川中島の戦い 1553年(天文22年)   歴史年表     真日本史       人名事典)(用語事典
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                 NHK「天と地と」(1969年)  





天文16年(1547年)甲斐の大名・武田信玄は、領土拡大を期して隣国・北信濃を攻めた。

信玄はすでに南信濃を手中に収め、北信濃から越後をも狙わんとする勢いであった。


敗退を続ける北信濃の大名・村上義清は、やむなく越後の上杉謙信に援軍を要請。

謙信はこれに応えて挙兵し、天文22年(1553年)両軍は川中島(長野県)で対峙する。


戦いは双方が総力戦を展開し、謙信みずからが大刀をもって、信玄と一騎打ちをする

というほどの激戦であった。

両軍とも多数の戦死者を出し、勝敗は決しなかったが、北信濃は以降武田方の領有に帰した。


だが川中島における長期の戦いは、上杉・武田両氏にとって、兵力を消耗させただけであり、

最終的に、織田信長に上洛の先を越される結果となった。





応仁の乱(1467年〜1477年)以降、京の都の外では、将軍の支配力がますます薄れ、

有力な大名(大名)が自己主張を始めた。


そのような領主は、自分の地位を守るために、簒奪、戦争、結婚、その他のあらゆる手段

によって権力を獲得していった。


応仁の乱以後、豊臣秀吉が天下統一(1590年)を果たすまでの15世紀から16世紀の100年間、

この天下を目指した戦国の群雄たちが割拠した時代を「戦国時代」という。




武田信玄と上杉謙信。この二人が生きた時代は、まさに戦国時代の一部であった。

この両雄が1553年(天文22年)から12年もの長きにわたり、5回もの熾烈な戦いを

繰り広げた「川中島の戦い」は、信濃(長野)の支配をめぐっての争いであった。



信玄の本拠地である甲斐(山梨)の経済力は極めて低かった。

当時の石高は、甲斐は22万7000石、信濃は40万8000石、越後は39万石である。

こうした経済力の差が、信玄による信濃侵攻の一因となったことは否めない。


国力を増強するためには、広く豊かな領土が欲しい。それが軍団の戦力補強にもつながる。

信玄にとっての信濃はそうした意味合いを持っていた。



一方で謙信の場合は、村上義清が信玄に追われて越後の自分を頼って逃げてきたことが、

信玄との合戦につながっていく。


だが一方で、謙信側にも信濃・川中島に出陣しなければならない事情もあった。

信濃を得た信玄が、川中島など信濃北部を手に入れれば、甲府から善光寺まで直線距離にして120q。


さらに善光寺から謙信の居城・春日山城までは約50qという近さになる。

川中島周辺を信玄に渡してしまえば謙信の領国も危ない。


「義」によって出陣した謙信には「自衛」のための戦いという側面も含まれていたのである。            



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室町時代(1336年〜1573年)
1338年 (延元3年) 足利尊氏、征夷大将軍となる
1378年 (天授4年) 足利義満、室町に幕府を移す
1392年 (元中9年) 南北朝が合一される
1404年 (応永11年) 足利義満が日明貿易を開始
1428年 (正長1年) 正長の土一揆
1429年 (正長2年) 尚氏によって、琉球が統一される
1467年 (応仁1年) 応仁の乱がはじまる(〜1477)
1485年 (文明17年) 山城の国一揆、守護を追放(〜1493) 
1488年 (長享2年) 加賀の一向一揆(〜1580)
1543年 (天文12年) 種子島に鉄砲が伝わる
1549年 (天文18年) ザビエルがキリスト教を伝える      
1553年 (天文22年) 川中島の戦い
1560年 (永禄3年) 桶狭間の戦い
1568年 (永禄11年) 織田信長が将軍足利義昭を奉じて入京
安土桃山時代(1573年〜1603年)
1573年 (元亀4年) 信長が義昭を追放、室町幕府滅亡
1582年 (天正10年) 本能寺の変
1582年 (天正10年) 豊臣秀吉の太閤検地(〜98)石高制を確立
1585年 (天正13年) 秀吉が関白に就任する
1587年 (天正15年) バテレン追放令 
1588年 (天正16年) 刀狩令によって兵農分離を行う
1590年 (天正18年) 秀吉、全国統一
1592年 (文禄1年) 秀吉、朝鮮に出兵(文禄の役)
1597年 (慶長2年) 秀吉と明との和平交渉が決裂し、
再び朝鮮に出兵(慶長の役)
  1598年 (慶長3年)   豊臣秀吉病没     
1600年 (慶長5年) 関ヶ原の戦い


室町時代

室町時代(1336年〜1573年)は、足利尊氏が建武式目を定め、幕府を開いた
1336年から、足利将軍家15代義昭が織田信長に京都を追放され、
足利幕府が滅亡した1573年まで約240年間を指す。

正長の土一揆

1428年(正長1年)畿内一帯に起きた農民による武装蜂起。酒屋・土倉を襲い、
幕府に徳政(債権・債務の破棄)を要求し、幕府の拒否にもかかわらず、
実力で債務破棄を断行した。一揆は畿内一帯に波及し、その規模の大きさと
社会に対する影響は大きかった。

応仁の乱

1467年(応仁1年)守護大名の細川勝元と山名持豊(宗全)の対立に、
将軍足利義政のあとつぎ問題などがからんで起こった11年間の大乱。
京都は焼け野原になり、幕府の権威はおとろえた。乱の後、戦乱は地方に
広がり、約100年間の戦国時代に入った。

山城の国一揆

1485年(文明17年)山城(京都府)の地侍(じざむらい)らが、守護の畠山氏
を追放した。地侍と農民が連合して、自治による政治を8年近く続けた。

加賀の一向一揆
 
1488年(長享2年)加賀国(石川県)の一向宗信者による一揆。
加賀国守護・富樫政親を攻め、これを同国高尾城で自殺させた。
これによって一揆を指導した僧官や地侍、農民門徒の代表らは、加賀一国の
実質的な支配権を獲得。この守護大名による支配を排除した史上類のない
共和体制は、1575年、織田信長軍によって占領されるまで約100年間続いた。

川中島の戦い     

戦国末期、甲斐(山梨県)から信濃(長野県)に進出した武田信玄が、
越後(新潟県)の上杉謙信と川中島(現・長野市)で、1553年(天文22年)から
5回にわたって争った戦い。最も激戦だった1561(永禄4年)の4度目が有名。
武田軍は「風林火山」、上杉軍は「毘(沙門天)」の旗を使った。

桶狭間の戦い

1560年(永禄3年)織田信長の領内桶狭間に陣取った今川義元を、
信長が奇襲して破った戦い。信長の天下統一の第一歩となった。







安土桃山時代

安土桃山時代(1573年〜1603年)は、足利義昭が信長に追われ、室町幕府が
滅びた1573年から徳川家康が江戸幕府を開いた1603年までを指す。

本能寺の変

1582年(天正10年)明智光秀が織田信長を京都本能寺に襲い、滅ぼした事件。
羽柴秀吉の高松城攻撃を救援するため本能寺に宿泊中であった信長を、
先に増援を命じられて丹波亀山城にいた光秀が引き返して急襲し自害させた。

関ヶ原の戦い

1600年(慶長5年)関ヶ原(岐阜県)で、石田三成らの西軍と、徳川家康らの
東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝し、
石田三成らは処刑され、豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。
これにより徳川氏の覇権が確立した。