ヨーロッパの火薬庫
このころ、バルカン半島では多くのスラブ民族が生活し、オスマン帝国の支配に対して民族独立運動が起こっていました。
おなじスラブ民族のロシアは、セルビアなどの独立を助けました。
また、オーストリアやドイツは、スラブ民族と対立するオスマン帝国を支援しました。
このため、バルカン半島はロシアと、オーストリア・ドイツが対立し、「ヨーロッパの火薬庫」とよばれ、
いつ戦争が起こってもふしぎではない状態になっていました。
サラエボの銃声
1914年6月28日、ドイツの同盟国、オーストリアの皇位継承者フランツ・フェルディナント(Franz Ferdinand) は、
夫人とともに、ボスニア・ヘルツェゴビナの中心地サラエボをおとずれました。
夫妻は、陸軍演習を見学したあと、歓迎式典にのぞみました。
式場に行く途中、夫妻の乗ったオープンカーに爆弾が投げつけられ、後ろからきた車が爆破され、随員が負傷しました。
夫妻は予定を変えて随員を見舞うため病院に向かいました。
そのとき、車の運転手が道をまちがえ、あわててバックしたところ、2発の銃声が聞こえ、夫妻はたおれました。
これを「サラエボ事件」といいます。
この事件から1か月後の1914年7月28日、オーストリアはセルビアに宣戦布告しました。
(フェルディナント夫妻を殺害した犯人は、セルビアの大学生でした。
バルカン半島のボスニアは、当時オーストリアの支配下にありました。
この地域にはスラブ系民族のセルビア人が多く、彼らは民族主義のもと、オーストリアの支配に対する反対運動を繰り広げていたのです。
こうして組織されたのが、ボスニアの解放を求める「青年ボスニア」でした。
事件をおこした大学生も、ここに属していました)
第一次世界大戦の勃発
スラブ民族を支援するロシアは、セルビアに味方して軍隊を出しました。
いっぽう、オーストリアを助けるドイツはロシアとフランスに宣戦し、
さらに中立国ベルギーに攻めこみ、フランスに侵入しました。
これを見たイギリスは、ドイツに宣戦布告しました。
こうしてドイツ・オーストリアなどの「同盟国」と、イギリス・フランス・ロシアなどの「協商国(連合国)」
がぶつかりあう、第一次世界大戦(World War I 1914年7月〜1918年11月)が始まりました。
連合国と同盟国の戦い
ドイツは戦争の始まる前から、陸軍参謀総長シェリーフェン(Schlieffen)が作戦をたてていました。
それは、ドイツ軍が、まず全力をあげて中立国ベルギーを通過してフランスをたおし、ついで東部に向かいロシアをやぶろうというものでした。
ドイツ軍の兵士たちは、クリスマスは自分の家でむかえられるだろうと考えていました。
しかし、ベルギーの通過に手まどり、またイギリスが参戦、そしてロシアがすぐさま軍隊を出したため、この作戦ははじめから失敗に終わりました。
ドイツはロシアとのタンネンベルクの戦い(Battle of Tannenberg 1914年8月)では勝利しましたが、すぐにロシアも反撃しました。
またマルヌの戦い(Battle of the Marne 1914年9月)ではイギリス・フランスがドイツの進撃をはばみ、戦争は長期化しました。
同盟国側にはオスマン帝国やブルガリアが参加、イギリス・フランス・ロシアの連合国側にはセルビアや日本などがくわわりました。
(オスマン帝国は、反ロシアの立場から、またブルガリアは、第二次バルカン戦争(1913年)でセルビアに奪われたマケドニアを与えるという密約を
ドイツ・オーストリアから得ていたため、同盟国側で参戦したのです)
またドイツ・オーストリアと三国同盟を結んでいたイタリアは、領土問題でオーストリアと対立したため、1915年5月、連合国側に参加しました。
(第一次世界大戦がはじまると、イタリアは三国同盟から、当然、ドイツなどの同盟国側に参戦するものと考えられていましたが、けっきょく参戦しませんでした。
その理由は、三国同盟は防衛同盟であるのに、オーストリアがセルビアに対して宣戦したのは攻撃に当たるから、イタリアには参戦の義務はない、というものでありました。
実はイタリアは、イギリスなど連合国側と極秘に交渉していて、連合国側に参戦することを約束する代わりに、オーストリアに支配されている南チロルや
アドリア海沿岸などイタリア人居住地を割譲される保証を得ていたのです。(ロンドン秘密協定 1915年4月)
イタリアが連合国側に回るのは致命的な痛手であると考えたドイツは、オーストリアに対し、シュレジェン(かつてプロイセンがオーストリアから奪った土地)
の一部の返還とひきかえに南チロルをイタリアに譲ることを迫りました。
オーストリアもやむなくそれに応じ、秘密裏にイタリアと交渉を開始しようとしましたが、時はすでに遅く、
よりよい条件でイギリスなどと密約を交わしていたイタリアは、連合国側としてオーストリアに宣戦布告してしまいました)
ドリナの橋
「ドリナの橋」は、ボスニア出身のノーベル文学賞作家アンドリッチの小説。
小説の舞台は、ヴィシェグラードというサラエボの東部に位置する山間の町。
ドリナの橋は、ボスニアとセルビアを隔てて流れるドリナ川にかかる橋である。
ボスニアとセルビアは、宗教こそ違えど、同じセルビア人が住む国だ。
ドリナの橋は、セルビア人が互いにコーヒーを飲み語らう交流の場であり、
時には男女の逢い引きの場になったり、厳しい検問場となったりする。
小説では、長い歴史のなかで互いに文句を言い合いながらも、橋を通じて、
ともに親しく暮らすセルビア人たちの姿が淡々と描かれる。
だがある日、オートリア軍が橋にやってきて、国境の測量をはじめる。
住民たちは、今までの宗主国オスマントルコが衰えたことを、初めて知るのだった…。
The Bridge on the Drina, 1945(Ivo Andric)
19世紀バルカン半島はオスマントルコの領土であった。
そこでバルカン半島に住むスラブ系の民族がトルコに対して反乱を起こし、
それを支援するロシアとトルコの間で露土戦争(1877〜1878年)が起こった。
この戦いの前年(1876年)オーストリアは、ボスニア・ヘルツェゴビナを獲得する代わりに
露土戦争に介入しないという秘密協定(ライヒシュタット協定)をロシアと結んでいた。
露土戦争はロシアの勝利で終わり、1878年、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアは、
オスマントルコからの独立が認められた。
だが秘密協定により、ボスニア・ヘルツェゴビナだけは、オーストリアの支配下となり、
1908年、正式にオーストリアに併合された。
このボスニア併合は、隣のセルビア、わけても民族主義者たちを大いに刺激してしまったのである。