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河北省概要 (http://wiki.chakuriki.net)
紅楼夢 (こうろうむ)
清代初期の長編小説。
「金瓶梅 (きんぺいばい)」 と並び中国の風俗小説の最高峰とされる。
全120回。曹雪芹 (そうせっきん) の作。
もともと80回本だったが、その後30年ほどの間に何人かの手で
続作40回が書かれ、120回本になった。
発刊直後から人気を博し、その熱狂的ファンは 「紅迷」、
その研究は 「紅学」 と呼ばれた。
大貴族の御曹司・賈宝玉 (かほうぎょく) と
「金陵十二釵 (きんりょうじゅうにさ)」 と呼ばれる十二人の
美女たちの物語。
とくに、賈宝玉と 「金陵十二釵」 の一人・林黛玉 (りんたいぎょく)
の恋愛模様が物語の軸となる。
豪奢な生活を送っていた賈家が急激に没落する過程が背景となっており、
物語は悲劇性を帯びている。
(河北省までの交通)
成田から上海浦東国際空港(PVG)まで3時間。
上海から石家荘正定国際空港(SJW)まで2時間。
1.黄河の北にあるから「河北省」
2.戦国時代、河北省の北部は「燕(えん)」
南部は「趙(ちょう)」という国だった。
3.邯鄲は趙の都として栄えた。 現在は工業都市。
4.もともとは北京も天津も河北省の一部だったが、この2大都市が直轄市
となってしまったため、もはやほとんどもぬけのからとなってしまった。
5.省都は石家荘。
略称
冀 ji
省都
石家庄 せっかそう
位置
華北平原の北部に位置していて東部は渤海に臨んでいる。
直轄市の北京・天津を囲むようにある。
面積
19万平方キロメートル。(日本の面積の半分)
気候
温帯大陸性モンスーン気候に属し、1月の平均気温は3℃ぐらい、7月平均気温は18℃から27℃ぐらい。
人口
6,699万人。(2001年)。 回、満、モンゴル、朝鮮、チワン等の少数民族が住んでいる。
主な都市
石家荘 (せっかそう) 市、唐山 (とうざん) 市、秦皇島 (しんこうとう) 市、邯鄲 (かんたん )市、邢台 (けいだい) 市、
張家口 (ちょうかこう) 市、承徳 (しょうとく) 市、廊坊 (ろうぼう) 市、滄州 (そうしゅう) 市、保定 (ほてい) 市、衡水 (こうすい)
市。
概要
河北の省名は黄河の北にあることに由来する。
古代、中国を九つに分けたという伝説から同省は冀 (き) とも呼ばれる。
西側には太行山脈、北には燕山山脈がそびえ、南東部は華北平原が広がる。
黄河以外の主要な河川には、海河や灤河 (らんが) などがある。
夏王朝禹の時代に九州の一つ (冀州 きしゅう) となる。
春秋戦国時代、北部は燕の国に、南部は晋の国に属した。
漢時代は幽、冀洲に所属。三国時代は魏の国の領土となり、唐代には河北道に所属した。
明・清代には、首都北京に直属したため直隷といったが、1928年に中華民国の南京遷都にともない河北省に改称された。
河北省は中国最大の穀物、綿花の生産地である。
主要穀物としては小麦、トウモロコシ、高粱、イモ類があり、その他経済作物としては綿花以外に麻、タバコ、
食用油の原料となる落花生やヒマワリの栽培が盛んである。
工業面では石炭業が盛んであり、それらは海外に輸出される他、火力発電でも使用される。
三国志に登場する劉備玄徳、張飛らの故郷としても知られ、北部には万里の長城の起点 「山海関」、
南部には避暑地として名高い 「北戴河」 、また承徳避暑山庄、邯鄲 (カンタン) など観光スポットも多く、多くの観光客を集めている。
特産物は、内画鼻煙壺 (うちえびえんこ 瓶の内側に描かれた絵画)、唐山の陶磁器、曲陽の石彫り、
武強の年絵 (春節に貼る絵)、秦皇島の貝殻彫り、白洋淀の葦編みなど。
観光スポット
