会議は踊る。されど進まず
1814年、ナポレオンがエルバ島に流された年、ヨーロッパの国々は、
オーストリアの首都ウィーンで会議を開きました。
ナポレオン戦争によってみだれたヨーロッパをたてなおそうという会議です。
ウィーン会議には、各国から以下の代表が参加していました。
メッテルニヒ(Metternich オーストリア外相)、
タレーラン(Talleyrand フランス外相)、
カスルリー(Castlereagh イギリス外相)、
アレクサンドル1世(Alexander I ロシア皇帝)、
ハルデンベルク(Hardenberg プロイセン首相)
会議は、オーストリア外相メッテルニヒの司会で進められました。
しかし、この会議は終わるまでに9か月もかかったのでした。
会議が長びいた理由は、領土の分割で欧州各国の主張が対立していたからです。
また、会議があまりにも優雅だったというのがもうひとつの理由としてあげられます。
この会議に参加した各国の要人たちは、貴族階級ばかり。
会議場となったシェーンブルン宮殿(Schoenbrunn)は、ハプスブルク家の歴代君主が離宮として使っていた豪華絢爛な宮殿でした。
そこで、会議の参加者たちは、夕方になると晩餐会を開いたり、舞踏会を開いたり、宴に明けくれていたといいます。
そのため「会議は踊る。されど進まず」といったことばがうまれたのでした。
ウィーン体制
ところが、1815年2月にナポレオンがエルバ島を脱出し皇帝に復位すると、各国は慌てて妥協点を見出し、
1815年6月にウィーン議定書を締結します。
ウィーン会議を終え、団結を固めるとナポレオンを再びワーテルローの戦いで粉砕しました。
これを「ナポレオンの百日天下」といいます。
さて、ウィーン会議では「ヨーロッパをフランス革命前の状態に戻す」ことが基本方針に定められました。
そこで、ナポレオンに占領されたヨーロッパの領土は、ふたたび各国に分けられることになりました。
また、フランスでは、国外に亡命していたルイ18世(Louis XVIII)がふたたび国王となりました。
ナポレオンが敗れ、革命でフランスを追われた王族や貴族たちが戻ってきた時期にウィーン会議が開かれているのですから、
フランス政府が王政の復活を望むのは当たり前でした。
これを「ウィーン体制(Vienna system)」といいます。
勝負あった
晩餐会で、タレーランは、スタール夫人とレカミエ夫人の前に座った。
スタール夫人は、自分より美しいレカミエ夫人に嫉妬してタレーランにきいた。
「もしわたくしたちが水に溺れかかっていたら、あなたは二人のどちらを助けて下さいますの」
するとタレーラン 「あなたは泳ぎがおじょうずでしょう」