中国地理歴史                             Top Page    中国語講座
       


隋朝(Sui dynasty 581年-618年)

北周の外戚であった楊堅は自分の娘を皇后として嫁がせ、権力を手中に収めていた。
581年、北周の皇帝から禅譲という形で隋を建国すると、589年、南朝の陳を滅ぼし、中国を統一した。

彼は均田制(農民に土地を支給し、収穫の一部に課税する制度)や科挙による官僚登用など、新しい
政策を導入したが、志半ばで子の煬帝(ようだい)に暗殺されてしまった。

即位した煬帝は、華北を農業生産力の高い江南と結ぶため、1500kmにおよぶ大運河を建設した。
この運河(京杭大運河 けいこうだいうんが 世界遺産)は、のちの時代まで、中国の南北を結ぶ
大動脈として活用されている。

そうした中、周辺国の高句麗が隋に離反する動きを見せ始めた。

この当時、朝鮮(百済、新羅)や日本(倭国)など周辺国は隋に朝貢していたが、高句麗はいっこうに
朝貢使を遣わさず、それどころか隋と対立していた異民族・突厥(とっけつ)と連携する動きを示した。

帝国の威光を踏みにじられた煬帝は、3度に渡り大軍を高句麗に派遣するも、いずれも失敗に終わる。
大運河工事と相次ぐ遠征は、農民に過酷な負担を強いることとなり、各地で農民反乱が拡大した。

こうした混乱の中、618年、煬帝は近衛軍の将軍、宇文化及(うぶんかきゅう)らに暗殺され、
隋は中国統一後、わずか30年ほどで崩壊した。

隋末の混乱期に挙兵した将軍、李淵(高祖 在位618-626年)は、長安を陥落。煬帝の暗殺を知ると即位し、
618年、唐王朝が成立した。



唐朝(Tang dynasty 618年-907年) 武周(690-705年)

唐の第2代皇帝、李世明(李淵の子、太宗 在位626-649年)は、科挙制度の確立、律令政治の整備など、
王朝の基礎を固める事業に取り組み、その治世は、後に貞観の治と呼ばれる理想的な時代となった。

このあとを継いだ高宗(在位650-683年)は、父・太宗の寵愛を受けていた女性を皇后とした。
この人物が則天武后である。彼女は徐々に朝廷内に権力を築き上げ、夫・高宗の死後、実権を掌握。

子の中宗、弟の睿宗(えいそう)を次々に廃位し、やがて690年、国号を周に改め、中国史上初の
女帝として即位(在位690-705年)した。(武周革命)




彼女の政治は、密告の奨励など暗い面もあったが、門閥によらず有能な人材を抜擢し、新興の地主、
商人、文人などを受け入れ、新たな政治の担い手を生み出すなど、高く評価される面もあった。


則天武后の死後、混乱を収拾したのが李隆基(玄宗 在位712-756年)である。

彼は則天武后一派を一掃し、父である睿宗を復位させ、その後を受けて開元の治と呼ばれる平和と
繁栄に満ちた時代を築き上げた。

しかし、晩年は側室の楊貴妃に溺れ、政治を顧みず、安史の乱(755-763年 近衛軍の将軍・安禄山ら
による反乱)を引き起こし、唐衰退の原因を生み出すことになった。

安史の乱の鎮圧のため、従来辺境の防衛に当たらせていた節度使を投入し、鎮圧後も重要地に節度使を
配置したが、彼らはやがて軍閥勢力となり、その支配地域に朝廷の力が及ばなくなっていった。


やがて、黄巣の乱(875-884年 飢饉や重税による農民反乱)で国内は大混乱となり、ついに907年、
反乱平定に功績のあった将軍・朱全忠に帝位を奪われ、唐は滅亡した。

唐の長安は、玄宗の時代に100万人の人口があったといわれ、世界各地から物産の集積する世界都市で
あった。

また阿倍仲麻呂(日本)、安禄山(ソグド)、高仙芝(高句麗)など、周辺国の有能な人材を官吏に
登用するなど、国際色豊かな王朝でもあった。



五代十国(Five Dynasties and Ten Kingdoms period 907年-960年)

907年、朱全忠(在位 907-912年)は唐を倒して後梁を建国したが、すぐにほかの勢力に取って代わられ、
結局およそ50年の間に5つの国(後梁、後唐、後晋、後漢、後周)が相次いで興廃を繰り返した。

これらの政権は開封を中心とする地方政権にすぎず、周囲には軍閥勢力が割拠する混乱した時代だった。

こういった状況のなかで、960年、後周の世宗側近の武将であった趙匡胤が、世宗の没後、
諸将に推されて即位。各地に分立していた政権を倒して979年中国を統一した。

  五代    十国 
  後梁(907-923年)(都は開封)
後唐(923-936年)(都は洛陽)
後晋(936-946年)(都は開封)
後漢(947-950年)(都は開封)
後周(951-960年)(都は開封)
 
  前蜀(907-925年)(都は成都)
後蜀(934-965年)(都は成都)
呉(902-937年)(都は江都)
南唐(937-975年)(都は江寧、南昌)
荊南(912-963年)(都は江陵)
呉越(907-978年)(都は銭塘)
閩(909-945年)(都は長楽)
楚(907-951年)(都は長沙)
南漢(909-971年)(都は興王府)
北漢(951-979年)(都は太原)
 




宋朝(Song dynasty 960年-1279年) 北宋(960-1127年) 南宋(1127-1279年)

即位した趙匡胤(太祖 在位960-976年)は、軍閥割拠による混乱を目の当たりにして
文官によって軍隊をコントロールすることにした。

さらに、その文官の採用制度についても、最終試験(殿試)を皇帝自らが行うことで、
権力を皇帝に集中させる体制を確立した。

対外的には、北方に勃興した遼(916-1125年)と、11世紀中期以降、西方で勢力を
伸ばした西夏(1038-1227年)の圧力を受け、軍費が増加し国家財政が圧迫された。

この状況を変えようと、遼の北方に台頭した女真族の金(1115-1234年)を利用しようと
試みたが、逆に遼を滅ぼした金に攻め込まれ、1127年に滅亡する。(靖康の変)

しかし、その直後、高宗(在位1127-1162年)が臨安(杭州)に都を定め、
王朝(南宋)を再建した。




それ以降、金と対峙しながら、江南の開発を進めつつ命脈を保ったが、臨戦体制の
状況下で国家財政は窮迫し、過酷な重税に加えて紙幣が乱発され物価が高騰、
人民の生活は苦しく、失業者の増大で反乱も頻発した。

このような社会の混乱のなか、モンゴル帝国(1206-1368年)のフビライの侵攻により、
1279年、南宋は滅亡した。



モンゴル帝国(Mongol Empire 1206-1368年)の成立

1206年、モンゴル民族の首長(ハン 汗)チンギス・ハン(太祖 在位1206-1227年)がモンゴル帝国を建国。
モンゴル高原を中心に東は中国東北地方、西はロシアに至る広大な領域を支配した。

その後チンギス・ハンは、四子に領土を分与し、キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イルの四ハン国が成立。

一方、モンゴル高原を本拠とする宗家は、チンギス・ハンの孫で、第5代皇帝フビライ・ハン(世祖 1260-1294年)の1271年、元を建国し、
1279年、南宋を滅ぼして中国を統一した。
この頃、四ハン国は完全に独立していたが、モンゴル帝国の連帯性は失われず、ユーラシア大陸の東西に渡る大帝国が完成した。




元朝(Yuan dynasty 1271-1368年)

勢いに乗ったフビライは、その後高麗を服属させ、さらに日本にも遠征軍を二度にわたり派遣(元寇)したが、これは失敗に終わった。
また南方には越南(ベトナム)、ビルマ(現ミャンマー)、ジャワに遠征して、ジャワを除く東南アジア諸国を従属国にした。

元朝は中国統治に際して、モンゴル至上主義政策を採り、モンゴル人に社会的特権を与え、支配者の地位を保証する体制を構築した。
モンゴル人が政治の要職を独占してあらゆる特権を享受し、数のうえでは圧倒的に多い漢族は被支配者の地位に置かれ、政治の中枢に参画できず、法律上でも著しい差別があった。

一方、元朝の成立により、中央アジアに政治的安定がもたらされ、シルクロード交易が活況を呈し、元の首都、大都(現在の北京)は政治・経済の中心地となって繁栄した。

ベネチア商人マルコ・ポーロは、1275年から1292年まで大都でフビライに仕え、帰国後「東方見聞録」を著した。
この繁栄の時代は、ローマ帝国のもたらしたパクス・ロマーナ(ローマの平和)になぞらえてパクス・モンゴリカと呼ばれる。


元朝の最盛期は世祖フビライ・ハンの治世20年の間であって、その後はしだいに衰亡の道をたどった。
衰退の原因の一つは、帝位継承をめぐる宮廷の内紛であった。

皇帝の死後には、重臣の間でかならず相続争いが起こり、その結果、第3代武宗から第10代寧宗までの26年間で実に8人の皇帝がかわった。
そうした政情不安につけこんで、私利私欲をたくましゅうする権臣が現れ、政治の混乱に拍車をかけた。

そのうえ歴代皇帝はチベット仏教(ラマ教)を狂信し、五台山(山西省)などに盛んに寺塔を建立して乱費を重ね、
国家経費の3分の2はチベット仏教への布施にあてられた。その補填のために紙幣を乱発して国家財政を混乱させた。

さらに天災が相次いで大量の流民が発生、モンゴル至上主義に対する民族的反感も急激に高まり各地に反乱が続発した。

その中心勢力を形成したのは、浄土宗の一派「白蓮教徒」であった。彼らは頭に紅い布を巻いたので「紅巾党」と呼ばれた。
こうして群雄が蜂起し華南地域は大混乱となった。(紅巾の乱 1351年)

やがて紅巾党の中から現れた朱元璋が、他の反乱者たちを平定して華南を統一、1368年に南京で帝位につき、国号を明と定めた。

朱元璋は即位するや大軍を率いて元の都、大都に迫った。
ここに至ってモンゴル人たちは最早、中国の保持は不可能であると見切りをつけ、1368年大都を放棄して北のモンゴル高原へと退去した。

これ以降の元朝は北元と称し、明朝は彼らモンゴル人を韃靼人(タタール人)と呼んだ。


17世紀に入ると、中国北方にツングース系の清朝が興り、この勢力はしだいにモンゴル高原に押し寄せた。

1635年、北元は清朝に帰順し、400年続いたモンゴル帝国はここに滅亡した。
その後1911年の辛亥革命で清朝が倒れるまでの250年近く、モンゴルは清朝の植民地としての地位に甘んじることになる。




明朝(Ming dynasty 1368-1644年)
 
朱元璋(太祖 在位1368-1398年)は社会の最下層出身であったが、元末の動乱のなかで元や各地の群雄を次々に倒し、
1368年(洪武元年)、金陵(現在の南京)で即位し、明を建国した。

彼は一世一元制を制定し、これ以降、皇帝は元号をもって呼ばれるようになった。(このため、太祖は洪武帝とも呼ばれる)

太祖は皇帝の独裁による中央集権を確立するべく、中央の官僚機構と地方の行政機関を皇帝に直属するよう改変した。
さらに、建国に功のあった部下を徐々に粛清し、各地に自分の子供を王として配し、国内統治を進めた。

太祖のあとを継いだ建文帝(恵帝)は、自らの権力を絶対的なものにするため、次々に自分を脅かす各地の王を排除していき、
ついに北平(現在の北京)の燕王を残すのみとなった。

ここで燕王は建文帝との対決を決意、機先を制し金陵に侵攻し、攻略に成功。第3代永楽帝として即位した。(靖難の変 1399-1402年)

