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湖北省概要 (http://wiki.chakuriki.net)


トゥチャ (土家) 族  (湖北省)


(湖北省までの交通)

関西から直行便で武漢天河国際空港(WUH)まで4時間。



1.普通に話していてもけんかしているように聞こえる。

2.黄鶴楼がある。

歴史的な建築物なんだ~と思っていくと、エレベーターがあったりして萎える。

↑なぜというと、本物は火災で全焼したんだ!馬鹿!

3.クソ暑い。 そのため、武漢は 「中国のストーブ」って呼ばれています。
↑それは確か!

4.地理的に真ん中あたりで便利。

故に三国時代をはじめ群雄割拠の時代は標的の地になりやすく攻防戦が絶えなかった。

従って湖北人は如才なく処世術に長けた世渡り上手といわれる。

狡猾と評価されるほどでその様は日本の中四国の中枢である 「すらっこう」 な岡山人と似ているといえる。

本当ですか?聞いたことはないね!
じゃあ、俺が岡山にいってみないとな、

5.賛否両論の三峡ダムの所在地。

しかし水没の憂き目に遭うのはほとんど隣の重慶市。



略称
鄂 e


省都
武漢 ぶかん


位置
陽子江の中流に位置している。


面積
18万平方キロメートル。 (日本の面積の半分)


気候
亜熱帯季節風気候に属し、夏は、重慶、南京と並んで 「中国三大釜戸 (かまど)」 と呼ばれるほど蒸し暑い。
年平均気温は13度から18度、最高気温は41度に達し、最低は-15度。

人口  6,028万人。


主な都市

武漢 (ぶかん) 市、黄岡 (こうこう) 市、荊州 (けいしゅう) 市、襄樊 (じょうはん) 市、 孝感 (こうかん) 市、
宜昌 (ぎしょう) 市、黄石 (こうせき) 市、十堰 (じゅうえん) 市、荊門 (けいもん) 市、鄂州 (がくしゅう) 市、
咸寧 (かんねい) 市、随州 (ずいしゅう) 市、 恩施 (おんし) トゥチャ族ミャオ族自治州 、
仙桃 (せんとう) 市、天門 (てんもん) 市、潜江 (せんこう) 市、 神農架林 (しんのうかりん) 区。



概要

湖北省は長江の中流、洞庭湖の北にあるため湖北と呼ばれる。
春秋戦国時代には楚国の属し、漢代には荊州が置かれた。

古くから 「九省通衢 (つうく)」 の名称で呼ばれ、東西南北の交通の要衝として
三国時代や南北朝時代には激しい争奪戦が繰りひろげられた。
宋代には荊州湖北路が置かれ、清代に湖北布政使司が設置され、10府60県を管轄し、現在の省域が形成された。


武漢は陸路・鉄路・水路で北京、上海、広州、重慶と結ばれる交通の要衝である。
特に港は南京に次ぐ中国第二番目の河川港で、400の埠頭を持ち、1万トンの船も接岸できる。

昔から兵家必争の地で、古くは三国時代、近代では太平天国の乱、辛亥革命、日中戦争と戦に巻き込まれ、欧米列強の租界も経験した。
しかし地理的に便のいい武漢は、戦後いち早く開発が進められ鉄鋼・機械製造・造船・紡績工場の基地として発展。

1989年の葛州覇 (かっしゅうは) ダムの完成により電力が豊富に提供されるようになると、発展のスピードがアップしたが、
改革・開放路線には乗り遅れた。

大型の国営工場は倒産の憂き目に会い、発展は停滞しはじめたが、自動車工業に特化することで再起を図った。

トラックの製造からはじまった東風グループは、フランスのシトロエンとの合弁で乗用車の製造にも力を入れた。
そして武漢から襄樊を経て十堰までの一帯を中国四大自動車生産基地の一つに押し上げた。

今後世界一の発電量を持つ三峡ダムは省内にあり、今後の発展は約束されている。


地理的には西から東へ長江、北から南へ漢江が流れ、武漢で合流する。
中部地帯には丘陵・平原が多く、南部地帯を中心として湖沼が多いために、別名 「湖の省」、「魚米の郷」 とも呼ばれる。

北西・南西部に山が多く、神農架にある神農頂3,105mが省の最高峰である。
神農架は重慶市・陝西省と境を接し、原生林が残る国家級の貴重な自然保護区で、漢方の原料が豊富にある事でも知られている。