石家庄市は、河北省の行政、工商、交通、科学教育の中心都市。
京広線 (北京ー広州)、石太線 (石家荘ー太原)、石徳線 (石家荘ー徳州) が交わる交通の要衝である。
清代は正定府所属の小村に過ぎなかったが、1902年、フランスとベルギーにより京広線が敷設された際に駅が設置されると交通拠点として発展。
次第に正定から華北の拠点としての地位を奪い始めた。
1925年には石門と呼ばれるようになった。
1937年、日本軍の占領下で華北の重要な軍事拠点となり、1947年、正式に石門市として市制が施行された。
1971年に河北省の省都となった。
正定県に 「常山戦鼓」 と称する伝統的な銅鑼の演奏があり、戦鼓演奏隊が組織されている。
また趙県には 「趙州橋」 と呼ばれる石橋 (国家重要保護文化財) がある。
隋代に建築され、1400年ほど経過した現在でもその姿がそのまま残されている。
市の人口は1,007万人。
特産物は、趙州雪花梨、賛皇 (さんこう) 金糸棗 (ナツメ) 、馬家鶏の煮込みなど。
観光地は、正定栄国府、趙州橋など。
① 正定栄国府 (石家庄市正定県)
河北省正定にある栄国府は、没落していく清朝貴族を描いた古典小説の傑作 「紅楼夢」 の描写をもとに
1984年に建設が開始され、1986年に竣工した。
明清時代の雰囲気をもつ栄国府の門前町を通って中に入ると、瑠璃色装飾の牌楼が立ち、
中庭の連続する四合院建築、庭園などが続く。
212間の部屋には清朝貴族風の調度品が見られ、「紅楼夢」 の世界を思わせる。
この正定の栄国府は20世紀末になって建てられ、「紅楼夢」 「雪山飛狐」
「康熙微服私訪記」 といったTVドラマの撮影にも使われている。
また 「紅楼夢」 の作者にまつわる曹雪芹 (そうせっきん) 記念館も位置する。
② 趙州橋 (ちょうしゅうきょう) (石家荘市趙県南郊外)
石家庄市の南40kmに架かる石造アーチ橋。
別名 安済橋 (あんさいきょう)
中国最古の橋で華北四宝の一つと言われる。
605年に名匠の李春によって建造された。
長さ37m、幅9m、高さ7.2mで、大きな弧を持ち、獅子などの浮き彫りが美しい。
その間、10回の水害、8度の戦乱に耐えぬいた。
華北四宝
1. 趙州橋 (河北省石家庄市趙県)
2. 定州開元寺塔 (河北省保定市定州県)
3. 正定値府大菩薩 (河北省石家庄市)
4. 滄州鉄獅子 (河北省滄州市)
秦皇島市は、海辺の観光都市で、沿海開放都市かつ石炭輸入港。
避暑地として知られ、万里の長城の東の端にあたる町である。
ガラス、橋建設工業が発達している。
市の人口は51万人。特産物は海産物、水蜜桃など。
観光地は北戴河、山海関、老龍頭、北戴河など。
③ 山海関 (さんかいかん) (秦皇島市山海関区) (世界遺産)
万里の長城の起点にあたり、華北より東北 (遼寧省) に通じる交通の要衝として 「天下第一関」 と称せられた。
山に拠り海に面するところであることから山海関 (さんかいかん) と名付けられた。
北京を守る重要な関門とされ、東北方面の女真の勢力が建てた後金 (後の清) の侵攻から中国本土を守る前線となった。
ヌルハチは遼東を平定したが山海関を越えることはできずに終わり、その次のホンタイジは、何度か北方から迂回して北京に侵攻したが、
山海関を抜くことはできなかった。
明代は山海関より西側を 「関内」 と称し、東側の満洲を 「関東」 もしくは 「関外」 といった。
かつて日本の租借地であった関東州や、そこに駐留した関東軍の名称もこれに由来する。
④ 老龍頭 (らおろんとう) (秦皇島市山海関区南海路)
老龍頭は山海関から4km程離れた海岸線にあり、万里の長城の東の端である。
14世紀の明の時代に海岸沿いからの敵の侵略を防ぐために海に23m長城を伸ばしたと言われている。
