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甘粛省概要 (http://wiki.chakuriki.net)


ユイグー (裕固) 族  (甘粛省)


(甘粛省までの交通)

成田から北京首都国際空港(PEK)まで4時間。

北京から蘭州中川空港(LHW)まで3時間。



1.今年 (2006.04)  蘭州市城関区にあるゴミ集積場で児童の遺体が発見されたらしい。

その遺体には調理された痕跡があったらしい。
ダンボール肉まんよろしく、捏造報道だという話が出ている。

そりゃぁ 「捏造報道だ」 と言って隠滅を図るだろうね。

2.かなり貧しい。

3.黄砂発生地帯砂漠化との闘い。
水に苦しむ農民、というのをBSでやっていたが甘粛省民勤県は絶望的砂漠地帯だった。

4.特産品は甘酢である。

5.細長く変な形をしている。

6.昔は甘粛省の一部は青海省の一部だった。
(甘粛省のチベット自治州の当る地域)

7.甘い物はやめておいたほうが良い。

8.2010年に大規模な土砂災害で少なくとも80人以上の犠牲者が出た。
山に木がないなどの保水能力の乏しい土地が多い。

城市の概要

敦煌

1.甘粛省にある、シルクロードの拠点として栄えた街。

2.イギリスに国宝のほとんどをかっぱらわれた。
フランスには残りの国宝をかっぱらわれた。
日本の大谷探検隊も国宝持ち出しをやっていたりするorz

3.井上靖の小説で有名。 同名の映画も有名。



略称
隴 long


省都
蘭洲 らんしゅう


位置
黄土高原、青蔵高原、内蒙古高原の間に位置している。


面積
39万平方キロメートル。(日本の1.2倍)


気候
複雑な地形をしているため気候も地域差が激しい。

河西回廊は温帯気候・暖温帯乾燥性大陸型気候に属し、中部は温帯半乾燥性気候、東部は温帯半乾燥性気候、南部は北亜熱帯湿潤モンスーン型気候に属している。
また祁連山脈は温帯半乾燥性大陸型気候、甘南地区は温帯湿潤性高原型気候となっている。

1月の平均気温は-10~2度、7月の平均気温は23度前後で、無霜期は8ヶ月程度。
年間降水量は500~800ミリで、河西回廊では50ミリ程度と少ない。


人口
2,562万人。
その内漢族は92%、回族が110万人で5%、チベット族は37万人で1.7%。
その他東郷族、土族、満族、裕固(ユイグ)族、保安族等が住み、少数民族の中ではイスラム系の少数民族が141万人と多い。
回、チベット、トンシャン、ユーグ、ボウナン、蒙古、カザフ、トゥー、サラ、満州などの少数民族も住んでいる。



主な都市

蘭州 (らんしゅう) 市、天水 (てんすい) 市、嘉峪関 (かよくかん) 市、白銀 (はくぎん) 市、
金昌 (きんしょう) 市、武威 (ぶい) 市、酒泉 (しゅせん) 市、張掖 (ちょうえき) 市、
定西 (ていせい) 市、平涼 (へいりょう) 市、慶陽 (けいよう) 市、隴南 (ろうなん) 市、
臨夏 (りんか) 回族自治州、甘南 (かんなん) 蔵族自治州。




概要

古くからモンゴル、西域に接する重要な場所であり、漢代には涼州と呼ばれ、北宋代に甘州と粛州があった。
西夏王国がこれらを併せて甘粛軍司を設置したのが、甘粛の名の起こりである。

元代に甘粛行省が設置され、省級レベルの行政区となった。
清代に甘州と粛州を合せて現在の省域が形成された。


チベット高原の北東縁に沿って細長く延びており、南東部は黄土高原、中部以西は内モンゴル高原との移行地帯にあたる。
中部以西は河西回廊で、砂地と礫質の砂漠地帯であるが、オアシスが点在しており、
漢代からシルクロードの一部として、中国と西アジアの交流に重要な役割を果した。

