義経 2005年(平成17年) ドラマ傑作選
壇ノ浦で平氏滅亡の宿願を果たした義経(滝沢秀明)だったが、かえって政局は緊迫の度を増す。
天下創建への時流を掴んだ頼朝(中井貴一) これに対し新たな手を打つ後白河法皇(平幹二朗)
頼朝の勢力増大を恐れた後白河法皇は、軍事に優れた義経を重く用い、頼朝追討の命令を下す。
だが頼朝を重んじる武士たちは動かず、孤立した義経は、奥州藤原秀衡(高橋英樹)の元に落ち延びる。
文治3年(1187年)頼朝に追われた義経が奥州平泉にたどり着いた時、秀衡は暖かく迎え入れた。
平氏が滅んだ今、頼朝が新政権を確立すれば、奥州藤原氏は崩壊の危機に直面することになる。
そんなところへ、頼朝が恐れる軍事の天才・義経がころがりこんできたのである。
すなわち義経が奥州にあるかぎり、奥州の安全は保証されたも同然であったのだ。
だが同年、義経と藤原氏、双方にとって不運なことに、藤原秀衡は病死してしまう。
新たに当主となった秀衡の息子・泰衡(渡辺いっけい)は、凡庸の徒であった。
これを奥州制圧の絶好の機会とみた頼朝は、泰衡に次のような書状を差し出す。
「義経を匿った罪は許し難い。だが義経の首を差し出せば、事を穏便に済ませてやる」
書状の文言に恐れをなした泰衡は、義経の居住する衣川の館を攻め、義経は自刃する。
泰衡は義経の首を鎌倉へ送った。「これで藤原氏も安泰だ」と思ったろう。
だがこれは頼朝の策略だった。文治5年(1189年)頼朝は大軍を率いて奥州を攻め、藤原氏を滅ぼす。
建久3年(1192年)法皇の死去にともない、頼朝は、後鳥羽天皇より征夷大将軍に任ぜられた。
頼朝は、源氏ゆかりの地、鎌倉を根拠地として政権を樹立、ここに鎌倉幕府が成立したのである。
平氏滅亡の先陣に立った源義経が、兄・頼朝に追われて悲運の最期を遂げるまでの物語。
義経の壮絶な生涯を滝沢秀明が演じ、その若武者ぶりや、時代絵巻ともいえる風雅な演出が
視聴者の心を掴んだ。
「判官びいき」という言葉がある。戦の天才で、平氏追討の大功を果たしたものの、
兄の頼朝の反感をかって、非業の最期を遂げた義経に、同情心をよせる言葉である。
だが義経をひいきするあまり、兄の頼朝のほうは「憎まれ役」になっているようだ。
肉親である弟を滅ぼしてしまったことから冷酷さ、非情さを感じてしまうのだろう。
ならば何故、頼朝は義経を破滅に追い込んだのか。義経さえ適当に処遇しておけば、
後世の人々から、あまりに非情すぎると、批判されることはなかったのではないか。
だが武家社会の歴史を振り返ってみれば、肉親の殺害などはむしろ日常茶飯事といえるのだ。
頼朝の父の義朝は、保元の乱で、敵方についた父と弟たちを斬らねばならなかった。
足利尊氏も、織田信長も、毛利元就も、伊達政宗も、家督争いで弟を殺害している。
血縁者、すなわち権力者に取って代わる位置にある者は、粛清される危険を有しているのだ。
もしこのまま義経を生かしておけば、頼朝がまとめあげた東国の武士団はどうなっていたか。
彼らはやがて義経派と頼朝派に分裂して相争い、組織は崩壊して統治不能になるであろう。
武士団を統率する棟梁として、殺すべき者は殺す、ここに権力闘争の悪を見ることができる。
義経の死後、静御前は男児を出産するが、無理やり奪われ、由比ヶ浜に捨てられる。
やがて、頼朝から「白拍子を舞え」と命ぜられた静は、義経を慕う和歌を歌い舞う。
「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき … 」
頼朝の面前で、堂々と義経をなつかしみ、慕う歌を歌って頼朝を激怒させてしまう。
そのとき、頼朝の妻、北条政子が「静が義経どのをなつかしく思うのはあたりまえ。
私も静であったなら、同じように歌うでしょう」そう言って、頼朝を諫めたという。
(制作)NHK(原作)宮尾登美子(脚本)金子成人
(配役)源義経(滝沢秀明)武蔵坊弁慶(松平健)静(石原さとみ)源頼朝(中井貴一)北条政子(財前直見)
平清盛(渡哲也)後白河法皇(平幹二朗)藤原秀衡(高橋英樹)藤原泰衡(渡辺いっけい)藤原国衡(長嶋一茂)