ベトナム戦争   歴史年表       ヨーロッパ史       人名事典)(用語事典)
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インドシナ戦争

第二次世界大戦中、日本軍に占領されていたべトナムでは、1945年9月、ホー・チ・ミンを大統領とするべトナム民主共和国が独立を宣言しました。

しかし、19世紀からべトナムを植民地として支配してきたフランスはこれをみとめず、
1946年、フランスとベトナム民主共和国とのあいだで、インドシナ戦争が始まりました。

このときベトナム民主共和国を支援したのが、ソ連と中国で、フランスを支援したのがアメリカでした。
この時期は、ヨーロッパでちょうど東西の冷戦がはじまったころでありました。ベトナムでは、冷戦の「代理戦争」が戦われたのです。





ベトナム戦争

1954年、ジュネーブ休戦協定が結ばれ、北緯17度線をかりの境界線として、
その北をべトナム民主共和国、南をべトナム国とし、2年後にべトナム人による南北統一選挙をおこなうことをとりきめました。

しかし、フランスを援助してきたアメリカはこれをみとめず、つぎの年、ベトナム南部に、あらたにべトナム共和国をつくりました。
こうして、ベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム共和国(南ベトナム)は統一後の体制を争うようになっていきます。




アメリカの助けを受けた南ベトナムは、統一を求める国民の権利と自由をうばいとり、はげしい弾圧を加えました。
1960年、自由をうばわれた人々を中心に南べトナム解放民族戦線(ベトコン)が結成され、南べトナム政府に対してゲリラ戦で抵抗しました。

1965年、アメリカは、南べトナム解放民族戦線を助ける北べトナムに爆撃を始め、さらに南べトナムに、多いときは50万人もの大軍を派遣しました。
アメリカ軍はジャングルを焼きはらい、村や町を破壊し、化学兵器や有害毒物なども使用しました。



このアメリカの軍事行動に対し、アメリカ国内をはじめ、世界中に反戦運動が起こりました。
けっきょく、アメリカ軍は各地で敗れ、戦争の軍事費は重くアメリカ国民にのしかかってきました。

1973年、アメリカはパリ和平協定に調印して、南べトナムから軍隊をひきあげました。

その後、南べトナム解放民族戦線がサイゴン(いまのホー・チ・ミン市)を解放し、べトナムは統一され、
1976年、べトナム社会主義共和国が成立しました。

べトナムが統一国家をつくりあげるのには、大戦後から、実に30年もかかりました。







英雄ホー・チ・ミン

ホー・チ・ミンは、21歳のとき、ヨーロッパにわたり社会主義の考えかたにひかれ、ベトナム共産党をつくりました。
第二次世界大戦中の1941年、べトナム独立同盟(ベトミン)を組織して、日本軍と戦いました。

1945年、日本が敗れると、ベトナム民主共和国の独立を宣言して大統領になりました。
その後もフランスやアメリカと戦い、ベトナム民族の解放に一生をささげました。

しかし、ベトナム戦争中の1969年、ベトナムの統一を見ることなく亡くなりました。





ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の成立

第二次世界大戦後、独自の社会主義政策を進めてきたユーゴスラビア連邦は、「6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教」といわれ、
政治・民族・言語・宗教がからみあって、たいへん複雑な国でした。






ユーゴスラビアとは「南スラブ人の国」という意味です。

第二次世界大戦でナチス・ドイツに支配されたため、「建国の父」と呼ばれたティトーが、
共産党ゲリラを率いて戦い、自分たちの力だけでドイツを打ち破りました。

西ヨーロッパがアメリカに、東ヨーロッパがソ連によってナチスから解放されたのに対して、
独力で勝ったことに、ユーゴスラビアの人たちは強い誇りをもっていました。


戦後、ティトーは、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の成立を宣言し、1980年に死去するまで、
ユーゴスラビアのカリスマ大統領として、この複雑な国を束ね統治してゆきました。

ユーゴスラビアは共産圏国家ではありましたが、ソ連とは一線を画し、独自の社会主義路線を進めるとともに、
ソ連からの圧力を跳ね付けるため、ヨーロッパでは第5番目に位置するほど強大な軍事力を持つ国ともなりました。