耕地の大部分は黄土高原にあるが、降水は夏季に集中していて、土壌の流失が激しく、しばしば干害に襲われた。
人民共和国成立後は、植林、貯水池や灌漑水路の建設、段畑の造成などに力が注がれている。
河西回廊では 1600kmに及ぶ防風防砂林を建設して耕地の保全と拡大をはかっている。


食糧作物としてはコムギ、キビ、アワが多く、高地ではハダカムギ、トウモロコシも栽培。工芸作物ではワタ、ゴマ、テンサイ、タバコが主。
チベット高原ではウマ、ヤク、ウシ、ヒツジの牧畜が盛ん。

地下資源は玉門市の石油、蘭州市皐蘭(かおらん)県の銅のほか石炭、鉄、硫黄、塩などがある。
工業は蘭州市、玉門市、天水市、嘉峪関市などに発達。

石油精製、化学、鉄鋼、機械、毛紡織の大工場があり、搾油、畜産品加工、製糖、製紙なども盛んである。
蘭州市は中国西部の鉄道と航空路のかなめで、隴海鉄道(連雲港-蘭州)、蘭新鉄道、青蘭鉄道、包蘭鉄道(ほうらん 包頭-蘭州)が接続している。

特産工芸品は、酒泉の夜光杯 (玉彫刻の杯)、
天水漆器、蘭州の水キセル、ヒョウタン彫刻、洮 (とう) 硯など。





観光スポット




① 嘉峪関 (かよくかん) (嘉峪関市)  (世界遺産)

嘉峪関は、万里の長城最西部に位置する関。

明代 (1372年) に着工された周囲733m 高さ11m の城壁に囲まれた城壁である。

西門には 「嘉峪関」 の扁額がかかっている。

最東端にある山海関が 「天下第一関」 と称されるのに対し、嘉峪関は 「天下第一雄関」 といわれている。

東西シルクロードの要衝の一つであり、周囲には敦煌莫高窟のような著名な史跡が存在し、多数の漆喰壁画が見つかっている。

また、ここから7.5km 西に万里の長城の最西端 (万里長城第一墩) がある。

目の前は断崖絶壁となっており、眼下には討籟河 (とうらいがわ) が流れている。








② 炳霊寺石窟 (へいれいじせっくつ)  (臨夏 りんか 回族自治州永靖県) (世界遺産)

炳霊とは、「千仏」 あるいは 「万仏」 を意味するという。

炳霊寺は世にも珍しい奇景のなかにあるため、古来から神仙の住む霊地とされていた。

また古来シルクロードに入る旅人が必ず渡らなければならない黄河の渡河点として有名であった。

この石窟寺院は、西秦の時代 (4世紀末) に開窟され、元に至るまで造営が続き、総窟数は184を数える。

唐代の摩崖仏龕 (まがいぶつがん) には、高さ27メートルの堂々とした弥勒仏の倚坐像が彫られている。

この摩崖の大仏は遠く船上からも眺めることができ、炳霊寺のシンボルになっている。








敦煌 (とんこう) は、甘粛省の北西端に近い標高1700mにある砂漠の中のオアシス都市。
酒泉市の管轄下の県級市である。

唐代は 「沙州」 と呼ばれ、河西回廊の西端にあたり、古より東西の貿易の中継地として、宗教、文化および知識が融合しあう合流地でもあった。
またシルクロード観光の中心地であり、辺境地ながら比較的滞在しやすい町とされている。



③ 鳴沙山 (めいさざん)  (酒泉市敦煌)

市街南6キロのところに位置する砂山で、以前は神沙山と呼ばれていた。

風が吹くと音をたてるので 「鳴沙山」 と呼ばれるようになった。

『史記』 には、「天気がいいときは音楽を奏でているようだ」 とも記載されている。

鳴沙山はすべて砂が堆積してできたもので、東西の長さは40キロあまり、南北の幅は20キロあまりもあり、山峰は険しく、その最高峰は250メートルある。








④ 月牙泉 (げつがせん)  (酒泉市敦煌)

