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    漢詩百選

【唐詩一】
杜甫  李白 張九齢   孟浩然   王維   劉希夷   無名氏    屈原    劉邦  李延年  李陵  劉徹



(杜甫)

(絶句三) (絶句二) (春望)


绝句四首之三
   ()  杜甫   

两个黄鹂鸣翠柳   liǎng gè huáng lí míng cuì liǔ
一行白鹭上青天   yì xíng bái lù shàng qīng tiān
窗含西岭千秋雪   chuāng hán xī lǐng qiān qiū xuě
门泊东吴万里船   mén bó dōng wú wàn lǐ chuán



【注 釈】

絶句(ぜっく)四首其の三

両箇(りゃうこ)の 黄鸝(くわうり)翠柳 (すいりう)に鳴き
一行(いちかう)の白鷺 (はくろ)青天(せいてん)に 上(のぼ)る
窓に含む 西嶺(せいれい)千秋(せんしう)の雪
門に泊(はく)す 東呉(とうご)万里(ばんり)の船


【口語訳】

うち連れ 遊ぶ うぐひすの    来(き)鳴(な)く 柳は みどりにて
群れとぶ 鷺(さぎ)は   天に舞ふ
窓をひらけば 西嶺(せいれい)の   雪にかがやく 姿あり
門にはとほく 江東(かうとう)の   水脈(すいみゃく)くだりし船 舫(もや)ふ


黄鹂】 huáng lí   高麗鶯 (コウライウグイス)
【西岭】 xī lǐng   西嶺(せいれい)成都(四川省)の西北に連なる雪山。一年中雪が積もっている
东吴】 dōng wú   東呉は、三国時代の呉国の別称。長江下流の蘇州(江蘇省)一帯を指す。

764年、杜甫53歳の作。安禄山の乱の勃発で長安を逃れ、成都にたどり着いた作者は、760年、
成都郊外の浣花渓(かんかけい)という河のほとりに草堂を建て、詩作に専念した。

この草堂のそばに、成都と東呉(江東)を往来する船が停泊する万里橋があった。
なお、この草堂は現在、杜甫博物館となっている(成都市清華路38号)




绝句二首之二   (杜甫  

江碧鸟逾白   jiāng bì niǎo yú bái
山青花欲然   shān qīng huā yù rán
今春看又过   jīn chūn kàn yòu guò
何日是归年   hé rì shì guī nián



【注 釈】

絶句(ぜっく)二首其の二

江(かう)碧(みどり)にして 鳥(とり)逾々(いよいよ)白く
山(やま)青(あを)くして 花(はな)然(も)えんと欲す
今春(こんしゅん)看々(みすみす)又(また)過ぐ
何(いづ)れの日(ひ)か 是(こ)れ帰年(きねん)ならん


【口語訳】

水の流れは 碧(あお)くして 白きはうかぶ 鳥の影
山は緑に 照り映えて 花また赤く 燃えんとす

塵(ちり)のちまたに 今年また むなしく春の 過ぎゆけば
夢にし恋(こ)ふる ふる里の 春にいつまた 逢へる身ぞ


【看】 kàn    (眼看、坐观而无所作为)みすみす、座視する

本作は、眼前の春景色によって、望郷(作者の郷里は河南)の思いをそそられたことを詠う。




春望   chūn wàng (杜甫  

国破山河在 城春草木深   guó pò shān hé zài   chéng chūn cǎo mù shēn
感时花溅泪 恨别鸟惊心   gǎn shí huā jiàn lèi  hèn bié niǎo jīng xīn
烽火连三月 家书抵万金   fēng huǒ lián sān yuè  jiā shū dǐ wàn jīn
白头搔更短 浑欲不胜簪   bái tóu sāo gèng duǎn  hún yù bú shèng zān



【注 釈】

春望(しゅんばう)

国(くに)破(やぶ)れて 山河(さんが)在(あ)り
城(しろ)春にして 草木(さうもく)深し

時(とき)に感じて 花さえ 涙を濺(そそ)ぎ
別れを恨(うら)み 鳥さえ 心を驚かす

烽火(ほうくわ)三月(さんげつ)に連(つら)なり
家書(かしょ)万金(ばんきん)に抵(あた)る

白頭(はくとう)掻(か)いて 更(さら)に短かく
渾(す)べて簪(しん)に 勝(た)へざらんと欲す


【口語訳】

破れし国に山川の  自然は元のままながら
春おとづれし城下町  草木ただに繁るのみ

時の悲運を感ずれば  花見てさへも涙おち

親しき者のちりぢりに 
やさしき鳥の声にさへ 心さわぎて静(しづ)まらず

三月(みつき)にわたる世のみだれ
郷(さと)の便りもたえがちに 思ひ患(わづら)ふわれゆえに

梳(けづ)ればさらに白髪の 短かくなりて冠(くわんむり)の
挿頭(かざし)も今はとどまらじ


】 chéng   長安。城壁で囲まれた都市
溅泪】 jiàn lèi   涙を流す
惊心】 jīng xīn   心を痛む

757年、杜甫46歳、長安で賊軍に拘留中であった時の作。

安禄山の乱により、唐の都・長安は破壊されたが、周囲の自然の営みは変わりなく、
人間の悲しみなど知らぬげに、昔のままの姿を見せる。

人間は有情、自然は無情、そこに作者の悲しみがある。
この杜甫の詩に共感して、芭蕉は奥の細道で「夏草や兵どもが夢の跡」と詠んだ。

烽火】 fēng huǒ   戦火ののろし
家书】 jiā shū   家族からの手紙
】 dǐ  相当する。値する。
万金】 wàn jīn  多額のお金。貴重なもの
】 hún  まったく。すっかり
】 yù  ~しそうだ。~になろうとする
不胜】 bú shèng  耐えられない。できない
】 zān   挿頭(かざし)役人が頭につける冠をとめる竹製のかんざし



杜甫 dù fǔ (とほ)  (712~770年)
盛唐の詩人。字は子美(しび)河南省鄭州(ていしゅう)の人。
科挙に及第せず、長安で憂苦するうちに安禄山の乱に遭遇し賊軍に捕らわれる。

脱出後、仕官したが、左遷されたため官を捨て、以後家族を連れて各地を放浪し、湖南で病没。享年五十九才。
国を憂い、民の苦しみを詠じた多数の名詩を残し、後世「詩聖」と称される。
著作に詩集「杜工部(とこうぶ)集」(二十巻)




(李白)

(静夜思) (望廬山瀑布)  (山中幽人対酌)


静夜思
   jìng yè sī     ()  李白  

床前明月光   chuáng qián míng yuè guāng
疑是地上霜   yí shì dì shàng shuāng
举头望明月   jǔ tóu wàng míng yuè
低头思故乡   dī tóu sī gù xiāng



【注 釈】

静夜思(せいやし)

床前(しゃうぜん)に伏し  月光(げつくわう)を看る
疑(うたが)ふらくは是れ  地上(ちじゃう)の霜か  
頭(かうべ)を挙げては  明月(めいげつ)を望み
頭(かうべ)を低(た)れては  故郷(こきゃう)を思ふ


【口語訳】
 
草まくら  旅寝のまどの  つきかげを
霜のあかりと  みまがひつ
あおぎてみれば つきはやまの端(は)
うなじたれ ふるさとしのぶ


【疑是】 yí shì   (好像是)まるで(地上に降りた霜)のようだ

月を見て、おのずと湧き出る望郷の念を詠ったもの。李白の故郷は四川省の蜀、山国であった。
二十五歳(725年)の時、故郷を出てから再び帰ることはなかった。

本作は、いつ頃どこで作ったのかわからないが、放浪の旅の中での感慨であろう。
月を見て、故郷をしのぶ表現は、杜甫の「月夜」など、漢詩では数多く見られる。

玄宗に仕えた李白の同僚であった阿倍仲麻呂の次の和歌も望郷の念を詠ったものである。
「天の原 ふりさけみれば春日なる 三笠の山に出でし月かも」(古今集)



望庐山瀑布  wàng lú shān pù bù  ()  李白  

日照香炉生紫烟   rì zhào xiāng lú shēng zǐ yān
遥看瀑布挂前川   yáo kàn pù bù guà qián chuān
飞流直下三千尺   fēi liú zhí xià sān qiān chǐ
疑是银河落九天   yí shì yín hé luò jiǔ tiān



【注 釈】

廬山(ろざん)の瀑布(ばくふ)を望む

日は香炉(かうろ)を照(て)らして 紫烟(しえん)を生(しゃう)じ
遥(はる)かに看る 瀑布(ばくふ)の長川(ちゃうせん)に挂(か)くるを
飛流(ひりう) 直下(ちょくか) 三千尺(さんぜんせき)
疑(うたが)ふらくは是れ 銀河(ぎんが)の九天(きうてん)より落つるかと