万里の長城はここを起点に西に伸びて、甘粛省の嘉峪関 (かよくかん) まで6200kmにも及ぶ。
長城の東の先であり、長城を龍に例えると頭に位置するので 「老龍頭」 と言われている。
⑤ 北戴河 (秦皇島市北戴河区)
北京近郊のリゾート地、北戴河は秦皇島市の南西20kmのところに位置。
北京から最も近い海浜リゾートである。
西端の戴河口から東端の鷹角石までの海岸線は全長約10km。
清朝末期に政府が外国人向けの避暑地として開発された。
その後、異国情緒が溢れる避暑地として栄えている。
承徳市は、東北部の観光都市で、工業と鉱業都市また悠久な歴史文化を持つ都市。
17世紀後半の清の康煕帝時代に避暑地となり、夏の政務の場所として発展し、「塞上の真珠」 と呼ばれた。
現在も夏には多くの観光客が訪れる。
市の人口は30万人。特産物は杏仁露、木彫り、漢方薬加工品など。
観光地は避暑山荘、外八廟など。
⑥ 承徳避暑山荘と外八廟 (河北省承徳市) (世界遺産)
承徳避暑山荘は、別名、「承徳離宮」 とも呼ばれ、現存する中国最大の皇室の庭園で、
かつて清朝皇帝の避暑と公務を行う場所として建てられた山荘。
皇帝は、一年のうち半年はここで王公貴族や外国の使節と会見したり、政務を行ったり、避暑地として過ごしていた。
山荘は宮殿エリアと和苑エリアの2つの部分に分けられる。
宮殿エリアに、山荘の南端に位置し、皇帝が政務を行ったり、居住していた場所である。
主な建築物は、正宮、松鶴斎、東方宮など。
現在は、正宮は博物館として公開されており、内部には清朝の宮廷の史跡として、宮廷の芸術品を展示する場所となっている。
苑景エリアの面積は山荘の8割を占め、湖、平原、丘などから構成されており、当時、皇帝が妃とと戯れたり、宴会を催した場所。
有名な建築物は、煙雨楼、金山亭、如意州、文津閣 (ぶんしんかく) などがあり、そのほとんどは江南の景勝を真似て作られている。
外八廟
山荘の東と北を取り巻くように並ぶ寺廟群が 「外八廟」 である。
1700年代に建立された、「普陀宗乗之廟 (ふだしゅうじょうしびょう)」 というチベット仏教の寺院が有名で、小ポタラ宮と呼ばれる。
清朝はチベット仏教を重視したと言われている。
また、北京の祈年殿に似た 「普楽寺の旭光閣」、高さが世界一の木彫仏像のある 「普寧寺の大乗之閣」 など個性的な建物が並んでいる。
⑦ 清西陵 (しんせいりょう) (河北省易県) (世界遺産)
雍正帝 (ようせいてい 清の第5代皇帝) の泰陵、嘉慶帝 (かけいてい 清の第7代皇帝) の昌陵、
道光帝 (どうこうてい 清の第8代皇帝) の慕陵、光緒帝 (こうしょてい 清の第11代皇帝) の崇陵など4人の皇帝陵や皇后陵、
側室のための妃園寝 (ひえんしん) などで構成される清朝皇室の陵墓群。
河北省遵化市の清東陵などとともに明・清王朝の皇帝墓群として、2000年にユネスコの世界遺産 (文化遺産) に登録された。
清西陵には宣統帝溥儀の陵墓も造営される予定だったが、辛亥革命により工事が停止し、完成することはなかった。
1995年に西陵に隣接する民間墓地 「華龍皇家陵園」 の経営者が、墓地の知名度を上げる目的で、
溥儀の最後の夫人李淑賢 (りしゅくけん) に溥儀の墓を造ることを提案。
それに同意した李淑賢によって同民間墓地内に溥儀の墓が造られた。
雍正帝泰陵
⑧ 清東陵 (しんとうりょう) (河北省遵化市) (世界遺産)
清朝の歴代皇帝や皇后たちの陵墓群。
清朝の入関後最初の皇帝となった順治帝 (じゅんちてい 清の第3代皇帝) の孝陵を中心に、
康熙帝 (こうきてい 清の第4代皇帝) の景陵、乾隆帝 (けんりゅうてい 清の第6代皇帝) の裕陵、
咸豊帝 (かんぽうてい 清の第9代皇帝) の定陵、同治帝 (どうちてい 清の第10代皇帝)
の恵陵など5人の皇帝の陵墓がある。