永楽帝は即位後、北平に遷都して北京と改め、権力の強化を押し進め、モンゴル、ベトナムなど積極的に対外政策に取り組んだ。
特に宦官の鄭和(ていわ)による西征では、遠く東アフリカに達し、多くの朝貢を促すこととなった。

彼の死後、北方でモンゴル族が勢いを盛り返し、しきりに明に侵攻するようになった。
これに対処するため、万里の長城の建設や修復が盛んに行われた。(現在残る長城の大部分は明代のもの)

また、16世紀以降、南方で倭寇(海賊)に苦しめられ、朝鮮半島では豊臣秀吉の出兵(1592-1598年)への対処などの
問題が発生。

加えて国内でも東林党(明末のタカ派の政党で、政府の失政を厳しく追及した)の党争など官僚や宦官の対立が激化し、疲弊していった。
そして、1644年、李自成の乱(貧農出身の李自成が率いる農民大反乱)によって、明朝はその歴史を閉じた。


清朝(Qing dynasty 1636年-1912年)


明の衰えに乗じて東北地方で勢力を拡大した女真族(満州族)は、1616年、
ヌルハチ(太祖)が「後金(こうきん)」を建国し、1636年、次のホンタイジ
(太宗)のとき、国号を「清」と定めた。



1644年、李自成率いる大規模な農民反乱により、明は滅亡する。
清は反乱の討伐を名目に華北に軍を進め、李自成を討ち、中国を統一した。

その後、康煕(こうき)・雍正(ようせい)・乾隆帝(第4-6代皇帝)の
時代、およそ100年に渡り、清は全盛期を迎えた。

多数の漢人を支配するため、反清思想の弾圧、「弁髪」の強制など、
強圧策を採用した。一方、儒学にもとづく伝統文化を保護し、科挙制度を
整備する政策をとった。

やがて18世紀末にはその権勢にかげりが見え始める。

国内で白蓮教徒の乱(重税、汚職官僚への不満を背景に、宗教団体「白蓮教」が
農民を組織して起こした 1796-1804年)、太平天国の乱(満州族への民族的反感、
飢饉が重なり、発生した農民反乱 1851-1864年)といった大乱が起こり、
さらに欧米列強の外圧も加わるようになった。

アヘン戦争(1840年、アヘンの密輸をめぐって清とイギリスの間に起こった戦争)、
で、諸外国に不平等条約を締結させられ、日清戦争(朝鮮半島の支配をめぐって、
日本と清との間で行なわれた戦争 1894-1895年)に破れると、さらに激しい
圧力を受けるようになった。

王朝内ではこれに対処すべく、第9代皇帝・光緒帝(在位1875-1908年)
を中心に体制の刷新が図られた。

光緒帝は、わずか4歳で即位したが、実際の権力は摂政の西太后に
握られていた。

1898年、亡国の危機の中で、政治制度の大幅な改革を行なって富国強兵を
目指そうとする変法運動が起き、この年、光緒帝が儒学者・康有為らを
登用し、日本の明治維新をモデルとして急進的な改革をすすめようとした。

しかし、西太后らの反対であえなく頓挫したことで、清朝の命運は尽き、
1912年、第10代皇帝・宣統帝溥儀が退位し、清は滅亡した。



中華民国(Republic of China 1912年-1949年)

清朝が衰えると、滅満興漢(満族の清を滅ぼし、漢族の国を再興する)の
スローガンを掲げる民族運動が高まり、1911年、革命家・孫文の指導のもと
辛亥革命(1911年辛亥の年の10月、湖北省の武昌で蜂起した市民革命)
が起こり、多くの省が清朝からの独立を宣言した。

1911年11月、革命派は、孫文を臨時大総統に選んだ。
そして、1912年1月、南京で「中華民国」の成立を宣言した。

一方、清朝は、軍閥政治家・袁世凱に全権を与えて革命派に対抗させ、
危機を切り抜けようとしたが、袁世凱は革命政府と結び、宣統帝溥儀を
退位させることを条件に、孫文から臨時大総統の地位を譲り受けた。

こうして1912年2月、清朝は滅び、中国の王朝体制は終わりを告げた。

しかし、袁世凱は独裁的権力を指向するようになり、反対勢力を制圧し、
1916年1月、自ら皇帝の地位に就こうとした。

しかし、各地で反対運動が起こり、1916年6月、袁世凱は悶死した。

この後軍閥を中心とする抗争が激化し、そこを外国勢力につけ込まれた。
特に露骨な介入を行ったのが日本だった。

日清戦争や義和団の乱で中国進出の足がかりをつくり、第1次世界大戦が
勃発して、ヨーロッパ勢力が弱体化すると、山東半島に出兵、対華21力条の
要求を突きつけ、巨大な権利の譲渡を中国側に受諾させた。

1919年、パリ講和条約でこの権利を各国に承認させることに成功したが、
この事情を知った中国人は反日デモを開始。
瞬く間に中国全土に広がっていった。(五四運動)

このような混乱のなか、1919年、孫文は「中国国民党」を組織し、1921年、
広州に「広東革命政府」を樹立した。また、上海では「中国共産党」が創立され、
反日反帝国主義勢力の両輪が生まれた。

孫文の呼びかけによって、1924年1月、広州で第1次国共合作が成立した。

しかし、その途上孫文が病没してしまい、あとを継いだ蒋介石は、
1925年7月、「広東革命政府」を「国民政府」と改め、1926年7月、北方の軍閥を
倒して全国を再統一するための「北伐」を開始した。

また、勢力をのばした共産党に脅威を感じた蒋介石は、1927年4月、
共産党への大弾圧を強行し、国共両党の合作は崩壊した。

共産党は長征と呼ばれる大移動を行い、多大な犠牲を払って延安
(陝西省北部)に拠点を築くことに成功した。
一方、国民党は北伐を再開し、ついに北京を制圧して中国統一に成功した。

日本はこの間隙を突いて中国東北部への進出を画策。
1932年3月、清朝最後の皇帝であった宣統帝溥儀を担ぎ出し、満洲国
(1932-1945年)の建国に成功した。



満洲国は1945年、ソ連軍の侵攻により崩壊、わずか13年で姿を消すこととなった。



中華人民共和国(People's Republic of China 1949年-)

日本が降伏し、中国から撤退すると、国民党と共産党の間に内戦が勃発した。

当初はアメリカの後押しを受けた国民党が優勢だったが、体制の独裁・腐敗
によって志気は低く、徐々に共産党に押され、1949年10月に北京で
中華人民共和国成立が宣言されると、台湾に逃れた。

中華人民共和国は毛沢東率いる共産党の指導のもと、社会主義国家の成立を
目指したが、当時の社会経済は壊滅状態。
さらに米ソ対立による困難に直面し、急速な改革に着手せざるを得なくなった。

また、1958年に始まる大躍進政策の失敗や1966-1977年の文化大革命で
社会は大混乱に陥った。

しかし、毛沢東や周恩来が死亡したあと、鄧小平が3度目の復活を果たすと、
経済復興を第一に据えた政策を押し進め、1989年の第2次天安門事件による
停滞はあったが、2008年8月には北京オリンピック、2010年には上海万博を
成功させ、目覚ましい発展を遂げることになった。






   




