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    漢詩百選

【唐詩二】
 王之渙  岑参  李商隠  李紳  柳宗元  王翰  韓愈 顧況 荊軻 项籍 王勃


(王之渙)

(登鸛鵲楼) (涼州詞)


登鹳雀楼    (唐)  王之涣  

白日依山尽 bái rì yī shān jìn
黄河入海流 huáng hé rù hǎi liú
欲穷千里目 yù qióng qiān lǐ mù
更上一层楼 gèng shàng yì céng lóu




【注 釈】

鸛鵲楼(くわんじゃくろう)に登る

白日(はくじつ)山に依(よ)りて尽き
黄河(くわうが)海に入りて流る
千里の目を窮(きは)めんと欲して
更に上(のぼ)る 一層の楼(ろう)


【口語訳】

白日(はくじつ)山の端(は)に尽き 
黄河(くわうが)にごれるままに 海に落(お)つ
さらに眺望(てうぼう)きわめんと 
われ石磴(せきたう)を上(のぼ)りゆく


鹳雀楼】 guàn què lóu  鸛鵲楼 (かんじゃくろう)
山西省永済市の西南城上にある三階建ての高殿

穷千里目】 qióng qiān lǐ mù  遥か彼方まで見極める

「千里の遠きを見たければ、より高い所に登らねばならない」これは王之渙の生き方、人生哲学でもあった。




凉州词  liáng zhōu cí   (唐)  王之涣    

黄河远上白云间 huáng hé yuǎn shàng bái yún jiān
一片孤城万仞山 yí piàn gū chéng wàn rèn shān
羌笛何须怨杨柳 qiāng dí hé xū yuàn yáng liǔ
春风不度玉门关 chūn fēng bù dù yù mén guān




【注 釈】

涼州詞(りゃうしうし)

黄河(くわうが)遠(とほ)く上(のぼ)る白雲(はくうん)の間(かん)
一片(いっぺん)の弧城(こじゃう)万仭 (ばんじん) の山(やま)

羌笛 (きゃうてき) 何ぞ須 (もち) ひん楊柳(やうりう)を怨(うら)むを
春風(しゅんふう)度 (わた) らず玉門関(ぎょくもんくわん)


【口語訳】

黄河(くわうが)を上(のぼ)れば 白雲(はくうん)の 果て無き彼方(かなた)
孤城(こじゃう)侘(わび)しく 万丈(ばんじゃう)の 山(やま)聳(そび)えたり

手向(たむ)けに手折(たを)る 楊柳(やうりう)の 胡笛(こてき)の調(しら)べ無くもがな
はるか異郷(いきゃう)の玉門関(ぎょくもんくわん) 春の息吹(いぶき)も わたり来(こ)ず


【凉州】 liáng zhōu    涼州(りょうしゅう)現在の甘粛省河西地区。
【万仞】 wàn rèn    きわめて高い。
【羌笛】 qiāng dí    異民族の吹きならす笛。

【杨柳】 yáng liǔ    折楊柳(せつようりゅう)と呼ばれる別れの曲。
楊柳(ようりゅう)は、ヤナギ科ヤナギ属の樹木。
旅立ちの時には、楊柳の一枝を折って手渡し無事を祈る習慣があった。

【何须怨杨柳】    怨めしげに吹き鳴らす必要があろうか。
【玉门关】  yù mén guān    玉門関(ぎょくもんかん)敦煌の西にある国境の関所。

【春风不度】    柳を芽吹かせる春風も、ここ玉門関の辺境までは届いて来ないからだ。

交代兵(春)は、なかなかやって来ず、帰還の見込みも立たない。
さいはての辺境に出征した兵士の孤絶した心境を詠ったもの。



王之渙 wáng zhī huàn   (おうしかん)   (688~742年)
盛唐の詩人。字は季陵 (きりょう)山西運城の人。
岑参 (しんじん) 王昌齢(おうしょうれい) 高適(こうせき)らと肩を並べ、
辺境の自然をうたった辺塞詩(へんさいし)にすぐれる。
現存する詩はわずか六首だが「鸛鵲楼に登る」「涼州詞」は唐詩中の絶唱とされる。




(岑参)

(逢入京使) (磧中作) (見渭水思) (李主簿) (胡笳歌)   (山房春事)


逢入京使
féng rù jīng shǐ   (唐) 岑参    

故园东望路漫漫 gù yuán dōng wàng lù màn màn
双袖龙钟泪不干 shuāng xiù lóng zhōng lèi bú gān
马上相逢无纸笔 mǎ shàng xiāng féng wú zhǐ bǐ
凭君传语报平安 píng jūn chuán yǔ bào píng ān




【注 釈】

京(けい)に入る使ひに逢ふ

故園(こゑん)東に望めば 路(みち)漫漫(まんまん)
双袖(さうしう)龍鐘(りょうしょう)として 涙 乾(かは)かず
馬上(ばじゃう)相逢(あ)うて 紙筆(しひつ)無く
君に憑(よ)り 伝語(でんご)して 平安を 報ぜん


【口語訳】

ふるさとのみち いよよはるかに
わがもろ袖の かわくひまなし
馬上(ばじゃう)きみに逢ひ 紙筆のなければ
人には告げよ われつつがなしと


【逢入京使】 féng rù jīng shǐ     都(長安)への使いに出逢う
【故园】 gù yuán   作者の家族のいる長安(陝西省西安市)を指す
【龙钟】 lóng zhōng   (涕泪淋漓)涙にくれるさま

作者は、都から何万里も離れた西域へ向けて遠く長い旅の途上にあった。
ふと都の長安に向かう使者と出逢い、一層つのる望郷の念を詠ったもの。



碛中作 qì zhōng zuò   (唐) 岑参    

走马西来欲到天 zǒu mǎ xī lái yù dào tiān
离家见月两回圆 lí jiā jiàn yuè liǎng huí yuán
今夜不知何处宿 jīn yè bù zhī hé chù sù
平沙万里绝人烟 píng shā wàn lǐ jué rén yān




【注 釈】

磧中(せきちゅう)の作

馬を走らせて 西に来(きた)れば 天に到らんと欲す
家を離れて 月の両回(りゃうくわい)円(まどか)なるを 見る
今夜知らず 何(いづ)れの処にか 宿(しゅく)せん
平沙萬里(へいさばんり)人烟(じんえん)を 絶(た)つ


【口語訳】

西のかた 地平の涯(はて)をさしながら
ひたすら駒(こま)をかけはしる
かき数(かぞ)ふれば 家を出て
ふたたびめぐる 望月(もちづき)の
影をわれ見き 途すがら
見渡すかぎり 果(はて)もなく
続く砂原 人絶えて 今宵も宿のあてぞなき


碛中作】 qì zhōng zuò     磧中作(せきちゅうさく)砂漠の中で作った歌
平沙】 píng shā    砂原

本作は、従軍西征した作者が、砂漠の中を通過したおりの、心細く不安な心情を詠ったもの。




见渭水思泰川 jiàn wèi shuǐ sī qín chuān  (唐)  吟参  

渭水东流去  wèi shuǐ dōng liú qù      
何时到雍州  hé shí dào yōng zhōu      
凭添两行泪  píng tiān liǎng háng lèi      
寄向故园流  jì xiàng gù yuán liú