【口語訳】

香炉(かうろ)の峰に日は照りて 匂(にほ)へるもやは紫に
遥か山河を眺むれば 落つるや水の三千尺(さんぜんせき)
これやこれ  秋の夜空の天の川
蒼穹(さうきゅう)落ちて懸(かか)るかと われとわが目を疑ひぬ


庐山】 lú shān  廬山(ろざん)
江西省の北部にある名山。最高峰の漢陽峰は標高1474m。景勝の地で世界遺産、また仏教の霊跡として知られる。
李渤(りぼつ 詩人)の白鹿洞書院、陶淵明の靖節書院、香炉峰などの古跡がある。

【香炉】 xiāng lú    香炉峰(こうろほう)廬山の峰のひとつ。形が香炉に似ているためこの名がある。
ここでは峰の名と香炉とを掛け、山頂の靄(もや)を香炉の煙に見立てている。

この廬山の風光に魅せられた李白は、五十六歳のとき、廬山の麓に家を構え、隠居してしまった。




山中与幽人对酌  shān zhōng yǔ yōu rén duì zhuó  (唐) 李白    

两人对酌山花开   liǎng rén duì zhuó shān huā kāi
一杯一杯复一杯   yì bēi yì bēi fù yì bēi
我醉欲眠卿且去   wǒ zuì yù mián qīng qiě qù
明朝有意抱琴来   míng zhāo yǒu yì bào qín lái



【注 釈】

山中にて幽人(いうじん)と対酌(たいしゃく)す 

両人(りゃうじん)対酌(たいしゃく)すれば 山(やま)花(はな)開く  
一杯一杯 復(ま)た一杯 
我酔(ゑ)うて眠らんと欲す  卿(きみ)且(しばら)く去れ 
明朝(みゃうてう) 意あらば 琴(こと)を抱(いだ)いて来(き)たれ 


【口語訳】

山中に 友あり酒あり 花ありて わが恋(こ)ふものは なべてそろへり
酒くらひ 差しつ差されつ 杯(はい)を重ぬる
われすでに 玉山の崩(くづ)るるごとし 君 はや往(い)ねよ
明日は琴(こと)把(と)れ さらに酌(く)まばや


【幽人】 yōu rén    世を遁れた隠者

世俗を離れた隠者を相手に酒を飲む李白は、自分自身も隠者のようだ。
この隠者二人が酒を酌み交わすと、感情を持たないはずの山の花々すら一緒に浮かれだす。
いかにも気ままでこだわりのない、天衣無縫の李白ならではの境地が描かれている。



李白 lǐ bái (りはく) (701~762年)
盛唐の詩人。字は太白(たいはく)四川省江油(こうゆ)の人。
宮廷詩人として玄宗に仕えたが、その寵臣の憎しみを買い、宮廷を追われた。

晩年は、江南の地で湖に小舟を浮かべて酒を呑みながら月を眺めて過ごした。
最後は酔って水中の月を捕らえようとして溺死したという。享年六十一。
絶句を得意とし、奔放で変幻自在な詩風から、後世「詩仙」と称される。
著作に詩集「李太白(りたいはく)集」(三十巻)




(張九齢)


照镜见白发   zhào jìng jiàn bái fà (唐)张九龄    

宿昔青云志  sù xī qīng yún zhì
蹉跎白发年  cuō tuó bái fà nián
谁知明镜里  shéi zhī míng jìng lǐ
形影自相怜  xíng yǐng zì xiāng lián



【注 釈】

鏡(かがみ)に照(て)らして白髪(はくはつ)を見(み)る

宿昔(しゅくせき) 青雲(せいうん)の志(こころざし)
蹉跎(さた)たり 白髪(はくはつ)の年(とし)
誰(たれ)か知(し)らん 明鏡(めいきょう)の裏(うち)
形影(けいえい) 自(みずか)ら相(あ)ひ憐(あは)れむ


【口語訳】

浮世はめぐる小車の 空とぶ鳥も傷つけば
世のあざけりを購(か)ふばかり ひとたびのぼる雲の上
追はれて沈む塵泥(ちりひぢ)の 見捨てられたる老ひの身は
鏡にうつるわが影と 切な心を泣くばかり


【宿昔】 sù xī  (怀有以前、是指任宰相期间)かつて昔の
【青云志】 qīng yún zhì  (志向远大)立身出世の志
【蹉跎】 cuō tuó  (蹉跎岁月)挫折を重ねる
【形影】 xíng yǐng  (形体和影子)我と我が影。「形」は自分の姿。「影」は鏡に映った像。
【自相怜】 zì xiāng lián  (自己的形体和影子互相同情,怜悯。意思是孤独)我と鏡中の我が影が、互いに相憐れむ

734年、56歳で宰相に就任した張九齢は、安禄山という人物の野心を早くから見抜き、
玄宗に幾度も進言したが、聞き入れられなかった。
その後737年、宰相を失脚し、官を辞して故郷に帰る途中、この詩を詠んだとされる。
その時の張九齢の無念の思いがこの詩にも滲みでている。



張九齢 zhāng jiǔ líng (ちょうきゅうれい)(678~740年)
初唐の詩人。字は子寿(しじゅ)韶州曲江(しょうしゅうきょくこう 広東省)の人。

702年、24歳で進士に及第し、玄宗に仕えて名宰相とうたわれたが
門閥貴族出身者に憎まれ、737年に失脚。
その詩は清淡の風を開き、孟浩然、王維などの先駆をなした。
著作に詩文集「曲江(きょくこう)集」(二十巻)




(孟浩然)

(春暁) (宿建徳江)


春晓
chūn xiǎo  (孟浩然     

春眠不觉晓   chūn mián bù jué xiǎo
处处闻啼鸟   chù chù wén tí niǎo
夜来风雨声   yè lái fēng yǔ shēng
花落知多少   huā luò zhī duō shao



【注 釈】

春暁(しゅんげう)

春眠(しゅんみん) 暁 (あかつき) を覚えず
処処(かしこ)に鳥の 啼(な)くを聞けり
風雨 (ふうう)の声(おと) 夜に来りて
多少(いくばく)か 花 落つるを知る



【口語訳】

春の眠りのこころよく いつ明け初めし  東雲(しののめ)ぞ
木々にさへづる鳥の声 臥床(ふしど)に聞くも夢うつつ

昨夜降りしき雨風の 烈(たけ)しき音を  聞くからに
さぞや梢(こずゑ)に花ちりて 残り少なくなりにけむ


【知多少】 zhī duō shao    (不知有多少)どれほど散ってしまったことだろうか

本作は、春のあけぼのの眠い寝床の中で、庭一面の落花を思い、ゆく春を惜しむ気持ちを込めて詠ったもの。




宿建徳江 sù jiàn dé jiāng  ()  孟浩然    

移舟泊烟渚   yí zhōu bó yān zhǔ
日暮客愁新   rì mù kè chóu xīn
野曠天低樹   yě kuàng tiān dī shù
江清月近人   jiāng qīng yuè jìn rén



【注 釈】

建徳江(けんとくかう)に 宿(やど)る
   
舟(ふね)を移(うつ)して  煙渚(えんしょ)に泊(はく)す
日(ひ)暮れて 客愁(かくしう)新(あら)たなり
野(の)は曠(ひろ)くして  天(てん)樹(き)に低(た)れ
江(かう)は清(きよ)くして  月(つき)人(ひと)に近(ちか)し


【口語訳】  「訳詩: 森亮(唐詩絶句)」

船を渚(なぎさ)にとどむれば ゆふべは哀(かな)し  旅のそら
遠野(とほの)の木々に 雲垂れて 流れよるかに 江(みづ)の月 


建徳江】 建徳江は、浙江省を流れる大河・銭塘江(せんとうこう)の中流あたりをいう。

本作は、沿岸にある建徳市(杭州市に位置する県級市)に舟をとめて一泊した時の旅愁を詠ったもの。

烟渚】 川霧の立ち込める渚



孟浩然 mèng hào rán (もうこうねん) (689~740年)
盛唐の詩人。字は浩然(こうねん)湖北省襄陽(じょうよう)の人。
四十歳のとき長安に出て詩才を認められたが、仕官には失敗し郷里の鹿門山に隠棲、五十二歳で没した。
その詩は恬淡かつ平穏な詩風で自然描写にすぐれ、王維と共に「王孟」と並び称される。
著作に詩集「孟浩然集」(四巻)




(王維)

(鹿柴) (竹里館) (送元二使) (雑詩二) (雑詩三) (山東兄弟) 

(山中送別) (画) (相思)   (終南別業)


鹿柴
lù chái   (王维    

空山不见人   kōng shān bú jiàn rén
但闻人语响   dàn wén rén yǔ xiǎng
返景入深林   fǎn jǐng rù shēn lín
复照青苔上   fù zhào qīng tái shàng