その他、孝荘文皇后 (こうそうぶんこうごう 清の2代皇帝ホンタイジの妃) の昭西陵、
東太后 (とうたいごう 清の第9代皇帝、咸豊帝の妃)の普祥峪定東陵 (ふしようよくていとうりょう)、
西太后 (せいたいごう 清の第9代皇帝、咸豊帝の妃) の菩陀峪定東陵 (ふだよくていとうりょう)
などの皇后陵や側室のための妃園寝などがある。
河北省易県の清西陵とともに清朝皇帝の大規模陵墓が造営された。
1928年に国民党の軍閥孫殿英の軍隊によって略奪されるという東陵事件が起きる。
中でも乾隆帝の裕陵と西太后の定東陵は、墓室を暴かれ徹底的な破壊と略奪を受けた。
溥儀は国民政府に強く抗議したが、孫殿英は政府高官に賄賂を送ったために何ら処罰されることはなく、
溥儀を大いに憤慨させた。
東陵事件は溥儀の対日接近の契機になった。
1961年に中華人民共和国の全国重点文物保護単位に指定。
2000年にユネスコの世界遺産に登録された。
⑨ 京杭大運河 (けいこうだいうんが) (世界遺産)
北京から杭州までを結ぶ、総延長2500キロメートルに及ぶ大運河。
途中で、黄河と揚子江を横断している。
戦国時代より部分的には開削されてきたが、隋の文帝と煬帝がこれを整備した。
完成は610年。運河建設は人民に負担を強いて隋末の反乱の原因となった。
しかし、運河によって政治の中心地華北と経済の中心地江南、さらに軍事上の要地涿郡が結合して、中国統一の基盤が整備された。
この運河は、その後の歴代王朝でもおおいに活用され、現在も中国の大動脈として利用されている。
2014年の第38回世界遺産委員会で世界遺産リストに登録された。
河北省アラカルト
1. 邯鄲 (かんたん) の夢 (枕中記)
中国、中唐の伝奇小説。沈既済 (しんきさい) の作。
邯鄲のある茶店で、呂翁という老人から青磁の枕を借りてひと休みした書生の盧生が、波乱に満ちた一生をおくる夢を見る。
さめてみれば、飯の炊きあがる間にも足りない短い時間の夢であったという物語。
人の栄枯盛衰のはかなさを象徴した話として知られている。
唐代伝奇小説の傑作として後世にも広く読まれた。
能の謡曲 『邯鄲』 など、この小説に基づいてつくられた文学作品も多い。
2. 桃園三結義の像 (保定市涿州県)
涿州 (たくしゅう) 県は、北京市に隣接する市で、北京からバスで1時間強。
三国志の英雄、蜀の劉備玄徳が兵を起こす前に住んでいた楼桑村のあった地域で、
また、関羽と張飛という生涯の仲間と兄弟の義を結んだ場所でもある。
日本では一般的には 「桃園の誓い」 といわれるが、中国ではこれを 「桃園三結義」 と言う。
184年、宗教結社である太平道が起こした農民反乱 「黄巾の乱」 は、またたくまに華北一帯へ波及。
これを機に、衰退する後漢王朝の再興を期して各地に群雄が割拠するようになる。
この時、県の楼桑村に母と暮らしていた劉備は、関羽、張飛とともに、桃の花咲く園で義兄弟の契り (桃園の義) を結ぶ。
彼らは、後漢再興のため、正義の闘いを貫くことを決意したのである。
3. 長坂坡 (ちょうはんは) の戦い (三国志演義)
官渡 (かんと) の戦いから八年後、曹操 (そうそう) は八万の軍を持って荊州 (けいしゅう) 攻略を開始した。
曹操に単身で太刀打ちできないと悟った劉備たちは、新野城 (しんやじょう) を焼き、江陵に逃れることにした。
しかし劉備は、自分に慕い従う領民が付き従ったため、退却に遅れが生じてしまう。
数万に及ぶ民衆を引き連れての行軍は一日で数里しか進まない。しかも、それを護衛するのはわずか二千騎。
劉備は領民を見捨てることはできず、関羽に数百隻の船を率いらせ領民を避難させるという通常では考えられない行動に出る。
関羽とはあとで江陵で落ち合う手筈とした。
大将が先に逃げずに人民を優先したのは劉備の人徳の為せる所であろうか?