鳴砂山のふもとに長さ約150m、幅約50mのオアシスがあり、形が三日月に似ていることから月牙泉と呼ばれる。

砂漠の中にあって1000年も枯れることがなかった。

古くは 「砂井」 とも呼ばれ、不老不死や難病に効くという鉄背魚やノキシノブという草が生息するとされることから、「薬泉」 という呼び名も。

漢代に早くも観光地となり、唐代には船が浮かび、岸にお寺も建っていた。

南岸には古い建物が100余りも並んでおり、主な建物の内部には着色された塑像が100体以上、壁画も数百枚残っている。









⑤ 莫高窟 (ばっこうくつ)  (酒泉市敦煌) (世界遺産)

敦煌の東南30キロ、鳴沙山の東側の絶壁に築かれた石窟群。

その長さは南北約2㎞、上下5層にわたっている。

砂漠の美しい稜線を背景に大小さまざまな石窟が並ぶさまは圧巻で、それぞれの石窟には仏教や神話をモチーフにした
極彩色の壁画や、表情豊かな塑像の数々が収められている。

壁画の総面積は4万5千㎡、塑像の総数は2000体以上にも及び、4~14世紀の約1000年をかけて、
1000あまりの石窟が掘られたと伝えられている。

それらの保存状態の良さと芸術性の高さから 「砂漠の大画廊」 とも呼ばれるようになった。

飛び交う飛天 (仏教における空中を舞う天女) は敦煌芸術のシンボル。

塑像はほとんどが仏教の神仏で、仏を中央に弟子や、菩薩が両側に沿ったって配置される群像になっている。




莫高窟のシンボルは9階建ての楼閣。
それは9階構造の天井とも言うべきもので、てっぺんは断崖と同じ高さ。

楼閣の中にある高さ35.6mの弥勒大仏坐像は、土を盛り上げて形を整え作った石胎塑像で、
中国で三番目の大きさの仏坐像である。

専門的研究、発掘、整理及び敦煌文物、文献の保護に関する総合的学科は敦煌学と名づけられ、
国際的に注目される分野となっている。


千手観音像 (莫高窟陳列館)

第96窟の九層楼 (高さ43m)






⑥ 敦煌市博物館  (酒泉市敦煌)

敦煌市街にある博物館。

莫高窟・第17号窟 (蔵経洞) で発見された敦煌文書の一部や敦煌周辺の古墳、遺跡から発掘された当時の生活道具等が展示されている。

1979年10月設立し、前身は県文化館考古組だった。面積は2400㎡、文物4000点以上が展示されている。




⑥ 玉門関  (酒泉市敦煌) (世界遺産)

敦煌の北西80kmの所に、敦煌からタクラマカン砂漠を抜けカシュガルへ向かう 「西域南道」 への関所であった 「玉門関」 がある。

それは一辺が25m高さが10mほどの真四角な造りで、西側と北側に入り口がある。

一見石造りに見えるが、実は土を突き固めて作られた物。

ここはその名が示すとおり 「関所」 であると同時に、西域からの侵略を防ぐ重要な軍事拠点でもあった。

往時には2万を超える兵士が駐屯していたという。




⑦ 陽関  (酒泉市敦煌)

敦煌に2つある関所のひとつが陽関。 

中国では北を陰、南を陽と呼ぶため、南側の関が陽関と付けられた。 敦煌市街から砂漠の道を南西部に70kmほど行った場所に陽関は位置する。

長年の風砂にさらされ、現在では壁の基底の痕跡がわずかに残るのみとなったが、強い風の吹いた後には、陶器や武器の一部や
貨幣などの遺物が発見されることがあり、「骨董砂地」 と呼ばれている。

