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貴州省概要 (http://wiki.chakuriki.net)
コーラオ (仡佬) 族 (貴州省)
(貴州省までの交通)
成田から広州白雲国際空港まで4時間。
広州から貴陽竜洞堡 (りゅうとうほう) 国際空港まで1時間30分。
1.最も貧乏な省。
中国の貧困代表のように言われているが、経済発展は目覚しく、
省都・貴陽の都市部などでは高層ビルが立ち並ぶ。
経済水準に比べて華やかすぎるほどの 「小上海」 とも称される
摩天楼林立の理由は、地盤がしっかりし地震が皆無であることから。
安価に高層建築を建てられる (鉄とコンクリートで作られる柱は日本で
考えられないほど細い) のに加え、平坦な場所が少ないことも原因として挙げられる。
とはいえ、中国はどこへ行っても同じような 「小上海」 の風景がみられる。
というか、漢族が作り出す風景はかなり前から広大な中国どこへ行っても同じ。
今はたまたま上海が一番先をいってるだけ。
で、貴陽は省都級の都市では上海を追う最後尾集団のひとつ。
百貨店も、上海など超級の大都市には及ばないが、品揃えは豊富で中国での流行の遅れもほとんどない。
米系スーパーのウォルマートが人民広場地下 (仏ルーブル美術館をマネた?ガラスのピラミッド下) に巨大店舗を構えており、日本の中堅都市にある大規模スーパー並には商品がそろっている。
ミャオ (苗) 族
現地の産品に加え、グリコのポッキーや日清のUFOも売っている。
有害食品やニセモノの氾濫に不安を感じている現地人からの信頼は厚い。
曰く「ウォルマートで買ったんだから問題は少ないでしょう」。
太陽が照らないので、作物が育たず、日の光がありがたいという意味で 「貴陽」 というので、名前に 「貴」 が付く割りに貧しい。
2.物乞いが非常に多く、二ヶ国語で自分の貧しい状況を地面に書くなど営業努力を惜しまない。
3.「夜郎自大」 の舞台。
「夜郎自大」 は非漢族の人々をバカにし貶めたがる漢族の傲慢な精神性が表現された多くの例の一つ。
4.唐辛子を大量に使った料理が多く、非常に辛い。
地元民が食べるチャーハンは真っ赤。
1990年代中期までの現地料理は非常にシンプルで辛いことが特徴のほとんどであった。
(ように私は思ったのだ) が、近年は多様化しており、味付けに深みがみられるようになった。
納豆や豆腐など大豆食品を多く食べるという日本と共通の文化がある。
5.少数民族と呼ばれる非漢族の人々が多い。
貴州周辺の非漢族系の民族は日本人と共通の祖先を持っていたと一部で考えられている。
文化的共通性がその根拠に挙げられているが、確証はまだない。
6.一人当たりのGDPは8000ドル、一人当たり10000ドル以上にシンセンと広州とは大きな差。
略称
黔 qian
省都
貴陽 きよう
位置
中国の西南部、雲貴高原の東北部に位置している。
面積
176,100平方キロメートル。(日本の半分より若干小さい)
気候
年間平均気温は14度-16度。
人口
3,525万人。
ミャオ、プイ、トン、イ、回、コーラオ、チワン、ヤオ、ペー、トゥー族など48の少数民族が住んでいる。
主な都市
貴陽 (きよう) 市、遵義 (じゅんぎ) 市、安順 (あんじゅん) 市、六盤水 (ろくばんすい) 市、
畢節 (ひっせつ) 地区、銅仁 (どうじん) 地区、黔東南 (けんとうなん) ミャオ族トン族自治州、
