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この列車の旅、大阪~東京は十四時間もかかるのですが、車内で次々に事件が起きて、あきるどこ
ろではありませんでした。あとになって思うと、僕はこの列車の中で、今後の人生に大きくかかわる
人々に何人も会っていたのです。

事件の一つは、国分の「一目惚れ」です。
同じ列車に乗り合わせた万才師たちが、三十歳くらいの大変な美人を相手に言い合いを始めたので
す。聞くともなしに聞いていますと、美人は万才の興行主で、あの有名な丸福興行の女社長のようで
した。裄乃(ゆきの)という名前であることもわかりました。
裄乃さんは老万才師にかんで含めるように言っています。古い芸に固執して進歩もなく客も呼べな
いのは困る、何とか東京で新しい万才を勉強してほしいと。それができないなら舞台を降りてもらい
ますということらしいのです。すると、老万才師に同情的な仲間がすごみました。
「女(おなご)に何がわかる」
裄乃さんの切り返しは見事でした。
「うちは興行主です、女やとは思てません。芸人はお客さんに笑ってもらうことが勝負に勝つこと。
昔のように小屋中のお客さん笑わすの見せてくれたら、うちは土下座して謝ります」
仕事に生きる女の厳しさを見せられた気がしました。それでいて、背すじを伸ばして凛々しいくら
いきれいなのです。国分はそんな裄乃さんに一目惚れして、すっかりフニャフニャ。

もう一つの事件は、走っている汽車から十五、六の少女が飛び降りたことです。
少女は奉公に出るらしく、行商人のような男と座っていましたが、ブスッとして一と言も口をきき
ません。賀津(かつ)と呼ばれているその娘、可愛い顔をして無愛想だな、と僕も思っていました。
行商人がちょっと席を外した時、ちょうど止まった駅から一人の女の子が乗ってきました。その子
を見るや、賀津が叫んだのです。
「佳江! どがいしたの」
妹のようです。話の具合から二人には親がなく、今では賀津が働いて、親戚の家に預けた妹を女学
校に通わせているようです。
妹は姉にばかり苦労をかけることをわびながら、発車寸前に降りていきました。
「しっかり勉強せんといけんよ!」
動く汽車の窓から妹を見送る賀津の目に、涙が光っていました。賀津は僕に涙を見られたと知り、
きまり悪そうに顔をそむけるとすぐに無愛想な娘に戻ってしまいました。
騒ぎがあったのはそのあと、席に戻ってきた行商人を、賀津はものすごい勢いでなじったのです。
「妹ンとこ、金も本も届いとらんて、どがいしてですかッ」
答えを待つ間もなく、賀津は行商人の鞄を逆さにして、中身をバラまきました。すると、本当に金
の入った封筒が出てきたのです。
「これはうちのです。うちが妹に送ってほしいって渡した三十円です」
「それは違う言うてるやろ! 返せッ」
自分がネコババしたというのに、行商人は賀津につかみかかりました。すると、賀津はあっという
間に封筒を持って逃げ、動く汽車から飛び降りてしまったのです。車掌が来て大騒ぎになりましたが、
賀津は土ぼこりの中からすっくと立ちあがると線路づたいに駆けていってしまいました。

こうして東京に着いた僕たちは、母への言い訳ではありませんが、上野動物園にホンモノのキリン
を見にいきました。それにしても、東京は生き馬の目を抜くところです。十歳ばかりのこまっしゃく
れた男の子が、ガラクタを売りつけようとして離れないのです。ついには、
「歌麿写真はどう? 吉原一の別嬢さん、東京一の色女」
と、胸の格好なんか身振りするに至って、つい、国分の財布がゆるみました。ところが金を受け取っ
たとたん、その子の顔が引きつり、逃げ出したのです。
「刑事だッ」
ドヤドヤと駆けてきた男たちは、あの子は上野の浮浪児で、ガラクタを売りつける札つきだと血相
を変えています。国分があわてて写真を確かめますと……裸は裸でもふっくらした赤ちゃんでした。
これだけではありません。恥ずかしくて言えないようなことが起きてしまったのです。
刑事だと信じきっていた男たちはあの子とグルだったのです。取り調べの参考にしたいの何のとう
まいことを言われ、僕たちはあり金全部入った財布を男たちに渡してしまったのです。
ええ……それっきりです。財布といっしょに男たちは消えてしまいました。