【注 釈】

渭水(ゐすい)を見て秦川(しんせん)を思ふ

渭水(ゐすい)東に流れ去る
いづれの時か雍州(ようしゅう)に到らん
憑(よ)って両行(りゃうかう)の涙を添へて
寄せて故園(こゑん)に向かって流さむ


【口語訳】

渭水(いすい)の水は 東(ひがし)して わが雍州(ようしゅう)の方(かた)をさす
そのふる里よ いつかまた 帰りゆく日の ありやなし
頬(ほほ)を伝はる この涙 流れの水に そそぐゆゑ
せめては運べ ふる里へ


见渭水思秦川】 jiàn wèi shuǐ sī qín chuān     渭水(いすい)を見て秦川(しんせん)を思う      
渭水】 wèi shuǐ     川の名。 甘粛省中部に源を発し、陝西省東端で黄河に注ぐ黄河最大の支流   
秦川】 qín chuān     長安(現在の陝西省西安市)一帯の地
   
雍州】 yōng zhōu     長安の古名   
凭添】 píng tiān     (川の流れに)託する

本作は、作者が西域へ赴く途中、都のある秦川へと流れゆく渭水(いすい)を見て
長年住み慣れた自宅のある長安を懐かしんで詠んだもの。




玉关寄长安李主簿  yù guān jì cháng ān lǐ zhǔ bó (唐)岑参    

东去长安万里余  dōng qù cháng ān wàn lǐ yú      
故人何惜一行书  gù rén hé xī yì háng shū      
玉关西望堪肠断  yù guān xī wàng kān cháng duàn      
况复明朝是岁除  kuàng fù míng zhāo shì suì chú



【注 釈】

玉関(ぎょくくわん)にて長安(ちゃうあん)の李主簿(りしゅぼ)に寄す 

東(ひがし)のかた 長安(ちゃうあん)を去ること万里余(ばんりよ)
故人(こじん)那(なん)ぞ惜(を)しむ 一行(いっかう)の書(しょ)
玉関(ぎょくくわん)西に望(のぞ)めば 腸(はらわた)断(た)つに堪(た)へたり
況(いは)んや復(ま)た明朝(みゃうてう)は是(こ)れ歳除(さいぢょ)なるをや


【口語訳】

長安(ちゃうあん)の都を遠(とほ)く千万里 玉門関(ぎょくもんくわん)にあるわれに 
なにゆゑ人はつれなくて 書(ふみ)の一つもめぐまざる

雲立ちへだつ西のかた 故郷(こきゃう)の空をながむれば われ断腸(だんちゃう)の思ひをす
ましてや 明日は大三十日(おほみそか)年の名残を告ぐる夜ぞ


【故人】 gù rén    昔なじみの友人。李主簿をさす。

本作は、作者が遠征の途中、玉門関から長安にいる主簿の李某に送り届け、その音信なきを責めたもの。
主簿は官名で、記録や文書をつかさどる下級役人。書記官にあたる。




胡笳歌送颜真卿使赴河陇   (唐)  岑参    
hú jiā gē sòng yán zhēn qīng shǐ fù hé lǒng

君不闻胡笳声最悲  jūn bù wén hú jiā shēng zuì bēi      
紫髯绿眼胡人吹  zǐ rán lǜ yǎn hú rén chuī      
吹之一曲犹未了  chuī zhī yì qǔ yóu wèi liǎo      
愁杀楼兰征戍儿  chóu shā lóu lán zhēng shù ér



【注 釈】

胡笳(こか)の歌 顏真卿(がんしんけい)の使(つか)いして 河隴(かろう)に赴(おもむ)くを送る

君 聞かずや 胡笳(こか)の声(こゑ) 最も悲(かな)しきを 
紫髯綠眼(しぜんりょくがん)の 胡人(こじん) 吹く 
之(これ)を吹いて 一曲 猶(な)ほ 未(いま)だ了(をは)らざるに 
愁殺(しうさつ)す 楼蘭(ろうらん) 征戍(せいじゅ)の兒(じ)


【口語訳】

君しらずや 蘆笛(あしぶえ)の音(ね)いと悲しきを
紫の髯(ひげ)碧(あお)き眼をせる 胡人(こじん)の吹くよ
吹きて一曲(ひとふし) なほ了(をは)らざるに
愁(うれ)ひに堪(た)へぬは 楼蘭(ろうらん)の防人(さきもり)たちよ


【胡笳】 hú jiā  胡人の吹く蘆笛
【颜真卿】 yán zhēn qīng  顔真卿(がんしんけい 709~785年)
玄宗・粛宗の側近を務めた政治家。安禄山の反乱を討伐するのに功績があった。

本作は、748年、勅命により監察史として西域の河隴に赴くことになった顔真卿を
長安にて送別する歌。異国情緒とともに、兵士たちの哀愁を詠った辺塞詩でもある。

【河陇】 hé lǒng  河隴(かろう)河西隴右(かせいろうゆう 甘粛省)一帯
【愁杀】 chóu shā  ひどく悲しませる
【楼兰】 lóu lán  楼蘭(ろうらん)西域(現在の新疆ウイグル自治区)の地名。
当時はウイグル系民族の住地であったため、碧眼の胡人と形容されている。
【征戍儿】 zhēng shù ér  西域の守備兵たち




山房春事 shān fáng chūn shì 二首其二 (唐)岑参  

梁园日暮乱飞鸦  liáng yuán rì mù luàn fēi yā      
极目萧条两三家  jí mù xiāo tiáo liǎng sān jiā      
庭树不知人去尽  tíng shù bù zhī rén qù jìn     
春来还发旧时花  chūn lái huán fā jiù shí huā



【注 釈】

山房(さんばう)の春事(しゅんじ)
           
梁園(りゃうゑん)日暮(にちぼ) 乱れ飛ぶ鴉(からす)
極目(きょくもく)蕭条(せうでう)たり 両三家(りゃうさんか)
庭樹(ていじゅ)は知らず 人の去り尽(つ)くるを
春来(しゅんらい) 還(ま)た発(ひら)く 旧時(きうじ)の花


【口語訳】  「訳詩: 荒川太郎(踏花帖)」

廃園日暮れて 鴉(からす)飛びかひ
眺望(ながめ)もさびし 家 二(ふた)つ三(み)つ
庭樹(にはき)は 知らず 諸人(もろびと)去りしを
めぐれる春に 昔時(いにしへ)の花


【山房春事】 shān fáng chūn shì   山房での春のもの思い。山房は、山寺(梁園の廃墟に建てられた寺)の一室の意

芸術を愛し、善美を尽くした梁の孝王が築いた庭園、その廃墟を訪れた時の感慨を詠ったもの。
繁栄を誇った園は、今は荒れ寺となり、見渡す限りもの淋しく、唯だ二三軒の民家があるのみ。
その荒廃を知らぬげに春の花を咲かせる自然の無情を嘆く。

【梁园】 liáng yuán  梁園(りょうえん)漢代に、文帝の子、梁の孝王が築いた園の名、河南省東部、商丘の東にある
【极目】 jí mù  目の届く限り
【萧条】 xiāo tiáo  もの寂しいさま
【旧时】 jiù shí  昔と変わらない(花)



岑参 cén shēn   (しんじん)  (715~770年)
盛唐の詩人。湖北江陵(こうりょう)の人。
西域の節度使(軍政長官)として辺境に滞在した体験から、辺境の風物を多くうたう。
辺塞(へんさい)詩人として高適(こうてき)とともに「高岑」と並び称される。
著作に詩集「岑嘉州(しんかしゅう)集」(七巻)