中国史
BC5000年 黄河流域に仰韶(彩陶)文化始まる
BC3000年 黄河流域に竜山(黒陶)文化始まる
夏朝(BC2070年-BC1600年)
BC2070年 黄河を治水した禹が夏王朝を興す。
殷朝(BC1600年-BC1046年)
BC1600年 殷興る。甲骨文字使用
周朝(BC1046年-BC256年)  西周(BC1046-BC771年)  東周(BC770-BC256年)
BC1046年 周興り、殷滅亡
春秋時代(BC770年-BC403年)
BC770年 春秋時代始まる
BC479年 孔子死去
戦国時代(BC403年-BC221年)
BC403年 戦国時代始まる
BC400年 「論語」成立。諸子百家の活躍。鉄製農具の使用
BC350年 鄒衍(すうえん)の五行説
BC256年  秦、東周を滅ぼす
BC246年  政、秦王に即位
BC221年  秦、斉を滅ぼし中国統一
秦朝(BC221年-BC207年)
BC221年 秦王政、始皇帝と称する
BC214年 秦の始皇帝、万里の長城増改築
BC210年 秦の始皇帝死去(始皇陵)
BC209年 匈奴の冒頓単于即位
BC207年 秦の子嬰、咸陽に入った劉邦に降り、秦滅亡
漢朝(BC206年-220年)  前漢(BC206-25年)  新(9-23年)  玄漢(23-25年)  後漢(25-220年)
BC206年 劉邦、巴蜀・漢中(四川省・陝西省南部)を支配して「漢王」と称す
BC202年 劉邦(高祖)、漢(前漢)の皇帝位に即く
BC154年 呉楚七国の乱
BC140年 前漢の武帝即位
BC139年 前漢の張騫、長安を出発、西域へ向かう
BC136年 儒教、前漢の官学となる
BC119年 前漢、武帝による塩・鉄の専売制
BC110年 前漢、武帝による均輸・平準法施行
BC108年 前漢、朝鮮半島に漢四郡を置く(朝鮮史)
BC98年 前漢、武帝による酒の専売
BC93年 司馬遷「史記」
BC59年 前漢、タリム盆地に西域都護府を置く
9年 王莽が新を建国(-23)
18年 赤眉の乱(-27)
23年 劉玄、玄漢の皇帝になる(更始帝)(-25)
25年 光武帝即位、後漢(漢)成立
48年 匈奴、南北に分裂
65年 仏教が中国に伝わる
97年 後漢の班超、部下甘英を大秦国(ローマ)に派遣
105年 後漢の宦官蔡倫が製紙法発明(伝説)
150年 鮮卑、モンゴル高原に勢力
166年 党錮の獄始まる
184年 黄巾の乱起こる
三国時代(220年-280年)
220年 後漢滅亡。曹操死去。曹丕、魏を建国(-265)。三国時代始まる(-280)
221年 劉備、蜀漢を建国(-263)
229年 孫権、呉を建国(-280)。魏、呉、蜀の三国鼎立が確立
234年 五丈原の戦い。諸葛亮死去
晋朝(265年-420年)  西晋(265-317年)  東晋(317-420年)
265年 司馬炎(武帝)が晋(西晋)を建国(-317)
285年 「三国志」
291年 八王の乱始まる(-306)
304年 五胡十六国時代(-439)
317年 司馬睿が東晋(晋)を建国(-420)
366年 敦煌莫高窟(千仏洞)開掘(一説 353)
386年 拓跋珪(道武帝)、北魏建国(-534)
400年 柔然、モンゴル高原を支配
400年 鳩摩羅什、長安で訳経
405年 陶淵明「帰去来辞」
南北朝時代(420年-589年)
420年 東晋滅亡。宋(南朝)成立(-479)。南北朝時代始まる(-589)
439年 北魏、北涼を滅ぼし華北統一(北朝)
442年 北魏の寇謙之、道教を国教化
460年 雲崗石窟開掘
479年 宋滅び、斉(南斉)成立(-502)
485年 北魏、均田制を実施
493年 北魏、平城から洛陽に遷都
502年 斉滅び、梁成立(-557)
531年 梁の昭明太子死去
534年 北魏、東西に分裂し滅亡
534年 東魏成立(-550年)
535年 西魏成立(-556年)
550年 東魏の禅譲により、北斉成立(-577年)
552年 中央アジア、チュルク族の突厥が柔然から独立
556年 西魏滅亡し、北周成立(-581年)
558年 梁滅び、陳成立(-589)
隋朝(581年-618年)
581年 楊堅(文帝)が隋を建国(-618)
589年 隋、中国を統一。南北朝時代終わる
604年 隋、煬帝即位。大運河建設進む
唐朝(618年-907年) 武周(690-705年)
618年 隋滅びる。李淵(高祖)即位し、唐建国(-907)
624年 唐、均田法と租・庸・調法を制定
626年 唐、李世民(太宗)即位(貞観の治)
629年 唐の玄奘、教典を求めてインドへ出発(645帰国。大唐西域記)
635年 イラン人阿羅本、中国に景教を伝える
660年 唐と新羅、百済を滅ぼす
660年 木版印刷始まる
668年 唐と新羅、高句麗を滅ぼす
671年 唐の義浄、インドへ出発(695帰国。南海寄帰内法伝)
690年 唐の則天武后、実権を握り、国号を周とする(-705)
694年 マニ教伝わる
698年 大祚栄、渤海国を建てる(-926)
712年 唐、玄宗即位(開元・天宝の治)
751年 タラス川の。唐、アッバース朝軍に敗北。製紙法、イスラムに伝わる
755年 唐、安史の乱(-763)
756年 唐の玄宗、蜀に亡命。楊貴妃殺害
762年 唐の李白死去
764年 唐、青苗銭を実施
770年 唐の杜甫死去
780年 唐、両税法を施行
781年 唐、長安に大秦景教流行中国碑を建設(景教)
819年 唐の柳宗元死去
821年 唐、吐蕃(チベット)と同盟(唐蕃会盟碑)
824年 唐の韓愈死去
845年 唐で仏教弾圧(会昌の廃仏)
846年 唐の白居易死去
875年 唐で黄巣の乱(-884)
901年 南詔滅びる
五代(907年-960年)
907年 朱全忠、唐を滅ぼし五代後梁(-923)建国。五代十国時代始まる(-960)
916年 契丹の耶律阿保機、皇帝を称する(遼)
926年 遼、渤海国を滅ぼす
937年 雲南に大理国(南詔の後身)興る(-1253)
宋朝(960年-1279年)  北宋(960-1127年)  南宋(1127-1279年)
960年 趙匡胤、皇帝となり(太祖)、宋建国(北宋。-1126)
969年 火箭法発明
979年 北宋(宋)、北漢を滅ぼして中国を統一
990年 遼、中国と高麗に遠征
1004年 淵の盟約。北宋(宋)、遼と和する
1010年 遼、高麗に侵入
1038年 李元昊、西夏を建国(-1227)。以後、北宋(宋)に侵攻
1044年 北宋(宋)、西夏と講和
1049年 遼の興宗、西夏を討つ
1069年 北宋(宋)、王安石の改革始まる(王安石の新法)
1076年 北宋(宋)、王安石失脚
1084年 北宋、司馬光「資治通鑑」
1086年 北宋(宋)、司馬光、宰相となり王安石の新法を廃するも死去
1101年 北宋の蘇軾死去
1115年 女真のワンヤンアクダ(完顔阿骨打)、金を建国(-1234)
1119年 金、女真文字を創製
1125年 金、遼を滅ぼす
1127年 靖康の変。金、北宋を滅ぼす
1127年 高宗即位し、南宋(宋)興る(-1279)
1131年 南宋(宋)の秦檜、宰相となる
1142年 南宋(宋)の高宗、金と講和
1200年 南宋の朱子死去(朱子学)
1206年 テムジン、モンゴルを統一。チンギス・ハンと称する(モンゴル帝国)
1211年 チンギス・ハン、金に遠征
1219年 チンギス・ハン、ホラズム・シャー朝攻略のため西征(-1225)
1225年 チンギス・ハン、帝国を分封
(オゴタイ・ハン国、キプチャク・ハン国、チャガタイ・ハン国)
1227年 チンギス・ハン、西夏を滅ぼしたのち、六盤山で死去
1229年 モンゴル帝国、オゴタイ(太宗)が大ハンに即位
1231年 オゴタイ、高麗に侵入
1234年 モンゴル帝国、金を滅ぼす
1235年 オゴタイ、カラコルム(和林)に首都を建設
1246年 教皇の使節カルピニ、モンゴル帝国を旅行(-1247)
1251年 モンゴル帝国、モンケ(蒙哥)が大ハンに即位
1254年 フランシスコ会修道士リュブリュキ、カラコルム到着
1259年 高麗、モンゴルに服属
1260年 モンゴル帝国、フビライが大ハン即位(フビライ・ハン)
1269年 フビライ・ハン、パスパ文字を国字に採用
元朝(1271年-1368年)
1271年 フビライ・ハン、国号を「大元」(元)とする(-1368)
1274年 マルコ・ポーロ、フビライ・ハンと会見
1274年 (文永11)元軍、日本遠征に失敗(文永の役。元寇)
1275年 南宋の文天祥、反元義勇軍を起こす
1279年 元、厓山で南宋を滅ぼし、中国を統一
1281年 (弘安4)元軍、日本再遠征に失敗(弘安の役。元寇)
1294年 教皇の使節モンテ・コルビーノ、元の首都大都に入り伝道開始
1346年 イブン・バットゥータ、元の首都大都訪問
1351年 元で紅巾軍蜂起
1353年 朱元璋(洪武帝)、紅巾軍に呼応して挙兵
1359年 紅巾軍、高麗に入寇(-1362)
明朝(1368年-1644年)
1368年 朱元璋(洪武帝)元を破り明建国(-1644)。元モンゴルに逃れ北元成立(-1634)
1381年 明、里甲制を定める
1392年 明、景徳鎮に官窯を置く(景徳鎮窯)
1397年 明、大明律頒布
1399年 明で靖難の変(燕王挙兵。-1402)
1401年 (応永8)足利義満、明に使者を派遣
1402年 明、永楽帝(成祖)即位
1404年 (応永11)足利義満、明と勘合貿易始める
1405年 明、鄭和の南海遠征(-1433、前後7回)
1406年 明、ベトナム(安南)を征服(-1428)
1407年 明、「永楽大典」
1410年 明、永楽帝のモンゴル親征(1414、1422、1423、1424)
1421年 明、北平を北京と改め遷都
1449年 明にオイラート(瓦剌)軍侵攻、正統帝を捕える(土木の変)
1487年 北元のダヤン・ハン(達延汗)即位
1502年 明、「大明会典」
1520年 タタール(モンゴル)、明に侵入
1521年 明の嘉靖帝(世宗)即位
1522年 明、モンゴルと倭寇の脅威に悩む(北虜南倭)
1526年 明で王陽明が陽明学を創始
1550年 タタール(モンゴル)のアルタン(俺答)、明に侵入、北京を包囲(庚戌の変)
1552年 ザビエル、中国で死去
1557年 海寇の首領王直、明に捕われる(1559斬首)
1557年 明、ポルトガル人のマカオ居住を許す(広東貿易)
1563年 明の戚継光ら、福建で倭寇を破る
1571年 明、タタール(モンゴル)のアルタン(俺答)と和議成立
1573年 明、張居正の改革始まる(-1582)
1575年 明で一条鞭法広まる
1578年 李時珍「本草綱目」
1583年 イエズス会宣教師マテオ・リッチ、広東の肇慶に定住し、中国布教開始
1583年 女真のヌルハチ(奴児哈赤)挙兵
1592年 豊臣秀吉の朝鮮・明出兵(文禄・慶長の役)(-1598)
1597年 明で楊応龍の反乱(-1600。播州の乱)
1598年 イエズス会宣教師マテオ・リッチ、北京に入る
1602年 マテオ・リッチ「坤輿万国全図」刊
1603年 女真のヌルハチ(奴児哈赤)、ヘト・アラ(赫図阿拉)を都とする
1604年 明、顧憲成ら、無錫に東林書院を設立
1616年 女真のヌルハチ(奴児哈赤)、ハン位につき、後金成立
1619年 ヌルハチ(奴児哈赤)、明を破る(サルフの戦い)
1624年 オランダ、タイナン(台南)に貿易根拠地建設(-1661)
1627年 後金、朝鮮に侵入(丁卯胡乱)
1628年 明で李自成の乱(-1644)
1632年 満州文字創製
清朝(1636年-1912年) 
1636年 後金、国号を清と改める(-1912)
1636年 清、朝鮮に侵入(丙子胡乱)
1637年 朝鮮、清に服属。清の年号を使う
1644年 明、李自成の軍により滅亡(李自成の乱)清、李自成を滅ぼし、北京遷都。
1644年 清、弁髪令
1645年 チベット、ポタラ宮殿の造営開始
1646年 清律成立
1650年 鄭成功、金門、アモイ(厦門)を奪い、根拠地とする
1661年 清、康煕帝即位。遷界令発布(-1684)
1661年 鄭成功、台湾を占領
1662年 清、文字の獄(-1795)
1669年 イエズス会宣教師フェルビースト、清の欽天監監副となる
1673年 清、三藩の乱(11月)(-1681)
1683年 清、鄭氏勢力を滅ぼし、台湾を領有
1684年 清、遷界令解除、翌年海関設置
1684年 清、アムール川北岸のアルバジン城でロシアと衝突(チェルニゴフスキー)
1688年 モンゴル族ハルハ(哈爾哈)部、ガルダン(爾丹)に敗れ、清に助けを求める
1689年 清とロシア、ネルチンスク条約締結。国境を定める(9.7)
1690年 清、「大清会典」
1696年 清、ジュンガルのガルダン(爾丹)を大破。外モンゴルを支配
1699年 教皇インノケンチウス12世、典礼問題調査会設置
1705年 清で典礼問題激化。康煕帝、教皇クレメンス11世の使者に国外退去命令
1712年 清、盛世滋生人丁を定める(1713実施)
1716年 清、「康煕字典」
1717年 清、「皇輿全覧図」
1722年 清で地丁銀制広く実施
1722年 清、康熙帝没。1723雍正帝即位
1723年 清、キリスト教禁止。宣教師をマカオに追放(典礼問題)
1725年 清、「古今図書集成」
1727年 清とロシア、キャフタ(恰克図)条約締結(7月)
1735年 清、乾隆帝即位
1739年 清、「明史」
1743年 清、「大清一統志」
1747年 清、金川土司の乱(-1749)
1757年 清、ジュンガルを平定
1757年 清、外国貿易を広東 1港に制限(広東貿易)
1759年 清、東トルキスタンのウイグル人を平定。その地方を新疆と呼ぶ
1762年 清、イリ(伊犂)将軍を設置、新疆地区を統治させる
1772年 清、「四庫全書」(-1781)
1790年 清、ビルマを属国とする
1793年 イギリス使節マッカートニー(伯)、北京を訪問(8月)
