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失恋の章

東京での大学生活も二年が過ぎ、今、僕と国分は夏休みを利用してビリケンもいっしょに鳥取砂丘
に来ています。二人にとって、鳥取砂丘は学生時代何度も魚つりに来たり、お互いに将来のことを語
り合ったりした思い出の場所です。

近ごろでは国分の勧めもあってポツポツと小説を書き始めているのですが、ひょっとして僕の麒麟も
小説なのでしょうか……。しかし、早いもので、もう昭和も五年です。世界大恐慌のあおりで、
街には失業者があふれ、人の顔つきも変わっていくようでした。

変わったといえば、周囲の人間もどんどん変わっていきます。ビリケンなんて大変なものです。
賀津に立派な字で絵葉書なんか書いています。国分にしたってそうです。処女作が好評で、
次々に原稿依頼がある有望新人になってしまいました。「むっつりお賀津」は今や恋する乙女です。
国分を見る目が日ごとに熱くなるのが、傍目にもよくわかるのです。変わらない
のは僕だけです。いや、一つ変わった。それは……恋をして失恋したということです。

出版社に出す原稿が気になるとかで、国分は東京へ戻り、僕はビリケンを連れて、もう少し旅を続
けることにしました。当てなぞありません。けど……、東京に帰ってもつらいのです。精力的に原稿
用紙を埋めていく国分、それを熟っぼく見守る賀津。彼らに比べて僕は感動するものを何ももってな
いのですから。
ビリケンと二人、足の向くままの旅は結構快適なものでした。今日は出雲でのんびりしています。
今ごろ、東京では国分が書きまくってるんやろなァ。賀津はかいがいしく世話をしてるんやろか……。
忘れようと思っても、やっぱり賀津や国分のことが頭から離れません。困ったものです。

そんなある日、賀津の故郷が大山の麓の貝原という村だということを思い出しまtた。貝原なら遠
くありません。さっそく訪ねてみることにしました。
行ってみて驚きました。段々畑に細々と野菜を作っている本当に小さな農村です。賀津の言ってい
た言葉一つ一つが重みをもって迫ってきます。
そして、佐吉という老人から、子供のころの賀津の話をずいぶん聞きました。素直で優しくて、で
もそれをきかん気で隠していた娘だったといいます。
「小さいによう働く子だったわい」
佐吉老人の言葉を聞きながら、僕は胸が熱くなりました。まったくバカなことです。忘れるための
旅だったのに……。
結局、僕たちはしばらく貝原に住みつき、佐吉老人の農作業を手伝うことにしました。

そのころ、東京では裄乃さんが神戸新開地で出合ったエンタツを丸福興行に入るように口説いたり、
国分は次の作品の打ち合打せで忙殺されたりで、大わらわだったらしいのですが、むろん、僕は
そんなこととは知らずに、ビリケンを子分に佐吉老人と鍬をふるっていました。

貝原をあとにしてから、僕は東京に戻らず、大阪に帰ってきました。といっても両親にも連絡せず、
その日暮らしです。髪もヒゲも伸び放題で、乞食同然。一日のほとんどは通天閣の下で将棋をさして
いました。やっぱり、いいのです。通天閣のある町。下駄の音が響く中、あっちでもこっちでも
自称坂田三吉が将棋をさしています。僕の故郷なんだとしみじみ思いました。
その時、血相変えて飛んできたのは何と国分です。東京から僕をわざわざ探しにきたのです。
「今まで、どこほっつき歩いてたんや。みんな心配してるやないかッ」
国分が頼み込んでくれたらしく、ある出版社の編集長が僕の書いた小説のことで会いたいと言って
いるというのです。僕は一日遅れて必ず東京に戻ることを約束して、国分を一足先に帰しました。

その夜、僕は身なりを整えると久々に裄乃さんと飯を食いました。けど、二人とも、食が進みませ
ん。裄乃さんは仕事のことで頭ばかりかお腹までいっぱいなのでしょうか。周囲の猛反対を押し切っ
て、エンタツ・アチャコを組ませ、初舞台にまでこぎつけたというのに、さんざんの酷評だったそう
です。僕の食欲不振は……気取っていえばアンニュイとでもいうのか、何もかも虚しくて、何もした
くない気分なのです。
翌日、東京へ帰る列車の時刻が迫っているというのに、気晴らしに寄席へ行ってみました。そこで、
初めてエンタツ・アチャコの芸を見たのです。面白かった。なのに、客席からはヤジだけじゃ腹の虫
がおさまらないとばかり、ミカンや菓子まで飛ぶのです。しかし、それらが顔に当たっても、二人は
笑いながら万才を続けていました。
僕は感激して楽屋へ行きました。そして、こうしたらもっと面白くなるなどと言っているうちに桁
乃さんも出てきて、四人で大論争になってしまいました。僕は大学中退というインテリのエンタツさ
んに完全に論破されてしまいましたが。
それで結局、……結局、僕は東京に戻りませんでした。何だか大阪に忘れ物をしているみたいな気
がして、東京に帰る気がしないのです。国分、堪忍ッ!