やっと本郷の下宿先「長友館」にたどり着いたものの、一文なしとわかったらおかみの早苗さん、
必殺手のひら返しです。国分と二人、狭い部屋に押し込められて食事もくれません。毎日、腹が減っ
て腹が減って、講義はおろか、眠ることさえできません。二人で大阪に「カネオクレ」の手紙を出し
たのですが、いっこうに送ってこないのです。
もっとも大阪では不審に思ったでしょう。餞別や何やで、僕たちはかなりの金を持ってきたのです。
それが何で、一日二日でなくなるのかと、そりゃ誰だって思います。
それでも何日かは犬のメシを盗んだりして食いつないできたのですが、いよいよダメだということ
になって、布団を質に入れたのです。布団を金にかえて帰る途中、僕は息を呑みました。いたのです。
あいつ、あの歌麿写真、そう札つきのあの浮浪児です。その子をとっ捕まえて、この前の男たちのと
ころへ案内させました。取られた金、少しでも取り返そうと思ったのです。……甘かった。イカサマ
将棋をやられて……布団代まで巻き上げられてしまいました。ところが、あの浮浪児、僕のそばを離
れないのです。人のよさに惚れたの、義兄弟の契りを結びたいのと言い出す始末。ふざけンなという
ところです。こいつのおかげでスカンピンになっているんやで!
浮浪児は気の毒がったのか、近くの演芸場から余り物の弁当をもらってきてくれました。猛烈なす
きっ腹でしたからガツガツ食いましたけど、情けなくて涙が出ました。何でこんな権太くれに世話に
ならなあかんのや……。この権太くれの名前、ビリケンというんだそうです。本当は健次というらし
いのですが、駆けっこがいつもビリなのでビリの健次でビリケンだとか。バカにした名前だと怒って
いるので慰めてやりました。

「可愛いやないか。東京じゃ言わへんか? 大阪ではキューピーのことをビリケン言うんや」
「キューピー?」
「そうや、天使のことや」

天使と聞いて権太くれキューピーは黙ってしまいました。悪ガキですが、この子、どこか可愛い。
その時、演芸場の前をあの人が通っていきました。あの人、そう、列車の中で国分が見初めた裄乃
さんです。
ビリケンにもらった弁当、ちゃんと半分は国分のために残して長友館に帰ると、国分も天丼を半分
残して僕を待っていました。そばに熱っぼい目を国分に向けながら、二十五、六の女が座っています。
同じ長友館に住むカフェの女給さんで、お春さんという人でした。色男の国分にまいって、天丼をお
ごってくれたらしいのです。しかし、国分は裄乃さんを見かけたと聞くやもう気もそぞろ。すぐに浅
草の演芸場に行こうと言い出したのです。
演芸場に着くと、国分は切符を買って表玄関から、僕はビリケンの手引きで裏口から忍び込みまし
た。楽屋まで来ると、すごいいさかいが聞こえてきました。汽車の中の続きのようです。何とか古い
芸のまま舞台にあげてくれと頼む老万才師を、裄乃さんは敢然とつっぱねて出ていきました。しかし、
楽屋の裏で、お磯という丸福興行の女番頭にそっと生活費を与え、老万才師に渡すようにと言ってい
るのです。その時、裄乃さんの目に涙が浮かんでいました。
裄乃さん、本当はつらいんやなあ。僕はこの時、なぜか賀津の涙を思い出しました。
外に出ると、国分がしょんぼり立っています。お磯さんに追い払われて、裄乃さんとは会えなかっ
たというのです。何というこっちゃ。こっちは涙まで見てしまったというのに。
長友館に戻ると、また思いもかけないことが起きていました。本当に東京というところは息つく暇
もありません。あの汽車から飛び降りた娘、そう、あの田舎娘が、長友館に年季奉公にやってきたと
いうのです。まさか……と思って帳場をのぞくと……本当にいました。
すごい傷だらけの顔して、ニコリともせず座っていました。