曹操軍は一日に三百里という行軍速度で江陵へ逃げる劉備軍を追撃する。
そして長坂坡で曹操軍に追いつかれた劉備軍は、まさに人生最大の危機を迎えるのである。
しんがりは張飛が努めていたが僅か二十騎あまりしかいなかった。
そのとき、矢傷を負った糜芳 (びほう) が趙雲が心変わりをしたと進言する。劉備はそれを信じなかった。
張飛は趙雲が裏切ったと思い込む。そこでわずか二十騎を率いて長坂橋の上で仁王立ちをするのであった。
実はこのとき、趙雲は劉備の子 (阿斗 あと) と糜夫人 (びふじん 劉備の正室)の捜索にあたっていたのである。
この時の趙雲は鬼神の如き奮戦をする。
途中、夏侯惇 (かこうとん)の弟の夏侯恩 (かこうおん)を討ち、彼が持っていた青釭の剣を奪う。
そしてついに二人を見つける。
趙雲は、怪我をしている糜夫人と阿斗を自分の馬に乗せて逃げようとするが、糜夫人は、自分は足手まといになるといって自殺してしまう。
やむなく趙雲は阿斗を抱き、馬に乗ってただ一騎で曹操軍を突破する。
このとき、趙雲の働きに感心した曹操が、「趙雲捕獲作戦」 を決行するが失敗する。
満身創痍の状態になって戻ってきた趙雲を見た劉備は、趙雲から受け取った阿斗を投げつけ、趙雲に無茶させたことを謝る。
ここで、張飛は趙雲が曹操軍へ下ったのが嘘だとわかって陳謝する。
張飛は、長坂橋をきり落とし、周辺の林をその二十騎あまりに走らせて砂塵を上げさせ大軍が潜んでいるようにみせかける。
かつ、本人は橋の前に立ち曹操軍を一喝し、ひとりで曹操軍を引き止めるという大活躍を遂げるのである。
趙雲像 (河北省石家庄市、子龍広場)
張飛像 (湖北省当陽市、長坂坡公園)
劉備 [161-223年]
蜀の国主。字は玄徳。河北省涿 (たく) 県出身。(現在の河北省保定市涿州県)
漢の景帝の子、中山靖王劉勝の子孫と称した。
関羽、張飛を得て、後漢末の黄巾の乱討伐に参加。
頭角を現し、諸葛亮 (孔明) を得て天下三分の計をめぐらし、呉の孫権と結び、赤壁の戦で南下する曹操の軍を破った。
のち荊州,益州 (四川省) を奪って三分の計を完成したが、孫権の攻撃により荊州を失い益州のみを根拠地とした。
221年漢室の復興を称して皇帝に即位、国号を漢とした。
趙雲 [? - 229年]
蜀の武将。字は子竜。河北省常山郡真定県出身。(現在の河北省石家荘市正定県)
長坂の戦いで劉備の子・阿斗を懐に抱いて、単騎駆けで曹操軍を突破した逸話で知られている。
長さ九尺、涯角槍という長柄の槍とを得物とし、関羽・張飛にも勝るとも劣らない勇将ぶりを発揮した。
長年に渡り劉備に従い戦に加わり、劉備の死後も蜀軍として活躍、諸葛亮の北伐にも参戦した。
張飛 [? - 221年]
蜀の武将。字は益徳、または翼徳。河北省涿県出身。
劉備に仕え、大いに軍功を立て、その武勇は関羽と並び称された。
同郷に住む劉備が黄巾の乱にのぞんで義勇兵を集めようとした時、関羽と共にその徒党に加わり、身辺警護をつとめた。
以後は終生、劉備から兄弟の様な親愛の情を受けることとなった。
また関羽が年長であった為、関羽を兄のように敬愛して仕えた。
4. 始皇帝 [前259~前210]
秦の初代皇帝。名は政。趙国邯鄲 (現在の河北省邯鄲市) 出身。
前221年、中国を統一して絶対王制を敷いた。
郡県制の実施、度量衡・貨幣の統一、焚書坑儒 (ふんしょこうじゅ) による思想統一、万里の長城の修築、
阿房宮 (あぼうきゅう)・陵墓の造営など事績が多い。
しかし、急激な拡大と強圧政治に対する反動のため、死後数年で帝国は崩壊した。
焚書坑儒