1796年 清、白蓮教徒の乱(1月)(-1804)
1807年 イギリス人宣教師モリソン、広東に来る
1816年 イギリス、アマーストを使節として清に派遣(7月)
1833年 イギリス東インド会社の対中国貿易独占権廃止
1839年 清、林則徐を欽差大臣として広州に派遣。イギリス船のアヘンを没収(3月)
1840年 アヘン戦争(6月)(-1842)
1842年 南京条約締結(8.29)清が 5港を開き、ホンコン(香港)をイギリスに割譲
1843年 清、イギリスと虎門寨追加条約締結(10.8)
1844年 清、アメリカと望厦条約、フランスと黄埔条約を締桔
1851年 太平天国の乱(1月)(-1864)。洪秀全、国名を太平天国とし天王を称する
1853年 太平天国、南京を占領。天京と改める(3.29)
1856年 太平天国に内紛、楊秀清ら殺される
1856年 清でアロー号事件(10.8)(アロー戦争)
1857年 英仏連合軍、広東占領(12.29)(アロー戦争)
1858年 清、ロシアと愛琿条約締結(5.28)
1858年 清、ロシアと天津条約締結(6.13)
1858年 清、アメリカと天津条約締結(6.18)
1858年 清、イギリスと天津条約締結(6.26)
1858年 清、フランスと天津条約締結(6.27)
1860年 英仏連合軍が北京占領(10.13)円明園、頤和園焼失(10.18)北京条約締結(アロー戦争)
1860年 清、イギリスと北京条約締結(10.24)
1860年 清、フランスと北京条約締結(10.25)
1860年 清、ロシアと北京条約締結(11.4)ロシアにウスリー川以東を割譲
1861年 清、総理衙門設立
1861年 同治帝即位。生母西太后摂政となり、政治の実権を握る
1862年 清、北京に外国語学校同文館開校。洋務運動活発化(洋務派)
1864年 洪秀全死去。太平天国滅ぶ
1864年 清、新疆地方でドゥンガン(東干)の乱(-1877)
1868年 清とアメリカ、バーリンゲーム条約(Treaty of Burlingame)締結(7.28)
1871年 ロシア、清のイリ地方(ウイグル自治区)を占領(7.14)(イリ条約)
1871年 (明治4)日清修好条規調印(9.13)
1874年 (明治7)台湾出兵(征台の役)(5.7)
1875年 清、光緒帝即位(1.18)(-1908)、伯母の西太后摂政となる
1877年 清、左宗棠がヤクブ・ベクを破り、新疆地方を平定
1881年 ロシア、清にイリ地方返還
1882年 清、ロシアとカシュガル(喀什爾)界約(両国の国境線を画定)締結
1883年 清仏戦争(11.12)(-1885)ベトナムで武力衝突
1885年 清、フランスと天津条約締結(6.9)フランスのベトナム主権を承認
1885年 (明治18)日本と清、朝鮮に関して天津条約締結(4.18)
1888年 清、アメリカと移民制限条約案に調印
1894年 (明治27)日清戦争始まる(8.1)(-1895)
1895年 (明治28)下関条約(日清講和)調印(4.17)
1895年 孫文ら率いる興中会、広州で蜂起(11.24)
1896年 清とロシア、東支鉄道敷設に関する対日本密約(6.3)
1898年 ドイツ、清から山東半島の膠州湾(こうしゅうわん)を租借(3.6)
1898年 ロシア、清から旅順と大連を租借(3.27)
1898年 清、康有為ら戊戌(ぼじゅつ)の変法を断行(6-9月)(変法自彊運動)
1898年 イギリス、清から威海衛と九竜半島を租借(6.9)
1899年 アメリカ、列強に対し中国進出に関する門戸開放政策を宣言(9.6)
1899年 フランス、清から広州湾を租借(11.16)
1900年 義和団事件(民衆による列強排斥運動)(6-9月)
1900年 清、列強に宣戦(6.21)(義和団事件)
1901年 清、義和団事変の最終議定書締結(9.7)(辛丑条約)
1902年 清、ロシア軍の満州撤兵に関する条約(満州還付条約)をロシアと締結(4.8)
1905年 孫文、中国革命同盟会を東京で結成(8.20)
1905年 科挙が廃止される(9.2)
1905年 (明治38)日露講和条約がポーツマスで調印(9.5)
1906年 (明治39)旅順に関東都督府を設置(関東軍)(8月)
1906年 (明治39)南満州鉄道株式会社設立(11.26)
1908年 清、憲法大綱公布(9.22)
1908年 宣統帝溥儀即位(12.2)
1910年 (明治43)日本、韓国を併合(8.22)
1911年 辛亥革命起こる(武昌蜂起)(10.10)
1911年 外モンゴル、清からの独立を宣言(11.30)
中華民国(1912年-1949年)
1912年 中華民国成立(1.1)孫文が臨時大統領に就任
1912年 宣統帝溥儀が退位し、清朝滅亡(2.12)
1912年 袁世凱、孫文の後任として臨時大統領に就任(3.10)
1912年 中国革命同盟会、国民党に改組(8.25)
1913年 中国、第二革命失敗。袁世凱、中華民国大総統に就任(10.10)国民党に解散命令布告(11.4)
1914年 孫文、東京で中華革命党結成(7.8)
1914年 (大正3)日本、ドイツに宣戦、第1次世界大戦に参戦(8.23)
1914年 (大正3)日本、チンタオ(青島)占領(11.7)
1915年 (大正4)日本、中国に二十一ヵ条要求(5.7)
1915年 袁世凱の帝制復活計画に対し、第三革命起こる
1916年 袁世凱、帝位につくが断念し死去(6.6)
1917年 胡適・陳独秀ら文学革命を提唱
1917年 広東政府成立(第1次)孫文、大統領に就任(9.10)
1917年 (大正6)石井=ランシング協定(-1923)
1918年 南北軍閥の抗争始まる(-1928)
1919年 五・四運動(排日運動)始まる(5.4)
1919年 孫文、中華革命党を中国国民党に改組(10.10)
1921年 第2次広東政府成立。孫文、非常大総統に就任(5.1)
1921年 中国共産党成立(7.23)
1921年 魯迅「阿Q正伝」
1922年 (大正11)九ヵ国条約調印(2.6)
1923年 孫文=ヨッフェ共同宣言発表(1.26)
1924年 第1次国共合作成立(1.20)
1925年 上海で学生らのデモに警官隊が発砲(5.30)(五・三〇事件)
1925年 広州で国民政府成立(7.1)
1926年 蒋介石が北伐を開始(7.1)(-1928)
1927年 蒋介石が上海クーデター(四・一二クーデター)決行(4.12)国共分離。南京で国民政府成立(4.18)
1927年 (昭和2)第1次山東出兵(5.28)
1927年 毛沢東、チンカン(井崗)山に根拠地建設
1928年 (昭和3)第2次山東出兵、日本軍と国民政府軍が済南で衝突(済南事変)(5.3)
1928年 (昭和3)関東軍、張作霖を爆殺(張作霖爆死事件)(6.4)
1928年 蒋介石、北京入城(北伐完了)
1931年 (昭和6)柳条湖事件(9.18)(満州事変、-1933)
1931年 中国共産党、江西省瑞金で中華ソビエト共和国臨時中央政府樹立(11.7)
1932年 (昭和7)日本軍、上海で中国軍と交戦(第1次上海事変)(1.28)
1932年 (昭和7)満州国建国宣言(3.1)溥儀、執政に就任(3.9)
1932年 (昭和7)日満議定書調印(満州国承認)
1932年 (昭和7)リットン調査団、満州問題の現地調査報告書発表(10.1)
1934年 (昭和9)満州国皇帝に溥儀が就任(3.1)
1934年 中国共産党、長征(-1936)
1935年 中国共産党中央、八・一宣言(陳紹禹)
1936年 張学良ら、西安で蒋介石を拘禁し、抗日統一を迫る(西安事件)(12.12)
1937年 (昭和12)盧溝橋事件、日中戦争始まる(7.7)
1937年 (昭和12)第2次上海事変(8.13)
1937年 中ソ不可侵条約成立(8.21)
1937年 第2次国共合作成立。抗日民族統一戦線結成(9.23)
1937年 (昭和12)日本軍、南京占領。南京大虐殺事件(12.13)
1938年 中国国民政府、重慶に遷都(-1945。重慶政府)
1940年 汪兆銘が南京に国民政府樹立(3.30)
1940年 (昭和15)華北地方で中国共産党軍の八路軍と日本軍が戦闘(百団大戦)
1940年 毛沢東「新民主主義論」(新民主主義)
1941年 国民政府軍が新四軍を攻撃(皖南事変)(1.6)
1943年 カイロ会談、カイロ宣言発表(12.1)
1945年 中ソ友好同盟条約調印(8.14)
1945年 第2次世界大戦、太平洋戦争終わる(8.15)
1945年 国際連合設立(10.24)
1946年 第1回国連総会、安全保障理事会成立
1946年 中国国民党と中国共産党、全面内戦に突入(-1949)
1947年 連合国と旧枢軸国、パリ条約調印
1947年 台湾で大規模な反政府暴動が勃発(二・二八事件)(2.28)
中華人民共和国(1949年-)
1949年 中華人民共和国成立(10.1)
1949年 中国国民政府、首都を台北に移転(12.8)
1950年 中ソ友好同盟相互援助条約締結(2.14)
1950年 朝鮮戦争勃発(6.25)(-1953)
1950年 人民解放軍、朝鮮へ出動(10.19)
1952年 (昭和27)日華平和条約調印(4.28)
1953年 朝鮮休戦協定調印(7.27)
1954年 周恩来・ネルー会談、平和五原則声明(6.28)
1955年 アジア・アフリカ会議がバンドンで開催(4.18-24)
1955年 アジア・アフリカ会議で平和十原則を発表(4.24)
1956年 ソ連共産党第20回大会で、フルシチョフがスターリン批判(2.14)
1958年 中国共産党、人民公社設立と大躍進運動(鉄鋼増産)の推進を採択(8.17)
1959年 ダライ・ラマ、チベット独立を宣言(3.12)
1959年 政府軍がラサを占領(3.23)
1959年 ダライ・ラマ、インドへ亡命(3.30)
1959年 劉少奇、国家主席就任(4.2)(-1968)
1959年 彭徳懐が大躍進批判の意見書を提出し、毛沢東が反論(7.2)
1960年 フルシチョフ、在中国ソ連人専門家召還(中ソ対立)
1962年 毛沢東、大躍進失敗を自己批判(1.11)
1962年 中国軍とインド軍、国境地帯で大規模な衝突(中印国境紛争)(10.20)
1962年 (昭和37)中国とのLT貿易始まる(11月)(-1968)
1964年 初の核爆発実験(新疆ウイグル自治区 ロプノール)に成功(10.16)
1966年 文化大革命始まる(5.16)(-1977)
1966年 北京大学で学長批判の壁新聞が掲示され、知識人糾弾運動の起点となる(5.25)
1966年 天安門広場で文革祝賀の百万人集会開催。林彪、序列2位に躍進(8.18)
1968年 中国共産党、劉少奇を除名(10.13)
1969年 珍宝島事件(中ソ国境紛争)(3.2)
1969年 中国共産党、林彪を毛沢東の後継者とする新党規約を採択(4.1)
1971年 林彪、毛沢東暗殺のクーデター失敗(林彪事件)(9.13)
1971年 中国の国連代表権、台湾政府から北京政府に移る(10.25)
1972年 ニクソン訪中(2.21)
1972年 (昭和47)日中共同声明調印(国交正常化)(9.29)
1973年 鄧小平復活、副総理に就任(4.12)
1975年 中国共産党、「四つの現代化」構想を提唱(1.30)
1975年 台湾、蒋介石国民政府総統死去(5.5)
1976年 周恩来没(1.8)
1976年 天安門広場の周恩来追悼の民衆を弾圧(第1次天安門事件)(4.5)
1976年 鄧小平解任(4.7)
1976年 唐山地震、死者24万人(7.28)
1976年 毛沢東没(9.9)
1976年 江青ら四人組逮捕(10.6)
1976年 華国鋒、中国共産党主席就任(10.7)(-1981)
1977年 中国共産党、文化大革命終結宣言(8.12)
1978年 (昭和53)日中平和友好条約調印(8.12)
1979年 米中国交回復(対台湾関係法)(1.1)
1979年 中国軍、ベトナム国境侵攻(中越戦争)(2.17)
1980年 中ソ友好同盟相互援助条約破棄(4.10)
1981年 胡耀邦が中国共産党主席就任(6.29)(1982総書記)
1987年 胡耀邦総書記、学生の民主化デモで引責辞任。代行に趙紫陽(1.16)
1987年 台湾、戒厳令解除(7.15)
1988年 台湾、蒋経国総統死去。後任に本省人の李登輝(1.13)
1989年 胡耀邦没(4.15)
1989年 天安門広場で胡耀邦追悼と民主化要求の学生デモ開始(第2次天安門事件)(4.17)
1989年 趙紫陽総書記解任。後任に江沢民(6.24)(-2002。1993-2003主席)
1992年 中国と韓国、国交樹立(中韓関係)(8.24)
1993年 憲法に社会主義市場経済論(3.29)
1996年 台湾初の総統直接選挙で李登輝当選(3.23)
1997年 鄧小平没(2.19)
1997年 イギリス、中国にホンコン返還(ホンコン基本法)(7.1)
1999年 台湾大地震(集集地震)(9.21)
1999年 マカオ、中国に返還(12.19)
2000年 台湾初の政権交代。総統選挙で民主進歩党の陳水扁が当選(3.18)
2003年 中国国家主席に胡錦濤(3.18)
2003年 世界で 3ヵ国目の有人宇宙飛行(神舟5号)に成功(10.15)
2008年 チベット自治区ラサで大規模な暴動が発生(3.14)
2008年 中国四川省で大地震発生、死者・行方不明者約8万7,000人に(5.12)
2008年 北京オリンピック開催(8.8~24)過去最多の204ヵ国・地域が参加。
2009年 新疆ウイグル自治区で暴動、武力鎮圧で死者197人(7.5)
2010年 上海万博開催、史上最多の入場者数7,300万人を達成(5.1~10.31)
2010年 中国で服役中の民主活動家、劉暁波氏のノーベル平和賞授賞決定(10.8)
2012年 習近平が総書記に就任(11.15)





