日露戦争  1904年(明治37年)     歴史年表      真日本史       人名事典)(用語事典
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日露戦争は、朝鮮並びに満州への支配権を、日本とロシアが争ったものであり、

いずれの側を見ても、帝国主義の勢力圏争奪戦争であった。


1898年、清国から遼東半島を租借したロシアは、半島の先端にある旅順港を要塞化して

軍事拠点にすると同時に、満州全域に多数の兵力を駐屯させた。


満州と朝鮮は陸続きであり、満州へロシアの勢力が根を張っていると、朝鮮半島も

ほとんど彼らの手の中にあるも同然であった。


朝鮮がロシアの手に下れば、次に植民地化されるのは日本である。

日本防衛の要は、まさに朝鮮半島であった。


迫り来る脅威に「ロシア討つべし」の声が日本中に巻き起こり、

いよいよ開戦が避けられない状況になった。



1904年(明治37年)2月9日、朝鮮の仁川沖で、日本の連合艦隊がロシア艦隊に

先制攻撃を加え、2隻を撃沈した後、2月10日、宣戦布告した。


大国ロシアを相手に、快進撃を続ける日本軍だったが、ロシア軍が旅順に築いた、

難攻不落の大要塞を前に苦戦を強いられる。


1905年(明治38年)1月13日、二〇三高地の死闘を経て、ついに旅順が陥落。

さらに同年5月27日、日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊に圧倒的勝利をおさめた。


ロシアではこの年革命が起こり、日本も戦力、経済力が涸渇して、戦争継続は不可能となった。

そこでアメリカの仲介で、9月5日、アメリカのポーツマスで日露講和条約が調印された。


日本は朝鮮の支配権、遼東半島の租借権、南樺太などを獲得したが、賠償金は得られなかった。


日本政府は、ロシアの南下を食い止めることができたので満足したが、国民は講和の内容に激怒、

日比谷公園における講和反対集会で民衆が暴れ出し、大暴動に発展した。(日比谷焼打ち事件)