始皇帝が行なった思想弾圧。
専制支配を貫徹するため、医学、占術、農学以外のすべての書物を焼かせ、また自分を非難する儒者 460人を咸陽で生埋めにした。
阿房宮
始皇帝が渭水 (いすい) の南に建設した宮殿。
多くの囚人を使い工事を行ったが秦の滅亡によって未完のままで終わった。
秦を滅ぼした項羽が火を放ったが、3か月燃え続けたという。
始皇帝像 (陜西省西安市臨潼区秦陵鎮)
5 太極拳
楊露禅 (ようろぜん) [1799-1872年]
清朝の武術家。太極拳の創始者。河北省永年県出身。
楊露禅は、幼少の頃より武術を好み、縁あって河南省の武術家、陳長興(ちんちょうこう)に師事し、
陳一族に伝わる秘拳を学ぶことにより、武の道に自在を得たと伝えられている。
太極拳は、滑らかな動きに特徴があり、敵の攻撃を受け流し、接近して急所を撃つというもので、
体から力みを無くして戦うことから「綿拳」とも称されている。
楊露禅が、40歳を過ぎて北京で太極拳を教えていたころ、清朝の皇族の一人、粛親王に護衛兵として雇われ、あるとき宴会が開催された。
多くの武術家が招かれていたが、彼らは体が大きくがっちりした体つきなのに対し、
楊露禅は痩せこけた体つきだったので、末席しか与えられなかった。
雇い主に乞われ、客の武術家たちと腕比べをすることにした楊露禅は、瞬く間に相手を倒してしまった。
喜んだ主人は、即座に楊露禅を上座に座らせたという。
この一件が楊露禅の名を広め、多くの武芸者が挑んできたが、負けることはなかったので、彼は「楊無敵」と言われるようになった。
「楊無敵」を耳にして、凄腕の人物が挑んできた。
清代の十大高手の一人、八卦掌(はっけしょう)の創始者、薫海川(とうかいせん)である。
当時、董は北京において、紫禁城を警護する禁軍の統領であった。
彼は、楊露禅が使う太極拳の評判を聞き、腕比べをしたいという気持ちを抑えきれなくなったのである。
八卦掌は、円を描くような方法で相手に近づき、相手のパワーを利用して相手を倒すというもので、その攻防は独特に変化し変幻自在と伝えられている。
二人の腕比べは北京王府が主催する御前試合で行われた。しかし、二人は手を合わせた後、三日三晩経っても勝敗が決まらなかった。
結果、勝敗はつかなかったが、二人は試合をしたのが縁で親交を深めた。その後互いに学び合うことで益々各自の技量を高めていったという。
簡化二十四式太極拳
難度の高い太極拳を広く一般に普及させるため、楊式太極拳の型をベースに、難度の高い動作の簡略化を経て二十四の主要で簡単な動作にまとめられたもの。
一般に中国の公園で早朝に行われていたり、日本の太極拳教室で健康のために教えているものはほとんどの場合、この簡化二十四式太極拳である。
楊露禅伝奇 (北京衛視)
中国語講座 「趙州橋」
河北省赵县的洨河上,有一座世界闻名的石拱桥,叫安济桥,又叫赵州桥。
它是隋朝的石匠李春设计和参加建造的,到现在已经有一千三百多年了。
赵州桥非常雄伟。桥长五十多米,有九米多宽,中间行车马,两旁走人。
这么长的桥,全部用石头砌成,下面没有桥礅,只有一个拱形的大桥洞,
横跨在三十七米多宽的河面上。大桥洞顶上的左右两边,还各有两个拱形的小桥洞。
平时,河水从大桥洞流过,发大水的时候,河水还可以从四个小桥洞流过。
这种设计,在建桥史上是一个创举,既减轻了流水对桥身的冲击力,
使桥不容易被大水冲毁,又减轻了桥身的重量,节省了石料。
这座桥不但坚固,而且美观。桥面两侧有石栏,栏板上雕刻着精美的图案:
有的刻着两条相互缠绕的龙,嘴里吐出美丽的水花;有的刻着两条飞龙,