     

  

中国語講座 「中国の歴史概説」


夏朝(约前21世纪-约前16世纪)
夏朝是中国史书记载的第一个世袭制朝代,由多个部落联盟组成。
禹传位于其子启,改变了原始部落的禅让制,
开创了世袭王位的先河,标志着中国历史上“家天下”的开始。
夏代共传十四朝十七王,延续约470年,为商所灭。



商朝(约公元前1600-约公元前1046年)
夏朝方国的商国君主商汤,率方国于鸣条之战灭夏后,以“商”为国号在毫建立商朝,
商是中国历史上有当时文字记载遗留至今的最早朝代,甲骨文和金文是已发现的中国最早文字。
商朝前期几经迁都,盘庚迁都于殷,因此商朝又被后世称为殷或殷商。
商前后相传十七世三十一王,延续500余年。
商朝的末代君主帝辛(纣王)于牧野之战被周武王击败后自焚而亡。


周朝(公元前1046-公元前256年)
周是中国历史第三个也是最后一个世袭奴隶制王朝,共传30代37王,共计约791年,
是“华夏”一词的创造者与最初指代,分为西周与东周两个时期。西周由周武王姬发灭殷商建国,定都镐京,至周幽王亡国止;
东周都城为洛邑,其时代又分为春秋和战国两个时期。公元前256年,秦昭襄王废黜周赧王,东周灭亡。


秦朝(公元前221-公元前207年)
秦朝是中国历史上第一个大一统中央集权帝国,传三世(秦始皇、秦二世、子婴)共两帝一王,国祚十四年。
秦国原为周朝的一个诸侯国,公元前230年至前221年,秦王嬴政陆续攻灭其他六个主要诸侯国(韩、赵、魏、楚、燕、齐),一统中原,
后北击匈奴、南定百越,建立国土空前辽阔的王朝。嬴政建立秦朝后自称“始皇帝”,从此中国有了皇帝的称号。
秦朝实行三公九卿中央官制,废分封,立郡县;推行车同轨,书同文,行同倫,统一文化风俗,奠定中国大一统王朝的统治基础。
公元前207年,秦王子婴向刘邦投降,秦朝灭亡。


西楚(公元前206-公元前202年)
西楚是秦朝灭亡至汉朝建立前的政权,君主为项羽,定都彭城,国号“西楚”,国祚四年。
秦朝末年爆发农民起义,身为楚国贵族的项梁、项羽趁势崛起。
秦二十三年二月(BC207年),项羽在巨鹿之战中击败秦军,奠定自己在众诸侯中的地位;虽进军关中后于刘邦,但依靠兵力优势及大胜之威,
仍取得关中控制权,成为楚地的实际控制者。公元前206年2月,项羽尊楚后怀王为义帝,并分封诸侯,而项羽自号“西楚霸王”,史称西楚霸王。
公元前202年,项羽在垓下之战中,败于以汉为首的诸侯联盟,而自吻于乌江,楚地随之被汉所吞并,西楚灭亡。


西汉(公元前202-公元8年12月)
楚汉之争后,刘邦于公元前202年称帝,国号“汉”,史称西汉,定都长安。
西汉在诸多制度上承袭秦制,汉初实行“轻徭薄赋、休养生息”国策,社会经济迅速恢复,
史称文景之治,汉武帝继位后推行推恩令,中朝、刺史、盐铁官营等制度、加强中央集权并独尊儒数统一思想,
开创了汉武盛世的局面。西汉是中国历史上继秦朝之后的大一统王朝,共立十二帝,享国二百一十年。


新朝(公元9-公元23年)
新朝是两汉之间的短暂朝代,共一帝,十五年国祚。公元九年一月,公元9年1月,王莽废汉孺子刘婴篡位称帝,
改国号为“新”,建都长安,史称新莽。王莽称帝后进行许多改革:主要由改革官制、改变地名、推行王田制、禁止奴隶买卖、
五均六筦及改革币制等新治政令繁杂,而且朝令夕改,改革最终失败,导致新朝急速灭亡。
地皇四年(公元23年) 绿林军拥立刘玄为帝,称更始帝,同年攻入长安,王莽被杀,新朝亡。


玄汉(公元23年3月-公元25年9月)
玄汉是继新朝之后出现的政权,为西汉宗室刘玄所建立。刘玄于公元23年3月在宛城称帝。
后其先后迁都洛阳、长安,国祚三年。更始元年至二年间,名义上统一了西汉末年疆域的绝大部分地区,
为区别西汉、东汉,故称“玄汉”。


东汉(公元25-公元220年)
新莽末年爆发绿林、赤眉起义,汉朝宗室出身的刘秀趁势而起。公元25年,刘秀称帝,定都洛阳,开创了“光武中兴”;
后经“明章之治”(汉明帝、汉章帝时期),东汉进入全盛时期。
汉章帝后期外戚日益跋扈,汉和帝继位后扫灭外戚,亲政后使东汉国力达到极盛,时人称之为“永元之隆”。
公元189年,董卓引兵进京,废少帝刘辩,立献帝刘协,各地州郡长官借此反对董卓,并演化成群雄割据的局面。
汉献帝后被曹操控制,最后汉室被曹魏取代。东汉共传八世共十四帝,历经195年。


三国(公元220-公元280年)
赤壁之战,曹操被孙刘联军击败,形成了三国鼎立的雏形。
公元220年,曹丕篡汉称帝,国号“魏”,史称曹魏,此年刘备在成都延续汉朝,史称蜀汉。
223年,刘备去世,诸葛亮辅佐刘备之子刘禅,与孙权重新联盟。
229年,孙权称帝,史称东吴,至此三国鼎立局面正式形成。
曹魏后期的实权渐渐被司马懿掌控。
263年,曹魏的司马昭发动魏灭蜀之战,蜀汉灭亡。
两年后司马昭病死,其子司马炎费魏元帝自立,建国号为晋,史称西晋。
公元280年,西晋灭东吴,统一中国,至此三国时期结束。


晋朝(公元265-公元420年)
晋朝分为西晋与东晋两个时期,西晋为大一统王朝之一,
东晋与孙吴、以及宋、齐、梁、陈合称为“六朝”,两晋共传十五帝,共155年。
266年司马炎篡位,建国号为“晋”,定都洛阳;280年灭吴,完成统一,后经历“八王之乱”(皇族内乱);
316年西晋被北方蛮族灭亡,北方陷于混乱,史称“五胡乱华”。
317年晋室南渡,司马睿在建邺(今南京)建立东晋,东晋曾多次北伐;
383年东晋与前秦“淝水之战”后得到暂时巩固;420年刘裕建立宋,东晋灭亡。


南北朝(公元420-公元589年)
南北朝自公元420年刘裕篡夺东晋建立刘宋始,至公元589年隋灭陈而终。
南朝包含刘宋、南齐、南梁、南陈四朝,北朝则包含北魏、东魏、西魏、北齐和北周五朝。
南北两方虽各有朝代更迭,但长期维持对峙形势。



隋朝(公元581-公元618年)
公元581年二月,北周静帝禅让帝位于杨坚,北周覆亡,杨坚定国号为“隋”,初都长安,
开皇三年(583年)迁大兴城(今西安)。随后南下灭陈朝,统一中国。
隋文帝在位期间,民生富庶,政治安定,开创了“开皇之治”的繁荣局面。
隋炀帝过度消耗国力(如开凿大运河、三征高句丽),引发了隋末民变和贵族叛变。
公元618年,隋朝灭亡。



唐朝(公元618-公元907年)
唐是公认的中国最强盛的时代之一,隋末天下群雄并起,617年唐国公李渊发动晋阳兵变,此年在长安称帝,建立唐朝。
因皇室姓李,故又称为“李唐”。唐太宗继位后开创“贞观之治”;唐高宗承贞观遗风,开创“永徽之治”;
之后武则天一度以周代唐,神龙政变后恢复大唐国号;唐玄宗即位后励精图治,开创了经济繁荣、四夷宾服万邦来朝的“开元盛世”,
安史之乱(755-763年)后,藩镇割据,宦官专权导致国力渐衰;中期又经“元和中兴”“会昌中兴”“大中之治”,国事复振。
公元878年爆发黄巢起义,破坏了唐朝统治根基;907年朱温篡唐,唐朝覆亡。



五代十国(公元907-公元960年)
唐朝灭亡后,各地藩镇纷纷自立为国,位于中原地区依次更替的五个政权——后梁、后唐、后晋、后汉与后周,统称为“五代”;
而其他藩镇或自立为帝、或奉中原王朝为正统,其中十个国力较强的国家被统称为“十国”。是中国历史上的一段大分裂时期。



宋朝(公元960-公元1279年)
公元960年,后周诸将发动陈桥兵变,拥立赵匡胤为帝,建立宋朝,宋分北宋和南宋两个阶段,共历18帝,享国三百一十九年。
宋太祖赵匡胤为避免晚唐藩阵割据和宦官专权乱象,“重文抑武”,加强中央集权并剥夺武将兵权。
宋太宗继位后统一全国;宋真宗与辽国缔结“澶渊之盟”后,逐渐步入治世。
1125年金国大举南侵,导致“靖康之耻”,北宋灭亡;康王赵构于南京应天府即位,建立了南宋,绍兴和议后与金国以秦岭-淮河为界。
1234年南宋联蒙灭金,1235年爆发宋元战争;1276年元朝攻占临安,崖山海战后,南宋灭亡。



元朝(公元1271-公元1368年)
元朝是蒙古族建立的王朝,传五世十一帝,历98年。
1206年成吉思汗统一漠北,建立蒙古帝国,先后攻灭西辽、西夏、金等国;1260年忽必烈即汗位,建元“中统”;
1271年忽必烈改国号为“大元”,次年迁都燕京(改称大都,今北京);
1279年元军灭南宋,之后元朝持续对外扩张,但屡遭失利。元中期政变频繁,政治始终未能走上正轨。



明朝(公元1368-公元1644年)
元末民不聊生,爆发红巾起义。1368年朱元璋称帝,国号为“大明”,定都应天府(今南京);
1420年朱棣迁都顺天府(今北京)。明初历经“洪武之治”(朱元璋)、“永乐盛世”(朱棣)、“仁宣之治”(朱高炽、朱瞻基),国力强盛。
中期经“土木堡之变”(1449年),国力由盛转衰;后经“弘治中兴”“嘉靖中兴”“万历中兴”,国势复振。
晚明因东林党争、和天灾外患(如后金崛起)导致国力衰退,爆发明末农民起义。
1644年李自成攻入北京,崇祯帝煤山自缢,明朝覆灭。明朝共传十六帝,享国276年。