翌日、突然エンタツさんが実家を訪ねてきました。一枚の新聞切り抜きを見せると、これをネタに
万才書いてみ、と言うのです。
どうも裄乃さんの差しがねらしいとわかりました。新しい万才のためには芸人だけでなく、作者も
新しい人を探すべきなんだと、裄乃さん思ったのではないでしょうか。でも、僕は断りました。やっ
ぱり、どこかに帝大に入ってまで、万才なんぞ書けるかという気持があったんだと思います。どうも
今の世の中、万才というと低級で卑猥なものという感じがまぬがれないのです。
それにしても裄乃さんという人は大した女です。断ったのに引っ込みやしません。それも、サァ書
け、ホレ書けというのではなく、さり気なく万才の真髄を話しながら引っ張るのです。それもあの美
しい謎めいた微笑を浮かべながら。本当に浪花のモナ・リザです、あの人は。それでも断る僕にニッ
コリ笑って言いました。
「文平はん、小説もよろしおますが、文字の読めん人には何もええこと、あらしまへん。どんなお人
も感動させられるのは、うちらだけです」
この一言で、僕は落ちた。よしッ、新しい万才書いたるで!

結局、一晩で書きあげました。それをすぐにエンタツ・アチャコが演じてみせてくれたのですが、
あまりのひどさに僕は恥ずかしくて、原稿用紙を引ったくると家に逃げ帰りました。
「何でや?何で、おもろないんや」
二階の自分の部屋で、原稿用紙をにらみつけていますと、無理して字に書いたみたいな笑い声をた
ててくれたビリケンの「アハハ」が浮かんでは消えていきます。

悶々と苦しんだ翌日、国分の使いで賀津が来ました。あの賀津です。賀津がはるばる大阪まで来た
のです。僕が東京に帰らないものですから、国分が代わって僕の小説を編集長に見せたんだそうです。
そしたら、それを活字にしたいので大阪で少し直してほしいと、原稿を賀津に持たせたわけです。
僕は大阪の町を賀津に案内して歩きながらほとんどうわの空です。しばらく合わないうちに賀津が
きれいになって、何だかまぶしくてしょうがない。けど……うわの空は僕だけでなかったのです。賀
津もだったのです。早く東京へ、国分のもとへ帰りたくて見物どころではなかったのでした。

切ない思いで賀津を帰したあと、小説の直しに取りかかりました。僕には縁のない女なんや、もう
あきらめ……って自分に言いきかせて。けど、またうわの空です。昨日の万才台本のどこが悪かった
のか気になって、小説どころではないのです。結局、小説の直しを放り投げて、万才の直しに夢中に
なってしまいました。直すたびに読んで聞かされて、ビリケンは笑う気力もなくしてグッタリしてい
ます。ついには両親をにわか万才師に組ませて、台本を演じさせてみました。メチャクチャやと言っ
て、二人は初め照れていましたが、こっちだって真剣なんです。

そうやってやっとできた台本をすぐエンタツ・アチャコに演じてもらいました。今度はおもろかっ
た。前の時は何のかんの言っていたアチャコさん、お磯さんもびっくりするくらいの出来でした。
でも、僕はまだ満足していません。どこかをどうにかすれば、もっとおもろくなるはずなんです。
どこなんやろ。どうするんやろ。頭の中が万才一色のまま、国分と会うために再び鳥取砂丘へ出かけ
ました。小説の直しをしなかったおかげで、国分に大変な迷惑をかけたのですが、国分はそれを怒る
どころか、万才一色で電話の受け答えもあやしかった僕を心配して誘い出してくれたのです。そして、
このままでは大学も卒業できないと気づかうばかりか、僕の小説の才能を買ってくれて、何とか伸ば
す援助をすると励ましてまでくれるのです。しかし、僕は思わず、
「万才もおもろいで」
と言っていました。自分でも考えないうちに言葉が出たという感じでした。
国分は驚いて、初めは言葉を失ったように見えたほどです。そのうち、ありったけの言葉で低級や、
卑猥やと万才をバカにし、思いとどまらせようとしました。
国分の友情は本当にありがたかったのですが、国分の言葉を聞けば聞くほど、僕は万才への思いが
強いことを知らされた気がしました。少なくとも今は、僕の頭の中には、万才しかないのです。
こうして僕は、鳥取をあとにするとその足で裄乃さんを訪ねました。丸福興行へ入社させてくれと
頼むためでした。その時、裄乃さんも「万才」を「漫才」と改称し、新たな決意で取り組んでいく気
持を固めていたのです。

