ピューリタン革命
(English Civil War)
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ステュアート朝
イングランド、スコットランド、アイルランドは、べつべつの国でしたが、1603年、スコットランド王
ジェームズ1世(James I)がイングランド王として即位し、おなじ王がおさめることになります。
ジェームズ1世のステュアート朝(House of Stuart)の時代は、市民階級の力が強まり、
議会では「ジェントリ」(Gentry)と呼ばれる大地主や裕福な商人が中心となっていました。
実際に地域の政治をおこなっていたのもジェントリで、しかも彼らは「無給」でした。
地域の人たちには尊敬され、たいへん名誉な仕事であり、彼らが、いわゆる「ジェントルマン」という言葉の原型となったのです。
さて、ジェームズ1世が即位して、3つの国がひとつにまとまったかというと、まだまだでした。
ジェームズ1世はイングランド国教会を国民に強制しようとしてピューリタン(Puritans カルヴァン派)を圧迫しました。
商工業者やジェントリにはピューリタンが多く、かれらは議会にも進出していたので、王と議会の関係はなおさら悪くなりました。
(イングランド国教会とは、ヘンリー8世時代に成立した教えで、宗教でも国王がトップに立っていることが特徴となっています。
当然「神の前に人は平等」というピューリタン教徒とは対立し、彼らを迫害することになります。
この迫害から逃れるために、1620年、メイフラワー号に乗り、新大陸に渡った人々がピルグリム・ファーザーズで、
後のアメリカ合衆国の基礎を作ることになります)
ピューリタン革命
ジェームズ1世の跡を継いだのが、息子のチャールズ1世(Charles I)です。
彼も同じような強権で政治を執ったため、議会は、1628年、「権利の請願」(Petition of Right)を出して王と対立しました。
(権利の請願では、「国民に税金をかけるときは、議会が賛成しなければならない、国民を法を無視してとらえることはできない」などが定められています)
1642年、ピューリタン教徒がふえていた議会と、王とのあいだに内戦が起こりました。
この内戦は、王を支持する貴族たちの国王軍がヨーク地方を、ジェントリ出身のクロムウェル(Cromwell)がひきいる議会軍は
ロンドンを拠点とし、これを舞台に戦闘が繰り広げられます。
最初、国王軍優位に戦闘が進められますが、議会軍のクロムウェルが「鉄騎隊」(Iron Horse Cavalry)という軍団を結成。
鉄騎隊は、熱心なピューリタンの信者によって結成された団結力のある部隊でした。
1645年6月、鉄騎隊を主力とした議会軍はネイズビーの戦い(Battle of Naseby)で国王軍に致命的な打撃を与え、
1646年5月、国王チャールズ1世はついに降伏します。
議会軍は、クロムウェルの指導によって勝ち、1649年、国王チャールズ1世(Charles I)を処刑して共和政を立てました。
これが「ピューリタン革命」です。
クロムウェルは、共和国を守るため議会を解散してきびしい軍事独裁を始めました。
また、アイルランドを征服し、航海法を制定してオランダと戦争を始めました。(英蘭戦争)
しかし、クロムウェルの独裁政治は、国民の支持を失いました。
やがて、クロムウェルが亡くなると、フランスに亡命していたチャールズ1世の次男チャールズ2世(Charles II)が王位に就き、
1660年、ふたたび王政となりました。(王政復古)
しかし、次のチャールズ1世の三男ジェームズ2世(James II)が即位すると、彼はカトリックを復活して王の力を強めようとしたため、
イングランド国教会中心の議会と対立を深めました。
議会は、ジェームズ2世の長女メアリ2世と、その夫で新教徒のオランダ総督ウイリアム3世(William III)を新しい王としてむかえました。
1688年、ウイリアムが軍をひきいてイングランドに上陸すると、ジェームズ2世はフランスにのがれたため、血を流すことなく革命が成功しました。
これを「名誉革命」(Glorious Revolution)といいます。
グレートブリテン王国
ウイリアム3世夫妻は、1689年、「権利の章典」(Bill of Rights)を発布しました。
これはイングランドの憲法ともいえる法典で、議会を中心とした政党による立憲政治が始まりました。
ウィリアム3世の死後、メアリ2世の妹アン・スチュアートが王位に就きます。
アン女王が即位するとスペイン継承戦争が本格化しました。
スペイン継承戦争とは、スペイン王カルロス2世没後のスペイン王位をめぐって、ブルボン家のフェリペ5世を推すフランスと、
ハプスブルク家のカルロス3世を推すオーストリア、オランダなどの周辺諸国が戦った戦争です。
ブルボン家があまりにも大きくなりすぎるのを警戒した周辺諸国が、ブルボン家の即位に反対する。その結果起きた戦争です。
イングランドは、オーストリアやオランダと同盟して、フランス・スペインと戦い、イングランド艦隊がスペインの
ジブラルタルを陥落させるなど、戦況は同盟国側に有利に進みました。
この戦争は、13年もの戦いの末、1713年のユトレヒト条約で終結します。
この条約で、フランスとスペインが将来合併しないことを条件に、ブルボン家フェリペ5世のスペイン王位継承が認められました。
その代わりに、イングランドはフランス、スペインから、ジブラルタルなど多数の海外領土を獲得して国力を大きく伸ばしました。
つまり、領土と引き換えに王位継承を認めたということです。
一方、戦争中の1707年、イングランドとスコットランドが合体してグレートブリテン王国になり、アン女王は最初の君主となりました。
アンの死後スチュアート朝は絶え、1714年、親類のドイツ出身のジョージ1世(George I)がむかえられて、ハノーヴァ一朝(House of Hanover)が成立しました。
しかし、50歳をすぎていた王は英語がわからず、イギリスの政治の仕組みも知らなかったため、政治を内閣にまかせました。
こうして「王は、君臨すれども統治せず」(The Sovereign reigns, but does not rule)の政治の仕組みが生まれ、
内閣は王ではなく、議会に対して責任をもつという「責任内閣制度」ができあがりました。
イングランド王国歴代君主、生没年、在位期間
因果関係
のちのジェームス2世がまだ皇太子だった頃、詩人のミルトンが王宮を訪問した。
いろいろの話をしたあとで、皇太子は冗談を言った。
「あなたが失明されたのは、わたしの父チャールズ1世の悪口を書いたせいでしょう?」
するとミルトン 「とすると、お父上が首をはねられたのは、何のせいでしょうか?」