【注 釈】

鹿柴(ろくさい)

空山(くうざん)人(ひと)を見(み)ず
但(ただ)人語(じんご)の響(ひび)きを 聞(き)くのみ  
返景(へんけい)深林(しんりん)に入(い)り
復(また)青苔(せいたい)の上(うへ)を照(て)らす


【口語訳】

寂(せき)として 人なき山の折ふしは
ささやく声の 聞(きこ)ゆのみ
夕日の照りは 深山の
梢(こずえ)をすきて ひそやかに
緑の苔(こけ)に ふりぞそそげる


鹿柴】 lù chái   (ろくさい) 鹿を飼うための垣根

王維は四十三歳のときに、長安郊外に広大な別荘を構え、友人たちと詩画の創作を楽しんだ。
本作は、この別荘内で、鹿柴がもうけられてある付近の景色を詠ったもの。

空山】 kōng shān   ものさびしい山
人语】 rén yǔ   人の話し声
返景】 fǎn jǐng   夕日の照りかえしの光




竹里館 zhú lǐ guǎn   (王维    

独坐幽篁里   dú zuò yōu huáng lǐ
弹琴复长啸   dàn qín fù cháng xiào
深林人不知   shēn lín rén bù zhī
明月来相照   míng yuè lái xiāng zhào



【注 釈】

竹里館(ちくりくわん)

独り坐す 幽篁(いうくわう)の 裏(うち)
琴を弾(たん)じて 復(また)長嘯(ちゃうせう)す
深林(しんりん)人 知らず
明月(めいげつ)来りて 相照らす


【口語訳】

竹の林の 奥ふかく
夜もすがらに 琴弾じ
心なぐさに うたふわれ
人知るらめや 知らじとも
われにうちそふ 月ぞ照りける


竹里館】 zhú lǐ guǎn     竹林にあるやかた

本作は、人里離れた(といっても王維の広大な別荘内の敷地だが)竹林の奥の自然の景観を詠ったもの。

幽篁】 yōu huáng     静かな竹林




送元二使安西    (王维  

渭城朝雨邑轻尘   wèi chéng cháo yǔ yì qīng chén
客舍青青柳色新   kè shě qīng qīng liǔ sè xīn
劝君更尽一杯酒   quàn jūn gèng jìn yì bēi jiǔ
西出阳关无故人   xī chū yáng guān wú gù rén



【注 釈】

元二(げんじ)の 安西(あんさい)に 使(つか)ひするを送る

渭城(ゐじゃう)の朝雨(てうう) 軽塵(けいぢん)を浥(うるほ)し
客舍(かくしゃ)青青(せいせい) 柳色(りうしょく)新たなり
君に勧む 更に尽(つく)せ 一杯の酒
西のかた 陽関(やうくわん)を 出づれば 故人(こじん)無からん


【口語訳】

渭城(ゐじゃう)の空の朝じめり 立ち舞う塵(ちり)も鎮まりて
旅宿(はたご)の柳も みづみづし

異境(いきゃう)にむかふ君ゆえに せめて別れのたまゆらを
わがさす酒を 乾(ほ)したまへ
乾(ほ)して愁(うれ)ひを 忘(わ)するべし

はるかに遠く西の涯(はて) ひとたび陽関こえゆかば
いよいよ故国ぞ偲ばれむ 故国の人ぞしのばれむ


元二】 yuán èr    元家の次男。安西都護府に使者として旅立つのを見送る

西域に駐在が決まった友人を、渭城(長安郊外)まで見送った時に、その送別の気持ちを詠ったもの。

阳关】 yáng guān    関所の名。敦煌の玉門関の南側にあることから陽関という
故人】 gù rén    家族、友人などの知り合い




杂诗 zá shī 其二 (唐)王维    

君自故乡来   jūn zì gù xiāng lái
应知故乡事   yīng zhī gù xiāng shì
来日绮窗前   lái rì qǐ chuāng qián
寒梅著花未   hán méi zhù huā wèi



【注 釈】

雑詩(ざつし)其の二

君(きみ)故郷(こきゃう)より来(きた)る
応(まさ)に故郷(こきゃう)の事(こと)を知るべし
来(きた)る日 綺窓(きさう)の前(まへ)
寒梅(かんばい)花を著(つ)けしや 未(いな)や


【口語訳】

あたかも好(よ)しや ふる里の 友ぞ来(きた)れる いざ問はむ
君ふる里を発(た)ちし時 わが家の庭の 梅の木の 花咲きにしや 聞かまほし


【杂诗】 zá shī    「雑詩」は、ふと折にふれての感慨を述べたもの。

本作は、旅先で故郷をしのぶ心情を詠った雑詩三首のうちの第二首

【绮窗】 qǐ chuāng    (雕画花纹的窗户)飾り窓。
多く婦人の部屋に用いるすかしぼりの飾りのついた窓。
この詩は、梅に託して、実は故郷に残した妻の安否をたずねたもの




杂诗 zá shī 其三 (唐)王维    

已见寒梅发   yǐ jiàn hán méi fā
复闻啼鸟声   fù wén tí niǎo shēng
心心视春草   xīn xīn shì chūn cǎo
畏向阶前生   wèi xiàng jiē qián shēng



【注 釈】

雑詩(ざつし)其の三

已(すで)に寒梅(かんばい)の発(ひら)くを見て
復(ま)た啼鳥(ていてう)の声(こゑ)を聞く
愁心(しうしん)春草(しゅんさう)を視(み)ては
階前(かいぜん)に向ひて 生(しゃう)ぜんことを畏(おそ)る


【口語訳】

梅咲きて 春告鳥(はるつげどり)の 音(ね)になけど 待ちわぶ君の 来ぬゆゑに 
草のみどりも 心憂(う)く むなしく時の過ぎゆかば やがてぞ草の生(お)ひ立ちて
そが階(きざはし)を埋(うづ)むべく 逢ふ期(ご)なきかを われ愁(うれ)ふ


【杂诗】 zá shī    「雑詩」は、ふと折にふれての感慨を述べたもの。

本作は、旅先の夫を思いつつ家を守る妻の心情を詠った雑詩三首のうちの第三首

【畏向阶前生】    夫の帰らぬまま、家の階前に草だけが生い茂ってゆくのを怖れる




九月九日忆山东兄弟  (唐)王维    
jiǔ yuè jiǔ rì yì shān dōng xiōng dì

独在异乡为异客   dú zài yì xiāng wèi yì kè
每逢佳节倍思亲   měi féng jiā jié bèi sī qīn
遥知兄弟登高处   yáo zhī xiōng dì dēng gāo chù
遍插茱萸少一人   biàn chā zhū yú shǎo yì rén



【注釈】

九月(くぐわつ)九日(くじつ)山東(さんとう)の兄弟(けいてい)を憶(おも)ふ

独り異郷(いきゃう)に在りて異客(いかく)と為る
佳節(かせつ)に逢ふ毎に 倍(ますます)親(しん)を思ふ
遥かに知る 兄弟(けいてい)高きに登る処
遍(あまね)く茱萸(しゆゆ)を挿して一人(いちにん)を少(か)くを


【口語訳】

ひとり異郷(いきゃう)に暮らす身は 佳節(かせつ)に逢へば ひとしおに
故国(ここく)の人ぞ 偲(しの)ばるる 
さぞやいまごろ兄弟(はらから)どもは あひ伴(ともな)ひて 山のぼり
てんでに茱萸(しゅゆ)をかざせるなかに 
唯(た)だ我れひとり 欠(か)けたるは こころさびしと もの言ひぬらむ


【忆山东兄弟】 shān dōng xiōng dì   (重陽の節句に)山東の兄弟を憶(おも)う

王維17歳の作。この時期、作者は科挙受験のため家を離れていた。
節句の当日、旅先で親兄弟を思いやるという望郷の念を詠ったもの。

【异客】 yì kè  (他乡的客人)旅人
【茱萸】 zhū yú   植物の名。カワバジカミ
重陽の節句には小高い丘に登り、茱萸(カワハジカミ)の枝を冠などにさし、
薬酒を飲んで邪気をはらう習慣があった。
【少一人】 shǎo yì rén   自分だけがそこにいない




山中送别  shān zhōng sòng bié (唐) 王维    

山中相送罢   shān zhōng xiāng sòng bà
日暮掩柴扉   rì mù yǎn chái fēi
春草明年绿   chūn cǎo míng nián lǜ
王孙归不归   wáng sūn guī bù guī



【注 釈】

山中(さんちう)送別(そうべつ)

山中(さんちう)相(あ)ひ送りて罷(や)み
日暮(にちぼ)柴扉(さいひ)を掩(おお)ふ
春草(しゅんさう)明年(みゃうねん)緑ならんも
王孫(わうそん)帰(かへ)るや 帰(かへ)らずや