唐代の詩人・王維が詠んだ 「西のかた陽関を出ずれば、故人無からん」 という詩は、西域へと旅立つ友人へ送った歌。





甘粛省アラカルト




1. ユイグー族

ユイグー族は90%以上が甘粛省の粛南ユグル族自治県に居住している。

テュルク語群に属する西部ユイグー語を使うユグル族はウイグル可汗国の崩壊後、モンゴリアから南下し甘粛地方に
逃れてきたウイグル人の一団の末裔と考えられている。

この一団は甘粛の地に今日の河西回廊中部の張掖市を首都に甘粛王国 (870-1036年) を築き、大いに栄えた。

宋代の史書には黄頭回鶻 (回鶻はウイグルのこと) の名で記され、甘粛王国の人口は30万人に達し、
住民はマニ教や仏教を信仰し、国中が寺院で埋め尽くされたという。

1953年に自治県の創立を準備する際、民族の呼称は協議を経て、「裕福と強固」 の意味を取って 「ユイグー」 と決められた。

ユイグー族の人々は祁連山の山間部で生活し、牧畜業を主とする。

国の支援の下で、定住しての放牧が実現したばかりでなく、牧草地帯や人工牧草地帯、飼料用地の建設、水利施設の築造、機械の購入などによって、
草原の牧畜業は急速な発展をとげ、人びとの生活水準もかなり向上するようになった。

ユイグー族の人たちのほとんどはラマ教を信仰している。






蘭州 (らんしゅう) 市は、甘粛省南部にある黄河沿いに広がる省都で、西北の鉄道中枢になっている。
黄河上流の古城と呼ばれ、別名金城とも言われている。

ここから北西にシルクロードの河西回廊が続き、古来から漢民族と西域の民族が出会った地点でもある。
また南西に向かってはチベットへの道となっている。

市の人口は、322万人。
蘭州は瓜・果物の城と呼ばれ、特産物が白蘭瓜、クアズ、絨毯など。
海抜が1520mなので非常に住みやすく、避暑地になっている。






2. 西域のフルーツ

白蘭瓜 (バイラングア はくらんか) (蘭州市)

約50年前にアメリカのメロンやソ連のメロンをかけ合わせて誕生した。

熟した白蘭瓜は、球形で、形状が整い、白い皮は少し黄色みがかり、美しい外形をしている。

果肉は翡翠にたとえられる淡い緑で爽やかな甘味がある。

また解熱作用があり、喉の渇きを癒し、食欲を促すのに役立つという。




黄河蜜 (蘭州市)

皮は金色のような明るい黄色である。

果肉が厚くて果汁多く、柔らかく食べやすい。

そのまま食べてもよし、フルーツサラダにしてもよし、メロンジュースにしてもよし





李広杏子 (りこうあんず) (酒泉市敦煌)

西域に出征した漢の将軍・李広とアンズ仙女との伝説に彩られた、敦煌ナンバーワンの特産。

7月が最盛期で、市場では 「朝もぎ」 の新鮮なアンズが甘い香りをはなっている。洗って生でかじるのがいちばん。

干しアンズにしても抜群の甘さで、果肉だけのものと杏仁 (杏仁豆腐の原料) を果肉で包み込んだものがある。






酒泉 (しゅせん) 市は、河西回廊の西部に聳え立つ漢唐時期の古城で、唐代には 「粛州」 と呼ばれた町。
西へは嘉峪関、北へはモンゴル高原へ向かう分岐点で、古くから交通の要衝であった。

盛唐の詩人・王翰 (おうかん) の 「涼州詞」 に出てくる玉石製のワイングラス 「夜光杯」 が名産。
東郊には、前漢の将軍・霍去病 (かくきょへい) が匈奴に勝利し、武帝から賜った酒を注ぐと水が酒に変わった泉で有名な 「酒泉公園」 がある。




3. 夜光杯 (酒泉市)

伝統的工芸品である酒泉の夜光杯は酒器の一種で、長い歴史を持つ。

この杯は祁連山 (きれんさん) の玉石をたくみに細工したもので、質がよく、滑らかで透きとおり、卵の皮のようにうすく、
模様は天然の美しさがある。

酒をついだ杯に月が映ると、真白な色になり、きらきらするから、「夜光杯」 と呼ばれている。

夜光杯が広く人々に知られるようになったのは、盛唐の詩人、王翰 (おうかん) の 「涼州詞」 によってである。





涼州詞

葡萄の美酒 夜光の杯  飲まんと欲して 琵琶馬上に催す

酔ひて沙場に臥す 君笑ふこと莫かれ 古来征戦幾人か回 (かえ) る


(ブドウの美酒を夜光の杯で飲む。酒を飲もうとすると琵琶の音が馬上より聞こえ、その響きは、飲酒を促す。
したたか呑んで、酔いつぶれ、そのまま沙上に酔伏してしまった。