黔南 (けんなん) プイ族ミャオ族自治州、黔西南 (けんせいなん) プイ族ミャオ族自治州。
概要
古代にはこの地に越人や百越が住んでいた。
旧石器時代にさかのぼる人類の遺跡が発見されている。
この地は中国でも最も貧しい辺境の地であるため、歴史上罪人の流される流刑の地で匪賊が出没する地でもあった。
春秋戦国時代には楚、蜀、夜郎など七つの小国家に分かれていた。
漢代は荊州と益州に分かれ、唐は黔中道 (けんちゅうどう) を置き、宋代に入り貴州という名前が登場する。
その後、元では三行中書省、明では貴州布政使司が設置され、清代に貴州省が置かれた。
雲貴高原の東部にあり、中部から南部を苗嶺山地、北部を大婁 (だいろう) 山脈が占める。
中部を長江水系の烏江が北東流している。
地形は起伏が激しく河川は峡谷をつくるものが多いが、小型の盆地が散在し、パーツーと呼ばれて主要な農業地域となっている。
また石灰岩が広く分布し、特に西部と南部はカルスト地形が発達している。
亜熱帯の高原にあるので気候は温和である。平均気温は一月で4~9℃、七月で 20~28℃。年降水量は 900~1500mmで、明確な乾季はない。
盆地、谷底、緩傾斜地はほとんど耕作され、耕地率は 12%である。
食糧作物はイネ、トウモロコシ、コムギ、サツマイモ、ジャガイモで、工芸作物はアブラナとタバコを主とする。
柑橘類、バナナなどの果樹栽培も行われる。中国有数の柞蚕糸 (さくさんし) の産地。
林産物が豊富で、杉材、漆、桐油 (とうゆ)、コルク、五倍子 (ごばいし)、杜仲、シロキクラゲ、ラックなどがある。
鉱業は六盤水市の炭田と銅仁市の水銀が規模が大きい。
工業は冶金、化学、製鉄、機械、紡織、製糸、製紙などがある。
河川は急流や暗礁、滝が多く、水運の便は限られる。
人民共和国になって鉄道の建設が進み、黔桂 (けんけい 貴陽市-柳州市) 、川黔 (せんけん 重慶市-貴陽市) 、
貴昆 、湘黔 (しょうけん 湖南省株州市-貴陽市) の四線が乗入れている。
特産品は、茅台酒、董酒、威寧ハム、独山塩酸菜 (塩からく酸っぱい漬け菜)、
貴州薬材、安順蝋染 (ろうけつ染め)、大方漆器、苗族銀制飾り品など。
観光スポット
貴陽市は、貴州省の省都。行政、商工、交通、文化教育の中心都市。
貴州省は古来より 「天に三日の晴れなく、地に三里の平地なく、人に三分の銀なし」 と言われ、 つまりは非常に貧しい場所として知られてきた。
そんな貴州省の省都である貴陽は 太陽が貴ばれる場所としてこの名が付けられた。
市街部には、明、清時代を代表する建築物など名所・旧跡が至る所に点在している。
郊外へ足を伸ばしてみると、山々を削って造られた美しい棚田が続く田園地帯が広がっている。
そこでコツコツと田を耕すミャオ族、トン族、コーラオ族などの素朴で明るい少数民族の人々。
長い歴史と文化、そして豊かな自然と温かさを感じさせる貴陽の地は尽きることのない魅力に溢れたところである。
市内の人口は375万人。特産物は貴陽大曲、ヒメツゲの木彫りなど。
観光地は甲秀楼、花溪公園など。
① 甲秀楼 (貴陽市南明区浜河路与西湖路)
貴陽市の中央を蛇行して流れる南明河岸に立つ美しい楼閣。
三層構造で高さは20メートル。貴陽市のシンボル的存在となっている。
明の万暦年間 (1573-1620) に巡撫の江東之が堰堤を築くとともに、楼を建てた。
科挙の試験において優秀な成績を修めよという意味で甲秀楼と名付けられたといわれている。
② 貴陽花渓 (かけい) 公園 (貴陽市花渓区花渓大道南段3108)