その北の武当山は道教の聖山として有名で、多くの貴重な寺院群があり世界遺産に指定された。
また省内には三国志関係の遺跡が多く残っている。

特産物は、洪湖蓮子 (レンコン)、黄鶴楼酒、武漢汾酒、孝感麻糖 (こうかんまとう 砂糖菓子)、

土家宝石花漆箸 (トウチャほうせきかしつばし)
、洪湖の貝殻彫刻絵、羽毛扇子など。




観光スポット




武漢市は、湖北省南部、市内を長江が流れ、東湖をはじめとするいくつもの湖が点在する町。
長江とそれに注ぐ漢水は武漢を武昌、漢口、漢陽という三つの部分に分けている。

南京や重慶とならび 「中国三大火炉」 といわれる夏の暑さの厳しいところ。 かつては欧米列強の租界が置かれた地でもある。

市の人口は800万人。特産物は蓮子や片栗粉など。観光地は黄鶴楼、帰元禅寺など。





① 黄鶴楼 (武漢市武昌区蛇山西山坡特1号)

長江南岸の蛇山 (おろちやま) の上に建つ、三国時代に建立されたといわれる名楼。
湖南省・岳陽の岳陽楼、江西省・南昌の滕王閣 (とうおうかく) と並んで、江南三大名楼と称されている。

現在の建物は、清の時代のものをモデルに1980年代に再現された物で、高さは約51m。
合わせて5層あり、エアコンディショナーとエレベータを備え付けた最新の楼で、武漢市のシンボルになっている。
 
楼に登ると、長江のゆったりとした流れとともに、それをひとまたぎする長江大橋が見渡せる。
数多くの詩人、作家が、その美しさを詩に詠み、題材にして作品を作っている。








② 帰元禅寺  (きげんぜんじ) (武漢市漢陽区帰元寺路20号)

帰元禅寺は、1658年に創建された仏教寺院。

境内に入ると本堂にあたる大雄宝殿のほか、蔵経閣、羅漢堂、念仏堂などがあり、堂内では熱心にお祈りしている人たちの姿が見られる。

堂宇 (どうう お堂) はほかにもたくさんあり、参拝客は堂内に入っては手を合わせ、次の堂宇に向かっていく。

裏には巨大な観音像があるので、見逃さないように。なお、建物内部は撮影禁止になっているので注意。

海若菩薩と書かれた門の中には十来偈 (じゅうらいげ) という張り紙があって 「驕慢な心を持ては下賎になる。慈悲の心を持てば長寿になる」
などといった10の心得が書いてある。

この前で熱心にメモを取る人たちも多い。







③ 赤壁 (せきへき) 古戦場  (咸寧市赤壁県赤壁鎮)

船で長江を下り、三峡を越え、宜昌 (ぎしょう) を過ぎる。
すると、山の切り立った崖の褐色の岩の上に、大きな字で 「赤壁」 と書いてあるのが目に入る。
ここは、三国時代の有名な古戦場である。

赤壁は蒲圻 (ほき) 県境に位置している。
後漢の建安13年 (元の208年)、曹操率いる20数万の大軍は南下し新野と襄陽を攻略。
江陵より川の流れに沿って東に向かった。

それに対して、孫権は劉備の5万の連合軍とともに、川の流れに逆らって西に向かい、両軍は赤壁で戦った。
孫権・劉備連合軍が勝利を収めた。

形勢が不利な曹操軍は、川の北に引き返し、烏林鎮 (現在の洪湖県の烏林の人民公社 )に兵隊を駐屯させて、
孫権・劉備連合軍と川を隔てて対峙した。

孫権・劉備連合軍は東南の風を利用し、火を点した松明を持ち、曹操軍の水寨を火攻めで攻撃した。
曹操軍の船は一気に燃え尽き、その燃え上がる炎で岸壁が真っ赤に染まったことから、「赤壁」 という名が付いた。

孫権・劉備連合軍は勢いに乗り攻撃を続けたため、曹操軍は残りの部下をつれて江陵より退散した。
この戦いは、魏呉蜀天下分け目の戦いで、中国の歴史上で有名な赤壁の戦いである。