清朝(公元1636-公元1912年)
清朝是中国历史最后一个封建王朝,共传十帝,享国276年。1616年建州女真部首领努尔哈赤建立后金;1636年皇太极改国号为“大清”;
1644年李自成攻占北京,驻守山海关的名将吴三桂降清。
一片石之战后,摄政王多尔滚率领清军趁势入关,同年顺治地迁都北京,从此清朝取代明朝成为全国统治者。
清朝政治上推行“首崇满洲”,圈地投充,剃发易服,军事上平定大顺、大西、南明等政权、二十年间逐步掌控全国;康雍乾三朝走向鼎盛,
统一多民族国家得到巩固,封建专制推向了最高峰。
1912年2月12日,袁世凯迫使清帝溥仪逊位,颁布了《清帝退位诏书》,清朝自此结束。






-------------------------------------------------------------------------------------------

【注 釈】


【家天下】jiā tiān xià   世襲君主制。天下を一家で独り占めするという意味。権力者が重要地位を身内の者で固めること。

【方国】fāng guó   従属国。夏王朝を宗主国とした君臣関係を結んだ国家。

【鸣条之战】míng tiáo zhī zhàn   鳴条の戦い(めいじょうのたたかい)BC1600年、商(殷)の湯王が、
鳴条(山西省運城)で桀王を破り、夏を滅ぼした戦い。

【亳】bó   商の湯王が都とした地。現在の河南省商丘県にあたる。

【牧野之战】mù yě zhī zhàn   牧野の戦い(ぼくやのたたかい)BC1046年、殷の帝辛(紂王)と周の武王を中心とした勢力が
牧野(河南省新郷)で争った戦い。周軍が勝利し約500年続いた殷王朝は倒れ、周王朝が天下を治めることになった。

【三公九卿】sān gōng jiǔ qīng   三公九卿(さんこうきゅうけい)秦・漢時代に確立された最高中央官制。
皇帝を頂点とし、丞相・太尉・御史大夫の「三公(最高補佐)」が政務を統括し、
その下の「九卿(専門官僚)」が財政、軍事、宮廷警備などの実務を分担する体制。
約700年にわたり中央集権の基礎となった。

【楚后怀王】chǔ hòu huái wáng   楚後懐王(そごかいおう)秦末期に項梁らによって擁立された楚の復興君主(義帝)。
本名は熊心(ゆうしん)戦国時代の楚の懐王の孫で、「懐王」を継承したが、混同を避けるため、史書では一般的に熊心を
「楚後懐王」と呼んでいる。

【推恩令】tuī ēn lìng   推恩令(すいおんれい)諸侯の勢力を削ぐための政策。諸侯に対し、封地を嫡長子だけでなく、
他の子弟にも分割して分与することを義務付けた。王国の領土を細分化することにより、結果として中央集権を強化することになる。

【五均六筇】wǔ jūn liù qióng   五均六筦(ごきんろっかん)新の王莽が経済統制のために実施した政策の総称。
主に、物価の平準化(五均)と、主要産業の官営(六筦)を行い、商人の富を抑えて、人民の生活を安定させた。
五均(ごきん): 各地の産物を国が管理し、価格が高い場合は売り出し、低い場合は買い取ることで物価を平準化させた。
六筦(ろっかん): 塩・鉄・酒・貨幣鋳造など、財政の柱となる6つの分野を国が管理した。

【绿林起义】lù lín qǐ yì   緑林の乱(りょくりんのらん)AD17年、、王莽の失政と飢饉に苦しむ農民の反乱。
湖北省の緑林山を根拠地としたことに由来する。その後内部対立によって組織は瓦解した。

【赤眉起义】chì méi qǐ yì   赤眉の乱(せきびのらん)AD18年、王莽の失政と飢饉に苦しむ農民の反乱。
参加した者は眉まゆを朱で染めて目印とした。AD27年、後漢の光武帝に平定された。

【董卓】dǒng zhuó   董卓(とうたく)後漢末の軍閥の一人。
軍事力を背景に中央へ進出し、献帝を擁立して最高権力者となったが、政治は専横を極め、首都洛陽は荒廃する。
事態を見かねた曹操の呼びかけで、同じく軍閥の袁紹(えんしょう)を盟主とした反董卓連合軍が結成される。
連合軍は洛陽へと迫ったが、董卓は洛陽に火を放ち、献帝を伴って長安へ遷都してしまう。
権勢をほしいままにした董卓だったが、文官であった王允(おういん)の 「連環の計」(美人計)により、
自分の部下の呂布(りょふ)に殺害される。

【赤壁之战】chì bì zhī zhàn    赤壁の戦い。後漢末期の208年、湖北省の赤壁において、
劉備と孫権の連合軍が曹操の軍を破った戦い。これにより天下三分の形勢がほぼ決まった。

【八王之乱】bā wáng zhī luàn    八王の乱(はちおうのらん)西晋末の291年から306年まで続いた皇族内の内乱。
司馬炎の死後、一族の有力な八人の王が政権を争い、西晋の滅亡を早めた。

【贞观之治】zhēn guān zhī zhì   貞観の治(じょうがんのち)唐の太宗(李世民 在位626-649年)の治世。賢臣・名将に補佐され、
官制の整備、領土の拡大、学芸の奨励により、国力を充実させた。

【永徽之治】yǒng huī zhī zhì   永徽の治(えいきのち)唐の高宗(在位649-683年)の治世。唐の法制が完成し、律令制が成熟した。
またこの治世は、飢饉や災害がなく、犯罪が少ない安定した社会情勢が保たれた。

【神龙政变】shén lóng zhèng biàn   神龍の政変(しんりゅうのせいへん)唐の宰相らがクーデターを起こし、病に臥せていた則天武后に退位を迫り、
唐中宗(高宗と則天武后の子 在位684年/705-710年)が復位して唐朝が復活した。

【励精图治】lì jīng tú zhì   (成語)精力を尽くして統治に取り組む。
(用例)勾践励精图治,最终打败了吴国。勾践は国をよく治め、ついに呉国を打ち負かした。

【安史之乱】ān shǐ zhī luàn   安史の乱(あんしのらん)755年、唐の中期、玄宗皇帝(在位712-756年)の晩年に、節度使(近衛軍の将軍)の
安禄山(あんろくざん)らが起こした反乱。763年、粛宗(しゅくそう 在位756-762年)の代に鎮圧。以後、唐の中央集権体制は弱体化した。

【元和中兴】yuán hé zhōng xīng   元和中興(げんわちゅうこう)唐の中期、憲宗(在位806-820年)の元和年間に行われた政治改革。
地方の藩鎮(軍事長官)の人数を削減して朝廷の権力を強化した。

【会昌中兴】huì chāng zhōng xīng   会昌中興(かいしょうちゅうこう)唐の第15代皇帝・武宗(在位840-846年)の会昌年間に行われた政治改革。
寺院4600か所を破壊するという仏教弾圧を行い、寺院の土地や財産を没収した。これにより莫大な財源が確保され、国家財政が改善した。

【大中之治】dà zhōng zhī zhì   大中の治(だいちゅうのち)唐の第16代皇帝・宣宗(李忱、在位846-859年)が行った政治改革。
官吏の綱紀粛正、減税、逃散した民の帰還を促し、唐の衰退を一時的に食い止めて平穏をもたらした。

【黄巢起义】huáng cháo qǐ yì   黄巣の乱(こうそうのらん)875-884年、中国の唐末期に起きた農民の反乱。
山東の王仙芝(おうせんし)の起こした反乱に呼応して、同じく山東の黄巣(こうそう)も蜂起・合流。
四川以外の全土を巻き込んだ。王仙芝の死後、黄巣は880年長安に入って国号を大斉とし皇帝の位に就いたが、
唐軍の反撃を受けて泰山付近で敗死。この乱は唐朝滅亡の契機となった。

【陈桥兵变】chén qiáo bīng biàn   陳橋の変(ちんきょうのへん)960年に後周の将軍・趙匡胤(ちょうきょういん)が、
陳橋(河南省)で部下に擁立され、皇帝に即位して宋を建国した政変。幼い皇帝からほぼ無血で政権を奪取し、
五代十国時代の混乱に終止符を打つ契機となった。

【澶渊之盟】chán yuān zhī méng   澶淵の盟(せんえんのめい)遼と宋との間に結ばれた平和条約。
宋は遼に毎年銀10万両を贈り、国境は現状を維持することなどを約した。
以後、1世紀以上にわたり平和が続き、遼は宋の影響を受けて文化・経済面で大きく発展した。
澶淵は条約の締結地澶州せんしゅうのこと。

【靖康之耻】jìng kāng zhī chǐ   靖康の恥(せいこうのち)は、1127年、北宋が金の侵攻により首都・開封を落とされ、
徽宗・欽宗の二帝をはじめとする皇族・貴族・臣下ら約10万人が捕らえられ、北へ連行された末に北宋が滅亡した歴史的事件。

【绍兴和议】shào xīng hé yì   紹興の和議(しょうこうのわぎ)1142年、南宋と金の間で締結された平和条約。
淮河(わいが)を両国の国境線として金が北、南宋が南を支配することを約定した。
また、南宋は金に臣下の礼をとり、毎年銀25万両を支払うこととした。この和議は、南宋にとって屈辱的な不平等条約であった。

【崖山海战】yá shān hǎi zhàn   崖山(がいさん)の海戦。1279年3月、広州湾で、元の軍勢が南宋の海軍を破った戦い。
この戦いで南宋は滅亡した。

【民不聊生】mín bù liáo shēng   (成語)人民が生活困難で暮らしていけない状況にある。
(用例)军阀混战,民不聊生。軍閥が入り乱れて人々が安心して生活できない。

【红巾起义】hóng jīn qǐ yì   紅巾の乱(こうきんのらん)元末期の1351-1366年、異民族王朝の元を倒し、
漢民族王朝を復活するきっかけとなった農民の反乱。白蓮教徒などの宗教的結社が中心勢力となり、紅色の頭巾を用いた。
反乱鎮圧後の内乱状態の中で、紅巾軍の武将であった朱元璋が明朝を興した。

【洪武之治】hóng wǔ zhī zhì   洪武の治(こうぶのち)明の初代皇帝である洪武帝による前向きな国内政策を指す。
軍や官僚の汚職に対して極めて厳格に対処し、政治の刷新を図るとともに、戦乱で荒れた農村を復興させるため、
租税の減免や大規模な水利建設を行った。

【永乐盛世】yǒng lè shèng shì   永楽の盛世(えいらくのせいし)明の第3代皇帝・永楽帝による前向きな対外政策を指す。
永楽帝は即位後、都を順天府(現在の北京)に移し、権力の強化を押し進め、モンゴル、ベトナムなど積極的に対外政策に取り組んだ。
特に宦官の鄭和(ていわ)による西征では、遠く東アフリカに達し、多くの朝貢を促すこととなった。

【仁宣之治】rén xuān zhī zhì   仁宣の治(じんせんのち)明朝の第4代皇帝・仁宗(洪熙帝)と
第5代皇帝・宣宗(宣徳帝)による前向きな国内政策を指す。
先代の永楽帝の積極的な対外遠征を縮小し、国力の充実に努めるとともに、減税や労役の軽減策を実施し、民衆の生活を安定させた。

【土木堡之变】tǔ mù bǎo zhī biàn   土木堡の変(どぼくほうのへん)1449年、年少の正統帝(しょうとうてい)は、
宦官・王振の助力を得て、明領に侵入したモンゴルを迎え撃ったが、土木堡で大敗し、王振は殺され、正統帝は捕虜となった。
これを土木堡の変という。このころから明は対外的に守勢に転じ、万里の長城を修築してモンゴルの侵入に備えた。