(李商隠)

(楽遊原) (落花)    (嫦娥)


乐游原
lè yóu yuán   (唐) 李商隐    

向晚意不适 xiàng wǎn yì bú shì
驱车登古原 qū chē dēng gǔ yuán
夕阳无限好 xī yáng wú xiàn hǎo
只是近黄昏 zhǐ shì jìn huáng hūn




【注 釈】 

楽遊原(らくいうげん)

晩(くれ)に向(なんな)んとして 意(こころ)適(かな)はず
車を駆(か)りて 古原(こげん)に登る
夕陽(せきやう) 限り無く好(よ)し
只(ただ)是れ 黄昏(くわうこん)に近し


【口語訳】

日も暮れ近くなりたるに こころ沈みて楽しまず
車を駆りて 広野原 丘を登れば 暮れなづむ
夕陽の照りのかがやきて みる物すべて目にたのし
なれども あはれこの眺望(ながめ)
ひたひた 迫(せ)りつむ  黄昏(たそがれ)に 忽ち紛れて消えんとす


乐游原】 lè yóu yuán     長安の東南にある行楽の地
意不适】 yì bú shì     気分がすぐれない
近黄昏】 jìn huáng hūn     夕暮れに間近い(唐の世も是と同じとの意)

楽遊原は、古く漢の時代から幾多の王朝の興亡を見てきた高台であった。
そこで沈みゆく夕日を見た作者の名状しがたい不安と焦燥の思いを詠ったもの。




落花  luò huā (唐) 李商隐    

高阁客竟去   gāo gé kè jìng qù
小园花乱飞   xiǎo yuán huā luàn fēi
参差连曲陌   cēn cī lián qǔ mò
迢递送斜晖   tiáo dì sòng xié huī
肠断未忍扫   cháng duàn wèi rěn sǎo
眼穿仍欲归   yǎn chuān réng yù guī
芳心向春尽   fāng xīn xiàng chūn jìn
所得是沾衣   suǒ dé shì zhān yī



【注 釈】

落花(らくくわ)

高閣(かうかく)客(かく)竟(つひ)に去り
小園(せうゑん)花(はな)乱(みだ)れ飛(と)ぶ
参差(しんし)として 曲陌(きょくはく)に連(つら)なり
迢逓(てうてい)として斜暉(しゃき)を送る

腸(はらわた)断(た)えて 未(いま)だ掃(はら)ふに忍びず
眼(まなこ)穿(うが)ちて  仍(な)ほ 帰らんことを欲す
芳心(はうしん)春の尽(つ)くるに向かひ 
得(う)る所は 是れ 衣を沾(ぬ)らすのみ


【口語訳】

高楼(かうろう)に 客(かく)つひに去り
小園(せうゑん)に 花(はな)舞ひ落つる
はらはらと 散りて小路(こみち)を いく曲(ま)がり
ひらひらと 舞ひて入り日を 見おくりつ

はらわたの 千切(ちぎ)る思ひに 花 掃(はら)ふに堪(た)へず
ひたすらに 眼(まなこ)こらして 君がまた 帰(かへ)るを望む
ゆく春を 恋(こ)がる心も 尽き果てて
残るはただ 袖を濡(うるほ)す 涙(なみだ)のみ


【参差】 cēn cī   (错落不齐的样子)花が相継いで散る
【曲陌】 qǔ mò  (曲折的小径)曲がりくねった小路
【迢递】 tiáo dì  (高远)遠く遥かに
【斜晖】 xié huī  (夕阳)夕日
【芳心】 fāng xīn  (怜爱花的人的心境)春を愛でる心

客がみな帰ってしまった後の淋しさ、そして去りゆく春を惜しむ心を、
舞い落ちる花に託して、哀惜の情を込めて詠ったもの。




嫦娥 cháng é (唐) 李商隐    
     
云母屏风烛影深 yún mǔ píng fēng zhú yǐng shēn
长河渐落晓星沉 cháng hé jiàn luò xiǎo xīng chén
嫦娥应悔偷灵药 cháng é yìng huǐ tōu líng yào
碧海青天夜夜心

bì hǎi qīng tiān yè yè xīn



【注 釈】

常娥(じゃうが)

雲母(うんも)の屏風(びゃうぶ) 燭影(しょくえい)深く
長河(ちゃうが)漸(やうや)く落ちて 暁星(げうせい)沈む
嫦娥(じゃうが)応(まさ)に 悔ゆべし 霊薬(れいやく)を偸(ぬす)むを
碧海(へきかい) 青天 夜々(やや)の心

【口語訳】

雲母(きらら)の屏風 燈火(ともしび)の影深く
銀河しだいに傾き 暁(あかつき)の星 消滅す
嫦娥(じゃうが)正に霊薬を偸(ぬす)み服せしを 悔ゆるらむ 
天上の海原に 夜ごとに浮かぶ 己(おの)が心に 悔ゆるらむ


【嫦娥】 cháng é   嫦娥(じょうが)「淮南子(えなんじ)」に見える伝説上の女性、
弓の名人であった夫の羿(げい)が西王母からもらった不死の薬を盗んで飲み、月に逃げて月の精になったという。
なお魯迅に、この神話を題材とした「奔月(ほんげつ)」という短編小説がある。

【云母屏风】 yún mǔ píng fēng  雲母を張った屏風
【烛影】 zhú yǐng  屏風に反射したろうそくの光の影
【长河】 cháng hé  天の川
【晓星】 xiǎo xīng  明け方の星

裏切られた愛の恨みを古い神話に託して詠った歌。
半透明の雲母を一面に貼りつめた屏風に、ろうそくの影が深々とうつっている。

眠られぬ独り寝の床で、その揺らめく影を眺めているうちに、夜は何時しか白み染め、
天の川は次第に傾いて光を落とし、薄明かりのなかに、暁の星も沈んで消えてゆく。

人の世を去り、月の精となった嫦娥は、霊薬を盗み飲んだことを、きっと悔やんでいるだろう。
青々と広がる天空の海原を眺めつつ、夜ごと傷心しているに違いない。

私を裏切った懐かしき恋人よ、君もまた身分高き人のもとに、身を寄せたことを悔いながら
寒々とした夜を過ごしているのではなかろうか。



李商隐  lǐ shāng yǐn  (りしょういん)  (812~858年)
晩唐の詩人。字は義山(ぎさん)河南省沁陽(しんよう)の人。
詩は寓意に富み、難解だが風格を備え、宋代の西崑体(せいこんたい)の祖といわれる。
また典故を多用して修辞に技巧を凝らす駢文 (べんぶん) の名手としても知られる。
著作に詩集「樊南(はんなん)文集」(八巻)




(李紳)

(憫農一) (憫農二)


悯农
mǐn nóng 二首其一 (唐) 李绅    

春种一粒粟 chūn zhòng yí lì sù
秋收万颗子 qiū shōu wàn kē zǐ
四海无闲田 sì hǎi wú xián tián
农夫犹饿死 nóng fū yóu è sǐ



【注 釈】

農(のう)を憫(あは)れむ

春に蒔く 一粒の粟(もみ)
秋に収む 万粒(ばんか)の子(み)
四海に 閑田(かんでん)無きも
なお飢え逝(ゆ)く農夫あり


【口語訳】

春まくひと粒の粟(もみ)
秋たわわ
見渡す限りの田なれど 
百姓 年中ひもじ


【悯农】 mǐn nóng    農民を憐れむ
【四海无闲田】 sì hǎi wú xián tián    天下に休耕田はない

春に一粒のもみを播くと 秋には万もの実がなる。どこにも遊ばせている田は無い。
それでもなお、農民は餓死してしまう。
それは彼らが収穫した稲のほとんどを、役人が奪ってしまうからだと糾弾している。