④ 古隆中 (こりゅうちゅう) (襄樊市襄陽県襄城区隆中路6号)

襄陽古城の西門から南西に約15kmの隆中山 (りゅうちゅうさん) 東麓にある。
三国時代の政治家・軍事家である諸葛孔明 (181~234年) の旧居。

劉備が孔明を軍師として招くために3度訪れたという 「三顧の礼」 の故事で有名だ。
孔明はここで晴耕雨読の生活を送り、「臥龍 (がりゅう)」 と呼ばれていた。

あるとき劉備の熱意に動かれ、ついに輔佐役について 「天下三分の計」 を説いたという。
林の中に立つ 「古隆中」 と書かれた古びた牌坊を抜けると、孔明の古居のあった草廬 (そうろ) 亭や、武侯祠 (ぶこうし) がある。

そして三顧堂、抱膝 (ほうしつ) 亭、臥龍深処 (がりゅうしんしょ) などが立ち、一通り見るには半日は必要。
なお現存する建物の多くは清代のものである。







⑤ 武当山の古建築物群  (十堰市丹江口県武当山) (世界遺産)

武当山は道教の山であり、武当拳術の発祥の地でもある。
湖北省北西部の十堰市に位置し、総面積312㎢を占める。

周囲が400kmと広大なこの山は72峰と36の岩、9つの泉などを擁する自然の景勝地。 主峰は天柱峰 (海抜1621m)。
山頂までの70kmの間に8宮、36庵72廟、39橋など膨大な元・明時代の道教建築群が、絶妙なバランスで配置されている。

その中でとりわけ見応えのあるものが 「紫霄殿 (ししょうでん)」 と 「金殿」 である。

「紫霄殿」 は1413年に建造され、そのままに近い状態で残っている建物。
五間間口で緑の瓦、赤く塗られた壁、二重のひさしと、華麗で荘厳な雰囲気を持つ。

「金殿」 は、海抜1621mの 「天柱峰」 の頂上にあって一見すると木造建築のような構造だが、瓦、垂木から梁、門にいたるまで、
すべて銅を鋳造し、組み立てたもの。
重さは80tを超えるという。明時代の職人技が光る武当山を代表する道教建築である。

またここからの日の出、夕景はまさしく絶景。
古建築のほかにも、武当山には7400 点以上の貴重な文物が残されており、「道教の文物倉庫」 と呼ばれている。










⑥ 明の顕陵 (荊門市鍾祥県) (世界遺産)

明顕陵は、鍾祥 (しょうしょう) 県の北東5kmの純徳山上に位置し、明の世宗、嘉靖 (かせい) 皇帝の父母を合葬する帝王陵墓である。

明の正徳十四年 (1519年) に築造が始まり、明の嘉靖三十八年 (1559年) の完成までは40年の歳月が費やされた。総面積は183.15ha。

全体は2つの円形の 「城」 からなつており、城の外側は一回りで3600m、赤く塗られた壁と黄色い瓦を敷いたもので金碧に輝いている。

これらの建物は疏あり密ありで、周りの山水環境に溶け込ませるように建てられた建築芸術と環境美学とを結びつけた傑作である。

顕陵は建物も周辺の環境も、ほば原初のままに保たれている。







⑦ 荊州関帝廟 (荊州市荆州区愛民路関公館)

関帝廟 (かんていびょう) は、関帝 (関羽・関聖帝君・関帝聖君) を祀る廟。

孔子を祀る孔子廟 (文廟) に対比させて、武廟 (ぶびょう) とも呼ぶ場合もある。

荊州関帝廟は荊州にかつてあった六個所の関帝廟のうち、現存するもので最大の関帝廟である。







湖北省アラカルト




1. トゥチャ族 (土家族)