【口語訳】

山なかに 人を見送り
夕暮れに 柴の戸閉ざす
来む春に 草は萌ゆとも
君は帰るや 帰りまさずや


【送罢】 sòng bà  (送完)見送った後
【掩】 yǎn  (关闭)(柴の門を)閉じる
【明年绿】 míng nián lǜ   来年春草が萌え出るころには
【王孙】 wáng sūn  (贵族的子孙,这里指送别的友人)貴公子。ここでは別れていく友人の意

山間にひとり住む作者を、訪ねてくれた友の、遠く去るを見送った後の寂しさを詠う。




 huà  (唐) 王维    

远看山有色   yuǎn kàn shān yǒu sè
近听水无声   jìn tīng shuǐ wú shēng
春去花还在   chūn qù huā hái zài
人来鸟不惊   rén lái niǎo bù jīng



【注 釈】

画(ぐわ)

遠(とほ)くに看(み)れば 山(やま)に色(いろ)あり
近(ちか)くに聴(き)けば 水(みづ)に声(こゑ)なし
春(はる)去(さ)りて還(な)ほ 花(はな)在(あ)りて
人(ひと)近(ちか)づけど 鳥(とり)も怖(おそ)れず


なぞかけのような詩文だが、実は作者が山水画を鑑賞しながら詠んだ歌である。
不世出の画家でもあった王維の詩には、その詩の内容を具体的に描いた絵が同居するとされる。

これについて、北宋の詩人・蘇軾は「王維の詩を味わえば、まさに詩中に画あり(詩中有画)、
王維の画を観れば、まさに画中に詩あり(画中有詩)」と高く評価している。




相思  xiāng sī  (唐) 王维  

红豆生南国   hóng dòu shēng nán guó
春来发几枝   chūn lái fā jǐ zhī
愿君多采撷   yuàn jūn duō cǎi xié
此物最相思   cǐ wù zuì xiāng sī



【注 釈】

相(あ)ひ思(おも)ふ

紅豆(こうとう)南国(なんごく)に生(しゃう)じ
春(はる)来たりて 幾枝(いくし)か発(はっ)す
願(ねが)はくは君 多(おほ)く采(と)り摘(つ)めよ
此の物(もの) 最も相(あ)ひ思(おも)はしむ


【口語訳】 

南の国の 紅豆(こうとう)は
人思ふ 気持ちを誘(さそ)ふ 恋の花
春 幾枝(いくえ)にも 花咲かむ
君よ その実を採(と)り給(たま)へ
採(と)りて思(おも)ひを 実らせよ


【采撷】 cǎi xié    (摘取)摘み取る

本作は「紅豆」に託して、恋の思いを詠ったもの。「紅豆」は、豆に似た赤い実をつける植物。
その実は「相思子(そうしし)」とも呼ばれ、人を思う気持ちを託して、詩歌にしばしば用いられる。




终南别业  zhōng nán bié yè  (唐) 王维    

中岁颇好道    zhōng suì pō hǎo dào
晚家南山陲    wǎn jiā nán shān chuí
兴来每独往      xìng lái měi dú wǎng
胜事空自知    shèng shì kòng zì zhī
行到水穷处    xíng dào shuǐ qióng chǔ
坐看云起时    zuò kàn yún qǐ shí
偶然值林叟    ǒu rán zhí lín sǒu
谈笑无还期    tán xiào wú huán qī



【注 釈】

終南(しゅうなん)の別業(べつげふ)

中歳(ちゅうさい)頗(すこぶ)る道(みち)を好(この)み
晩(ばん)に家(いへ)す 南山(なんざん)の陲(ほとり)
興(きょう)来(き)たれば 毎(つね)に独往(どくおう)し
勝事(しょうじ)は空(むな)しく 自(みづか)ら知(し)る

行(ゆ)きて水(みづ)窮(きは)まる処(ところ)に到(いた)り
坐(ざ)して看(み)る 雲(くも)の起(お)こる時(とき)
偶然(ぐうぜん)林叟(りんそう)に値(あ)ふ
談笑(だんせう)還期(くわんき)無(な)し


【口語訳】

われ生の半ばより いつか仏道(ぶつだう)を好(この)み始(はじ)む
晩年に至りて 遂(つひ)に世を避け 南山の隅に居を構(かま)へたり

興の生じたるとき 独り山中に往き 勝れたる山水の景あらば 自ら賞す
行き往きて 水(みづ)の極(きは)まるは 渓(たに)の尽きる處なり
 
其処に至りて しばし留まれば 湧然(ようぜん)として 雲の起これり
 
雲の起こるを看て 悠然(いうぜん)と 坐(ざ)して居(を)りたるに
何処(いづこ)とも知れず 林中の老翁に出逢ひて 談笑(だんせう)す

山を談(だん)じ 水(みづ)を語りて 帰るべき時を 忘るるほどなり


【终南别业】 zhōng nán bié yè  終南山(陝西省)の別荘

作者は、中年のころから仏道を好んできたが、人生の暮れ方になって、終南山の辺地に住み着いた。
本作は、終南山の輞川荘(もうせんそう)での生活における悠々自適の境地を詠ったもの。

【陲】 chuí  (边缘)ほとり、周辺
【胜事】 shèng shì   勝れた景観
【空自知】 kòng zì zhī  ただ自らひとり知る。ひとりで楽しむのみ
【水穷处】 shuǐ qióng chǔ  水源地
【值林叟】 zhí lín sǒu  きこりの老人に出会う
【无还期】 wú huán qī  家に帰るべき時を忘れる



王維 wáng wéi   (おうい)  (699~761年)
盛唐の詩人、画家。字は摩詰(まきつ)山西太原(たいげん)の人。
その詩は勇壮豪快な作もある一方、静謐な自然を詠じ、孟浩然(もうこうねん)と共に「王孟」と並び称される。

水墨画もまた鄭虔(ていけん)や呉道子(ごどうし)と比肩され「南宗画」の祖と仰がれる。
なお、字の摩詰は維摩詰(ゆいまきつ)に由来する。
著作に詩集「王右丞(おうゆうじょう)集」(十巻)




(劉希夷)


代悲白头翁    (唐)  刘希夷    

洛阳城东桃李花 飞来飞去落谁家 luò yáng chéng dōng táo lǐ huā fēi lái fēi qù luò shuí jiā
洛阳女儿惜颜色 坐见落花长叹息 luò yáng nǚ ér xī yán sè zuò jiàn luò huā cháng tàn xī
今年花落颜色改 明年花开复谁在 jīn nián huā luò yán sè gǎi míng nián huā kāi fù shuí zài
己见松柏摧为薪 更闻桑田变成海 yǐ jiàn sōng bǎi cuī wèi xīn gèng wén sāng tián biàn chéng hǎi
古人无复洛城东 今人还对落花风 gǔ rén wú fù luò chéng dōng jīn rén huán duì luò huā fēng
年年岁岁花相似 岁岁年年人不同 nián nián suì suì huā xiāng sì suì suì nián nián rén bù tóng
寄言全盛红颜子 应怜半死白头翁 jì yán quán shèng hóng yán zǐ yìng lián bàn sǐ bái tóu wēng
此翁白头真可怜 伊昔红颜美少年 cǐ wēng bái tóu zhēn kě lián yī xī hóng yán měi shào nián
公子王孙芳树下 清歌妙舞落花前 gōng zǐ wáng sūn fāng shù xià qīng gē miào wǔ luò huā qián
光禄池台文锦绣 将军楼阁画神仙 guāng lù chí tái wén jǐn xiù jiāng jūn lóu gé huà shén xiān
一朝卧病无相识 三春行乐在谁边 yì zhāo wò bìng wú xiāng shí sān chūn xíng lè zài shuí biān
宛转蛾眉能几时 须曳鹤发乱如丝 wǎn zhuǎn é méi néng jǐ shí xū yè hè fā luàn rú sī
但看古来歌舞地 唯有黄昏鸟雀悲 dàn kàn gǔ lái gē wǔ dì wéi yǒu huáng hūn niǎo què bēi




【注 釈】

白髪を悲しむ老翁に代りて歌ふ

洛陽城東(らくやうじゃうとう)桃季(たうり)の花
飛び来り 飛び去りて 誰が家にか落つる

洛陽(らくやう)の女児(ぢょじ)顔色(がんしょく)を惜しむ
落花(らくくわ)座して見るに 長(とこしなへ)に嘆息す

今年(こんねん)花落ちて 顔色(がんしょく)改まり
明年(みょうねん)花開いて 復(また)誰(たれ)か在る

己(すで)に見る 松柏(しょうはく)の摧(くだ)かれて薪(たきぎ)となるを
更に聞く 桑田(さうでん)変じて 海と成るを

古人(こじん)復(また)洛城(らくじゃう)の東に無く
今人(こんじん)還(かへ)つて対す 落花(らくくわ)の風

年々歳々(ねんねんさいさい)花相似たり
歳々年々(さいさいねんねん)人同じからず

言(げん)を寄す 全盛(ぜんせい)の紅顔子(こうがんし)
応(まさ)に憐れむべし 半死(はんし)の白頭翁(はくとうをう)