悯农 mǐn nóng 二首其二 (唐) 李绅    

锄禾日当午 chú hé rì dāng wǔ
汗滴禾下土 hàn dī hé xià tǔ
谁知盘中餐 shuí zhī pán zhōng cān
粒粒皆辛苦 lì lì jiē xīn kǔ




【注 釈】
 
農を 憫(あはれ)む

禾(か)を鋤(す)きて 日(ひ)午(ご)に当(あ)たり
汗(あせ)は 禾(か)の下(した)の 土(つち)に 滴(したた)る
誰(たれ)か 知らん 盤中(ばんちう)の餐(さん)
粒粒(りふりふ)皆な 辛苦(しんく)なるを


【口語訳】

日照(ひで)る畑に 立つ田子の 噴き出る汗は地に満ちつ
辛苦の汗の結晶(たまもの)が 米一粒となれるをば
夕食(ゆふげ)につどふ世の人の 誰かは知らむ よも知らじ


】 hé     穀物
日当午】 rì dāng wǔ     ちょうど昼時
盘中餐】 pán zhōng cān     食器の中の食物
皆辛苦】 jiē xīn kǔ     皆苦労の結晶だ

日頃何気なく食べている飯の一粒一粒は、実は農民の辛苦の結晶なのだという教訓の詩。



李紳  lǐ shēn   (りしん)  (772~846年)
中唐の詩人、政治家。字は公垂(こうすい)浙江省湖州(こしゅう)の人。
807年、科挙に及第、中書侍郎(中央の政務次官)、節度使(地方長官)などを歴任した。
詩は、農村の暮らしや人々を温かい目でうたう作品が多く、憫農(びんのう)詩人と呼ばれる。
「憫農」は、百姓の労苦をうたい、その刻苦勉励ぶりを称えた作品で、名句「粒粒辛苦」の語源となった。
著作に詩集「追昔遊(おうせきゆう)集」(三巻)




(柳宗元)

(江雪) (漁翁)


江雪
jiāng xuě    (唐)  柳宗元    

千山鸟飞绝 qiān shān niǎo fēi jué
万径人踪灭 wàn jìng rén zōng miè
孤舟蓑笠翁 gū zhōu suō lì wēng
独钓寒江雪 dú diào hán jiāng xuě



【注 釈】
 
江雪(かうせつ)

千山(せんざん)鳥 飛ぶこと 絶(た)え
万径(ばんけい)人蹤(じんしょう)滅(めつ)す
孤舟(こしう)簑笠(さりふ)の翁(をう)
独(ひと)り 釣る 寒江(かんかう)の雪


【口語訳】

河の流れのひとすぢに 野山は雪に掩(おほ)はれて
とぶ鳥影も 人影も 絶えてわびしき 冬景色
蓑(みの)きし翁(おきな) 舟浮(う)けて
静かにひとり 釣りを垂(た)る


万径】 wàn jìng      すべての道
人踪灭】 rén zōng miè     人影は無い
寒江】 hán jiāng     寒々とした川

作者は、21歳の若さで進士に及第、官途についたものの、政変により幾度も
地方に左遷されるなど晩年は不遇であった。

本作で描かれる、寒江に舟を浮かべて、じっと釣り糸を垂れている漁翁こそ、
実は孤独や失意に耐えて生きる作者自身の姿を表している。




渔翁  yú wēng  (唐)柳宗元    

渔翁夜傍西岩宿   yú wēng yè bàng xī yán sù
晓汲清湘燃楚竹   xiǎo jí qīng xiāng rán chǔ zhú
烟销日出不见人   yān xiāo rì chū bú jiàn rén
欸乃一声山水绿   ǎi nǎi yì shēng shān shuǐ lǜ
回看天际下中流   huí kàn tiān jì xià zhōng liú
岩上无心云相逐   yán shàng wú xīn yún xiāng zhú



【注 釈】

漁翁(ぎょをう) 

魚翁(ぎょをう)夜(よる)西巌(せいがん)に傍(そ)ひて宿(しゅく)し
曉(あかつき)に 清湘(せいしゃう)を汲(く)み 楚竹(そちく)を燃(た)く
煙(もや)銷(き)え 日(ひ)出(い)でて 人を見ず

欸乃(あいだい)一聲(いっせい) 山水(さんすい)緑(みどり)なり
天際(てんさい)を廻看(くわいかん)して中流(ちうりう)を下(くだ)れば
巌上(がんじゃう)無心(むしん)に雲(くも)相(あ)ひ逐(お)ふ


【口語訳】

漁士(あま)の翁(おきな)は 夜もふけて 西の岸辺(きしべ)に 舟泊(は)てつ
明くれば掬(きく)ぶ 江(かは)の水(みづ) 楚竹(そちく)を燃(た)きて朝支度(あさじたく)

靄(もや)晴れて 日の出となれど 今やはや あたりに人の影を見ず 
舟歌(ふなうた)一声 漕ぎ出せば 山はみどりに 水(みづ)青(あを)し 

ゆたけき江(かは)の 水脈(みを)に乗り 舟はしだいに下(くだ)りゆく
漕ぎ出し方を 見かへれば さながら後(あと)を慕ふごと 徐(しづ)かに 雲の流れたり


【渔翁】 yú wēng    漁師の爺さん。

本作は、淡々たる漁父の暮らしを羨む気持ちを詠ったもの。
作者は、自然と一体となって暮らすことが、人生の最終的な理想の姿だと考えている。

【清湘】 qīng xiāng    清らかな湘江(しょうこう)の流れ。湘江は、湖南省を貫流し洞庭湖に注ぐ大河
【楚竹】 chǔ zhú    (湖南の楚国に多い)篠竹(しのだけ)
【欸乃】 ǎi nǎi     舟歌。舟をこぐ時のかけ声



柳宗元 liǔ zōng yuán   (りゅうそうげん)   (773~819年)
中唐の詩人。字は子厚(しほう)山西省永済(えいさい)の人。
唐宋八大家のひとり。韓愈(かんゆ)とともに古文復興につとめ、自然詩を得意とした。
著作に詩集「柳河東(りゅうかとう)集」(四十五巻)




(王翰)


涼州詞  liáng zhōu cí  (唐)  王翰    

葡萄美酒夜光杯 pú táo měi jiǔ yè guāng bēi
欲饮琵琶马上催 yù yǐn pí pá mǎ shàng cuī
醉卧沙场君莫笑 zuì wò shā chǎng jūn mò xiào
古来征战几人回 gǔ lái zhēng zhàn jǐ rén huí




【注 釈】

涼州詞(りゃうしうし)

葡萄(ぶだう)の美酒(びしゅ) 夜光(やくわう)の杯(はい)
飲まんと欲して 琵琶(びは)馬上に 催(もよほ)す
醉ひて 沙場(しゃぢゃう)に臥(ふ)す 君 笑ふ莫(なか)れ
古来 征戦(せいせん)幾人か回(かへ)る