丸福興行へ入社した僕は、何もかも忘れて漫才を書きました。それをエンタツ・アチャコが演じま
す。しかし、やはり新しすぎるのでしょうか。日本で初めて洋服姿で舞台に立つ二人も新しければ、
僕の書く台本も新しすぎるのでしょうか。客席からは毎日ミカンが飛び、さんざんな酷評が飛びかい
ました。それでも次から次へと漫才ネタを書いてみせました。これでもか、これでもかという気持も
ありましたし、裄乃さんがどこか嬉しそうに見守っていてくれるのも支えでした。もちろん丸福興行
の全員が僕を歓迎していたわけではありません。

裄乃さんにとっても手ごわいのは重役の山崎信明という男でした。新しい芸に投資すること、エン
タツ・アチャコの引き抜き、帝大生の僕を社員にすること等々すべてに反対してきた男でした。
しかし、僕が一番つらかったのは、芸人たちに歓迎されていないことでした。インテリさんとか先
生とか呼ばれながらも、裏ではあんな若造に何がでける、遊び半分のくせしてと陰口をたたかれてる
と知った時は、さすがにこたえました。そういう時は、国分や賀津のことをふと思い出したりもしま
す。どないしてるかいなと想像するだけですが……。賀津が少し生活にゆとりができて洋裁を習い始
めたことや、シャツを仕立てて国分にプレゼントしたことなんかはそのころ、知るはずもありません。
まして、想いを国分に打ち明けようと迷っていることなんかは……。

とにかく僕は、何とか遊び半分ではないことを芸人たちに知ってもらおうと頑張りました。反省も
しました。古い芸をうかつに批評したのもいけなかったと思います。古い芸といったって、芸人たち
には長いことそれで生活してきたプライドというものがあるのですから。
そんなある日、エンタツ・アチャコとの巡業の話が入ってきたのです。僕がどのくらい真剣かとい
うことをわかってもらう絶好のチャンスです。
ところが何と、巡業に出発するその日に国分がわざわざ東京から来たのです。あのあと、国分が出
版社に頼んでくれたおかげで、僕に小説の依頼があったのですが、全然書いていませんでした。業を
煮やした国分が催促にやってきたんだと、とっさに思いました。
しかし、二人でいろいろ話してみますと、国分は大きな度量で僕のことを考えていてくれたのです。
今回来たのも、催促だけではなく、お前にはほんまに小説の才能があるからいっしょに書こうという
真剣な勧めなのです。ありがたくて頭が下がりましたが、いくら下品だ卑猥だと言われても、頭の中
は漫才でいっぱいでした。僕は国分の手を振り切るように巡業に旅立ちました。

巡業先では朝から晩までよく働き、神社の境内に仮設舞台を作る力仕事から、お囃子の太鼓までた
たいてみせました。遊び半分ではないということを知ってもらうためなら、何だってやりました。
しかし、芸人たちはいっこうに、僕を仲間とは思ってくれません。
さすがに弱気になっていた時、僕は芸人たちがみなつらい過去をもっていることを知らされました。
そうか、どないつらい過去をもっていても、ああして「笑い」を商いにしてんのやなァ。僕はその「笑
い」にうんと奥の深いものを感じました。人間というのはつらいから、だから笑いが必要なんやとし
んみり思ったものです。

あとで聞いたことですが、ちょうどこのころ、国分も大阪へ帰る決心をしていたといいます。出版
社が大々的に売り出そうとしていただけにそのチャンスを振ってまでなぜ……と周囲の反対は強かっ
たようですが、国分は東京での生活にも仕事にも張りがなくなっていたというのです。生まれ育った
大阪で小説を書きながら、西鶴研究の地盤を作ろうと思ったというのです。
そして、このころ、国分は僕が賀津を好きだということ、一方の賀津は国分自身を好きだというこ
とをお春さんから知らされたようでした。
巡業を続けていくうちに、芸人たちは少しずつですが、僕を仲間と認めるようになってくれました。
現金なもので、そうなると何をしていても体中に力がみなぎるような気になってきます。気分のいい
日が続きました。