しかし、冷戦の終結とともに、ソ連が侵攻してくるという脅威も消滅、さらに1980年にティトーが死去すると、
それまでユーゴスラビアという国をひとつにまとめてきた「タガ」がはずれてしまいました。

結果、歴史的に複雑な民族感情、宗教意識が表に顔を出し、ユーゴスラビアは、内戦と分裂の道をたどることになったのです。








内戦の勃発とユーゴスラビア連邦の消滅


1989年、東ヨーロッパで起こった革命の波がこの国にもおよびました。

1991年、長いあいだ、ギリシア正教徒のセルビア人の支配を受けてきた、カトリック教徒のスロベニア共和国、クロアチア共和国、
そしてマケドニア共和国が連邦から独立すると宣言しましたが、セルビアは、これをみとめず、内戦が起こりました。

しかし、西ヨーロッパの国々が、これらの国の独立をみとめたため、内戦は終わりました。


ところが、1992年、ユーゴスラビア連邦からボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言しました。
この共和国には、イスラム教徒のほかに、ギリシア正教徒のセルビア人、カトリック教徒のクロアチア人が暮らしていました。

この民族と宗教のちがいから、きのうまで仲よくくらしてきた人々のあいだで殺し合いが始まりました。
国連による平和維持活動(PKO)やアメリカなどの努力によって、1996年、内戦はやっとおさまりました。


1991年以降、スロベニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴビナが連邦から分離独立したあと、
セルビアとモンテネグロは、2003年、両国が共同して運営するセルビア・モンテネグロ国家連合を結成しました。

しかし国家連合もその3年後の2006年、モンテネグロが連邦から独立、
さらに2008年、コソボが共和国としてセルビアより独立したことにより、ユーゴスラビア連邦は名実ともに消滅しました。



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ベトナム戦争


アメリカの正義は、自由と民主主義を守り抜くことにある。

ベトナム戦争介入も、共産主義勢力の抑圧から、ベトナム人民を解放するためであった。


介入のきっかけとなったのが、1964年8月のトンキン湾事件である。

トンキン湾で、アメリカの駆逐艦が北ベトナム軍に、2回にわたって魚雷攻撃を受けた。

アメリカ側は、先制攻撃を受けたとして、北ベトナムへの発砲に踏み切ったのである。


実はこのとき、北ベトナムのトンキン湾基地は、南ベトナムによって攻撃されていた。

北ベトナム側は、アメリカの駆逐艦がこの挑発行動の一環と受け止めて攻撃したのである。



しかも2回目の攻撃は、実際にはなかったことも、のちに判明している。

以後8年間、泥沼の戦争が継続され、6万人のアメリカ兵と200万人のベトナム人が死傷した。


アメリカにとってこの戦争は、本来の目的であったベトナム沖の油田や領海権の獲得を果たせず、

1973年に撤退するまで、多大な戦力と兵員を無意味に消耗した以外の何ものでもなかった。










     



ベトナム戦争(アメリカの戦争にノーといえない日本)


ベトナム戦争にさいして、日本政府は、アメリカの軍事介入を全面的に支持し、

西東京の横田基地など在日米軍基地をベトナム攻撃の最前線の基地として

使用させている。


これに対し、反戦を訴える「べ平連」など、学生運動や市民運動が活発化し、

デモや集会が頻繁に開催された。




一方、ベトナム戦争取材のため、TBSはニュースキャスターの田英夫らを

米軍の激しい爆撃下にある北ベトナムに派遣した。

西側の報道陣が北ベトナムに入ったのはこれが初めてであった。


この取材の結果をドキュメンタリーにまとめ、この中で田英夫は、殺人兵器の恐ろしさ、

戦争の悲惨さを伝えるとともに、爆撃下の北ベトナム人の微笑みをみて、アメリカが

この戦争に勝利をおさめるのは困難だとの見通しを表明した。


しかし政府筋は、これに対して偏向報道として反発し、その後も政府与党が

反発するような問題がTBSに関していくつかあった。


こうして政府筋の圧力が強まった結果、翌年、田英夫はニュースキャスターを降板して

調査部門に移り、のち退社した。

(ハノイ・田英夫の証言 1967年10月30日)