【口語訳】

かぐはしき葡萄の美酒 盛るはこれ夜光の杯
徐(おもむ)ろに楽しみ来り 歌もて口ずさむころ
誰(たれ)弾くや 馬上に琵琶の声あり
聞きほれてまた 杯を重ぬる

こころよきかな この酔ひ心地
酔ふほどに 沙上に臥(ふ)すや
これ 戦場に倒るるがごとし

君 笑ふことなかれ
いにしへより 戦ひに向かいし者
還りたるは 果たして幾人かある


涼州】 liáng zhōu    地名。甘粛省武威市
】 cuī  促す。飲酒に興を添える
征战】 zhēng zhàn    出征。戦に行くこと
】 huí    戦場より戻って来る

明日をも知れぬ命、その過酷な運命を紛らわそうと、束の間の歓楽に酔いしれる兵士たちの悲哀を詠う。



王翰 wáng hàn   (おうかん)   (687~726年)
盛唐の詩人。字は子羽(しう)山西太原の人。
710年、科挙に及第し中央に召されたが、性格が豪放で酒色にふけったため、地方に左遷され失意のうちに没した。
残されている詩はわずか十四編だが「葡萄美酒夜光杯」で始る「涼州詞」は唐代七言絶句中の傑作とされる。




(韓愈)

(過鴻溝)    (左遷至藍関)    (早春呈水部)   (盆池)


过鸿沟
guò hóng gōu   (唐) 韩愈  

龙疲虎困割川原 lóng pí hǔ kùn gē chuān yuán
亿万苍生性命存 yì wàn cāng shēng xìng mìng cún
谁劝君王回马首 shuí quàn jūn wáng huí mǎ shǒu
真成一掷赌乾坤 zhēn chéng yí zhì dǔ qián kūn




【注 釈】

鴻溝(こうこう)を過ぐ

竜(りゅう)疲れ 虎(こ)困(くる)しみて 川原(せんげん)を割(さ)く
億万(おくまん)の蒼生(さうせい)性命(せいめい)を存(そん)す
誰(たれ)か 君王(くんわう)に勧(すす)めて 馬首(ばしゅ)を回(かえ)さしむ
真成(しんせい)に 一擲(いってき)乾坤(けんこん)を賭(と)す


【口語訳】

漢楚両軍 連戦に疲弊し 鴻溝(こうこう)を境とし 東西を分かちあひ 和をはからんとす
漢王 西に帰らんと欲せしが 策士(さくし)説きて曰く
漢 天下の大半を有(も)ち 諸侯皆之に附く 楚は兵疲れ食尽き まさに亡ぼすの時なり
今 之を討(う)たざれば 是れ 虎(こ)を養いて自ら患(うれひ)を遺(のこ)すなりと
漢王 之を聴き まさに雌雄を決せんと 帰心矢の如く楚を追ひ討ちて 之を亡ぼさんとす


过鸿沟】 guò hóng gōu     鴻溝(こうこう)を過ぐ。鴻溝は地名。河南省開封
川原】 chuān yuán     中原の要地
苍生】 cāng shēng     人民
真成】 zhēn chéng     まさに成さんとする

一掷赌乾坤】 yí zhì dǔ qián kūn     運を天にまかせ勝負する

竜虎(漢と楚)は進退きわまり、鴻溝を境として、和睦を結んだ。これにより多数の民衆は助かった。
だが、誰であろうか漢王(劉邦)に再び楚を攻めることをすすめ、実にイチかバチかの賭けを行わせたのである。
のるかそるかの「乾坤一擲(けんこんいってき)」の成語は、本作に由来する。




左迁至蓝关示侄孙湘   (唐) 韩愈    
zuǒ qiān zhì lán guān shì zhí sūn xiāng

一封朝奏九重天   yī fēng cháo zòu jiǔ chóng tiān
夕贬潮州路八千   xī biǎn cháo zhōu lù bā qiān
欲为圣明除弊事   yù wèi shèng míng chú bì shì
肯将衰朽惜残年   kěn jiāng shuāi xiǔ xī cán nián
云横秦岭家何在  

yún héng qín lǐng jiā hé zài

雪拥蓝关马不前   xuě yōng lán guān mǎ bù qián
知汝远来应有意  

zhī rǔ yuǎn lái yìng yǒu yì

好收吾骨瘴江边   hǎo shōu wú gǔ zhàng jiāng biān



【注 釈】

左遷(させん)せられて 藍関(らんくわん)に至り 姪孫(をひまご)の湘(しゃう)に示す

一封(いっふう) 朝(あした)に奏す 九重(きうちょう)の天
夕(ゆふべ)に潮州(てうしう)に 貶(へん)せらる 路(みち)八千
聖明(せいめい)の為(ため)に 弊事(へいじ)を除(のぞ)かんと欲す
肯(あへ)て衰朽(すいきう)を将(も)て 残年(ざんねん)を惜(を)しまんや

雲は秦嶺(しんれい)に横たはりて 家(いへ)何(いづ)くにか在(あ)る
雪は藍関(らんくわん)を擁(よう)して 馬(うま)前(すす)まず
知る 汝(なんぢ)が遠(とほ)く来たる 応(まさ)に意(い)有るべし
好(よ)し 吾が骨を収(をさ)めよ 瘴江(しゃうかう)の(ほとり)に


【口語訳】

一朝 天子に諫言(かんげん)を上奏せしに 逆鱗に触れ 夕刻 左遷の沙汰ありて
八千里の遠方なる潮州(てうしう)に 放逐せらるるに至れり

もとよりわが本志は 聖明なる天子の御世のため 後世に誹(そし)りを残す様な
弊事(あやまち)を除き去らんといふにあり 

衰朽(すいきう)の此の身を以て 幾ばくもなき余生を 何ぞ惜しむべきにあらずや
たとひ 彼(か)の地で 命尽きても悔いは無し

遥か遠くを眺むれば 秦嶺(しんれい)に雲の横たはり わが家は何処(いづこ)とも知れず
降り積む雪は 藍関(らんくわん)を鎖(と)ざし 馬は ためらひて進まず

さて汝(なんぢ)がはるばる 吾を送り来(き)たれるは 定めて深意のあることなるべし 

願はくは 汝(なんぢ)に後事を託したく もし吾が 任地で客死(かくし)することあらば
瘴江(しゃうこう)の辺(ほとり)に わが骨を 懇ろに収めて 埋めくれよ


【左迁】 zuǒ qiān  左遷
【蓝关】 lán guān  藍田関(らんでんかん 陝西省)
【侄孙】 zhí sūn  姪孫(おいまご)自分の兄弟の孫
【九重天】 jiǔ chóng tiān  朝廷

【潮州】 cháo zhōu  広東省潮州(ちょうしゅう)市
【弊事】 bì shì  不祥事、不始末
【秦岭】 qín lǐng  秦嶺(しんれい)山脈(陝西省)
【好收】 hǎo shōu  収めるがよかろう
【瘴江】 zhàng jiāng  瘴気が立ち込める韓江(かんこう 広東省)の下流を指す

819年、韓愈52歳の作。当時、朝廷の法務官だった韓愈は、仏舎利を宮中に迎え入れたことに猛反対し
「仏骨を論ずる表」の一文を上奏したため、憲宗の逆鱗に触れ、たちまち左遷の憂目にあった。

朝に上奏文を献じて、その日の夕方に、はるか南方の潮州に向けて旅立つという、慌ただしさであった。
本作は、そのとき第一の関所である藍田関まで見送りに来た二兄の孫、韓湘に向けて詠んだもの。