【弘治中兴】hóng zhì zhōng xīng   弘治中興(こうじちゅうこう)明の第9代皇帝・弘治帝の治世(1488-1505年)に
起きた政治の安定期を指す。汚職や腐敗を一掃し、綱紀粛正と人材登用により、政治の透明性を高め、国力の充実を図った。

【嘉靖中兴】jiā jìng zhōng xīng   嘉靖中興(かせいちゅうこう)明の第11代皇帝・嘉靖帝の治世(1521-1567年)に
起きた政治の安定期を指す。宦官による政務への干渉を厳禁し、政治の清廉化を図るとともに、皇室の荘園を調査して民に返還し、
農業および商品経済の発展を促進した。

【万历中兴】wàn lì zhōng xīng   万暦中興(ばんれきちゅうこう)明の第13代皇帝・万暦帝の治世(1572-1620年)に
起きた政治の安定期を指す。全国的な検地を実施し、不正な免税地を解消して税収を増やすとともに、複雑だった税の徴収方法を、
銀納(銀で支払う)に統一し、効率的な徴税を実現した。

【东林党争】dōng lín dǎng zhēng   東林党争(とうりんとうそう)東林書院を中心とする知識人グループ(東林党)と、
宦官を主力とする政治勢力との間で繰り広げられた政治闘争。
東林党は、無錫の東林書院を拠点に形成された、朱子学を奉じる儒学者のグループで、宦官勢力による政治の腐敗を批判し、
風紀や言論の公正さを重視した。
この党争により朝廷内が深刻に分裂し、外敵(清)への対応や国内の危機(飢饉・農民蜂起)への対策が疎かになり、
明の滅亡(1644年)を早めた政治的な混乱として知られている。

【一片石之战】yí piàn shí zhī zhàn   一片石(いっぺんせき)の戦い。1644年4月、山海関付近で行われた、
明末の李自成(農民反乱軍)と、清軍・呉三桂の連合軍による決定的な戦闘。
この戦いで李自成は敗れ、北京から撤退、その後、西安へ敗走し、急速に勢力を失った。
呉三桂はもともと、山海関を守っていた明の将軍だったが、清の将軍・ドルゴン(ヌルハチの子)に
降伏して連合を組み、李自成軍を一片石で破ったのである。
この一片石の戦いは、清の中国支配を決定づけた歴史的事件とされている。

【大顺、大西、南明】dà shùn、dà xī、nán míng
大顺(だいじゅん)、大西(だいせい)、南明(なんみん)。いずれも清に抵抗していた敵対勢力。
具体的には、「大顺」は、李自成が立てた政権。
「大西」は、張献忠(ちょう けんちゅう 明末の農民反乱の指導者)が四川地方に立てた政権。
「南明」は、明の滅亡後、江南地方に逃れた明の皇族たちが立てた亡命政権。
清は入関(北京に遷都)後、約20年の時間をかけてこれらの主要な敵対勢力を掃討し、全中国に対する支配権を固めた。
すなわち、清朝が中国統一を成し遂げるプロセスにおいて、最大の政敵を平定したことを意味する。

【袁世凯】yuán shì kǎi   袁世凱(えんせいがい)軍閥政治家。1911年、辛亥革命の際に、袁世凱は清朝を代表して、
孫文ら革命派(南京臨時政府)と「宣統帝の退位と、中華民国の成立」に関する和平交渉を行った。
この交渉の結果、1912年2月、宣統帝が退位して清朝は滅亡し、1912年3月、袁世凱が中華民国の臨時大総統に就任した。

(清朝滅亡までの経過)

18世紀末の清朝は、国内で白蓮教徒の乱(重税、汚職官僚への不満を背景に、宗教団体「白蓮教」が農民を組織して
起こした 1796-1804年)、太平天国の乱(満州族への民族的反感、飢饉が重なり、発生した農民反乱 1851-1864年)
といった大乱が起こり、さらに欧米列強の外圧も加わるようになった。

1840年、アヘン戦争(アヘンの密輸をめぐって清とイギリスの間に起こった戦争)で、諸外国に不平等条約を締結させられ、
日清戦争(朝鮮半島の支配をめぐって、日本と清との間で行なわれた戦争 1894-1895年)に破れると、さらに激しい
圧力を受けるようになった。

清朝が欧米列強の侵略により統治能力を失う中、滅満興漢(満族の清を滅ぼし、漢族の国を再興する)のスローガンを
掲げる民族運動が高まり、1911年、革命家・孫文の指導のもと辛亥革命(1911年辛亥の年の10月、湖北省の武昌で
蜂起した市民革命)が起こり、多くの省が清朝からの独立を宣言した。

1911年11月、革命派は、孫文を臨時大総統に選んだ。そして、1912年1月、南京で「中華民国」の成立を宣言した。

一方、清朝は、軍閥政治家・袁世凱に宰相の権限を与えて革命派に対抗させ、危機を切り抜けようとしたが、
袁世凱は革命政府と結び、宣統帝溥儀を退位させることを条件に、孫文から臨時大総統の地位を譲り受けた。

こうして1912年2月、清朝は滅び、中国の王朝体制は終わりを告げた。




-------------------------------------------------------------------------------------------

【口語訳】


夏朝(BC21世紀-BC16世紀)
夏朝は、中国の歴史書に記録されている最初の世襲制王朝であり、複数の部族連合によって構成されていた。
禹が王位をその子である啓に譲り、原始的な部族の禅譲制を改め、王位の世襲という先例を打ち立てた。
これは、中国史上における「世襲君主制」の始まりを告げるものであった。
夏朝は計14代17人の王を数え、約470年間続いた後、殷朝によって滅ぼされた。



商朝(殷朝)(BC1600-BC1046年)
夏朝の属国である商国の君主・湯王は、鳴条の戦い(BC1600年)で属国を率いて夏を滅ぼした後、
「商」を国号として商丘(河南省)に商朝を建国した。
商は、中国史上において当時の文字記録が今日まで残されている最古の王朝であり、甲骨文と
金文(青銅器に鋳込まれた文字)は、これまでに発見された中国最古の文字である。
商朝前期は数回にわたり遷都が行われ、第20代王・盤庚(ばんこう)が殷(殷墟)へ遷都(BC1300年)したため、
商朝は後世において殷、あるいは殷商とも呼ばれるようになった。
商朝は17代31人の王が代々を受け継ぎ、500年余りにわたって続いた。
商朝最後の君主である帝辛(ていしん 紂王)は、牧野の戦い(BC1046年)で周の武王に敗れた後、自害して亡くなった。



周朝(BC1046年-BC256年)
周は中国史上3番目にして最後の世襲奴隷制王朝であり、計30代37人の王が統治し、約791年間続いた。
「華夏」という言葉の創始者であり、その最初の対象となった王朝であり、西周と東周の二つの時代に分けられる。
西周は、周の武王・姫発(きはつ)が殷商を滅ぼして建国し、鎬京(こうけい)に都を置き、
周の幽王が国を滅ぼされるまで続いた。
東周の都は洛邑であり、その時代はさらに春秋と戦国の二期に分けられる。
紀元前256年、秦の昭襄王(しょうじょうおう)が周の赧王(たんおう)を廃位し、東周は滅亡した。



秦朝(BC221-BC207年)
秦朝は中国史上初の統一的な中央集権国家であり、三代にわたって二帝一王(秦始皇帝と胡亥は皇帝、子嬰は王)が統治し、
その治世は14年間に及んだ。秦国はもともと周朝の諸侯国の一つであったが、秦王の嬴政(えいせい)は、紀元前230年から
前221年にかけて、他の主要な諸侯国(楚、燕、斉、韓、魏、趙)を次々と攻め滅ぼし、中原(華北平原)を統一した。
その後、北は匈奴を撃ち、南は百越(ひゃくえつ ベトナム系異民族)を平定し、空前の広大な領土を持つ王朝を築いた。
嬴政は秦朝を樹立した後、「始皇帝」を自称し、これより中国に「皇帝」という称号が生まれた。
秦朝は三公九卿(さんこうきゅうけい)による中央官制を実施し、封建制度を廃止して郡県制を確立した。
また、車の車輪の幅を統一し、文字を統一し、道徳規範を統一することで、文化や風俗を一元化し、
中国の一大統一王朝としての統治基盤を築いた。
紀元前207年、秦の王・子嬰が劉邦(漢の高祖)に降伏し、秦朝は滅亡した。



西楚(BC206-BC202年)
西楚は、秦王朝が滅亡してから漢朝が成立するまでの間の政権であり、君主は項羽、都は彭城(ほうじょう 江蘇省徐州)に置かれ、
国号は「西楚」と称し、その存続期間は4年であった。
秦朝末期に農民反乱が勃発すると、楚国の貴族であった項梁と項羽はその機に乗じて挙兵した。
秦の二十三年二月(紀元前207年)、項羽は巨鹿(きょろく)の戦いで秦軍を破り、諸侯間の地位を確立した。
関中(後の長安。春秋戦国時代の秦の領地)への進軍は劉邦に遅れたものの、兵力の優位性と大勝の威勢を頼りに
継続して関中の支配権を維持し、楚の地の実質的な支配者となった。
紀元前206年2月、項羽は楚の懐王を義帝(盟主)として尊び、諸侯に封土を授けた。
一方、項羽は自らを「西楚覇王」と称した。歴史上においても項羽は「西楚の覇王」として知られる。
紀元前202年、項羽は垓下の戦いで、漢を筆頭とする諸侯連合に敗れ、烏江(うこう 貴州省を縦断する河の名)で自決した。
これにより楚の地は漢に併合され、西楚は滅亡した。



西漢(BC202-8年12月)
楚漢の争いの後、劉邦は紀元前202年に帝位に就き、国号を「漢」と定めた。これは歴史上「西漢」と呼ばれ、長安に都を置いた。
西漢は多くの制度において秦の制度を継承し、漢の初期には「徭役(ようえき 農民に強制した労役)を軽くし、賦税を減らし、
民を休養させ、生気を養う」という国策を実施したため、社会経済は急速に回復した。これは歴史上「文景の治」と呼ばれている。
漢の武帝が即位した後、「推恩令(すいおんれい)」を施行し、中朝(ちゅうちょう 中央の官吏には、皇帝の親族や外戚を充てる)、
刺史(しし 地方の行政長官)、塩鉄官営などの制度を導入して中央集権を強化するとともに、儒教を手厚く保護して思想を統一し、
「武帝の盛世」という局面を切り開いた。西漢は中国史上、秦朝に続く一大統一王朝であり、計12代の皇帝が即位し、210年間続いた。



新朝(9-23年)
新朝は西漢と東漢の間に存在した短命な王朝であり、皇帝は一人、在位期間は15年であった。
紀元9年1月、王莽は漢の幼帝・劉嬰を廃位し、帝位を簒奪して「新」と国号を改め、長安に都を置いた。歴史上、新莽と呼ばれる。
王莽は帝位に就くと多くの改革を行った。主に官制の改革、地名の変更、王田制の施行、奴隷売買の禁止、
五均六筦(ごきんろっかん)、貨幣制度の改革など、新たな政令は複雑多岐にわたり、しかも朝令暮改であったため、
改革は最終的に失敗し、新は急速に滅亡に向かった。
地皇4年(西暦23年)、緑林軍(反王莽の農民反乱軍)は皇族の劉玄を擁立して更始帝(こうしてい)とし、
同年長安に攻め入った。王莽は彼らに殺害され、ここに新朝は滅亡した。



玄漢(23年3月-25年9月)
玄漢は新朝に続いて出現した政権であり、西漢の宗室(皇族)である劉玄によって樹立された。
劉玄は紀元23年3月、宛城(えんじょう 河南省南陽)で帝を称した。
その後、洛陽、長安へと相次いで都を移し、その治世は3年続いた。
更始元年(紀元23年)から二年にかけて、名目上は西漢末期の領土の大部分を統一した。
西漢や東漢と区別するため、「玄漢(げんかん)」と呼ばれる。