此の翁(をう)の白頭(はくとう)真(しん)に憐むべし
伊(こ)れ昔 紅顔(こうがん)の美少年(びせうねん)

公子(こうし)王孫(おうそん)芳樹(はうじゅ)の下
清歌(せいか)妙舞(めうぶ)落花(らくくわ)の前(まへ)

光緑(くわうろく)池台(ちだい)に錦繡(きんしう)を文(かざ)り
将軍(しゃうぐん)の楼閣(ろうかく)に神仙(しんせん)を画く

一朝(いちてう)病(やまひ)に臥して相識(し)るもの無く
三春(さんしゅん)の行楽(かうらく)誰(た)が辺(へん)にか在る

宛転(ゑんてん)たる蛾眉(がび) 能(よ)く幾時(いくとき)ぞ
須曳(しゆゆ)にして鶴髪(かくはつ)乱れて糸の如し

但(ただ)看る 古来歌舞(かぶ)の地
唯(ただ)黄昏鳥雀(くわうこんてうじゃく)の悲しむ有り


【口語訳】

城のひがしの 桃李(ももすもも) 花咲き散りて いづこへの 
家の苑生(にわも)に 降るやらむ 
都(みやこ)のをみな みめのよき 散るはなびらに ためいきす
 
花散るごとに 顔色(かんばせ)の  衰へゆけば よくとしの
また来む春に つつみなく 花にむかふは いくたりぞ
 
松もひのきも 薪(まき)となり 桑田(くわた)も海と なるとかや
古きともがら すでに亡く 今ある者も 花さそふ
風とともにぞ 消え失せん
 
年々(ねんねん)花は 似たれども 歳々(さいさい)変わる ひとの身に
今をさかりの 青年(わこうど)よ 死ぬるほどなき 老人(おいびと)に
無(む)げの情けも かけよかし 

あはれ恨めし 白頭翁(はくとうをう)
ありし日の 頬も匂(にほ)へる 美少年(びせうねん)
 
公子公達(こうしくだち)と 歌ひつれ
花散るなかを 舞ひあるき 池のうてなに 錦(にしき)こめ
画閣(がかく)のなかに 遊びし身

ひとたび病めば 友はなく 春のつどひも いずかたぞ
たおやぐ姿 みめのよき いつしか霜の 糸みだる

見よ いにしえの 宴(うたげ)の地
いまたそがれに 鳥ぞ啼く



【代悲白头翁】 dài bēi bái tóu wēng     白髪を悲しむ老翁に代わって(うたう)

白頭の老翁にかこつけて、人の生のはかなさを詠った悲歌であり、そこはかとない哀愁が、一遍を貫いている。

【洛阳城东桃李花】洛陽城東(らくやうじゃうとう)桃季(たうり)の花
洛陽の町の東では桃や李の花が舞い散り、

【飞来飞去落谁家】飛び来り 飛び去りて 誰が家にか落つる
飛び来たり飛び去って、誰の家に落ちるのか。

【洛阳女儿惜颜色】洛陽(らくやう)の女児(ぢょじ)顔色(がんしょく)を惜しむ
洛陽の娘たちはその容貌の衰えていくのを嘆き、

【坐见落花长叹息】落花(らくくわ)座して見るに 長(とこしなへ)に嘆息す
花びらが落ちるのを座り眺めては長い溜息をつく。

【今年花落颜色改】今年(こんねん)花落ちて 顔色(がんしょく)改まり
今年も花が散って娘たちの美しさは衰える。

【颜色改】 yán sè gǎi  人の容色が衰える。

【明年花开复谁在】明年(みょうねん)花開いて 復(また)誰(たれ)か在る
来年花が開くころには誰が元気でいるだろうか。

【己见松柏摧为薪】己(すで)に見る 松柏(しょうはく)の摧(くだ)かれて薪(たきぎ)となるを
私はかつて松や柏の木が砕かれて薪とされるのを見た。

【更闻桑田变成海】更に聞く 桑田(さうでん)変じて 海と成るを
また桑畑の地が変わって海になったという話を聞いた。

【古人无复洛城东】古人(こじん)復(また)洛城(らくじゃう)の東に無く
洛陽の東にいたかつての人々の姿も今は無く、

【今人还对落花风】今人(こんじん)還(かへ)つて対す 落花(らくくわ)の風
今の人もまた花を吹き散らす風に吹かれて嘆いている。

【年年岁岁花相似】年々歳々(ねんねんさいさい)花相似たり
来る年も来る年も、花は変わらぬ姿で咲くが、

【岁岁年年人不同】歳々年々(さいさいねんねん)人同じからず
年ごとに、それを見る人は、移り変わる。

【寄言全盛红颜子】言(げん)を寄す 全盛(ぜんせい)の紅顔子(こうがんし)
今を盛りの若者よ、お聞きなさい。

【应怜半死白头翁】応(まさ)に憐れむべし 半死(はんし)の白頭翁(はくとうをう)
半ば死にかけた白髪の老人の姿は、実に気の毒である。

【此翁白头真可怜】此の翁(をう)の白頭(はくとう)真(しん)に憐むべし
この老人の白髪頭は、まさに憐れむべきものだ。

【伊昔红颜美少年】伊(こ)れ昔 紅顔(こうがん)の美少年(びせうねん)
この老人も昔は紅顔の美少年だったのだ。

【公子王孙芳树下】公子(こうし)王孫(おうそん)芳樹(はうじゅ)の下
貴公子たちとともに花かおる樹のもとにうちつどい、

【公子王孙】 gōng zǐ wáng sūn   貴公子たち

【清歌妙舞落花前】清歌(せいか)妙舞(めうぶ)落花(らくくわ)の前(まへ)
散る花の前で清らかな歌を歌い、見事な舞を舞ったりした。

【光禄池台文锦绣】光緑(くわうろく)池台(ちだい)に錦繡(きんしう)を文(かざ)り
漢の光禄大夫は、池に楼台を築き、錦のとばりを飾ったという。
 
【光禄】 guāng lù  前漢の官制の一つである大夫。

【将军楼阁画神仙】将軍(しゃうぐん)の楼閣(ろうかく)に神仙(しんせん)を画く
また漢の将軍は、楼閣に神仙の姿を描かせたという。 

【一朝卧病无相识】一朝(いちてう)病(やまひ)に臥して相識(し)るもの無く
だが、ひとたび病に臥してしまうと、友達は皆尋ねて来なくなる。

【三春行乐在谁边】三春(さんしゅん)の行楽(かうらく)誰(た)が辺(へん)にか在る
あの春の日の遊興の日々はどこへ行ってしまったのだろう。

【三春】 sān chūn  陰暦の春三か月。一月(孟春)・二月(仲春)・三月(季春)。

【宛转蛾眉能几时】宛転(ゑんてん)たる蛾眉(がび) 能(よ)く幾時(いくとき)ぞ
美しい眉を引いた娘もどれほどその美しさが続くというのか。

【宛转蛾眉】 wǎn zhuǎn é méi   弧を描いた眉。
【能几时】 sān chūn  いつまでその美しさを保てるのか。

【须曳鹤发乱如丝】須曳(しゆゆ)にして鶴髪(かくはつ)乱れて糸の如し
たちまち白髪頭となり、その髪が糸のように乱れるのだ。

【须曳】 xū yè  ほんのわずかの時間。たちまち。
【鹤发】 hè fā  鶴の羽のような白髪になる。

【但看古来歌舞地】但(ただ)看る 古来歌舞(かぶ)の地
見よ、昔、歌や舞でにぎわっていた遊興の地を。

【唯有黄昏鸟雀悲】唯(ただ)黄昏鳥雀(くわうこんてうじゃく)の悲しむ有り
今はただ黄昏時に小鳥が悲しげにさえずっているだけではないか。

【黄昏鸟雀】 huáng hūn niǎo què   たそがれ時に鳥が(悲しく鳴く)
【鸟雀】 niǎo què  小鳥。



劉希夷  liú xī yí   (りゅうきい)  (651~679年)
初唐の詩人。字は廷芝(ていし)河南省汝州(じょしゅう)の人。
675年、科挙に及第したが、出世にめぐまれず、酒と琵琶を愛して奔放な生活を送り、三十歳に届かずして没した。
詩風は、華麗な七言詩にすぐれ、なかでも人生の哀楽をうたった「代悲白頭翁」(だいひはくとうおう)は古来有名。




(無名氏)

(桃夭) (陟岵)


桃夭  táo yāo  无名氏(诗经) 