早春呈水部张十八员外 二首其一 (唐) 韩愈    
zǎo chūn chéng shuǐ bù zhāng shí bā yuán wài

天街小雨润如酥 tiān jiē xiǎo yǔ rùn rú sū
草色遥看近却无 cǎo sè yáo kàn jìn què wú
最是一年春好处 zuì shì yì nián chūn hǎo chù
绝胜烟柳满皇都 jué shèng yān liǔ mǎn huáng dōu



【注 釈】

早春(さうしゅん)水部張十八員外(すいぶちょうじうはちいんがい)に呈(てい)す

天街(てんがい)小雨(せうう)潤(うるほ)ひて酥(そ)の如し
草色(さうしょく)遥かに看るも 近づけば却(かへ)って無し
最も是(こ)れ 一年(ひととせ)春(はる)の好(よ)き処
絶(た)えて勝(まさ)る 煙柳(えんりう)皇都(くわうと)に満つるに


【口語訳】

都大路は 小雨に濡れ しっとりと 潤(うるほ)ひて さながら 酥(そ)の如し 
遠く萌え立つ 草の緑も 近づきてみれば ひとつ一つの 幼(をさな)く小さき芽

されども此の時こそ 一年のうちで 最も味はひのある 春の風情を堪能できる季節 
霞(かすみ)にけぶる柳が 都にあふるる春爛漫のころよりも はるかに優って居る


【早春呈水部张十八员外】早春に、水部張十八員外(すいぶちょうじゅうはちいんがい)に呈す。
別名「長籍に寄せる詩」水部張十八員外とは、朝廷の職名で、ここでは韓愈の弟子の長籍を指す。

【天街】 tiān jiē  都(長安)の大通り
【如酥】 rú sū  酥(乳製品)のようである
【近却无】 jìn què wú  近づくとかえって見えなくなる
【绝胜】 jué shèng  はるかにまさる

遠目には一面に青く見える若草が、近づいてみると、実は枯れ草の間に
点々と芽を出しただけのものだった。

だが大地に芽生えた瑞々しい小さな芽が、懸命に伸びようとする様子は、
無限の生命力を感じさせてくれる。

作者は、この時期こそが、春の盛りそのもの以上に素晴らしいと感じた。
季節の変化のきざしを繊細に捉えて詠った詩である。




盆池 pén chí   (唐) 韩愈  

老翁真个似童儿 汲水埋盆作小池  lǎo wēng zhēn gè sì tóng ér jí shuǐ mái pén zuò xiǎo chí
一夜青蛙鸣到晓 恰如方口钓鱼时  yí yè qīng wā míng dào xiǎo qià rú fāng kǒu diào yú shí
池光天影共青青 拍岸才添水数瓶  chí guāng tiān yǐng gòng qīng qīng pāi àn cái tiān shuǐ shù píng
且待夜深明月去 试看涵泳几多星  qiě dài yè shēn míng yuè qù shì kàn hán yǒng jǐ duō xīng 




【注 釈】

鉢(はち)の池

老翁(らうをう)まことに童児(わらべ)に似たり
水を汲み 盆(ぼん)を埋(うづ)めて 小池を作る
一夜 青蛙(せいあ)鳴いて 暁(あかつき)に至る
恰(あたか)も方口(はうこう)に 魚を釣る時のごとし

池光(ちくわう)天影(てんえい) 共に青青(せいせい)
岸を拍(う)つは 才(わずか)に添う 水 数瓶(すうへい)
且(しばら)く 夜深く 明月(めいげつ)の去るを待ち
試みに看(み)ん 幾多の星の 涵泳(かんえい)するを


【口語訳】  「訳詩: 横山悠太(唐詩和訓)」

おきなのわれは わらべのごとく たらいをうめて こいけをつくる
かえるがそこで よどおしなけば まるでいつかの よづりのようだ

いけはみそらの あおさをうつし みずをそそげば なみもうまれる
よがふけつきの かくれるころに いけにきらめく ほしをのぞこう


盆池】 pén chí     鉢の池
方口】 fāng kǒu     方口(ほうこう)。川の名。河南省済源(さいげん)
涵泳】 kàn hán     水に浸して泳がせる

盆を埋めて池を作って遊ぶ韓愈の姿は、童心に返った好々爺のようである。
何とも微笑ましい詩だが、韓愈のことだから、きっと深い意味があるのだろう。



韓愈  hán yù  (かんゆ)  (768~824年)
中唐の詩人、文学者。字は退之(たいし)河南南陽の人。唐宋八大家の一人。
詩風は豪放・険峻な作を多く残し、唐を代表する大詩人として、李白、杜甫、白居易と共に「李杜韓白」(りとかんぱく)と並び称された。
また儒教、特に孟子を尊び、柳宗元とともに儒教精神を表現すべく古文の復活運動を展開した。
著作に詩集「昌黎先生(しょうれいせんせい)集」(四十巻)




顧況


听角思归  tīng jiǎo sī guī  (唐) 顾况    

故园黄叶满青苔 gù yuán huáng yè mǎn qīng tái
梦破城头晓角哀 mèng pò chéng tóu xiǎo jiǎo āi
此夜断肠人不见 cǐ yè duàn cháng rén bú jiàn
起行残月影徘徊 qǐ xíng cán yuè yǐng pái huái



【注 釈】

角(つのぶえ)を聴いて帰らんことを思う

故園(こゑん)の黃葉(くわうえふ)青苔(せいたい)に満(み)つ
夢後(むご)城頭(じゃうとう)暁角(げうかく)哀(かな)しむ  
此の夜(よ) 断腸(だんちゃう) 人 見えず
起(た)ちて行(ゆ)けば 残(ざんげつ)影(かげ)徘徊(はいくわい)


【口語訳】

ふる里の  木(こ)の葉は 秋の黄葉(もみぢ)して 緑の苔(こけ)に散(ち)りしくと
見しは儚(はか)なき夢にして 覚(さ)むれば 城の明(あ)け近く 
響(ひび)く角笛(つの)の音(ね)ものがなし

切(せつ)なき胸をなぐさむる 友しなければ 起き出(い)でて
戸外(そとも)に立てば 有明(ありあけ)の 月かげ淡(あは)く 西に見ゆ


【听角思归】 tīng jiǎo sī guī  軍中で吹く角笛の音を聞き、望郷の念を覚える。

789年、顧況62歳の作。左遷されたため官職を辞し、茅山(江蘇省)に隠棲したときの作品。
このとき故郷の家族のことを夢に見て、望郷の思いをつのらせて詠んだもの。

【故园】 gù yuán  故郷の庭園
【晓角】 xiǎo jiǎo  暁の時を告げる角笛
【起行】 qǐ xíng  寝床から起き上がって行けば



顧況  gù kuàng  (こきょう)(727~815年)
中唐の詩人。字は逋翁(ほおう)蘇州 (江蘇省) の人。
757年、進士に及第、著作郎(歴史官)に任ぜられたが、その詩が時の権力者をそしったとして左遷された。

その後、茅山(ぼうざん 江蘇省)に隠棲し、最後は行方をくらまし、仙人になったのだろうと言われた。
その詩は、格式ばらない平易な詩風で、民間歌謡的色彩をもつとされる。また山水画にも巧みであった。
著作に詩文集「顧華陽(こかよう)集」(三巻)




(荊軻)