東漢(25-220年)
新王朝の末期、緑林・赤眉の反乱が勃発し、漢王朝の皇族出身である劉秀はこの機に乗じて立ち上がった。
西暦25年、劉秀は帝位に就き、洛陽を都として「光武中興(光武帝による漢の再興)」を打ち立てた。
その後、「明章の治」(漢の明帝・章帝の時代)を経て、東漢は全盛期を迎えた。
東漢の章帝の治世後期には外戚の勢力が日増しに強大化したが、東漢の和帝が即位して外戚を粛清し、
親政を行うと東漢の国力は絶頂に達し、当時の人々はこれを「永元の隆盛」と呼んだ。
西暦189年、軍閥の首領・董卓が軍を率いて都に入り、劉弁(少帝)を廃し、
劉協(りゅうきょう 献帝)を即位させた。
各地の州・郡の長官たちはこれを機に董卓に反旗を翻し、やがて群雄割拠の局面へと発展した。
その後、献帝は魏の曹操に実権を奪われ、最終的に漢王朝は曹魏(曹氏の王朝である魏)に取って代わられた。
東漢は計8代14人の皇帝を数え、195年間続いた。



三国(220年-280年)
赤壁の戦いで、曹操は孫権と劉備の連合軍に敗れ、三国鼎立の形勢となった。
西暦220年、曹丕は漢王位を簒奪して帝位に就き、国号を「魏」と称した。これは歴史上「曹魏」と呼ばれる。
同年、劉備は成都で漢王朝を継承した。これは歴史上「蜀漢」と呼ばれる。
223年、劉備が死去し、諸葛亮は劉備の息子である劉禅を補佐し、孫権と再び同盟を結んだ。
229年、孫権が皇帝を称した。これは歴史上「東呉」と呼ばれる。これにより、実質的に三国鼎立の局面となった。
曹魏後期、実権は次第に将軍・司馬懿(しばい 仲達)の手に渡っていった。
263年、曹魏の司馬昭(しばしょう 司馬懿の子)は蜀漢討伐戦争を開始し、その結果、蜀漢は滅亡した。
2年後、司馬昭が病死すると、その子である司馬炎が魏の元帝を廃して自ら帝位に就き、国号を晋と定めた。
これは歴史上「西晋」と呼ばれる。
西暦280年、西晋は東呉を滅ぼし、中国を統一した。これにより三国時代は終焉を迎えた。



晋朝(265年-420年)
晋朝は西晋と東晋の二つの時代に分けられ、西晋は一大統一王朝の一つである。
東晋は孫呉、および宋、斉、梁、陳と合わせて「六朝」と呼ばれ、両晋合わせて15代の皇帝が即位し、155年間続いた。
266年、司馬炎が王位を簒奪し、国号を「晋(西晋)」と定め、洛陽に都を置いた。
280年に呉を滅ぼして全国統一を成し遂げたが、その後「八王の乱」(皇族内の内乱)を経験した。
316年、西晋は北方の蛮族(匈奴)によって滅ぼされた。
その後、北方地域は混乱に陥った。これは歴史上「五胡乱華(五胡十六国による動乱)」と呼ばれる。
317年、晋の朝廷は南へ遷都し、司馬睿(しばえい 司馬懿のひ孫)が建業(現在の南京)に東晋を建国。東晋は幾度も北伐を行った。
383年、東晋は前秦との「淝水(ひすい 現在の安徽省淮南)の戦い」を経て一時的に勢力を固めた。
420年、将軍・劉裕(りゅうゆう)が宋を建国し、東晋は滅亡した。



南北朝(420年-589年)
南北朝は、西暦420年に劉裕が東晋を簒奪して劉宋を建国したことから始まり、西暦589年に隋が陳を滅ぼして終焉を迎えた。
南朝には劉宋、南斉、南梁、南陳の四王朝が含まれ、北朝には北魏、東魏、西魏、北斉、北周の五王朝が含まれる。
南北両陣営はそれぞれ王朝が交代したものの、長期間にわたり対峙状態を維持していた。



隋朝(581年-618年)
西暦581年2月、北周の静帝が楊堅に帝位を譲り、北周は滅亡した。
楊堅は国号を「隋」と定め、当初は長安に都を置いたが、開皇3年(583年)に大興城(現在の西安)へ遷都した。
その後、南下して陳朝を滅ぼし、中国を統一した。
隋の文帝(楊堅 在位581 -604年)の治世には、民は豊かになり、政治は安定し、「開皇の治」と呼ばれる繁栄の時代を切り開いた。
しかし、隋の煬帝(楊堅の子 在位604 -618年)は国力を過度に消耗させ(大運河の開削や高句麗への三度の遠征など)、
これが隋末の民衆の反乱や貴族の反乱を招いた。西暦618年、隋は滅亡した。



唐朝(618年-907年)
唐は、中国史上最も繁栄した時代の一つとして広く認められている。
隋末には天下に群雄が割拠したが、617年、唐国公(唐の地の領主)の李淵(高祖 在位618-626年)が晋陽(山西省太原)で挙兵、
同年に長安で帝位に就き、唐王朝を樹立した。
皇室の姓が李であったことから、「李唐」とも呼ばれる。唐太宗(李世民 在位626-649年)が即位すると「貞観の治」を開き、
唐高宗(在位649-683年)は貞観の遺風を受け継ぎ、「永徽の治」を開いた。
その後、則天武后が一時的に周を名乗って唐に代わったが、神龍の政変を経て大唐の国号が回復された。
唐の玄宗(在位712-756年)が即位すると、精力を尽くして統治に取り組んだ。その結果、経済が繁栄し、周辺の異民族が服従し、
諸国から朝貢の使いが訪れるなど「開元の繁栄の世」が実現した。
安史の乱(755-763年)の後、藩鎮(地方の軍事長官)が割拠し、宦官が専権を振るったことで国力は徐々に衰えた。
中期には「元和中興」「会昌中興」「大中之治」を経て、国勢は再び振興した。
西暦878年に黄巣の乱が勃発し、唐朝の統治基盤を破壊した。
907年、朱温(しゅおん 朱全忠 在位907-912年)が唐を簒奪し、唐朝は滅亡した。



五代十国(907年-960年)
唐王朝が滅亡した後、各地の藩鎮(軍事長官)は次々と独立して国を立てた。
中原(華北平原)地域で相次いで交代した五つの政権――後梁、後唐、後晋、後漢、後周――は総称して「五代」と呼ばれる。
一方、その他の藩鎮は、自ら帝を称したり、中原の王朝を正統と認めたりしたが、その中でも国力が比較的強かった十の国家は
総称して「十国」と呼ばれる。これは中国史上における一大分裂期であった。



宋朝(960年-1279年)
西暦960年、後周の諸将が陳橋の変を起こし、趙匡胤(ちょうきょういん 太祖 在位960-976年)を帝位に擁立して宋朝を建国した。
宋朝は北宋と南宋の二期に分かれ、計18代の皇帝を数え、319年間続いた。
宋の太祖・趙匡胤は、晩唐における諸侯の割拠や宦官の専権といった混乱を避けるため、「文を重んじ武を抑える」政策を打ち出し、
中央集権を強化するとともに、武将から兵権(軍を指揮する権限)を剥奪した。
宋の太宗(在位976-997年)が即位した後、(呉越と北漢を滅ぼし)全国を統一した。
宋の真宗(在位997-1022年)が遼国と「澶淵の盟」を締結、その後ほどなく太平の世を迎えることになった。
1125年、金国が大規模な南侵を行い、「靖康の恥」を招き、北宋は滅亡した。
その後、康王(こうおう 北宋の皇族)の趙構(ちょうこう 高宗)が南京応天府で即位(在位1127-1162年)し、南宋を建国した。
紹興の和議の後、金国とは秦嶺山脈・淮河を国境とした。
1234年、南宋はモンゴルと連合して金朝を滅ぼしたが、その後、1235年に宋元戦争が勃発した。
1276年、元朝が臨安を占領し、崖山(がいさん 広州)海戦(1279年)の後、南宋は滅亡した。



元朝(1271-1368年)
元朝はモンゴル族によって建国された王朝であり、五代十一帝を経て、98年間続いた。
1206年、チンギス・ハンは漠北(外モンゴル ゴビ砂漠北部)を統一してモンゴル帝国を樹立し、
西遼、西夏、金などの国々を次々と征服した。
1260年、フビライがハン位に就き、「中統(ちゅうとう)」の元号を定めた。
1271年、フビライは国号を「大元」と改め、翌年には都を燕京(後に大都と改称、現在の北京)に移した。
1279年、元軍は南宋を滅ぼしたが、その後も元朝は対外的な拡張を続けたものの、度重なる敗北を喫した。
元朝中期には(後継者争いによる)政変が頻発し、政治は終始正常な軌道に乗ることができなかった。



明朝(1368-1644年)
元末、民衆は生活苦に喘ぎ、紅巾の乱が勃発した。1368年、朱元璋(しゅげんしょう 洪武帝 在位1368-1398年)が
皇帝に即位し、国号を「大明」と定め、応天府(現在の南京)を都とした。
1420年、朱棣(しゅてい 永楽帝 在位1402-1424年)は都を順天府(現在の北京)に移した。
明の初期は「洪武の治」(朱元璋しゅげんしょう 洪武帝)、「永楽の盛世」(朱棣しゅてい 永楽帝)、
「仁宣(じんせん)の治」(朱高熾しゅこうし 仁宗、朱瞻基しゅせんき 宣宗)を経て、国力は強盛であった。
だが中期には「土木堡の変」(1449年)を経て、国力は一気に失墜した。
その後、「弘治(こうじ)中興」「嘉靖(かせい)中興」「万暦(ばんれき)中興」を経て、国勢は再び振興した。
明の終盤期は、東林党争(とうりんとうそう)や天災・外患(後金の台頭など)により国力が衰退し、明末には農民反乱が勃発した。
1644年、李自成(りじせい 農民反乱の主導者)が北京に攻め入り、崇禎帝(すうていてい 在位1627-1644年)は
煤山(ばいざん 北京)で自害し、明朝は滅亡した。明朝は計16代の皇帝を数え、276年間続いた。



清朝(1636年-1912年)
清朝は中国史上最後の封建王朝であり、計10代の皇帝が即位し、276年間続いた。
1616年、建州(満州)女真族の首領ヌルハチ(後金の初代皇帝 在位1616-1626年)が後金(こうきん)を建国した。(都は盛京 現在の瀋陽)
1636年、ホンタイジ(後金の第2代皇帝 在位1626-1643年)が国号を「大清」と改めた。
1644年、李自成が北京を占領し、山海関を守備していた名将・呉三桂が清に降伏した。
一片石の戦いの後、摂政王(順治帝の摂政)ドルゴンは清軍を率いて、勢いに乗じて関内(山海関)へ進軍し、
同年、順治帝(清の初代皇帝 在位1643-1661年)は北京へ遷都した。
これにより、清朝は明朝に代わって全国を統治するようになった。
清朝は政治面において「満洲を第一に尊ぶ」政策を推進し、土地を囲い込んで満洲人を配置し、髪を剃り服を改めさせた。
軍事面では大順、大西、南明などの政権を平定し、20年の間に徐々に全国を掌握した。
康熙(こうき)・雍正(ようせい)・乾隆(けんりゅう)の三代を経て全盛期を迎え、多民族国家の統一が固まり、封建専制は頂点に達した。
1912年2月12日、袁世凱(清の宰相)は清の皇帝溥儀(宣統帝 在位1908-1912年)に退位を強要し、『清帝退位詔書』を公布した。
これにより清朝は終焉を迎えた。








先頭へ戻る