諸君、どうか笑わないでくれ。
古 (いにしえ) より辺境の地に、出征した兵士たちがどれだけ生還できるというのか。) 






4. 酒泉公園 (酒泉市)

酒泉市の市街の東2kmほどのところにある公園。 「泉湖庭園」 とも呼ばれる。

古典庭園や天然湖があり、観光施設が整備された総合公園で、園内に酒泉の名前の由来となった伝説の泉がある。

前漢の武帝 (紀元前156~紀元前87年) の時代、匈奴討伐で大勝利をあげた武将・霍去病 (かくきょへい) が褒美として武帝から酒を下賜された。

しかし、兵士全員に行き渡らないため、酒を泉に注いだところ美酒に変じて、全員が泉の水を飲んで戦勝を祝ったという伝説が残っている。

また、泉の中に金があるという伝説から 「金泉」 とも呼ばれている。









5. 万里の長城  (世界遺産)




西は甘粛省の嘉峪関から東は渤海湾に臨む河北省山海関まで、総延長約1万2000kmに及ぶ長大な城壁である。
現在の中国の行政区でいえば、河北省、北京市、山西省、陝西省、内モンゴル自治区、寧夏回族自治区、甘粛省など16の省・市・自治区にまたがっている。

地形の起伏を縫って続く長城の景観は世界的に有名。
万里の長城は約2000年の間の歴代の王朝が整備してきた城壁で、明の時代にほぼ現在の形になった。

一般に、長城建設は秦の始皇帝の事業であるとされているが、その歴史はさらにさかのぼり、秦による統一以前の春秋時代にも、
趙などの北方の国が異民族の侵入に備えるため長城の建設に取り組んでいた。

ただし、現存する長城の大部分は明の時代に築かれたものである。
その壮大なスケールから、「月から見える唯一の人工の構造物」 といわれてきた。

2004年に中国科学院によりこれを否定する見解が出されたものの、その後国際宇宙ステーションに滞在する宇宙飛行士が
一般のカメラによる宇宙からの長城の撮影に成功している。なお、英名はThe Great Wall。





嘉峪関 (かよくかん)

甘粛省嘉峪関市にあって河西回廊の咽喉もとにある。
「河西回廊 (かせいかいろう)」 とは蘭州の黄河西のことで幅数10キロ、東西約1000キロに及ぶ細長い地域。

古代の河西四郡つまり武威 (涼州)、張掖 (甘 州)、酒泉 (粛州)、敦煌 (瓜州)」 を含む。
南には雪をかぶる祁連山、北は北山やテングル砂漠や バダインジャラン砂漠が続いている。

ここは河西第一の関所で歴代王朝の重要な防御施設であり、また古代シルクロードと東西文化 が交流する交通の要道であった。
嘉峪関は明代の1372年に着工。
城砦は内側と外側の二重の城壁を持ち、「城内にまた城あり」 の 構造。常時400人の兵士が駐留していたと伝わる。





雁門関 (がんもんかん)

山西省代県の西北20キロ、雁門山中にある古来からの関所である。
雁門山は、東西の峰が対峙している様が門のようであり、そこを渡りの途上の雁が飛び抜けていくことから、雁門の名がある。

中国の歴史を通じて、雁門関は、北方の異民族の南下に対する、中国側の防衛拠点としての役割を担ってきた。

戦国時代末期に、趙の武将李牧がこの地に拠って匈奴の侵入を防いだのを初め、漢代には匈奴や鮮卑、南北朝時代から隋唐にかけては
突厥や回鶻 (ウイグル)、沙陀 (さた)、五代から宋代にかけては契丹などの民族の中原への侵入路となり、激しい攻防戦が繰り広げられてきた。
統計によれば、雁門関周辺で起きた戦いは大小1,700回を数えるとされる。





居庸関 (きょようかん)

