アラブの春     歴史年表   ヨーロッパ史        人名事典)(用語事典)
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ジャスミン革命

2010年12月、北アフリカのチュニジアで失業中の若者の抗議の自殺をきっかけに民衆の不満が爆発。

2011年1月、大きな抗議デモ、民主化運動に発展。
23年にわたり政権を維持してきたベン・アリ大統領を亡命に追いこみました。(ジャスミン革命)

この流れは同じような政治状況をかかえる周辺のアラブ諸国につぎつぎと飛び火。
2011年2月にエジプトのムバラク大統領の退陣、8月にリビアのカダフィ政権の崩壊と、民衆による運動が政権を打倒します。

時期を同じくして、シリア、ヨルダン、バーレーン、イエメン各国でも民衆の抗議活動が展開。
この、アラブ諸国で次々と起こった民主化運動のことを、 総称して「アラブの春」といいます。

政権による妥協案が示された国、いまだに強行に民衆の抑圧を続けている国などもあり、政治的に不安定な状態におちいっています。



ジャスミン革命は、チュニジアを代表する花がジャスミンであることから名づけられました。

2010年12月、チュニジアで、生活のために野菜を路上で売っていた若者が「許可なく店を出すな!」
と警察官に言われ、全てを没収されてしまいます。

市の当局へ訴えましたが相手にされず、絶望した彼は、焼身自殺を図ります。
これが衝撃を与えました。


イスラム教徒にとって「焼身自殺」はタブーです。

イスラム教では、この世の終わりが来たとき人々は生き返り、神の前で審判を受けることになっているからです。
生前よい行いをした人は天国へ行けますが、体が残っていなければ復活できません。

この出来事がフェイスブックなどで広まり「抗議をしよう」という民衆が大規模な反政府デモを展開します。
ベン・アリ大統領は、サウジアラビアに亡命し、23年間続いた政権が崩壊しました。



2011年1月には、エジプトでも大規模なデモが発生し、約30年間にわたって長期政権を維持してきたムバラク大統領が辞任。
裁判で終身刑を言い渡されました。





ホスニー・ムバラク (Hosni Mubarak) (1928年〜)

軍人・政治家・エジプト大統領。(任期:1981〜2011年)ナイル川デルタ地方の小地主の家に生まれる。

1948年の第一次中東戦争をきっかけに士官学校に進む。空軍士官学校教官を経て、第二次・第四次中東戦争に従軍。
この間、空軍大将、参謀長、空軍元帥に昇進。第四次中東戦争ではイスラエルへの電撃作戦で国民的英雄になった。

1975年、サダト大統領に信頼され副大統領に就任。1981年、サダト大統領暗殺をうけて後継の大統領に就任。
対イスラエル和平政策をとり、エジプトを中東の調整役・盟主的な存在に高め、30年にわたる安定政権を維持した。



イラクによるクウェート侵攻(1990年)には、強い反対姿勢を貫いた。
一方で非常事態宣言のもと強権政治をしき、国民の貧富の格差をまねくなど、民衆には不満がくすぶっていた。

2011年1月、チュニジアのジャスミン革命をきっかけに国民の不満が爆発、デモ・暴動が激化するなか軍部も離反し、2月に退陣に追いこまれた。


チュニジアで始まった民主化運動は、ついにリビアにまで飛び火。
40年以上にわたってリビアに君臨してきたカダフィ大佐に対する反政府運動が盛り上がりました。

反政府勢力が、治安部隊によって弾圧されると、NATO軍が介入。
反政府勢力を空爆で支援し、カダフィ大佐は、2011年10月、とうとう殺害されてしまいました。






ムアンマル・カダフィ(Muammar Gaddafi) (1942〜2011年)

リビアの軍人・政治家・最高指導者。(任期:1968〜2011年)リビア砂漠の遊牧民ベドウィン族の子に生まれる。
エジプトのナセル大統領のアラブ統一の考え方に影響され陸軍士官学校に入学、イギリスに留学した後、陸軍将校になる。

1969年9月、クーデターで国王イドリース1世を打倒し、無血革命を達成する。
大佐に昇進して革命評議会議長、1970年、首相に就任。1972年、首相を退いたが、なお同国の最高指導者であった。

内政面では、石油の富を国民に還元し、教育と医療費を無料化。
全アフリカで最も低い幼児死亡率、最も長い平均余命を誇るという超福祉国家を建設した。



同時多発テロの発生時にはテロを引き起こしたアルカイダを強く批判、核査察団の受け入れも行い、アメリカとの国交正常化にこぎ着けた。
一方で、多くのテロや紛争に関わり、その結果1986年、アメリカ軍はリビアを空爆、以降、態度を軟化させ、2003年には核放棄宣言をしている。

2011年1月の隣国チュニジアのジャスミン革命をきっかけに、カダフィ政権打倒の民衆運動が起き、政権が崩壊。
反カダフィ派の国民評議会による攻撃で10月に死亡した。