渡易水歌   dù yì shuǐ gē  (燕) 荆轲    

风萧萧兮易水寒 fēng xiāo xiāo xī yì shuǐ hán
壮士一去兮不复还 zhuàng shì yī qù xī bú fù huán



【注 釈】

易水(えきすい)を渡る歌

風 蕭蕭(せうせう)として 易水(えきすゐ)寒し
壮士(さうし) 一たび去りて 復(ま)た還(かへ)らず


【易水】 yì shuǐ  燕(河北省)の国境を流れる河
【壮士】 zhuàng shì  屈強かつ勇敢な人物

BC227年、燕の太子・丹(たん)は、壮士・荊軻(けいか)に、
秦の始皇帝の暗殺を頼み、易水(えきすい)で送別の宴をはった。
本作は、出発を前にした荊軻が易水のほとりで詠ったもの。

成功しても、失敗しても生きて還ることはない旅立ちだった。
短く簡潔な言葉のうちに悲壮な決意を込めた辞世の歌である。



荊軻 jīng kē (けいか)(~BC227年)
戦国時代末期の刺客。衛(えい 河南省)の人。沈着冷静で文武にすぐれていた。
諸国遊歴の末に燕の太子・丹(たん)に仕えた。のち丹の命を受けて秦に赴き、
秦の始皇帝を策略を用いて暗殺しようとしたが、失敗し、非業の死を遂げた。




(项籍)


垓下歌   gāi xià gē  (楚) 项籍  

力拔山兮气盖世 lì bá shān xī qì gài shì
时不利兮骓不逝 shí bú lì xī zhuī bù shì
骓不逝兮可奈何 zhuī bù shì xī kě nài hé
虞兮虞兮奈若何 yú xī yú xī nài ruò hé



【注 釈】

垓下(がいか)の歌

力は山を抜き 気は世を蓋(おほ)ふ
時に利あらず 騅(すゐ)逝(ゆ)かず
騅(すゐ)の逝(ゆ)かざる 奈何(いかん)とす可(べ)き
虞(ぐ)や虞(ぐ) 若(なんぢ)を奈何(いかん)せん


【口語訳】

わがちから  山を抜き  わが気あひ  世を蓋(おほ)ふ
しかして時は   利(みかた)せず
騅(すゐ)逝(ゆ)かず   騅(すゐ)の逝(ゆ)かざる  いかにすべきや
虞(ぐ)や虞(ぐ)  なんぢを いかにせむ


垓下歌】 gāi xià gē     垓下(がいか)の歌。垓下は地名。安徽省霊璧(れいへき)県

垓下は、項籍が劉邦の軍に包囲された地。本作は、四面楚歌の窮地に追い込まれ、命運もここまでと
悟った項籍が、愛姫・虞美人(ぐびじん)に贈った詩である。

】 zhuī     騅(すい)項籍の愛馬の名。名馬とされる
】 yú     虞美人(ぐびじん)項籍の愛姫の名



項籍 xiàng jí   (こうせき)  (BC232~BC202)
楚の覇王。字は羽(う)江蘇宿遷(しゅくせん)の人。
BC206年、漢の劉邦(りゅうほう)とともに秦を滅ぼして楚王となった。
のち劉邦と天下の覇を争い、BC202年、垓下(がいか)で敗れ去る。




(王勃)


滕王阁序  téng wáng gé xù      (王勃  wáng bó  

豫章故郡,洪都新府   yù zhāng gù jùn,hóng dū xīn fǔ
星分翼轸,地接衡庐   xīng fēn yì zhěn,dì jiē héng lú
襟三江而带五湖,控蛮荆而引瓯越   jīn sān jiāng ér dài wǔ hú,kòng mán jīng ér yǐn ōu yuè
物华天宝,龙光射牛斗之墟;   wù huá tiān bǎo,lóng guāng shè niú dòu zhī xū;
人杰地灵,徐孺下陈蕃之榻   rén jié dì líng,xú rú xià chén fán zhī tà
雄州雾列,俊彩星驰   xióng zhōu wù liè,jùn cǎi xīng chí
台隍枕夷夏之交,宾主尽东南之美   tái huáng zhěn yí xià zhī jiāo,bīn zhǔ jìn dōng nán zhī měi
 
都督阎公之雅望,棨戟遥临;   dū dū yán gōng zhī yǎ wàng,qǐ jǐ yáo lín;
宇文新州之懿范,襜帷暂驻   yǔ wén xīn zhōu zhī yì fàn,chān wéi zàn zhù
十旬休暇,胜友如云   shí xún xiū xiá,shèng yǒu rú yún
千里逢迎,高朋满座   qiān lǐ féng yíng,gāo péng mǎn zuò
腾蛟起凤,孟学士之词宗;   téng jiāo qǐ fèng,mèng xué shì zhī cí zōng;
紫电青霜,王将军之武库   zǐ diàn qīng shuāng,wáng jiāng jūn zhī wǔ kù
家君作宰,路出名区   jiā jūn zuò zǎi,lù chū míng qū
童子何知,躬逢胜饯   tóng zǐ hé zhī,gōng féng shèng jiàn
 
时维九月,序属三秋   shí wéi jiǔ yuè,xù shǔ sān qiū
潦水尽而寒潭清,烟光凝而暮山紫   lào shuǐ jìn ér hán tán qīng,yān guāng níng ér mù shān zǐ
俨骖騑于上路,访风景于崇阿   yǎn cān fēi yú shàng lù,fǎng fēng jǐng yú chóng ē
临帝子之长洲,得天人之旧馆   lín dì zǐ zhī cháng zhōu,dé tiān rén zhī jiù guǎn
层峦耸翠,上出重霄;   céng luán sǒng cuì,shàng chū chóng xiāo;
飞阁流丹,下临无地   fēi gé liú dān,xià lín wú dì
鹤汀凫渚,穷岛屿之萦回;   hè tīng fú zhǔ,qióng dǎo yǔ zhī yíng huí;
桂殿兰宫,即冈峦之体势   guì diàn lán gōng,jí gāng luán zhī tǐ shì
披绣闼,俯雕甍   pī xiù tà,fǔ diāo méng
山原旷其盈视,川泽纡其骇瞩   shān yuán kuàng qí yíng shì,chuān zé yū qí hài zhǔ
闾阎扑地,钟鸣鼎食之家;   lǘ yán pū dì,zhōng míng dǐng shí zhī jiā;
舸舰迷津,青雀黄龙之舳   gě jiàn mí jīn,qīng què huáng lóng zhī zhú
云销雨霁,彩彻区明   yún xiāo yǔ jì,cǎi chè qū míng
落霞与孤鹜齐飞,秋水共长天一色   luò xiá yǔ gū wù qí fēi,qiū shuǐ gòng cháng tiān yī sè
渔舟唱晚,响穷彭蠡之滨;   yú zhōu chàng wǎn,xiǎng qióng péng lí zhī bīn;
雁阵惊寒,声断衡阳之浦   yàn zhèn jīng hán,shēng duàn héng yáng zhī pǔ
 