国民が怒ったのは無理もなかった。

この戦争で大陸に派遣された日本兵は、百万人にのぼり、うち約十万人が戦死した。


さらに大国ロシアと戦うために長年増税に耐え、積極的に戦争の公債にも応じてきたのだ。

そうした涙ぐましい協力にもかかわらず、政府は一円も賠償金をとってくることができなかった。

それゆえ、こうした大暴動に発展したのである。



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1867年 (慶応3年) 10月14日 大政奉還
1867年 (慶応3年) 12月9日 王政復古の大号令
1868年 (慶応4年) 1月3日 鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)
1868年 (慶応4年) 3月14日 五箇条の御誓文
1868年 (慶応4年) 4月11日 江戸城無血開城
1868年 (慶応4年) 7月17日 江戸を東京に改称
1868年 (明治1年) 9月8日 元号を明治と改元
1868年 (明治1年) 10月13日 江戸城を皇居とする
1869年 (明治2年) 5月18日 箱館・五稜郭陥落
1869年 (明治2年) 6月17日 版籍奉還、華族・士族・平民の制
1869年 (明治2年) 7月8日 蝦夷地を北海道と改称
1871年 (明治4年) 7月14日 廃藩置県
1871年 (明治4年) 11月10日 岩倉具視らを欧米に派遣(〜1873)
1872年 (明治5年) 2月28日 陸・海軍省を設置
1872年 (明治5年) 8月2日 学制を制定、学区制を敷く
1873年 (明治6年) 1月10日 徴兵令公布
1873年 (明治6年) 10月23日 征韓論争が起こる
1874年 (明治7年) 1月7日 板垣退助ら自由民権運動起こる
1875年 (明治8年) 9月20日 江華島事件
1877年 (明治10年) 2月14日 西南戦争
1885年 (明治18年) 2月11日 内閣制度施行
1889年 (明治22年) 2月11日 大日本帝国憲法公布(〜1947)
1890年 (明治23年) 10月30日 教育勅語発布
1894年 (明治27年) 3月29日 朝鮮東学党の乱
1894年 (明治27年) 7月25日 日清戦争始まる(〜1895)
1895年 (明治28年) 4月17日 下関条約(日清講和)調印
1895年 (明治28年) 4月23日 露独仏の三国干渉。日本、遼東半島還付
1902年 (明治35年) 1月30日 日英同盟調印(〜1923)
1904年 (明治37年) 2月10日 日露戦争(〜1905)
1904年 (明治37年) 12月6日 日本、二〇三高地占領
1905年 (明治38年) 1月13日 日本、旅順占領
1905年 (明治38年) 5月27日 日本海海戦
1905年 (明治38年) 9月5日 ポーツマス条約(日露講和)調印
1906年 (明治39年) 11月26日 南満州鉄道会社設立
1909年 (明治42年) 10月26日 伊藤博文暗殺(ハルピン事件)
1910年 (明治43年) 5月25日 大逆事件。幸徳秋水ら検挙
1910年 (明治43年) 8月22日 日韓併合条約調印、朝鮮総督府設置
1911年 (明治44年) 8月21日 警視庁、特高課設置
1912年 (大正1年) 7月30日 明治天皇崩御、大正と改元
1914年 (大正3年) 8月23日 日本、ドイツに宣戦、第1次世界大戦参戦
1914年 (大正3年) 11月7日 日本、チンタオ(青島)占領
1915年 (大正4年) 1月18日 日本、中国に二十一ヵ条要求
1918年 (大正7年) 8月3日 富山県下で米騒動。全国に波及
1920年 (大正9年) 1月10日 国際連盟加入
1920年 (大正9年) 3月15日 第1次世界大戦後の反動恐慌起こる
1921年 (大正10年) 11月4日 原敬首相、東京駅で刺殺
1921年 (大正10年) 11月12日 ワシントン軍縮会議、日英同盟破棄
1921年 (大正10年) 12月13日 四カ国条約調印
1922年 (大正11年) 2月6日 九カ国条約調印
1922年 (大正11年) 7月15日 日本共産党結成
1923年 (大正12年) 9月1日 関東大震災
1925年 (大正14年) 5月12日 治安維持法公布
1926年 (昭和1年) 12月25日 大正天皇崩御、昭和と改元
1927年 (昭和2年) 4月21日 金融恐慌起こる(昭和恐慌)
1928年 (昭和3年) 2月20日 最初の普通選挙実施
1928年 (昭和3年) 6月4日 関東軍、張作霖を爆殺(張作霖爆死事件)
1930年 (昭和5年) 1月21日 英米日、ロンドン海軍軍備制限条約調印
1930年 (昭和5年) 11月14日 浜口雄幸首相、東京駅で狙撃される
1931年 (昭和6年) 9月18日 満州事変勃発



大政奉還

1867年(慶応3年)10月14日、江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜が政権を
朝廷に返上することを申し入れ、翌15日、朝廷はそれを受け入れた。

これによって鎌倉幕府以来、約700年続いてきた武家政治は終了した。



王政復古

1867年(慶応3年)12月9日、天皇は王政復古の大号令を発した。
これは、徳川慶喜の将軍辞職と、徳川家の領地没収を意味するものであった。

これにより、天皇が総裁・議定・参与の三職を通じて行政権を行使する
明治政府が発足(1867年12月9日)した。



戊辰戦争

1868年(慶応4年)1月3日から1869年(明治2年)5月18日まで行われた新政府軍と
旧幕府側との戦いの総称。
鳥羽・伏見の戦い、上野戦争(彰義隊の戦)、会津戦争、箱館戦争などを含む。



元号を明治に改元

1868年(慶応4年/明治元年)9月8日、明治改元の詔が発せられ、慶応4年を明治元年とした。
あわせて、天皇一代に元号を一つとする「一世一元」の制が定められた。



版籍奉還


版籍奉還は、領地と領民を天皇へ返上し、幕藩体制の解体と中央集権をはかった政策である。
「版」とは領地、「籍」とはそこに住む人々を指す。

幕府が倒れた後も、国内は諸大名がそれぞれ統治を続けていたため、新政府は大名に
版籍を国に返すように働きかけたのである。

大名は、その後も藩知事(地方長官)として藩政を委任され、その身分と収入が
保たれたため、特に大きな混乱もなく、諸大名の領地・領民が天皇に返還された。

新政府は、版籍奉還と同時に、公家・大名諸侯の呼称を廃止して華族制度を導入し、
公家142家、大名諸侯285家が華族として認められた。



廃藩置県

廃藩置県は、すべての藩を廃止して、府県に統一し、中央集権体制の強化をはかった政策。

旧藩知事はすべて東京移住を命じられ、代って府知事・県令(のちの県知事)が
中央から派遣。
全国は、3府72県の行政単位に統一、天皇を中心とする中央集権国家の統治基盤が確立した。