トゥチャ族は長い歴史をもつ民族で、その祖先は早くも2000年前から今の湖北省西部、湖南省西部一帯で生活していた。

長く漢族と交わって暮らしてきたため、現在ではトゥチャ語を母語とする者は約7万人程度とされ、ほとんどが漢語を母語としている。

彼らの多くは、風光明媚の地で暮らしており、農業が発達し、経済の発展が速く、文化教育が進んでいる。






2. 「洪湖水浪打浪」 歌劇 「洪湖赤衛隊」 (1961年) 挿入歌




洪湖水呀 浪呀嘛浪打浪啊 洪湖岸边 是呀嘛是家乡啊
清早船儿 去呀去撒网 晚上回来 鱼满舱啊啊~

四处野鸭和菱藕 líng ǒu 秋收满帆稻谷香
人人都说天堂美 怎比我洪湖 鱼米乡啊啊~  

洪湖水呀 长呀嘛长又长啊
太阳一出 闪呀嘛闪金光啊 共产党的恩情 比那东海深 渔民的光景 一年更比一年强啊~



「洪湖」 は湖北省内の一番大きい淡水湖である。
この歌は、革命歌劇の挿入歌として 「魚米の古里」 と称される洪湖の美しい姿が表現されている。
ストーリーは、共産党対国民党軍の内戦が行われていた1930年代、洪湖で戦っていた農民遊撃隊の姿が描かれている。




3. 三大かまど

「三大かまど」 とは中国の大都市のうち、夏季の気候が高温多湿である武漢・重慶・南京を指す呼称。

気温はもちろん、湿度もかなり高い。
聞くところによれば、道路はあまりの暑さでアスファルトが溶け 「ごきぶりホイホイ状態」 になるらしい。

また夏場は、自動車の自然発火が多発するとか。
消防当局も 「猛暑により自動車は平常時より燃えやすくなる」 として 「車両には必ず、消火器を備え付けてほしい」 と呼びかけている。





4. 王昭君 (おうしょうくん)

楊貴妃・西施・貂蝉と並ぶ中国四大美人の一人に数えられる。湖北省荊州出身。

王昭君は前漢元帝の後宮だったが、当時中国では匈奴の侵入に対する友好政策で女を送って結婚させていた。

竟寧 (きょうねい) 元年 (前33年) 、元帝の命で匈奴の呼韓邪単干 (こかんやぜんう) に嫁し、夫の死後その子の妻となったという。

彼女が匈奴に嫁いだおかげで、漢と匈奴が60年も友好的に付き合うことができたといわれている。





「昭君出塞 (しゅっさい)」

前漢末の歴史故事集 「西京雑記」 によると、元帝は匈奴へ贈る女性として似顔絵帳の中の一番醜い女官を選ぶことにした。

後宮には多くの女官が皇帝の妻になることを望んでいたが、当時の決まりによると、女官は自分で皇帝に拝謁することができなかった。

そのため、宮廷の似顔絵師が女官たちの姿を絵に画いて、皇帝のもとに届けていたのである。

女官たちはそれぞれ自分の似顔絵を美しく描いてもらうため、絵師の毛延寿 (もうえんじゅ) に賄賂を贈っていた。

ただ一人賄賂を贈らなかった王昭君はわざと一番醜く描かれていたため、王昭君が匈奴への嫁として選ばれた。

王昭君が絶世の美女でありながら、それまで全く元帝の目に留まることがなかったのも、毛延寿がわざと醜く描いた似顔絵のせいであった。

皇帝に別れを告げるための式で王昭君を初めて見た元帝は、王昭君の美しさに仰天した。

しかし、この段階になって王昭君を匈奴へ贈る約束を撤回すれば匈奴との関係が悪化することは明らかだった。

そのため撤回はできず、元帝は不本意ながらも王昭君をしぶしぶ送り出した。

王昭君はきらびやかな衣装を着て、馬に揺られ、長安を後にし、匈奴の地に赴いた。
これが有名な 「昭君出塞」 の物語である。

なお、その後の調査で、女官たちから多額の賄賂を取り立て、賄賂を出さなかった王昭君をわざと醜く描いていた毛延寿の不正が発覚したため、
激怒した元帝は毛延寿を斬首刑に処したという。





中国語講座 「赤壁の戦い」  


赤壁之战

东汉末年,曹操率领大军南下,想夺取江南东吴 dōngwú 的地方。
东吴的周瑜 zhōuyú 调兵遣将 qiǎnjiàng,驻在赤壁,同曹操的兵隔江相对。
曹操的兵在北岸,周瑜的兵在南岸。
曹操的兵士都是北方人,坐不惯船,可是要渡过大江,非坐船不可。
曹操叫人用铁索把船一条一条连起来,铺上木板,就像平地一样。
他只等兵士练好了在水上打仗的本领,就下令渡江。

