(St. Peter's Basilica)に向かいました。

そこで彼を待っていたのは、法王レオ3世(Pope Leo III)の手による、西ローマ皇帝戴冠式でした。


フランク王国のカール大帝が、かつて西ローマ帝国だった地域をまとめ上げたこと。
これはローマ教会にとって、まさに渡りに船の出来事でありました。

西ローマ帝国が滅びた後、後ろ盾を失ったローマ教会は、異民族のゲルマン人国家に周囲を囲まれ、苦境に立たされていました。
そこでカール大帝に西ローマ皇帝の冠を授け、フランク王国を「西ローマ帝国」に見立て、あらたな後ろ盾になってもらい、保護を受けようとしたのです。


ゲルマン人であるカール大帝が、キリスト教の首長である法王によって、古代ローマの象徴であるローマ皇帝に任命される。
これは、形のうえで西ローマ帝国を復活させ、フランク王国とローマ教会のむすびつきを強めることになりました。






(フランク王国史 Francia 481〜987年)

481年 クロービス(Clovis)フランク王国を建国。(メロヴィング朝 486〜751年)
568年 北イタリアにロンバルド王国(Lombards)建国。
732年 トゥール・ポアティエの戦い。フランク侵入のイスラム軍を、カール・マルテル(Charles Martel)が撃退。
751年 カール・マルテルの子、小ピピン(Pepin I)即位。(カロリング朝 751〜987年)

768年 カール大帝(Charlemagne)即位。
774年 カール大帝により、ロンバルド王国滅亡。
800年 カール大帝、ローマで戴冠。
814年 カール大帝死去。

843年 ヴェルダン条約。フランク王国3分割。(独・仏・伊の基)
870年 メルセン条約。東フランク王国、西フランク王国、イタリア王国の成立。
962年 東フランク王国オットー1世(Otto I)、ローマ皇帝として戴冠。(神聖ローマ帝国成立 〜1806)
962年 イタリア王国は神聖ローマ帝国の一部となる。
987年 西フランク王国のユーグ・カペー(Hugh Capet)が国王に即位し、フランス王国カペー朝が成立。









フランク王国の分裂

カール大帝の死後、まもなく領土分割をめぐって孫たちの争いが起こり、843年のヴェルダン条約(Treaty of Verdun)、
870年のメルセン条約(Treaty of Meerssen)で、いまのドイツ・フランス・イタリアのもとができました。

その後、強い力をもった国王が出てきませんでしたが、各国の王はなんとか力を強くしようと努力しました。
東フランク王国では、962年にオットー1世(Otto I)が、ローマ法王から「ローマ皇帝」の冠をさずけられました。

以降、東フランク王国は、神聖ローマ帝国(Holy Roman Empire)と呼ばれ、その王は神聖ローマの皇帝となりました。
一方、西フランク王国は、987年、カロリング朝のルイ5世(Louis V)が狩りの途中に落馬して死去。

ルイには子供がなかったので、国王選挙が行われ、ノルマン人の侵攻を撃退したことで名声を上げていた
ロベール家(Robertians)のユーグ・カペー(Hugh Capet)が国王に即位しました。

これによりカペー朝(Capetian dynasty)の始まりとなり、以降、西フランクはフランス王国と呼ばれるようになります。





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カールの戴冠

西暦800年、クリスマスの夜。
フランクの王カールは、ミサ出席のため、ローマ最大の教会サン・ピエトロに足を踏み入れた。

ミサの儀式でカールが祭壇にめかづくと、法王レオ3世が、王に近づき、彼の頭上に帝冠をのせた。
そして法王とすべての人々は、王の前にひざまづき、神が定めた新しい皇帝として彼をあがめた。

カールにとって、皇帝就任は予想だにしなかったことであり、いわば不意打ちであった。
だがカールは、法王の要請に応えた。宗教的権威は、王としての正統性の裏付けになるからである。

法王にとっても、王の軍事力の後ろ盾により、東ローマ帝国からの圧力を回避することができる。
西ローマ帝国が滅亡して以来、ローマ教会を支配していたのは、東ローマ皇帝であった。

だが新たに皇帝を擁立すれば、その支配から抜け出すことができる。
レオ3世は、したたかに法王の権威の確立をねらっていたのだった。

法王の権威と、王の軍事力、互いにないものを補完しあい、ここに両者の提携が成立した。
またこれ以降、法王は宗教的支配者として、ローマ皇帝を任命する地位を獲得したのである。















カール大帝の死後、フランク王国は三つに分かれてしまい、ローマ教会は再び後ろ盾を失ってしまいます。

そこで次は、三つに分かれた国の一つ、東フランクの王に戴冠をし、ローマ帝国を復活させました。

962年、東フランク王国のオットー1世は、ローマで法王ヨハネス12世から戴冠され、神聖ローマ帝国皇帝となります。

以後、神聖ローマ帝国は、西ローマ帝国の後継国家を称し、1806年、ナポレオンに滅ぼされるまで続きます。