市の17km南にある自然公園。
エリアのなかを花渓河という川が流れ、石の橋を渡り四季折々に咲く花を眺めながら散策できる。
以前は自然が豊かに残る風光明媚な所だったが、現在は観光開発され市民の憩いの場となっている。
周囲には、カルスト地形の山々が連なる貴州特有の景色が見られる。川で泳ぐこともできる。
③ 黄果樹瀑布 (安順市黄果樹風景区)
安順市の南西45kmにある黄果樹風景区は、白水河にかかる10あまりの滝と、その周囲の奇岩で知られた景勝地である。
この一帯は典型的な溶岩地形で起伏に富み、滝のほかにも湖や大規模な鍾乳洞が多く点在する。
ここの滝は世界にも稀な溶岩瀑布と呼ばれるタイプのものである。
黄果樹瀑布はその中でも最大規模の滝で、幅81m、落差74mを誇り、アジア最大といわれている。
特に水量豊富な夏は水しぶきが100mくらい高く上がり、壮観である。
黄果樹瀑布の南約6㎞にある天星橋景区では、奇岩と清流の織りなす景色を楽しむことができる。
④ 龍宮風景区 (安順市西秀区龍宮鎮)
安順市の南27㎞にある広大な風景区。
景区には、河が流れる鍾乳洞があり、中をボートで観光するのがハイライトとなっている。
全長5㎞にも及び、水のある鍾乳洞としては中国一長いといわれる。
鍾乳洞を抜けると遊歩道が続いており。カルスト地形の山々が連なるのどかな田園風景を楽しめる。
水がなく歩いて見られる玉龍洞や観音洞といった洞窟もいくつかある。
鍾乳洞は七色にライトアップされており、幻想的な雰囲気を味わえる。
⑤ 赤水丹霞(せきすいたんか) (遵義市赤水県) (世界遺産)
中国では、「丹霞地形」 という地理用語は、特別な地形的特徴と独特な赤色を持つ地形景観で、「薔薇色の雲」
あるいは 「朱色の霞」 のようなものを指している。
「中国丹霞地形」 は湖南省の莨山 (ろうざん)、広東省の丹霞山、福建省の泰寧、江西省の竜虎山 (亀峰を含む)、
貴州省の赤水 (せきすい)、浙江省の江郎山などで、中国南方の湿潤地域にある。
6カ所とも有名な丹霞地形の観光地区になっている。
2010年8月、6カ所の丹霞地形を一組として、世界自然遺産に登録された。
赤水丹霞は壮年期初期の丹霞に属し、丹霞の最も美しい段階にある。
森林の被覆比率は90%を上回って、「緑の丹霞」 とも呼ばれている。
広い面積に古い植生と2359種の動植物や大切な絶滅危惧動物を有することが赤水丹霞の最も独特な特徴になっている。
赤水の丹霞地形は鮮やかで美しい丹霞赤壁、地面から空を突く孤独な峰、狭い尾根、多種多様な山、石、巨大な岩、
洞窟と美しい丹霞峡谷、緑の森林や流れ落ちる滝や流れる泉の水が一体となってお互いに引き立てあって妙をなし、
「丹山」、「碧水」、「飛瀑」、「樹海」 という丹霞景観を形成している。
貴州省アラカルト
1. 貴州民謡 「茶山情歌」
(茶山飞出一对金凤凰 fèng huáng 嘿)
茶山的阿妹俏 qiào 模样 啊...耶..耶...俏模样 手指尖尖采茶忙 啊...耶...采茶忙
引得蝴蝶翩翩飞呀 引得蜜蜂嗡嗡唱 啊..哎..哎..耶..耶...耶..耶..
引来了对面坡上的砍柴郎 呀砍柴郎啊 呀砍柴郎 (嘿)
茶山上的那个小阿妹 啊...耶..耶...俏模样
引来了的那个对面坡上 耶......砍柴的少年郎 砍柴的阿哥嗓门亮 啊...耶...嗓门亮
一支情歌两人唱 啊...耶...两人唱 唱得蝴蝶双双飞 唱得茶花并蒂 dì 香
啊..哎..哎..耶..耶...耶..耶..