桃之夭夭 灼灼其华    táo zhī yāo yāo zhuó zhuó qí huá
之子于归 宜其室家    zhī zǐ yú guī yí qí shì jiā
桃之夭夭 有蕡其实    táo zhī yāo yāo yǒu fén qí shí
之子于归 宜其家室    zhī zǐ yú guī yí qí jiā shì
桃之夭夭 其叶蓁蓁    táo zhī yāo yāo qí yè zhēn zhēn
之子于归 宜其家人    zhī zǐ yú guī yí qí jiā rén



【注 釈】

桃夭(たうえう)

桃(もも)の夭夭(えうえう)たる 灼灼(しゃくしゃく)たる 其(そ)の華(はな)
之(こ)の子(こ)于(ここ)に帰(とつ)ぐ 其(そ)の室家(しっか)に宜(よろ)しからん
桃(もも)の夭夭(えうえう)たる 蕡(ふん)たる 其(そ)の実(み)有(あ)り
之(こ)の子(こ)于(ここ)に帰(とつ)ぐ 其(そ)の家室(かしつ)に宜(よろ)しからん
桃(もも)の夭夭(えうえう)たる 其(そ)の葉(は) 蓁蓁(しんしん)たり
之(こ)の子(こ)于(ここ)に帰(とつ)ぐ 其(そ)の家人(かじん)に宜(よろ)しからん


【口語訳】

桃(もも)の初花(はつはな) 見るからかわい なんのわが娘(こ)よ この娘(こ)が 嫁(とつ)ぎゃ
さきの聟(むこ)どの 果報(くわほう)な者よ ほんれ ほれほれ 一目(ひとめ)ぼれ

水もしたたる この桃(もも)いとし なんのわが娘(こ)よ この娘(こ)が 嫁(とつ)ぎゃ
さきの親御前(おやごぜ)幸福(しあわせ)者よ ほんれ ほれほれ ゑびす顔(がほ)

桃(もも)の芽立(めだ)ちに 瑞枝(みづえ)が茂(しげ)る なんのこの娘(こ)を嫁御(よめご)にとれば
とったさき様(さま) お家も繁盛(はんじゃう) ほんれ ほれほれ 葉も茂(しげ)る


【桃夭】 táo yāo  桃の瑞々しき。桃の瑞々しさを若い娘に喩えたもの。

本作は、嫁ぐ娘の幸福を願う庶民の素朴な感情を詠った祝婚歌として知られる。

【桃之夭夭】 táo zhī yāo yāo  (生机勃勃)桃はこれ瑞々しい
【灼灼其华】 zhuó zhuó qí huá  (鲜艳如火)華やかに咲くその花
【之子于归】 zhī zǐ yú guī  (姑娘出嫁)この子が于(ゆ)き嫁ぐ
(古代把丈夫家看作女子的归宿)当時は、夫の家が妻の実家であるとみなされていた

【宜其室家】 yí qí shì jiā  (喜气洋洋归夫家)宜しからんその嫁ぎ先
【有蕡其实】 yǒu fén qí shí  (果实累累大又甜,早生贵子后嗣旺)はちきれんばかりのその実
【宜其家室】 yí qí jiā shì  宜しからんその嫁ぎ先
【其叶蓁蓁】 qí yè zhēn zhēn  (绿叶茂盛随风展,夫家康乐又平安)その葉が生き生きと伸びる
【宜其家人】 yí qí jiā rén  宜しからんその家人たち




陟岵  zhì hù  无名氏(诗经) 

陟彼岵兮  瞻望父兮    zhì bǐ hù xī  zhān wàng fù xī
父曰嗟予子行役 夙夜无已    fù yuē jiē yǔ zǐ xíng yì  sù yè wú yǐ
上慎旃哉  犹来无止    shàng shèn zhān zāi  yóu lái wú zhǐ
陟彼屺兮  瞻望母兮    zhì bǐ qǐ xī  zhān wàng mǔ xī
母曰嗟予季行役 夙夜无寐    mǔ yuē jiē yǔ jì xíng yì  sù yè wú mèi
上慎旃哉  犹来无弃    shàng shèn zhān zāi  yóu lái wú qì
陟彼冈兮  瞻望兄兮    zhì bǐ gāng xī  zhān wàng xiōng xī
兄曰嗟予弟行役 夙夜必偕    xiōng yuē jiē yǔ dì xíng yì  sù yè bì xié
上慎旃哉  犹来无死    shàng shèn zhān zāi  yóu lái wú sǐ




【注 釈】

岵(こ)に陟(のぼ)る

彼(か)の岵(こ)に陟(のぼ)りて 父(ちち)を瞻望(せんばう)す
父は曰(い)へり 嗟(ああ)予(わ)が子よ
役(えき)に行(ゆ)きては 夙夜(しゅくや)已(や)むこと無からん
上(ねが)わくは旃(これ)を慎(つつし)めよ
猶(な)ほ来(きた)りて止(とど)まること無かれ

彼(か)の屺(き)に陟(のぼ)りて 母(はは)を瞻望(せんばう)す
母は曰(い)へり 嗟(ああ)予(わ)が季(き)よ
役(えき)に行(ゆ)きては 夙夜(しゅくや)寐(い)ぬること無からん  
上(ねが)わくは旃(これ)を慎(つつし)めよ
猶(な)ほ来(きた)りて棄(す)つらるること無かれ

彼(か)の岡(をか)に陟(のぼ)りて 兄(せ)を瞻望(せんばう)す
兄(せ)は曰(い)へり 嗟(ああ)予(わ)が弟(おと)よ
役(えき)に行(ゆ)きては 夙夜(しゅくや)必(かなら)ず偕(とも)にせよ  
上(ねが)わくは旃(これ)を慎(つつし)めよ
猶(な)ほ来(きた)りて死すること無かれ


【口語訳】

青山(せいざん)に われよぢ登り ふる里の空を望めば 父の声(こゑ) はろばろ聞(きこ)ゆ
あはれ子よ 戦ひの 場(には)に臨めば 朝夕(てうせき)に 休む日無からん
苦しくも勤め励みて たまゆらも 怠るなかれ

岩山(いはやま)に われよぢ登り ふる里の空を偲べば 母の声(こゑ) やさしく聞(きこ)ゆ
わが為に 君は末子(すゑこ)ぞ 戦ひの 場(には)に在(あ)りては 安らかに 寝る夜(よ)も無からん
心して 身をすこやかに つつがなく 帰り来(こ)よかし

かの岡(をか)に われよぢ登り ふる里を 遠(とほ)く望めば 兄(せ)の君の 声(こゑ)ぞ響ける
わが弟(おと)の君 戦ひの 場(には)に臨めば 戦友(ともがら)と 常に在(あ)れかし
仮初(かりそめ)に 身を振る舞ひて いたづらに 死ぬことなかれ


【陟岵】 zhì hù  陟岵(ちょくこ)草木の茂った青山に登るの意

本作は、出征兵士が、山に登って故郷の空を眺め、家を出る時、父や母や兄が、
それぞれ涙を流して言ったことを、繰り返し思い起こす歌。

【瞻望】 zhān wàng  (远望)はるか遠くを仰ぎ見る
【嗟予子】 jiē yǔ zǐ  ああ予(わ)が子よ。「嗟」は嘆息する声
【行役】 xíng yì  戦争に行く
【无已】 wú yǐ  (没有休息)休む間もない
【夙夜】 sù yè  (日夜)朝から夜まで
【上】 shàng   (尚)希(こいねが)う
【旃】 zhān  (之)これ。「慎旃」は、慎んで之(これ)を

【犹来】 yóu lái  (你还是早回来)それでもなお戻り来るべし
【无止】 wú zhǐ  (不要留恋他乡)(異郷に)止まることなかれ
【屺】 qǐ  (无草木的山)草木のない禿山
【季】 jì  (兄弟中排行最小)末っ子
【无寐】 wú mèi  (没时间睡觉)寝る暇もない
【无弃】 wú qì  (不要抛尸他乡)(異郷で倒れ)果てることのなきように
【无死】 wú sǐ  (不要死在异乡)(異郷で)死するなかれ



「詩経」は、春秋時代(BC770年~BC403年)に成立したとされる作者不詳の四言詩集である。
およそ三百余篇の詩が集められており、風(民謡)雅(宮廷宴歌)頌(祭祀)の三部に分類されている。

本来は詩集だが、武帝の時代に儒教の経典として五経の一つとされたため「詩経」と呼ばれるようになった。
ほとんどは周(BC1046年~BC770年)の時期の作品とされ、詩の多くは男女の恋愛や農作業など古代人の
暮らしぶりを詠ったものや、あるいは兵役の苦しみを訴えた作品など、民衆の素朴な感情が反映されている。


(屈原)