北京の昌平区南口県にあり北京から60キロ。万里の長城の要所要所にある関所の一つ。
秦代に始皇帝が長城建設を命じ、工事のため、集められた人々がここに移住させられたという意味の「徙居庸徒 (しきょようと)」 に由来するという。

歴史的には春秋戦国時代に燕国はここを重要な出入り口として 「塞」 を置いたことに始まる。
漢代には居庸関の規模も大きくな り、南北朝時期には関城ができ長城が連なった。その後、唐、遼、金、元と重要な関城となってきた。





山海関 (さんかいかん)

河北省と遼寧省の境にある。かつては長城の東端といわれてきた。
漢代には臨楡関 (りんゆかん) といわれ、12世紀の女真に対する防衛の要地であった。明代に山海衛が置かれてから山海関と呼ばれた。

明末の満洲族の侵入を何度も防いだ。
山海関が天下第一関と呼ばれるのは天下に名高い関所の意味よりも、東から数えて最初の関所の意味である。

山海関は周囲約4キロ、城壁の高さは14メートル、厚さ7メートル、4つの城門のある城関で、現在の城関は明の洪武14年 (1381年) の建造。
約4キロ先の長城の東端は渤海に突き出た老龍頭 (らおろんとう) である。





6. 万里長城第一墩 (ばんりちょうじょうだいいちとん)




万里長城第一墩は、別名を討賴 (とうらい) 河墩とも呼び、嘉峪関の南端に位置する墩台である。

墩とは、「物見台」 を意味し、明代の万里の長城最西端の墩台でもある。
北から続く長城の城壁は、この嘉峪関の南を流れる北大河の断崖で尽きている。

北大河の南岸には祁連山脈が聳え立つ。北大河は長城の 「堀」 のような役割を果たしているのである。


断崖をくり抜いて造られた物見台からは、長城第一墩を含めた北大河の断崖や、対岸の祁連山脈を一望できる。

長城の外側には、復元された当時の兵舎が建ち並んだ一画がある。そこから北大河に架かる細い吊橋を渡る。
幅が一人分しかない吊橋は、一歩進む度によく揺れる。川の真上でドキドキしながら、長城第一墩の方を見遣る。

自然の営みと人の営みが、ここでは一体となって見事な景観を作り上げている。








中国語講座 「莫高窟」   


位于甘肃省敦煌 dūn huáng 市东南25公里处的莫高窟 mògāokū,俗称千佛洞,始建于十六国前秦时期,
是一个有着1600多年历史的旷世奇葩 kuàng shì qí pā,是世界上现存规模最宏大、保存最完整的佛教艺术宝库。
莫高窟建于崖壁上,上下五层,南北长约1610米。

传说公元366年的一天傍晚,一位法名叫乐僔 yuè zǔn 的和尚云游四方来到了此地。
在风景如画的大漠上,他看到有一条蜿蜒 wānyán 的小河潺潺 chánchán 流过,小河的南边是低矮的山脉,
山脚下绿草茵茵 yīnyīn,百鸟 bǎi niǎo 争鸣,生机勃勃。

忽然,鸣沙山上发出万道七彩金光,射向天空,形状宛如 wǎnrú 千佛。
修行极深的乐僔见此情景,顿然 dùnrán 感悟 gǎnwù,于是便在崖壁上凿下了第一个石窟。

以后经十六国至元朝,莫高窟的开凿一直延续了十几个朝代,形成了一座内容丰富、规模宏大的石窟群。
现存洞窟735个,壁画45000平方米,泥质彩塑2400多尊,飞天4500余身,唐、宋木质结构建筑5座,
是ー处由建筑、绘画、雕塑组成的博大精深的综合艺术殿堂,被誉为“东方艺术明珠”。

二十世纪初又发现了藏经洞,洞内藏有公元四世纪至十一世纪的历代文物5万余件。
这一发现引起国内外学者极大的关注,并形成了著名的敦煌学。
敦煌石窟中数量最大、内容最丰富的部分是壁画。

这是当今世界上任何宗教石窟、寺院和宫殿都不能媲美 pìměi 的。
环顾洞窟的四周和窟顶,到处都画着佛像、飞天、伎乐 jìyuè、仙女等,还有各式各样精美的装饰图案等。
西方学者把莫高窟称为“墙壁上的图书馆”。