西南戦争

1877年(明治10年)鹿児島の士族が西郷隆盛を担いで政府に反乱を起こした。
反乱軍は、近代的な政府軍に敗れ、西郷は自害。

武力による反抗はこれが最後となり、不平士族の反政府運動は言論が中心となった。



大日本帝国憲法

伊藤博文らが渡欧して研究し、君主権の強いプロイセン憲法を手本にして草案をつくり、
1889年(明治22年)2月11日、大日本帝国憲法が発布された。

主権は天皇にあり、国務大臣や官吏は天皇が任命し、議会は政府を組織する権限をもたない。
外国と条約をむすんだり、戦争を始めることもすべて天皇の権限であった。

特に軍部は天皇に直属するものとして、政府からも議会からも独立していた。
また、国民は「臣民」とよばれ、その権利は法律によって制限できるとされていた。



日清戦争

日清戦争のきっかけは朝鮮だった。1894年(明治27年)朝鮮で大規模な農民一揆
(東学党の乱)が発生したが、朝鮮政府はこの乱を鎮圧できず清国に出兵を要請した。

朝鮮への進出を狙っていた日本は、これを好機と捉え、居留民の保護を名目として出兵。
乱はまもなく鎮圧されたが、日本も清も軍を引かず、清に宣戦布告して日清戦争が勃発。

開戦後、日本は清の艦隊を破って勝利。下関で講和会議を開き、遼東半島及び台湾、
賠償金として、銀2億両(約3億円)を獲得した。この結果、日本は大陸進出の足場を築いた。



三国干渉

日本に危機意識を覚えたロシア、ドイツ、フランスの三国干渉に遭い、やむなく遼東半島を
放棄した。だがその後、ロシアが清国から遼東半島を借り受け、アジア進出の拠点とした。

そのため日本は、反ロシア感情をつのらせ、清国からの賠償金は、軍備増強に充て、ロシア
の極東進出を警戒するイギリスと日英同盟を結び、ロシアとの来たるべき戦いに備えた。













日露戦争

1904年(明治37年)ロシアが朝鮮国境を越え、軍を移動し基地の建設を始めると、日露開戦となった。
日本は旅順の要塞を陥落、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に壊滅的な打撃を与えた。

米国、T.ルーズベルト大統領の斡旋で日露講和条約を締結、日本は朝鮮と満州の権益、樺太の南半分を
獲得したが、ロシアから賠償金は得られなかった。



日韓併合

日露講和条約で韓国に対する優越権を認められると、韓国を保護国とし、伊藤博文を統監府の長官
として派遣し、外交・軍事などを日本の手におさめ、1907年(明治40年)には政権もにぎった。

これに対して、韓国民衆の抵抗が盛んになり、1909年(明治42年)伊藤は満州のハルビンで、
朝鮮の独立運動家、安重根によって暗殺された。

1910年(明治43年)日本はこれを機会に、武力を背景とし、韓国(大韓帝国)を日本の植民地とする
条約を締結させた。内容は、韓国皇帝が統治権を日本の天皇に譲与するというものであった。

日本から見れば、自国の安全保障上、朝鮮半島の安定化は必要であったが、韓国としては
国が消滅する危機感をもった。独立運動も、その後止むことはなかった。



第一次世界大戦

1914年(大正3年)第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟を理由に参戦。
アジアにおけるドイツ権益に対して攻撃を開始した。

ドイツから「火事場泥棒」と非難されるも、かつて三国干渉で、卑劣にも日本の権益を奪取されたとの
想いが強く、ドイツの租借地、青島と、ドイツ領南洋諸島(マーシャル諸島など)を占領した。