オスマン帝国の成立
アナトリア地方(小アジア)は、11世紀ころからトルコ人の王朝であるルーム・セルジュク朝(Sultanate of Rum)が統治していました。
しかし、13世紀に入り、モンゴル帝国がユーラシア大陸を支配下に置くと、弱体化します。
1243年、モンゴルとの戦いに敗れ、ルーム・セルジュク朝はモンゴル帝国の従属国となります。
1299年、ルーム・セルジュク朝に仕えていたオスマン1世(OsmanT)がアナトリア西部にオスマン帝国を樹立しました。
オスマン帝国の初代君主となった彼は、1302年、バフェウスの戦い(Battle of Bapheus)でビザンツ帝国を破り、
帝国の基礎と次代の繁栄を築き上げます。
オスマン帝国の君主は、1389年に即位した第4代バヤジット1世(Bayezid I)の時からスルタン(sultan)と称するようになりました。
スルタンとは、カリフから権力を委任された君主の称号で、トルコ系王朝の君主は好んでこの称号を用い、
のちには全イスラム世界に広まりました。
ビザンツ帝国の滅亡
1451年、第7代スルタンのメフメト2世(Mehmed II)が即位すると、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを
攻略するために、10万を超える軍隊を整えます。
1453年、10万人の陸軍と400隻の軍艦、牛200頭でひっぱる巨大な大砲で、コンスタンティノープルを攻撃しましたが、
あつい城壁にはばまれ、落とせませんでした。
また、東側の湾に侵人しましたが、湾の入り口が鉄の鎖で守られていたため、軍艦が入れませんでした。
メフメト2世は、夜中に軍艦を陸に引き上げて、人や牛で引いて山をこえ、東側の湾に移動させました。
こうして総攻撃がおこなわれ、およそ1000年もつづいたビザンツ帝国を滅ぼしました。(1453年)
コンスタンティノーブルは、オスマン帝国の首都とされ、「イスタンブール」(Istanbul)とよばれました。
その後、オスマン帝国はメソポタミア、エジプトなどをつぎつぎと征服して大帝国に発展し、イスラム教の聖地メッカとメディナも支配しました。
オスマン帝国の繁栄
16世紀前半に即位した第10代スルタンのスレイマン1世(Suleiman I)の時代に、帝国はもっとも栄えました。
スレイマンはハンガリーを征服し、フランス王と手を結んでオーストリアのウィーンを攻撃し、
当時、宗教改革で混乱していた神聖ローマ帝国をおびやかしました。(1529年 第1次ウィーン包囲)
さらに、スペインなどのキリスト教徒の連合艦隊をやぶって地中海にも大きな勢力をもちました。
生涯に13回も大遠征をおこなったスレイマン1世は、国内では、イスラム教にもとづく法律を制定しました。
また、キリスト教徒やユダヤ教徒などに対しては、イスラム教をおしつけることはなく、宗教ごとに共同体をつくらせ、
税をおさめさえすれば、それぞれの信仰をみとめました。
この時代、首都のイスタンブールは、アジアとヨーロッパを結ぶ貿易の中心地で、国際都市として栄えました。
スレイマンは、ここに、イスラム教の大寺院スレイマン・モスク(Suleymaniye Mosque)を建て、みずからの力を世界にしめしました。
オスマン帝国の衰退
その後、第11代スルタンのセリム2世(Selim II)の時代に、ベネチア領ギプロス島を攻略したことを契機に、
スペイン・べネチア・ローマ教皇の連合艦隊とのレパントの海戦(1571年)に敗れ、地中海の制海権を失います。
1683年、第19代スルタンのメフメト4世(Mehmed IV)は、ハンガリーで発生した反乱を契機に、
15万の大軍を率いて、再びウィーンに侵攻します。(第2次ウィーン包囲)
オスマン兵の大群を迎え撃つのは、城壁内に残ったわずか数千の兵。
しかし当時最新の築城法で築かれたウィーンの要塞は堅固で、攻城戦は長期化します。
やがて、ポーランド・ドイツ諸侯の連合軍がウィーン郊外に到着。