周瑜手下有一员老将,叫黄盖 huánggài。
他对周瑜说:“曹军号称八十万,我军才三万,相差太远了。
跟他们长期相持下去,对我们没有好处。
我看他们船尾接船头,船头接船尾,把船连在一起,只要用火攻 huǒgōng,他们想逃也逃不了。”
周瑜说火攻是个好主意,可是这一仗怎样打,还得想个计策。
黄盖说计策已经有了,向周瑜说了一遍。
周瑜听了非常满意,叫他就这么办。

黄盖给曹操写了一封信,说东吴兵少,抵挡不住八十万大军。
周瑜自不量力,硬拿鸡蛋去跟石头碰,哪有不失败的。
他愿意脱离东吴,带兵士和粮草,投降曹操。
曹操接到黄盖的信,欢喜得不得了。
这一天,东南风很急,江面上波浪滔天 tāotiān。
曹操正在船头迎风眺望,忽然有个兵上报告说:“江南隐隐约约有些船帆,趁着东南风向北岸驶来。”
曹操定睛一看,果然有一队帆船直向北岸驶来,不一会儿已经来到江心,船头的大旗上分明写着一个“黄”字。

曹操笑着说:“黄盖没有失信,果然来投降了。”
不错,趁着东南风来的正是黄盖的船,一共二十条,都用幔子 mànzi 遮着,里面不是兵立,也不是粮食,而是芦苇,上面铺着火硝、硫磺 liúhuáng。
还有几条小船拴在大船后面。
黄盖的船把帆扬足,快得像离弦的箭。
周瑜带着兵船跟在后面。
曹操只道是黄盖来投降了,高兴还来不及,哪儿想到防备。
黄盖的船离曹操的船队不到二里了,黄盖叫兵士把二十船芦苇一齐点着,大家上了小船,解了缆绳 lǎnshéng,让这二十条火船趁着东南风冲进曹操的船队。
曹操的战船被铁索连着,没法散开,一下子都着了火。

火又蹿上 cuānshàng 岸去,岸上的兵营也烧了起来。
火光照得满天通红,浓烟 nóngyān 封住了江面,分不出哪里是水,哪里是岸。
哭声喊声混成 hùnchéng 一片,曹操的人马烧死的,淹死的,不计其数。
曹操坐小船逃上江岸,忽听得背后鼓声震天,周瑜的兵追来了。
曹操见手下的兵将丢盔弃甲 diū kuī qì jiǎ,无心应战,只得带了他们从华容道逃跑。



【注 釈】

【曹操】 cáo cāo (155—220) 三国时期杰出的政治家、军事家和文学家。
汉献帝时官至丞相,大将军。镇压过农民起义。但他统一了北方,对我中国历史发展,起了积极作用。

【周瑜】 zhōu yú  周瑜 (175—210) 三国时东吴大将,辅佐孙权,任前部大都督。
【调兵遣将】 diào bīng qiǎn jiàng  遣:派遣。调兵遣将就是调动兵力,派遣将领。(将兵を配置につける)
【号称】 hàochēng  名义上和实际还有距离。(称する。触れ込む)

【自不量力】 zì bù liàng lì  量:估计、衡量。自不量力指过高地估计自己的力量。
(身の程を知らぬ。うぬぼれている)
【失信】 答应别人的事没做,失去信用。例:我一定去,决不失信。(約束を違える)
【波浪滔天】 形容波浪极大。例:连日大风,江面上波浪滔天。(波が逆巻く)
【定睛】 集中视线。例:我忽然觉察到前面地面上有什么东西,定睛细看,原来是块手表。(眼をこらす)

【幔子】 mànzi 为遮挡而悬挂起来的帐幕。(天幕)
【只道是】 只以为是。(思い込む)
【不计其数】 其:它的。不计其数指无法计算数目。例:在这次战斗中,敌人死伤不计其数。(数がおびただしい)
【鼓声震天】 鼓声:古时打仗用擂鼓之声代表进攻的信号。形容鼓声极响。(軍鼓が雷のように鳴り響く)

【丢盔弃甲】 diū kuī xiè jiǎ 盔:打仗时用来保护头部的帽子。甲:用皮革或金属做的护身衣服。
丢盔弃甲指盔甲都丢了。形容打败后逃跑时的狼狈相。(あたふた逃げ出す)
例:战士们把敌人打得丢盔弃甲。
【无心应战】 没有心思跟前来进攻的敌方作战。(戦意喪失)



