冷たい戦争
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ヨーロッパ史
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鉄のカーテン
第二次世界大戦で敗れたドイツの国土は、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連によって管理されました。
いっぽう、第二次世界大戦中にドイツに占領されていた東ヨーロッパの国々は、
ソ連軍によって解放され、社会主義の国として生まれかわりました。
これに対し、1946年、イギリスのチャーチルはアメリカの大学で、「北はパルト海のシュテッティンから、
南はアドリア海のトリエステにかけて、ヨーロッパ大陸を横切る形で鉄のカーテンがおろされている」と演説し、
社会主義の大国ソ連が、ひそかに東ヨーロッパに勢力をのばしてきていることを警告しました。
(ソ連のスターリンは、占領した東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、
ブルガリアなどの国々を、次々にソ連の保護国にしてしまったのです。
これらの国々は、西側諸国との交流をたち、出入国も自由にできなくなりました。
言論の自由も認められなかったので、国内の様子が西側からはまったくわからなくなったのです。
これが、チャーチル言うところの「鉄のカーテン」でありました)
封じ込め政策とコミンフォルム
アメリカのトルーマン大統領時代における共産主義勢力への対応を、「封じ込め政策」といいます。
これ以上共産主義国家をふやさないというものでした。
1947年の「トルーマン・ドクトリン」は、政府に反対する共産勢力の動きがあったギリシアとトルコへの支援、
「マーシャル・プラン」はヨーロッパ諸国の戦後の経済復興を支援するものでした。
西ヨーロッパの国々は、アメリカの援助で経済の復興にとりかかりました。
(トルーマン・ドクトリンとは、ギリシア・トルコ両国に対する軍事援助を目的とするもの。
ドクトリンは「宣言」を意味しています。
マーシャル・プランとは、ヨーロッパ諸国の戦後復興のため、大規模な援助を提供して経済を安定させること。
プランは「計画」を意味しています。これらは、共産主義勢力の浸透を防止する狙いがありました)
しかし、ソ連と東ヨーロッパの国々は、これに反対して、1947年、ソ連共産党のもとで結束を図るため、
コミンフォルム(共産党情報局)を結成しました。
こうして、アメリカを中心とする資本主義諸国(自由主義圏・西側諸国)と、
ソ連を中心とする社会主義諸国(共産圏・東側諸国)は、はげしく対立しました。
このふたつの陣営の冷えきった対立を、「冷たい戦争」といいます。
スターリンのチェチェン人弾圧
第二次世界大戦も終わりに近い1944年冬、北コーカサス地方のチェチェン人たちは、突然カザフスタンに移住させられました。
理由は、彼らが北コーカサスに進軍したナチス・ドイツに協力し、ソ連を裏切ったからというものでした。
チェチェン人たちは、広場に集められ、貨車に乗せられて極寒のカザフスタンへ運ばれます。
着の身着のまま荷物すらもたせてもらえず、たどりついた先には食料も宿舎もない。
彼らには、この世の地獄とさえ呼べるような生活が待ち受けていました。
1957年になって、ようやく帰還が認められたものの、飢えと寒さと病によって、数十万人のチェチェン人が命を落としました。
これ以降、チェチェン人の家庭では、どの家庭でも、父から子に、子から孫に、自分自身が、
そして自分たちの祖先がロシア人からどれほど残酷な扱いを受けてきたかを語り継ぐようになりました。
その後、1991年の独立宣言からつづくチェチェン紛争は、ロシアの歴史にとって、まさにスターリンが残した負の遺産ともいえるものです。
北大西洋条約機構
1949年、アメリカが中心となってイギリス・フランスなど西側諸国は、北大西洋条約機構(NATO)を結成しました。
(ソ連の保護国となった東ヨーロッパ諸国が、モスクワの命令で団結して動く姿を見た西側諸国は、大きな恐怖感を抱きました。
西側諸国のひとつひとつは小さく、巨大な軍事力をもつ力はありません。
このため、西側諸国がまとまって大きな軍事力をもつ計画が持ち上がりました。これが「NATO」でありました)
ワルシャワ条約機構
いっぽう、ソ連と東ヨーロッパ諸国は、1955年、ワルシャワ条約機構を結成して対立しました。
ワルシャワ条約機構とは、東欧8カ国による軍事同盟で、NATOに対抗するために結成されました。
同盟国はソ連、アルバニア、ブルガリア、ハンガリー、東ドイツ、ポーランド、ルーマニア、チェコスロバキアの8カ国です。
フルシチョフのスターリン批判
1953年、ソ連の国家建設を指導し、第二次世界大戦を勝利にみちびいたスターリンが亡くなりました。
かわってフルシチョフが第一書記に就任しました。
1956年、フルシチョフは、これまでソ連や東ヨーロッパの共産党を指導してきたスターリンが、多くのあやまりをおかしてきたことを明らかにしました。