国殇 guó shāng   ()  屈原   

操吴戈兮披犀甲 车错毂兮短兵接    cāo wú gē xī pī xī jiǎ chē cuò gū xī duǎn bīng jiē
旌蔽日兮敌若云 矢交坠兮士争先    jīng bì rì xī dí ruò yún shǐ jiāo zhuì xī shì zhēng xiān
凌余阵兮躐余行 左骖殪兮右刃伤    líng yú zhèn xī liè yú háng zuǒ cān yì xī yòu rèn shāng
霾两轮兮絷四马 援玉枹兮击鸣鼓    mái liǎng lún xī zhí sì mǎ yuán yù fú xī jī míng gǔ
天时怼兮威灵怒 严杀尽兮弃原野    tiān shí duì xī wēi líng nù yán shā jǐn xī qì yuán yě
出不入兮往不反 平原忽兮路超远    chū bù rù xī wǎng bù fǎn píng yuán hū xī lù chāo yuǎn
带长剑兮挟秦弓 首身离兮心不惩    dài cháng jiàn xī xié qín gōng shǒu shēn lí xī xīn bù chéng
诚既勇兮又以武 终刚强兮不可凌    chéng jì yǒng xī yòu yǐ wǔ zhōng gāng qiáng xī bù kě líng
身既死兮神以灵 魂魄毅兮为鬼雄    shēn jì sǐ xī shén yǐ líng hún pò yì xī wèi guǐ xióng



【注 釈】

国殤(こくしゃう)

呉戈(ごか)を操(と)りて 犀甲(さいかふ)を披(まと)ひ 車(くるま)轂(こく)を錯(まじ)えて 短兵(たんへい)接す
旌(はた)日を蔽(おほ)ひて 敵 雲の若(ごと)く 矢は交(こもごも)墜ちて 士(し)先を争ふ

余(よ)陣を凌ぎて 余(よ)行(かう)を躐(ふ)み 左驂(ささん)殪(たふ)れて 右 刃傷(にんじゃう)す
両輪 霾(うず)みて 四馬(しば)を絷(つな)ぎ 玉枹(ぎょくはう)を援(と)りて 鼓を撃ち鳴らす

天 時に怼(うら)みて 威霊(いれい)怒り 厳(はげ)しく殺(さつ)し尽くして 原野に棄つらる

出でては入らず 往(ゆ)きては反(かへ)らず 平原忽(はるか)にして 路(みち)超遠(てうゑん)たり
長剣(ちゃうけん)を帯び 秦弓(しんきゅう)を挟(わきばさ)み 首(かうべ)身離るれども 心は懲(こ)りず

誠に 既に 勇なるのみか 又以って武たらん 終(つひ)に剛強(がうきゃう)にして 凌(しの)ぐ 可(べ)からず
身 既に死すれど 神(しん)以て霊(りゃう)し 魂魄(こんぱく)毅(つよ)くして 鬼雄(きゆう)と為(な)らん


【口語訳】

呉(ご)の矛(ほこ)を操(も)ち 犀(さい)の胸当てに 身を固む
兵車は 轂(こしき)を撃(う)ち合ひ 短兵を持(ぢ)して接戦す

軍旗は 空ゆく日を覆(おほ)ひ 雲のごと 敵の押し寄せる
矢は 入り乱れ落ち 士卒は 先を争ひて進む

我が陣に 敵の迫り来て 我が兵馬(へいば)を蹂躙(じうりん)す
左の副え馬は 地に伏し 右の副え馬は 刃(やいば)に傷つく

兵車の輪は 戦塵にうづまるも 四頭の馬は 繋がりて離れず
珠飾りの撥(ばち)を振るひて 鼓(こ)を打つも
天の時は 我らにそむき 霊(くしび)な力もて 怒りを発す

丈夫(ますらを)は 悉く野に斃(たお)れ 棄てて顧みられず
彼らは進みて退(しりぞ)かず 出で立ちて ふたたび還らず

野は果てなく広く 家路はいよいよ遠し
彼らは剣を帯び 弓を小脇に 掻(か)い挟(はさ)み
首(かうべ)身を離れてさへ 心はいささかも悔いず

彼らは雄々しく 当(まさ)に武士(もののふ)にふさわしき者
己の信ずる処 どこまでも踏み行ひ 如何にも犯しがたし

現身(うつしみ)は 既に死にたへど 心根はとこしえに生く
英霊は いや逞しく 死者たちの かしらとなれり


国殇】 guó shāng     国殤(こくしょう)戦死者を悼む歌

本作は、国のために戦死した英霊を祭る歌。「殤」は、祭る人のない亡魂(ぼうこん)の意

操吴戈兮被犀甲】 cāo wú gē xī pī xī jiǎ     呉の矛を操り犀(さい)の鎧をまとう
短兵接】duǎn bīng jiē    剣と剣とが斬り結ぶ接近戦となる
车错毂】 chē cuò gū     兵車の車軸が互いに触れ合う
旌蔽日】 jīng bì rì      軍旗は天の日を覆う
】 líng     (敵が我が陣を)侵犯する
】 liè     (敵が我が隊列を)踏み越える
左骖殪】 zuǒ cān yì     左の馬車馬が斃(たお)れて死ぬ
霾两轮】 mái liǎng lún     戦車の両輪が(泥に)埋もれて動きがとれない
援玉枹】 yuán yù fú     宝玉でできた太鼓のばちを持つ
天时怼】 tiān shí duì     天の星辰が墜ちて暗くなる
威灵怒】 wēi líng nù     味方の英霊が憤る
出不入兮往不反】 chū bù rù xī wǎng bù fǎn     出征して生きて帰らない
神以灵】 shén yǐ líng     英霊は霊威を示す
鬼雄】 guǐ xióng     傑出した英霊 



屈原  qū yuán   (くつげん)  (BC343~BC277年)
戦国時代の楚の詩人。名は屈平(くつへい)字は原(げん)。
楚の王族に生まれ、楚の懐王の側近として活躍したが、斉(せい)と協力して秦に対抗することを主張して追放され、
放浪の果てに汨羅(べきら)の川に身を投じて終った。五月五日(端午節)は屈原の命日とされている。
楚の民謡を基調とした「楚辞」(そじ)の代表的作者で、のちの文学に大きな影響を与えた。
楚辞に約二十編の詩があり、本作「国殤」(こくしょう)は、その中の「九歌」(きゅうか)の一編。




(劉邦)

(大風歌) (鸿鹄歌)


大风歌
dà fēng gē  (刘邦 liú bāng  

大风起兮云飞扬   dà fēng qǐ xī yún fēi yáng
威加海内兮归故乡   wēi jiā hǎi nèi xī guī gù xiāng
安得猛士兮守四方   ān dé měng shì xī shǒu sì fāng



【注 釈】

大風歌(たいふうのうた)

大風(たいふう)起りて 雲飛揚(ひやう)す 
威は海内(かいだい)に加はりて 故郷に帰る
安(いづ)んぞ 猛士(まうし)を得て 四方を守らしめん 


【口語訳】

大いなる  風の起りて 雲舞ひ立てり
我が威光(ゐくわう) 四海に及び 故郷(くに)に帰る

よき武士(もののふ)を 求め得て
いかで四方(しはう)を 守らしめん


本作は、宿敵項羽を倒し、天下統一した劉邦が、故郷の沛県に凱旋した際に歌ったもの(史記 高祖本紀)




鸿鹄歌 hóng hú gē   (刘邦 liú bāng  

鸿鹄高飞 一举千里   hóng hú gāo fēi yì jǔ qiān lǐ
羽翼已就 横绝四海   yǔ yì yǐ jiù héng jué sì hǎi
横绝四海 又可奈何   héng jué sì hǎi yòu kě nài hé
虽有矰缴 安所施   suī yǒu zēng zhuó jiāng ān suǒ shī



【注 釈】

鴻鵠歌(こうこくのうた)

鴻鵠(こうこく)高く飛びて 一挙に千里
羽翼 已に就(な)りて 四海を横絶(わうぜつ)す
又た奈何(いか)んすべき
繒繳(そうしゃく)有りと雖も
将(は)た 安(いづく)んぞ 施す所あらん  


【口語訳】

彼(か)の鴻鵠は  高く飛び  千里の彼方  天(あま)翔ける
羽翼はすでに  備はりて 今や四海に  羽ばたけり

さても彼(かれ)をば  如何にせん  たとい弓矢の  有りとても
射止むる術(すべ)の  なかりしを


本作は、愛妾、戚氏(せきし)との間に生まれた一人息子、如意の運命を嘆いて歌ったもの(史記 留侯世家)



劉邦 liú bāng  (りゅうほう) (BC247~BC195)
前漢の初代皇帝。在位(BC206~BC195)廟号は高祖。江蘇沛県(はいけん)の人。
BC206年、楚の項羽(項籍)とともに秦を滅ぼして漢王に封ぜられた。
BC202年、項羽を垓下(がいか)の戦いに破って天下を統一、長安を都として漢朝を創始した。