そんなある日、一行が小さな山村に着いた時、同行していたビリケンの様子がおかしくなりました。
聞けばビリケンが生まれ育った村だというのです。そして、身寄りがないと思っていたのに、ずっと
ビリケンを捜し続けていた叔母さんと再会までできたのです。
僕たちと巡業を続けると言い張るビリケンを叔母さんと暮らすように、そして、また学校にも行く
ようにとやっと説得したのですが、別れる日が大変でした。今までぶたれようが蹴られようが、食う
ものがなかろうが絶対に涙を見せなかった子です。それが僕にしがみついて、ワァワァ泣くのです。
泣くな言うとんのに……。わしかて泣きとなるやないか。お前が上野公園で、澄んだ目して歌麿写真
売りつけにきてから三年たつんやもんな。な、いろんなことがあったな、ビリケン。鳥取砂丘にも行
ったし、西洋レストランで飯も食うたし、塾もおもろかったな。ビリケン、ラムネ色やで! 忘れた
らあかんぞ。さよなら、ええ男になれよ!

巡業を終え、ビリケンと別れて大阪へ戻った僕たちを待っていたのは、思いがけない国分の帰郷と、
そして丸福興行の難題でした。例の重役の山崎が、これ以上先の見通しのないエンタツ・アチャコ、
それに僕を切り捨て、踊り子のラインダンス・ショーを導入すると言い始めたのです。
「あとひと月だけ様子見まひょ。それであかんなら、踊り子はん入れますよってに」
冷酷に期限を切られてしまった以上、時間はありません。とにかく一か月で何としても新しい漫才
の良さをお客さんにわかってもらうことだと僕は燃えたのです。さすがの裄乃さんも方針を変えよう
と弱気を起こしましたが、僕はガンとしてエンタツ・アチャコの線を譲らないつもりでした。せっか
くあと一歩のところまで来て逃げ腰になっていられるか。エンタツ・アチャコという才能を埋もれさ
せてたまるか言うんや!

僕とエンタツ・アチャコは毎日徹底的に話し合いました。ネタの選択から芸の演出に至るまで話し
て話して話して、時にはとっ組み合いの喧嘩までやりました。もう僕は頭の先から爪の先まで漫才一
色でした。そんな様子に、もう小説はダメだなと苦笑いしていた国分にはすまんと思いました。
こうしてエンタツ・アチャコのアイデアも入れて何本か台本を書いてみたのですが、どうもうまく
いきません。何が悪いのか、朝から晩まで考えてみました。とにかく、大衆の生活に密着したネタを
つかむことや……。そう思っていた時、父が口うるさい母に隠れ、ラジオの『早慶戦』に熱中してい
る姿を見て、「これだ!」と直感しました。そこですぐに、以前二人が使っていた野球ネタをもとにし
て、『早慶戦』という漫才を書いたのです。
土俵ぎわの剣が峰です。起死回生、敗者復活の「一本」です。頼むで!

緊張の中、『早慶戦』が舞台にかけられました。いつミカンが飛ぶか、ヤジが飛ぶかと血も凍る思い
で見ていましたが、シーンとしたままなんです。笑い声もないかわりに、ミカンも飛びません。行け
るッ! 僕も、そして裄乃さんも、あるしっかりした手ごたえを感じました。
舞台がはねるやエンタツ・アチャコと手直しです。さァ、どないや、これなら受けるやろ、おもろ
いやろッ。そう口走りながら明日のお客さんの大拍手とミカンつぶてが交互に頭に浮かんでは消えま
した。どや、どんなもんや……。
手直しした『早慶戦』が舞台にかかる日、僕はドキドキしながら演芸場へと向かいました。街には
『酒は涙かため息か』が流れています。チエッ、縁起でもない歌や。涙でもため息でもないわいッ。
幕が開いたとたん、ウワーッという笑いが僕を圧倒しました。

エンタツ 天下の早慶戦! 伝統を誇る早慶戦! あれ、相手はどこでしたかいな?
アチャコ えっ、相手?
エンタツ そうや。
アチャコ 早慶戦の話やで、君。
エンタツ だけどね、早慶対どこそことか。
アチャコ 対、対……?
エンタツ 対ですわ。
アチャコ 鯛も平日もおこぜも何にもあれへん.がな。
     早慶戦といえば、早稲田と慶応やから、早慶やないか。
エンタツ それはわかってるよ、君。それわからずに、何を見にいくんだよ。
アチャコ そんなら君、早慶対というのは、おかしいやないか。
エンタツ ちょっと酒落を言うてみたんや。

押し寄せる笑いの渦の中で、僕は安堵のため息をついていました。もしかしたら涙だって少しはあ
ったかもしれません。とにかくもう、山崎が踊り子の企画をあきらめたことだけは確信していました。
よーし、これからやッ。僕は前途に明るいものを感じると同時に、結果を早く国分に知らせたくて
たまりませんでした。