茶林里是飞出一对金凤凰 呀金凤凰 啊 呀 金凤凰
2. コーラオ族 (仡佬族)
コーラオ族の人々と中国古代の 「僚」 人(発音は老と同じである) は密接な関係があった。
約2000年前、貴州省に定住し、農業にたずさわり、その後絶えず移住を繰り返し、他の地区に定住するようになった。
コーラオ族の人々は主に農業に従事し、トウモロコシの栽培を主とし、イネ、麦、イモなども栽培していた。
清の時代に、コーラオ族の人々の間に専門のかじ屋が現れ、すきを鋳造し、鳥撃ち銃をつくり、人々に 「かじ屋の懍石」 と称されていた。
コーラオ族の人々は長期にわたって漢族の人びとと一緒に暮らしてきたため、生活の習わしなどの面で既に現地の漢族と似ている。
しかし、今なお一部の自民族特有の文化行事、祭日の祝典、飲食の習慣を保っている。
コーラオ族は人数が少なくて分散して暮らしているため、それぞれの間に大きな違いがあり、言語さえ大きな違いがあり、
往々にして同じの県に住む一族の人たちの間でも言葉が通じないことがある。
3. ミャオ族 (苗族)
古代中国では揚子江から中国南部にいたる華中・華南平原にさまざまな民族が居住していたらしい。
今日の漢民族の祖先たちが黄河流域から南下するとともに、これら原住民は西南の山地に追いやられ、インドシナ半島、東南アジアにまで移動した。
その代表的な民族集団が ミャオ (苗) 族であり、今では貴州、四川、雲南、広西、広東、湖北、湖南の各地に居住している。
その人口は中国全体では七百万人を越しているが、西南中国の山地に分散して居住し、ずっと村落を単位とした部族社会を営んでいた。
ミャオ族は歴代の王朝の支配に激しく抵抗し、特に貴州のミャオ族は清代にはしばしば反乱を起こして残酷な弾圧を受けてしまうが、
その戦いのようすは多くの民謡と伝説の中で伝えられている。
毎年旧暦の五月に清水江のほとりではへさきに竜の頭飾りをつけたボート (竜船) によるレースが行われる。
この行事は江南地方や長崎のペーロンともよく似ている。
かれらは竜をまつり,その民話にもしばしば竜が登場している。
ミャオ族にはまた農作物の収穫がすんだ旧暦の十月に牛を殺して祖先を祭り肉を共食する儀式が村をあげて行われる宗教行事がある。
これは七年または十三年に一度,十四日間もわたる盛大な催しである。これらの行事からも水稲耕作民であるかれらの風習がうかがわれる。
ミャオ族の女性が婚礼とか祭日などで身につける首飾りなど銀製の装飾品も有名で、その写真がよく画報や雑誌にも紹介されている。
4. 茅台酒 (まおたいしゅ) (遵義市)
300年以上の歴史を持つ、高粱を主な原料とする蒸留酒 (白酒)。
強い芳香があり、飲み干してもなお香りが残る。
1915年に開催されたサンフランシスコ万国博覧会で金賞を受賞。
また国賓を迎える宴席で乾杯に用いられ、名実ともに国酒といえる。
(マオタイ酒瓶 「中国酒文化城」 遵義市茅台鎮)
中国語講座 「夜郎自大」
夜郎自大
汉朝时候,我国西南一带,有些少数民族聚居 jùjū 在一起,形成了许多国家,
其中最大的一个叫做“夜郎国” (现在贵州省境内)。
夜郎国王以为夜郎是世界上最大的国家,所以非常骄傲,
对西南各国总摆出一副大国的架子。
有一回,汉朝使者到了夜郎,向国王介绍了汉朝的情况。
夜郎国王听了先是惊讶,接着表示不相信,
问道:“你们汉朝有我们夜郎国大吗?”
他哪里知道夜郎国只相当于汉朝的一个州。
由这个故事产生了成语“夜郎自大”,它用来比喻和讽刺 fěngcì 那种眼光狭小、
见闻很少、却盲目 mángmù 自大的人。
【口語訳】
漢の時代、西南一帯に少数民族が集まって暮らしていた。
多くの国家を形成していたが、その中の最大のひとつに 「夜郎国」 があった。
夜郎の国王は、自分の国が世界で最大の国家だと天狗になっていた。
西南各国に対しては、いつも尊大な態度で威張り散らしていた。
ある時、漢の使者が夜郎国にやって来て、国王に漢朝の情況を紹介した。
聞いてびっくりした夜郎国王は、疑わしそうに使者に尋ねた。
「あなたの国は私の国よりも大きいのか?」
彼は、夜郎国が漢朝のひとつの州に過ぎないことを知るはずもなかった。
この故事から成語の 「夜郎自大」 という言葉が生まれ、見識が狭く、身の程知らずに尊大ぶる人を風刺するたとえとなった。
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