(ソ連の独裁者だったスターリンは、異常な恐怖心をもった人物でした。自分の身の回りの人間が、自分をねらっているのではないかという猜疑心に常にさいなまれました。
このため、自分に批判的な側近や幹部を次々に処刑していったのです。
スターリンによる虐殺の被害者は、知識人や一般市民まで及び、それによって処刑されたのは数百万人ともいわれています。
スターリン批判では、スターリンが、反対する人々を追放、処刑したこと、スターリンを神のようにあがめたこと、
大戦中の軍事指導であやまりをおかしたこと、などがあげられました)
また、フルシチョフは、社会の仕組みがちがう、社会主義国と資本主義国とが戦争を起こすことなく、
おたがいの存在をみとめあう「平和共存政策」を進めていくことも主張しました。
そして、1956年、ソ連を中心に組織されているコミンフォルム(ヨーロッパの国々の共産党の国際的情報機関)を解散しました。
世界はアメリカとソ連の冷えきった「冷たい戦争」から、おだやかな春をむかえました。
この両国の平和共存、「雪どけ」は、世界の人々から歓迎されました。
さらに1957年、ソ連はアメリカよりも早く、世界ではじめて人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功しました。
アメリカを追い越して自信にあふれたフルシチョフは、ソ連の指導者としてはじめてアメリカ合衆国を訪問し、アイゼンハウア一大統領と会談しました。
ドイツの東西分裂
1948年当時、ドイツは東西に分割されて占領されていました。
東ドイツがソ連の占領地区、西ドイツがアメリカ、イギリス、フランスによる占領地区でありました。
さらに、東ドイツにあるベルリンも、ソ連が占領する東ベルリンと、アメリカなど西側三国が占領する西ベルリンとに分かれていました。
西側三国の占領地区である西ドイツでは、混乱していた経済の立てなおしのため「通貨改革」がおこなわれていました。
また西ベルリンは、西ドイツと航空路や高速自動車道アウトバーンなどで結ばれていました。
ところが、ソ連は西ベルリンから西ドイツに通じるすべての道路・鉄道を封鎖しました。(ベルリン封鎖)
そこで、アメリカなど西側三国は、陸の孤島と化した西ベルリンに食料、燃料などを航空機を使って輸送しました。
この問題に対処するため、西側三国とソ連間で何度も話し合いが行われましたが、ついに決裂。
1949年、最終的にドイツの東西分裂が決定づけられてしまいました。
こうして西ドイツにドイツ連邦共和国、東ドイツにドイツ民主共和国が、それぞれ別の国として成立することになりました。
キューバ危機
キューバは、砂糖などすべての経済をアメリカの手ににぎられていました。
1959年、カストロやゲバラらは、キューバ革命に成功しました。
(1959年当時のキューバ経済は、事実上アメリカに牛耳られていました。
キューバはさとうきびに国の経済が依存していましたが、農民の多くが小作農で、地主に搾取され、地主はアメリカに利益を吸い上げられていたのです。
また、時のバチスタ政権もアメリカべったりの政治を行っていました。
この現状を打破すべく立ち上がったのがカストロです。
そして、カストロの右腕となって活躍したのがアルゼンチン人のゲバラでした。革命は多くの国民の支持を受け、独裁政権を倒し、成功に終わりました)
首相となったカストロは、土地の制度をあらため、アメリカなど外国資本を国のものとし、教育を広めることなどに力を注ぎました。
そして、社会主義政策を進めてソ連との関係を強めました。
ソ連の援助によるキューバのミサイル基地建設が明らかになると、アメリカははげしく抗議し、世界は核戦争の危機に直面しました。
ケネディ大統領の「海上封鎖」という強硬策にフルシチョフが譲歩し、ソ連はミサイル基地建設をあきらめました。
その後、両国は接近し、翌年には、直通の電話回線「ホット・ライン」が設置され、さらにイギリスをふくめた三国で「部分的核実験停止条約」が結ばれました。
暗殺されたケネディ大統領
1961年、アメリカ史上もっとも若い43歳で大統領になったケネディ大統領の願いは、人種差別をなくすことでした。
アメリカは、南北戦争中にリンカーンによって「奴隷解放宣言」が出されたあとも黒人は人種差別を受けていました。
ケネディは、かたい意志でキューバ危機を乗りこえると、人種差別をなくすための政策を進めました。
しかし、「奴隷解放宣言」から100年めの1960年11月、テキサス州のダラスでオープンカーに乗ったケネディは銃弾で暗殺されました。
しかし、その遺志は受けつがれ、翌年、人種差別をなくす「公民憲法」が制定されました。
大粛清
ウクライナ書記長になったフルシチョフは、スターリンに招かれて食事をした。
マナーを知らないフルシチョフは、パンもステーキも手でちぎってたべていた。
「ナイフを使え、二キータ」 スターリンがたしなめて言った。
するとフルシチョフは、ナイフを手にして言った。
「誰をやるんで? 同志スターリン?」
(冷戦時代には、たくさんのブラック・ジョークがつくられたのである)