【口語訳】

赤壁の戦い

後漢末期、曹操は大軍を率いて南下し、江南東呉の地を奪い取ろうと目論んでいた。

東呉の周瑜は、赤壁に陣を張り、将兵を配置につけ、曹操の兵と長江を隔てて対峙した。
曹操の兵は北岸に、周瑜の兵は南岸に配備された。

曹操の兵士はすべて北方出身であり、船に乗るのは不慣れだった。
しかし大河を渡るには、船に乗らざるをえない。
曹操は鉄の鎖で船同士をつなぎあわせ、その上に木の板を敷き、船上を平地と同じように安定させた。
彼は兵士が水上での戦いに慣れるのを待ち、そのうえで長江を渡ろうと考えていた。

周瑜の配下に黄蓋という老将がいた。
彼は周瑜に言う。
「曹操軍八十万の兵に対し、我が軍は三万たらず、兵力の差が大きすぎます。
持久戦に入るのは我々にとって不利です。
私が思うに、曹操軍の船は、互いに船首と船尾とがくっつき合っているから、焼き打ちをかけさえすれば、彼らを敗走させる事ができます」

周瑜は、火攻めは良い作戦だが、どのような策略をもって戦うか考えねばなるまいと言う。
黄蓋は、策略はすでに用意してあると言い、周瑜にひととおり説明した。
周瑜は聞いてたいへん満足し、彼にそのように進めるよう命じた。

そこで黄蓋は曹操に次のような手紙を書いた。
「東呉の兵は少なく、八十万の大軍を食い止めることはできません。
周瑜は身の程を知らず、あたかも卵を持って石に立ち向かうがごとく、失敗することは目に見えています。
自分は東呉を離脱し、兵糧を携え、曹操殿に投降しようと望んでおります」

曹操は黄蓋の手紙を受け取り、大いに喜んだ。

その日は東南の風が吹きつのり、河面には大波が逆巻いていた。
曹操は船の舳先で風を受け状況を見守っていた。

突然兵が報告に来て言う。
「河の南の方角に、なにやら船の帆影のようなものが見え、それらは東南の風に乗り、北岸に迫って来ております」

曹操が目を凝らすと、やはり北岸に向って疾駆してくる帆船があった。
やがて河の真ん中まで達したその船の先頭には、「黄」 の字が書かれた大旗がはっきりと見て取れた。

曹操は笑って言う。「黄蓋が約束どおり投降してきたにちがいない」

まさしく、東南の風に乗りやって来たのは黄蓋の船であった。
全部で二十隻、いずれも天幕で覆われ、中身は食糧ではなく、また兵がいるわけでもなく、アシの草が積まれ、上には硝酸と硫黄が敷かれていた。
さらに後方には数隻の小船がつながれていた。

黄蓋の船は帆を十分に張り、放たれた矢のごとく疾走していた。
周瑜は兵を積んだ船を後方に配備していた。

曹操はてっきり黄蓋が投降にやって来たと思い、上機嫌であった。
防御することなど思いも至らなかったが、事態はすでに手遅れであった。

黄蓋の船は曹操の船団まで二里の距離に近づいた。
黄蓋は兵士たちに命じ、小船に乗り移り、縄を解き、二十隻の船に積んだアシの草を一斉に点火させた。

火の手をあげた二十隻の船は東南の風に乗り、曹操の船団めがけて突入した。
曹操の軍船は鎖でつながれていたため、散開することができず、一斉に火が着いた。
火は岸にまで燃え広がり、岸辺にある兵営にまで延焼した。

火の手は空一面を赤く照らし、もうもうと立つ煙は河面を覆った。
どこが水面で、どこが岸であるかも見分けがつかなくなった。
悲鳴と叫び声が飛び交い、曹操の軍勢は焼き殺される者、溺死する者、その数は計り知れないほどだった。

曹操は小舟に乗り河岸まで敗走したが、突然後方に銅鑼と太鼓の音が鳴り響いた。
周瑜の兵が追撃して来たのだ。

曹操が配下の兵を見ると、彼らは戦闘意欲を失い、あたふたと逃げ惑うばかりであった。
やむなく彼らを引き連れて華容道から逃走するほかなかった。











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