連合軍に総攻撃を開始すると、包囲陣を寸断されたオスマン軍は散り散りになって敗走しました。
この第2次ウィーン包囲戦の敗北によってそれまで無敵を誇って来たオスマン帝国の衰退が明らかとなり、
それまで200年以上ヨーロッパ諸国を脅かしていたオスマン帝国の脅威は大きく後退していきました。
そしてこの危機を乗り越え、勝利した神聖ローマ帝国は、徐々にバルカン半島への南下を進めて行く事になります。
セルバンテス(Miguel de Cervantes)(1547〜1616年)
スペインの小説家。奴隷生活・入獄など波瀾に富んだ生涯を送り、想像力と才知にあふれる作品を残しました。
外科医の子に生れ、各地を転々としたのち、レパントの海戦で被弾し、左腕の自由を失ってしまいます。
帰国後、創作活動をはじめ、1605年に小説「ドン・キホーテ」(Don Quixote)を出版。
作品は大評判となり、スペインを代表する作家となりました。
同時代のシェイクスピアも「ドン・キホーテ」を読んでいたとされ、また、チャールズ・ディケンズやドストエフスキーなど、
多くの文学者に影響を与えました。
「おい、サンチョ! これから旅に出るぞ、したくをせい!」
「あっしは、畑仕事が忙しいんです。旅だなんて、とんでもない」
「何をいう! 主君のためなら、どこへでも行くのが、家来のつとめじゃ!
だからこそ、騎士も、家来に、ほうぴをあたえるのだ」
「へぇっ、いったいどんなほうびを、いただけるんで?」
(ドン・キホーテ 第一章)
モーツァルト (Wolfgang Amadeus Mozart)(1756〜1791年)
オーストリアの市民音楽家。ハイドンと並び古典主義の確立者といわれています。
「トルコ行進曲」は、ピアノ・ソナタの中で、最もよく知られているもので、第11番の第3楽章にあたります。
「トルコ行進曲」と呼ばれるようになったのは、第3楽章がトルコの軍楽隊風の音楽だからです。
楽譜にも「アラ・トゥルカ (Ala Turca トルコ風に)」と記されています。
この頃のヨーロッパは、オスマン帝国の勢力拡大により、各地にオリエンタルな文化がもたらされていました。
オスマン帝国は、楽隊が演奏しながら進軍を行っていました。その独特のリズムが各地に伝わっていたのです。
1783年、モーツァルトが新天地での活躍を期してウィーンにやって来たとき、この街もトルコ・ブームの最盛期で、トルコ軍楽が流行していました。
モーツァルトもその流れに乗って、当時普及し始めていたピアノを使い、転がるように軽快なメロディが印象的なこの曲を生み出したのです。
ピアノ・ソナタ 第11番 イ長調 (K331) 第3楽章「トルコ行進曲」(演奏:新田見)
オスマン帝国 歴代君主、生没年、在位期間
ハーレム
オスマン帝国の歴代スルタンたちが住んでいた王宮には、豪華な多国籍ハーレムがあった。
これはもともとスルタンたちが、ビザンツ帝国の皇女や、バルカン諸国の王女といったキリスト教徒を
「イスラム教に改宗しないでよい」と条件をつけて、政略結婚しつづけた過去を反映したものである。
1453年、隣のビザンツ帝国が滅亡すると、ハーレムには白人系の寵妃は増える一方であった。
ハーレムに入ることは、貧しいキリスト教徒の娘にとって豊かな生活を手に入れるチャンスだった。
彼女たちは、王妃と呼ばれたが、ハーレムでお手つきになるまでは、大部屋で暮らさねばならなかった。
彼女たちの一日は、歌や踊りのレッスン、トルコ語の読み書きの勉強に費やされた。
暑い日には、ハーレム内の豪華プールで水遊び。
もちろん女たちが溺れたりしないよう、宦官のプール監視がついていて、いたれりつくせりであった。
見事お手つきになった後は、専用の住居が与えられ、懐妊すれば、広い宮殿に住むことができた。
女性たちと、スルタンの関係は実に公平なもので 「お夜伽カレンダー」 が役人の手で作成されていた。
このカレンダーはスルタンの子供の誕生証明にもなった。それだけに担当の役人の責任は重大で、
王妃たちをカレンダーどおり順番に、しかも平等に扱わなくてはならなかったのである。