ローマ帝国の繁栄
アウグストゥスから約200年間、帝国は平和で、おおいに栄えたので、「ローマの平和」(Pax Romana パックス・ロマーナ)とよばれます。
とくに、1世紀の末から2世紀の後半のほぼ100年間には、5人のすぐれた皇帝が現れ、「五賢帝時代」とよばれます。
そのうち、2世紀の初めのトラヤヌス帝(Trajan 在位98〜117年)のときには、東はメソポタミアから、
西はイベリア半島、北はライン川とドナウ川、南は北アフリカにいたる広大な領土を支配しました。
商業も活発になり、インドからはコショウなどの香辛科が、中国からはシルク・ロードを通って絹などがもたらされました。
次のハドリアヌス帝(Hadrian 在位117〜138年)の時代に、ローマ帝国は最盛期を迎えます。
ハドリアヌスは、ローマ全土を各地をあまねく視察してローマ国家の防衛と安定に努めました。
また、ブリタニアに「ハドリアヌスの長城」(Hadrian's Wall)を建設し、ここを北辺国境と定めました。
ブリタニアは、スコットランド、イングランドなどが集まった国ですが、
そのスコットランドとングランドとの境界に長城が建設されています。長城の城壁は、高さ6m、長さは東西に117kmに及びました。
首都ローマに建設されたコロセウム(Colosseum)は、5万人も入れる闘技場で、
剣闘士奴隷と猛獣の戦いなどがおこなわれて、ローマ市民をよろこばせました。
コロセウムの出しものは、午前中が「ポエニ戦争の巻」などの歴史ものを上演しました。
ポエニ戦争から、もう200年はたっていましたから、ローマの人々は「時代劇」を見るような感覚で楽しんでいました。
殺傷シーンでは、本当に死刑囚が殺害されたりしていました。
ランチタイムの余興が「キリスト教徒VSライオン」、そして午後からが、いよいよ剣奴の戦いでした。
当時のローマ人は、飽くなき快楽を追求していたのです。
カラカラ浴場(Baths of Caracalla)は、カラカラ帝(Caracalla 在位209〜217年)がローマ市街の南端付近に造営したローマ浴場です。
サウナ、冷浴室のほか、運動場や図書館までそなえていて、一度に1600人を収容するほどの規模でありました。
古代のローマ人は大変お風呂が好きだったようで、最盛期には首都ローマだけでなんと、170もの浴場があったと言われています。
一般市民だけでなく、ローマ皇帝も、よく公共浴場に通ったといわれます。
だから公共浴場では、皇帝と奴隷が一緒の湯船に入ることも珍しくなかったようです。
カラカラ浴場の遺跡は、1980年、世界遺産に登録されました。
現在では、夏になると野外劇場として公開され、オペラやコンサートなどが開催されています。
「すべての道は、ローマに通じる」(All roads lead to Rome)のことばからわかるように、
帝国の領土内には網の目のように道路がつくられました。
ローマと南イタリアを結ぶ 540q のアッピア街道(Appian Way)は「街道の女王」(The Queen of the Roads)とよばれています。
街道は、深さ1mの堅牢な敷石構造となっており、道幅は4m、2台の馬車が通れる幅でした。
全速力で馬や馬車が疾走し、できるだけ早く目的地に到着できるように、橋をかけたり、
トンネルを掘ったりすることで、可能な限り直線になるよう建設されています。
それだけの建築・土木技術がローマにはあったのです。
街道にそって、各地にローマ風の都市がつくられ、水を運ぶ水道施設もつくられました。
ローマ水道橋(Roman Aqueduct)は、コンクリート製の水道管を連ねた橋です。
山中の水源から遠隔の都市へ水を引くために造られたもので、
最も長いもので140qの長さがありました。
ローマ市内は上下水道が完備され、トレビの泉などに大量の水を供給していました。
市内いたるところにあった公共トイレも水洗式で、汚物は下水道に流されていました。
またコロセウムの闘技場に水を満たして、模擬海戦を市民たちに披露していたといいます。
これらは当時のローマ人が享受していた水の豊かさを物語っています。
ローマ帝国の衰退
五賢帝最後のマルクス・アウレリウス帝(Marcus Aurelius 在位161〜180年)の時代が終わったころから、
ローマ帝国にかげりが見えはじめました。
東方からはササン朝ペルシア(Sasanian Empire)が、北方からはゲルマン人がローマ帝国をおびやかすようになり、
ますます強力な軍隊が必要になりました。
こうなると各地の属州の軍隊は、かってに自分たちのつごうで皇帝を立てたり、しりぞけたりしました。
こうして、およそ50年のあいだに、26人もの皇帝が交替しました。この時代を「軍人皇帝時代」(235〜284年)といいます。
結果として皇帝の権威が失墜、また帝位が頻繁に入れ替わるためほとんど内乱と変わらない状態が長期間続き、
これによりローマ帝国の国力は弱体化しました。
3世紀末に皇帝になったディオクレティアヌス帝(Diocletian 在位284〜305年)は、リーダーシップを発揮するため、
皇帝を神として礼拝させ、皇帝を絶対の権力者とする専制君主政(Dominatus ドミナトゥス)を始めました。
さらに、コンスタンティヌス帝(Constantine I 在位306〜337年)も首都をローマから
コンスタンティノープル(Constantinople いまのイスタンブル Istanbul)に移して帝国を立てなおす改革につとめました。
しかし、効果はいっときのものでしかなく、4世紀後半からは、ゲルマン民族の侵入がはげしくなってきました。
395年にテオドシウス帝(Theodosius I 在位379〜395年)が死ぬと、ローマ帝国は、
ついに東ローマ帝国と西ローマ帝国に分裂してしまいました。
東ローマ帝国は、このあと1000年間もつづきましたが、西ローマ帝国は、476年にゲルマン人に滅ぼされてしまいました。
西洋版謙信
ペルシア王から、鉄を売って下さいという使節が、ローマのコンスタンティヌス大帝のところへきた。
大帝はこれに許可を与えたので家臣たちが諫めた。「敵に武器の原料を与えて強くしてやるとは」
すると大帝 「朕の息子が一層強くなった敵を破れば、名誉も一層ではないか」
(ローマ帝国史 Roman Empire BC27〜395)
64年 ネロ帝、キリスト教徒を迫害。
79年 ヴェスヴィオ火山(Vesuvio)噴火によりポンペイ(Pompei)埋没。
80年 コロセウム建設。
96年 五賢帝時代はじまる。(〜180)
117年 トラヤヌス帝のもとローマ帝国の版図が最大となる。
120年 ハドリアヌス帝、ブリタニアに長城建設。(〜140)
216年 カラカラ浴場建設。
235年 軍人皇帝時代はじまる。(〜284)
313年 コンスタンティヌス帝、ミラノ勅令でキリスト教公認。
330年 コンスタンティヌス帝、コンスタンティノープル遷都。
360年 コンスタンティウス2世、ハギア・ソフィア大聖堂創建。
375年 フン族の東進、ゲルマン民族の大移動開始。
392年 テオドシウス帝、キリスト教を国教にする。
395年 ローマ帝国、東西に分裂。