李延年


李延年歌一首   lǐ yán nián gē yī shǒu (汉) 李延年    

北方有佳人    běi fāng yǒu jiā rén
绝世而独立    jué shì ér dú lì
一顾倾人城    yī gù qīng rén chéng
再顾倾人国    zài gù qīng rén guó
宁不知倾城与倾国    níng bù zhī qīng chéng yǔ qīng guó
佳人难再得    jiā rén nán zài dé



【注 釈】

李延年(りえんねん)の歌

北方(ほくはう)に佳人(かじん)有り
世に絶(た)えて 独(ひと)り立つ
一(ひと)たび顧(かへり)みれば 人の城を傾け
再(かさ)ねて顧(かへり)みれば 人の国を傾く
寧(いづ)くんぞ傾城(けいじゃう)と傾国(けいこく)とを知らざらんや
佳人(かじん)再(ふたた)び 得(え)がたし


【口語訳】

北国(きたぐに)に佳人(びじん)あり
この世にたぐひなし
ひと目に城を棄(す)て
ふた目に国も無し
城も惜(を)し 国もまた惜(を)しけれど
佳(よ)き人またとなし


【李延年歌】 lǐ yán nián gē    李延年(りえんねん)の歌。

李延年は、漢の武帝のとき、雅楽担当官に任ぜられ「楽府」という役所を設立した。
この歌は、美人の妹を皇帝の妾に売り込む目的で作ったもの。
後に絶世の美女を指して「傾国」と呼ぶようになるのは、この歌に由来する。

【独立】 dú lì    その美しさは際立っている
【宁不知】 níng bù zhī    まさか(傾城、傾国の恐ろしさを)知らぬ訳ではあるまいに



李延年  lǐ yán nián (りえんねん)(生没年不詳)
漢の武帝に仕えた楽人。中山(ちゅうざん)郡(河北省)の人。
妹が武帝に気に入られ寵愛されると、李延年は協律都尉(きょうりつとい 雅楽担当官)に任ぜられた。
武帝はその後、李延年の妹を夫人として迎えた。李夫人は、のちに武帝が秋風辞の中で
「佳人を懐(おも)うて忘るる能はず」と歌ったその佳人である。




(李陵)


别歌 bié gē  (汉) 李陵    

径万里兮度沙漠    jìng wàn lǐ xī dù shā mò
为君将兮奋匈奴    wèi jūn jiāng xī fèn xiōng nú
路穷绝兮矢刃摧    lù qióng jué xī shǐ rèn cuī
士众灭兮名已隤     shì zhòng miè xī míng yǐ tuí
老母已死    lǎo mǔ yǐ sǐ
虽欲报恩将安归    suī yù bào ēn jiāng ān guī



【注 釈】

別れの歌

万里(ばんり)を径(よこぎ)り 沙漠を度(わた)る
君の将(しゃう)と為(な)りて 匈奴(きょうど)と奮(たたか)ふ
路(みち)窮(きはま)り 絶えて 矢刃(しじん)は摧(くだ)け
士衆(ばんそつ)滅びて わが名 已(すで)に隤(お)つ
老母 已(すで)に死せり
恩に報(むく)いんと欲(ほっ)すと雖(いへど) も  
将(は)た 安(いづ)くにか 帰(かへ)らん


【奋匈奴】 fèn xiōng nú  (奋力作战)匈奴と激しく戦う
【路穷绝】 lù qióng jué  (生路断绝)万策が尽き果てる
【士众】 shì zhòng  将兵たち
【灭】 miè  死傷する
【名已隤】 míng yǐ tuí  我が名声も地に堕ちた
【将安归】 jiāng ān guī  いったいどこに帰る場所があるというのか(どこにもない)

前漢の武将・李陵(りりょう)は、軽騎兵を率いて砂漠に転戦したが、力尽きて匈奴に投降し、
ついにかの地で妻子までもうけた。

一方、同じく匈奴に降伏して捕らえられた蘇武(そぶ)は、十九年間の間、頑として節を守り、
匈奴の言いなりにはならなかった。

やがて漢と匈奴は和睦し、蘇武は晴れて帰国することになったが、李陵は帰るに帰れない。
本作は、その送別の宴で、李陵が詠った別れの歌である。



李陵 lǐ líng (りりょう)(~BC74年)
前漢の武将。隴西(ろうせい 甘粛省)の人。武帝の時、匈奴と戦い、敗れて投降す。
単于(ぜんう)に認められて軍事顧問に封ぜられ、二十余年後に病没。




(劉徹)


秋风辞  qiū fēng cí  (汉) 刘彻 (武帝)  

秋风起兮白云飞    qiū fēng qǐ xī bái yún fēi
草木黄落兮雁南归    cǎo mù huáng luò xī yàn nán guī
兰有秀兮菊有芳    lán yǒu xiù xī jú yǒu fāng
怀佳人兮不能忘    huái jiā rén xī bù néng wàng
泛楼船兮济汾河    fàn lóu chuán xī jì fén hé
横中流兮扬素波    héng zhōng liú xī yáng sù bō
箫鼓鸣兮发棹歌    xiāo gǔ míng xī fā zhào gē
欢乐极兮哀情多    huān lè jí xī āi qíng duō
少壮几时兮奈老何    shào zhuàng jǐ shí xī nài lǎo hé




【注 釈】

秋風(しうふう)の辞(じ)

秋風(しうふう)起こりて 白雲(はくうん)飛び
草木(さうもく)黃落(くわうらく)して 雁(かり)南に帰る
蘭(らん)に秀(しう)有り 菊に芳(はう)有り
佳人(よきひと)を懐(おも)ひて 忘るる能(あた)はず

楼船(ろうせん)を汎(う)かべて 汾河(ふんが)を済(わた)り
中流(ちうりう)に横たへ 素波(そは)を揚(あ)ぐ
簫鼓(せうこ)鳴りて 棹歌(たうか)発す

歓楽(くわんらく)極(きは)まりて 哀情(あいじゃう)多(おほ)し
少壮(せうさう)幾時(いくとき)ぞ 老いを奈何(いかん)せん


【口語訳】

秋風(あきかぜ)起(た)ちて 雲(くも)かける 
草木(くさき)の黄葉(もみぢ)散りそめて 南をさすや雁(かり)の列(つら)

蘭菊(らんぎく)の 花のうつくし 香(かほ)りよき 咲くる姿を見るからに
過ぎにし昔(かみ)の佳人(あてびと)の 美(は)しき面輪(おもわ)ぞ忘られぬ

いま河中(かはなか)に船浮(う)けて 汾河(ふんが)の水の白波と たはむれ歌ふ舟(ふな)うたの
簫鼓(せうこ)の声(こゑ)とひびき合ひ うたた楽しき夜(よ)の宴(うたげ)

歓楽(くわんらく)すでに極(きは)まりて 秋の余情(よじゃう)か悲しみの
そぞろに胸をかすむかな 

ああ人の世にわれ生きて 歳の盛りはいく時ぞ げにこの老いを いかにせむ


【秋风辞】 qiū fēng cí   秋風(しゅうふう)の辞(じ)

本作は、作者(武帝)が在位してまもないBC113年、河東地方(山西省)に行幸した際、汾水に楼船を浮かべ、
船中で大宴会を催し、漢王朝の勢威を誇示し、喜びのままに作った詩。

その一方、宴のさなかに、この享楽にも終わりがあることを思い、そこから人生にも終末があることを思って
悲哀を生じるという「歓楽きわまって哀情多し」の一節は、実に人情の機微を喝破した名句とされている。

【佳人】 jiā rén  (想求得的贤才)賢臣
【楼船】 lóu chuán  (上面建造楼的大船)二階づくりの、やぐらのある大きな船。昔、遊覧や戦争に用いた

【汾河】 fén hé  中国の山西省を南北に流れる大河で、黄河の支流。別名「汾水」
【扬素波】 yáng sù bō  (激起白色波浪)白い波を立てる
【棹歌】 zhào gē  (船工行船时所唱的歌)舟歌



劉徹 liú chè (りゅうてつ 漢の武帝)(BC156~BC87年)
前漢(BC202~8年)第七代皇帝(在位 BC141~BC87年)廟号は世宗(せそう)高祖劉邦の曽孫。

儒教を重んじてこれを国教と定め、官吏にも儒教の素養のある人材を積極的に登用し、中央集権体制を強化。
また匈奴を駆逐、領域を拡大し、東西交渉を盛んにするなど内治外征につとめ、大いに国威を宣揚した。
しかし、長期に渡る外征とそれにともなう増税などで国内は疲弊、社会不安が増長した。
晩年には農民反乱が相次ぎ、人心不穏のうちに没した。