キリスト教の成立
ローマ帝国は、皇帝を認めないキリスト教徒をたびたび迫害しています。
なかでも、ローマの大火をキリスト教徒による放火とし、ペテロとパウロを処刑したネロ帝(Nero)の迫害がよく知られています。
しかし、ネロ帝による迫害から約270年後の313年、コンスタンティヌス帝(Constantine I)は、キリスト教を公認します。
皇帝の狙いは、巨大になりすぎた帝国運営を維持することにありました。
公認されるまえ、キリスト教は迫害を受けながらも、ローマ帝国の上層階級や軍人の間に信者を増やしていました。
各地に教会組織が張りめぐらされ、無視できない勢力に成長していたのです。
その一方で、迫害を恐れる信者たちは、郊外に地下墓地をつくって遺体を安置、そこへ夜になると集まったため、
死体を食べているとか、乱交しているといった噂も広まっていました。
いずれにせよ、皇帝にとって、キリスト教徒は、さらに迫害するか、味方に取り込むか、どちらかを選択しなければならない大勢力となっていたのです。
そこで、迫害する道を選んだのが、284年に皇帝に就任したディオクレティアヌス帝(Diocletian)です。
ディオクレティアヌス帝は、帝国東部の主だった聖職者のほとんどを処刑しました。
それに対して、後継のコンスタンティヌス帝は、6人のライバルと帝位を争っていたとき、帝国の統一にキリスト教徒の団結力を利用しようと考えました。
とくに、イタリア半島をめぐる戦いでは、十字をかたどった軍旗を掲げて戦って勝利しました。
こうして、キリスト教徒の強い支持を背景にして帝国を再統一した彼は、キリスト教徒に信仰の自由を与えて公認したのです。
以後、キリスト教はさらに信者を増やし、ローマ帝国内の多数派となっていきます。
その後、ギリシア古典に心酔したユリアヌス帝(Julian)が、古い宗教の復興を企て、キリスト教徒を迫害するが失敗。
かえってキリスト教はローマ帝国全土に広まりました。
そして、自らも熱心なキリスト教徒だったテオドシウス帝(Theodosius I)が即位。
キリスト教を国民の精神的な支柱にしようと、異教を禁止し、キリスト教を国教としたのです。
テオドシウス帝の時代、 キリスト教は北アフリカを含む地中海周辺地域全体に広がっていきました。
ギリシア・エジプトなど地中海周辺の民族は多神教を信じていましたが、彼らはキリスト教の神を容易に受け入れました。
例えばギリシアの神々はローマの土着の神々と同一視されるようになりました。
他の国の異教の神であろうとも、それら神々をも礼拝し、尊重するというのが古代世界の多神教文化の特徴だったのです。
ジュール・マスネ(Jules E.F.Massenet)[1842−1912]
フランスの作曲家。リヨンの近郊で生まれますが、父親の事業の失敗でパリに出てきます。
11歳でパリ音楽院に入学。20歳の時にローマ大賞を受賞しています。
彼の作品は、オペラで最もよく知られ、特に「タイス」「マノン」「ウェルテル」は頻繁に上演され、
主要なオペラハウスのレパートリー演目となっています。
「タイス」の間奏曲である「タイスの瞑想曲」は、ヴァイオリン独奏曲としても人気があります。
ジュール・マスネ 「タイスの瞑想曲」(Meditation from Thais) (演奏:Christian
Li)
「タイス」は、文豪アナトール・フランス(Anatole France)の同名の小説に基づいた作品で、ナイル河畔のアレクサンドリアが舞台です。
4世紀末、この町の遊女タイスの魂を救おうと僧侶アタナエルが彼女に信仰の道を説きます。
だが、次第にタイスの妖しい魅力にとらわれたアタナエルは半狂乱になって愛を告白。
一方、タイスは精神的な愛の尊さに目覚めて神の名を呼びながら息絶えるというストーリー。
このオペラの第二幕に登場する美しい間奏曲が「タイスの瞑想曲」で、タイスが妖艶な姿で踊っている様子をほうふつとさせます。
イエスは無口
ある日、イエスがイチジクを食べようとして木に近寄ると、葉だけで実がなかった。
「いまいましいイチジクめ!」イエスが言うと、とたんに木は枯れてしまった。
イエスは反省した。自分が言葉を発すると、ただちにそのとおりになってしまうのだ。
それからは、弟子たちから何か聞かれても、必要なこと以外は口にしなくなった。
実際、イエスは生涯で数多くの奇跡をおこなった。だが別段、呪文を唱えるでもなく、
儀式をおこなうでもなかった。
歩けない人間に、ただ一言「立て!」と言うだけで立って歩けるようにしてやった。
イエスをねたむ学者たちも、奇跡そのものを否定するわけにはいかず「やつは悪魔に
魂を売って奇跡をおこなっているのだ」と言ってイエスを非難するだけであった。