莫高窟从1907年到1924年先后多次遭到外国列强的盗窃和破坏,文物损失巨大。
中国从二十世纪40年代起成立了莫高窟学术研究和保护的机构,60年代对石窟进行了全面的加固,80年代开始对莫高窟进行科学性的保护。
1987年莫高窟被列为世界文化遗产。



【注 釈】

【前秦】 qián qín  前秦 (351-394年)
五胡十六国時代に氐 (てい) 族の苻健 (ふけん) によって建てられた国。
国号は秦だが、この秦を滅ぼして起こった西秦と後秦があるために前秦と呼んで区別する。
一時は華北を平定し中華統一を目指したが、南下して東晋に大敗。
敗戦後に華北で諸国の自立と離反が相次ぎ滅亡した。

【旷世奇葩】 kuàng shì qí pā 世に比類のない至宝。

【乐僔】 yuè zǔn   楽僔 がくそん
行脚僧。前秦建元2年 (366年)、敦煌に至り、初めて莫高窟を発掘したと伝えられる。
次に法良禅師らに引き継がれ、その後の元代に至るまで1000年に渡って彫り続けられた。
現存する最古の窟には5世紀前半にここを支配した北涼の時代の弥勒菩薩像がある。

【东方艺术明珠】 dōng fāng yì shù míng zhū 東方美術の珠玉。
【墙壁上的图书馆】 qiáng bì shàng de tú shū guǎn 壁画の図書館。



【口語訳】

千仏洞と呼ばれる莫高窟は、甘粛省敦煌市東南25㎞に位置する。
五胡十六国の前秦時期に建造され、1600年余りの歴史を有する世に比類のない至宝であり、
世界に現存する最大規模の、かつ保存状態の良好な仏教芸術の宝庫である。

莫高窟は、上下五層、南北に約610mの断崖の上に建てられている。
紀元366年のある夕刻、名を楽僔という僧侶が各地をめぐりここにやって来た。

絵のように美しい大砂漠の中、彼はさらさらと曲がりくねって流れる小川を見つけた。
小川の南は低い山脈で、ふもとには緑草が青々と茂り、いろいろな鳥がさえずり、生気に溢れている。

突然、鳴砂山に七色の幾筋もの光が現れ、それらが空に向かって放たれるさまは、あたかも一千体の仏陀のようであった。
修行を深くきわめた楽僔はこの情景を見て、即座に悟り、断崖の上に一座の石窟を開削した。

その後、五胡十六国から元の時代を通じ、莫高窟の切削は十幾つの朝代に渡り続けられ、一座の内容豊富な、規模広大な石窟群が築かれた。
現存する洞窟は735個、壁画は45000㎡、泥状の彩色塑像は2400体、飛天は4500体余り、唐、宋時代の木造建築は5基建造されている。

建築物、絵画、彫刻からなるこれらの高度な総合芸術の殿堂は 「東方美術の珠玉」 と評されている。

二十世紀初め、さらに蔵経洞が発見された。
洞内には紀元4世紀~11世紀の歴代の文化財5万件余りが収蔵されている。

この発見は、国内外の学者の大きな関心を呼び、著名な 「敦煌学」 という研究分野が生まれた。

敦煌石窟における最も多く、内容豊富な芸術は壁画である。
これは現在世界のいかなる宗教石窟、寺院と宮殿も匹敵することができないとされている。

洞穴内は、ぐるりと見渡すと、至る所すべて仏像、飛天、仙女、さらに様々な精巧で美しい装飾の図案などが見られる。
欧米の学者からは、莫高窟を 「壁画上の図書館」 などとも呼ばれている。

莫高窟は1907年から1924年まで相前後して何度も外国列強の窃盗と破壊に遭い、文化財の損失は巨大なものとなった。
中国は二十世紀40年代から莫高窟の学術研究と保護の機関を創立、60年代には石窟に全面的な補強を施し、80年代には莫高窟に科学技術的な保護を開始した。

1987年、莫高窟は世界文化遺産に認定された。










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