前爪相互抵着,各自回首遥望;还有的刻着双龙戏珠。
所有的龙似乎都在游动,真像活了一样。
赵州桥表现了劳动人民的智慧和才干,是我国宝贵的历史遗产。
【注 釈】
【赵州桥】 zhào zhōu qiáo
趙州橋 (ちょうしゅうきょう) 橋長54m、幅員9.6m。
7世紀初期(隋朝)に造られた現存する最古の石造アーチ橋。
河北省の省都・石家荘から東南へ約40キロに位置する。
石造アーチ部の上方には左右2個ずつの小アーチがあり、
橋の重量を減らすとともに洪水時に水を通過させて橋の安全を保つ。
中国三大古橋(他の二つは北京の盧溝橋・福建省の洛陽橋)の一つ。
【洨河】 xiáo hé
洨河(こうが)河北省石家荘趙県に流れる川。川幅37m。
【石拱桥】 shí gǒng qiáo 石造アーチ橋。
【李春】 lǐ chūn
李春 (りしゅん)[595-605] 隋代の石匠。河北省出身。
橋梁技術に革命をもたらした弓形アーチ橋を設計。
従来の半円アーチ橋に比べ、少ない材料で高強度に造る事が出来た。
【用石头砌成】 yòng shí tou qì chéng
石材を(よくこねた漆喰で固め)積み上げる。
砌(=用和 huó 好的灰泥把砖 zhuān、石等一层一层地垒起)
<用例> 这么快就把墙砌起来了。(あっという間に塀をつくった)
【桥礅】 qiáo dūn 橋脚(橋を支える柱)
【拱形的大桥洞】 gǒng xíng de dà qiáo dòng
アーチ型の空洞。
【横跨】 héng kuà またがる。
【相互缠绕】 xiāng hù chán rào お互いにからみあう。
【双龙戏珠】 shuāng lóng xì zhū
双竜弄玉の図。(建物の彩色画に使われる縁起物)
(=戏:玩耍。两条龙在一起戏弄一颗珍珠)
【游动】 yóu dòng(=活动) あちこち動き回る。
【口語訳】
河北省趙県の洨河 (こうが) には、安済橋または趙州橋と呼ばれる世界的に有名な石のアーチ橋が有ります。
それは隋王朝の石工・李春が設計し建造に携わったもので、現在までに一千四百年以上が経っています。
趙州橋は非常に雄壮です。
橋長は50メートル余りで、9メートル余りの広さがあり、真ん中を車や馬が行き、両側を人が歩きます。
こんなに長い橋が、全部石で積まれ、下に土台は無く、大きなアーチ状の空間だけがあって、三十七メートル余りの広い川の上にまたがっています。
橋の大きなアーチが支えている左右両側には、どちらにも二つのアーチ状の小さな穴があります。
普通は、川の水は橋の大きなアーチを通って流れますが、大水が発生した時には、川の水は四つの小さなアーチ状の穴からも流れます。
このような設計は、橋建築史上における一大壮挙です。
橋本体に対する流水の衝撃力を軽減して、橋が大水によって簡単につき壊されないようにし、また橋本体の重量を減らして、石材を節約しています。
この橋は頑丈であると同時に美しいです。
橋の両側には石の欄干があり、欄板には細かい図案が彫刻されています。
あるものには互いに巻き付き、口からは美しい水を吐く、二匹の龍が刻まれています。
あるものには二匹の飛龍が、前爪を互いに突きつけながら、どちらも振り返って遠望する姿が刻まれています。
またあるものは双龍が玉と戯れる姿が刻まれています。
すべての龍はまるで動いているかのようで、本当に生きているように見えます。
趙州橋は労働する人民の知恵と底力を表現するもので、我が国の貴重な歴史遺産です。
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