反政府デモはシリア、ヨルダン、バーレーン、イエメンなどに飛び火していきました。

北アフリカ・中東のイスラム諸国では国王や強力な指導者・大統領による政治が行われてきました。
いずれの国も政治的には安定していましたが、長期政権による人権の抑圧、富の集中による貧富の格差の拡大などによって民衆の不満が蓄積していたのです。

ただ、大規模な流血を見ずに進んだチュニジア、エジプトのようなケースもあれば、内戦に陥り、いまだに泥沼の闘争が続いているシリアのような例もあります。
アラブに本当の春が訪れるのは、まだ先といえそうです。




アラブの春以降

アラブの春以降、それぞれの国では、民主的な社会が実現したのでしょうか?
残念ながら、アラブ諸国で民主的な政権が誕生した国家はまだありません。

チュニジアでは、ベン・アリ政権崩壊後、治安が悪化。イスラム過激派によるテロが各地で相次ぎ、国家非常事態宣言が発令されています。


エジプトでは、親米ムバラク政権が民衆によって倒されましたが、その後選挙によって成立した「反米、反イスラエル政権」は、
軍によるクーデターでつぶされ親米軍事政権に戻されてしまいました。

このクーデターは、アメリカやイスラエル、サウジなどが裏から軍を支援していたためといわれています。

リビアは現在、リビア国民議会とイスラム系の新国民議会による二つの政府が覇権争いを繰り広げ、政府は事実上二つに分裂。
さらに、アルカイダ系のイスラム過激派が勢力を伸張させたことから各地で内戦が激化しており、事実上の無政府状態となっています。



また当時、リビアのカダフィ政権と同じように、シリアもアサド政権による独裁が続いていました。

チュニジア、エジプト、リビアと続いた「アラブの春」は、シリアにも飛び火。
反アサドの抵抗運動が始まると、アサド政権は、容赦なく住民を弾圧しました。しかし、欧米が軍事介入する気配はありませんでした。

なぜなら、シリアには石油が少ないからです。リビアは石油大国です。石油があるからNATO諸国はリビアを空爆したのです。
事実、反カダフィ派は「支援してくれた国に優先的に石油を供給する」と態度を明らかにしていました。

さらに反イスラエルをかかげているシリアは、友好国のロシアにとって大量の兵器を購入してくれる得意先でもあります。
国民の人権に差はないのに、欧米諸国の都合で軍事介入するかしないか区別される。これが国際政治の現実というものです。



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偽りの春


2018年12月、チュニジアの地方都市で、一人の若者が、失業による生活苦を理由に焼身自殺をした。

8年前「アラブの春」のきっかけも、若者の焼身自殺だっただけに、チュニジア国内には衝撃が走った。

アラブの春で民主化が実現したはずのチュニジア。
だが現在、経済政策は行き詰まり、物価の高騰や就職難で、国民の反発が高まっている。

エジプトやリビアにおいても、政局は混迷したままであり、長らく経済状況の低迷が続いている。
失業とともに、経済の悪化は人々を革命に駆り立てた要因だったが、革命後も一向に好転していない。



アメリカによって仕掛けられ、それぞれの国民がその扇動にのせられた一連のアラブの春によって、
アメリカが「独裁政権」と呼ぶ政権は、ことごとく転覆された。

しかし、その後に成立した親米傀儡政権は、従来のアメリカが言うところの「独裁政権」よりも、
さらに独善的になっており、国民の生活は、貧困や失業に追い込まれるという悲惨な状況になった。

アメリカの政財界、軍産複合体が、自分たちの権益のために行ってきた政権転覆、クーデターの試みは、
中東、北アフリカの大混乱と、それらの国民の生活基盤を失わせてしまったのである。



アメリカの他国介入の際に、常に唱えられるのが、民主化、近代化、人権の擁護といった価値観である。
こうした誰も反対できない価値観を用いて、強引に外国に介入するのだ。

介入後は、アメリカにとって都合の良い世界秩序やルール作りをはじめる。
そして、民主化が達成されると、今度はアメリカの国益に資するように管理していくのである。

なお、今回のアラブの春で、民主化(政権転覆)政策に使用された手法は、フェイスブックやグーグル
などのソーシャルメディアによる大衆扇動を主目的としたものである。



そこでは、あらかじめ各国の反政府リーダーたちがアメリカに招かれ、民主化運動を誘発するための
さまざまな手法について、周到な教育が施されたのである。


(引用 2011年4月11日 ニューヨークタイムズ)

U.S. Groups Helped Nurture Arab Uprisings

Some Egyptian youth leaders attended a 2008 technology meeting in New York,
where they were taught to use social networking and mobile technologies to promote democracy.
Among those sponsoring the meeting were Facebook, Google, MTV, Columbia Law School
and the State Department.


「アラブの春」促進を支援したアメリカの諸団体

2008年、ニューヨークで、フェイスブック、グーグル社、MTV、コロンビア法科大学、そして米国務省が主催する
テクノロジー会議が開催された。

この会議に出席したのは、エジプトの若者団体のリーダーたちだった。
彼らは、会議の期間中にソーシャルネットワークや携帯電話の技術を使って、民主化運動を促進することを教えられた。