遥襟甫畅,逸兴遄飞   yáo jīn fǔ chàng,yì xìng chuán fēi
爽籁发而清风生,纤歌凝而白云遏   shuǎng lài fā ér qīng fēng shēng,xiān gē níng ér bái yún è
睢园绿竹,气凌彭泽之樽;   suī yuán lǜ zhú,qì líng péng zé zhī zūn;
邺水朱华,光照临川之笔   yè shuǐ zhū huá,guāng zhào lín chuān zhī bǐ
四美具,二难并   sì měi jù,èr nán bìng
穷睇眄于中天,极娱游于暇日   qióng dì miǎn yú zhōng tiān,jí yú yóu yú xiá rì
天高地迥,觉宇宙之无穷;   tiān gāo dì jiǒng,jué yǔ zhòu zhī wú qióng;
兴尽悲来,识盈虚之有数   xìng jìn bēi lái,shí yíng xū zhī yǒu shù
望长安于日下,目吴会于云间   wàng cháng ān yú rì xià,mù wú kuài yú yún jiān
地势极而南溟深,天柱高而北辰远   dì shì jí ér nán míng shēn,tiān zhù gāo ér běi chén yuǎn
关山难越,谁悲失路之人;   guān shān nán yuè,shéi bēi shī lù zhī rén;
萍水相逢,尽是他乡之客   píng shuǐ xiāng féng,jìn shì tā xiāng zhī kè
怀帝阍而不见,奉宣室以何年?   huái dì hūn ér bú jiàn,fèng xuān shì yǐ hé nián
 
嗟乎! 时运不济,命途多舛   jiè hū! shí yùn bú jì,mìng tú duō chuǎn
冯唐易老,李广难封   féng táng yì lǎo,lǐ guǎng nán fēng
屈贾谊于长沙,非无圣主;   qū jiǎ yì yú cháng shā,fēi wú shèng zhǔ;
窜梁鸿于海曲,岂乏明时?   cuàn liáng hóng yú hǎi qǔ,qǐ fá míng shí
所赖君子见机,达人知命   suǒ lài jūn zǐ jiàn jī,dá rén zhī mìng
老当益壮,宁移白首之心;   lǎo dāng yì zhuàng,níng yí bái shǒu zhī xīn;
穷且益坚,不坠青云之志   qióng qiě yì jiān,bù zhuì qīng yún zhī zhì
酌贪泉而觉爽,处涸辙以犹欢   zhuó tān quán ér jué shuǎng,chǔ hé zhé yǐ yóu huān
北海虽赊,扶摇可接;   běi hǎi suī shē,fú yáo kě jiē;
东隅已逝,桑榆非晩   dōng yú yǐ shì,sāng yú fēi wǎn
孟尝高洁,空馀报国之情;   mèng cháng gāo jié,kòng yú bào guó zhī qíng;
阮籍猖狂,岂效穷途之哭?   ruǎn jí chāng kuáng,qǐ xiào qióng tú zhī kū
 
勃,三尺微命,一介书生,   bó,sān chǐ wēi mìng,yí jiè shū shēng,
无路请缨,等终军之弱冠;   wú lù qǐng yīng,děng zhōng jūn zhī ruò guàn;
有怀投笔,慕宗悫之长风   yǒu huái tóu bǐ,mù zōng què zhī cháng fēng
舍簪笏于百龄,奉晨昏于万里   shě zān hù yú bǎi líng,fèng chén hūn yú wàn lǐ
非谢家之宝树,接孟氏之芳邻   fēi xiè jiā zhī bǎo shù,jiē mèng shì zhī fāng lín
他日趋庭,叨陪鲤对;   tā rì qū tíng,tāo péi lǐ duì;
今茲捧袂,喜托龙门   jīn zī pěng mèi,xǐ tuō lóng mén
杨意不逢,抚凌云而自惜;   yáng yì bù féng,fǔ líng yún ér zì xī;
锺期既遇,奏流水以何惭?   zhōng qī jì yù,zòu liú shuǐ yǐ hé cán
呜呼! 胜地不常,盛筵难再   wū hū! shèng dì bù cháng,shèng yán nán zài
兰亭已矣,梓泽丘墟   lán tíng yǐ yǐ,zǐ zé qiū xū
临别赠言,幸承恩于伟饯;   lín bié zèng yán,xìng chéng ēn yú wěi jiàn;
登高作赋,是所望于群公   dēng gāo zuò fù,shì suǒ wàng yú qún gōng
敢竭鄙怀,恭疏短引   gǎn jié bǐ huái,gōng shū duǎn yǐn
一言均赋,四韵俱成   yī yán jūn fù,sì yùn jù chéng
请洒潘江,各倾陆海云尔   qǐng sǎ pān jiāng,gè qīng lù hǎi yún ěr
 
 
滕王高阁临江渚   téng wáng gāo gé lín jiāng zhǔ
佩玉鸣鸾罢歌舞   pèi yù míng luán bà gē wǔ
画栋朝飞南浦云   huà dòng zhāo fēi nán pǔ yún
珠帘暮卷西山雨   zhū lián mù juǎn xī shān yǔ
 
闲云潭影日悠悠   xián yún tán yǐng rì yōu yōu
物换星移几度秋   wù huàn xīng yí jǐ dù qiū
阁中帝子今何在   gé zhōng dì zǐ jīn hé zài
槛外长江空自流   jiàn wài cháng jiāng kōng zì liú



【注 釈】

滕王閣序(とうわうかくのじょ)

豫章(よしゃう)は故郡(こぐん) 洪都(こうと)は新府(しんふ)なり
星(ほし)翼軫(よくしん)に分かれ 地(ち) 衡廬(かうろ)に接す
三江(さんかう)を襟(え)り 而(か)つ五湖を帯び 蛮荊(ばんけい)を控へ 而(か)つ甌越(おうえつ)を引く
物(もの)華天宝(くわてんほう)にして 龍光(りゅうくわう)牛斗(ぎうと)の墟(あと)を射す
人傑地霊(じんけつちりゃう)たる徐孺(じょち) 陳蕃(ちんばん)の榻(しぢ)に下(くだ)る
雄州(ゆうしう)霧列(むれつ) 俊采(しゅんさい) 星(ほし)と馳(は)す
台隍(たいくわう)夷夏(いか)の交(まじ)はりを枕(のぞ)み
賓主(ひんしゅ)東南(とうなん)の美(び)を尽(つ)くす

都督閻公(ととくえんこう)之(こ)れ 雅望(がばう)ありて 棨戟(けいげき)遙(はる)かに臨む
宇文(うぶん)新州(しんしう)之(こ)れ 懿范(いはん)にして 襜帷(せんい)暫(しばら)く駐(とど)む
十旬(じうじゅん)の休假(きうか) 勝友(しょういう)雲(くも)の如し
千里(せんり)逢迎(ほうげい)して 高朋(かうほう)座に満つ
騰蛟(とうかう)起鳳(きほう) 孟学士(まうがくし)之(こ)れ 詞宗(しそう)なり
紫電(しでん)青霜(せいさう) 王将軍(わうしゃうぐん)の 武庫(ぶこ)にあり
家君(かくん)宰(つかさ)を作(な)し 路(みち)ゆきて 名区(めいく)に出づ
童子(どうじ)何(なん)ぞ知らん その躬(み)勝餞(しょうせん)に逢(あ)ふ

時(とき)維(まさ)に九月 序(しょ)三秋(さんしう)に属(しょく)す
潦水(らうすい)尽(つ)きて 寒潭(かんたん)清く 煙光(えんくわう)凝(ふか)く 暮山(ぼざん)紫(むらさき)なり
上路(やまみち)を驂騑(そえうま)に儼(の)り 崇阿(さんあ)にて 風景(ふうけい)を訪(み)る
帝子(ていし)の長洲(ちゃうす)を臨(のぞ)み 天人(てんにん)の旧館(きうくわん)を得(う)る
層(つら)なる巒聳(さんや)翠(みどり)にして 重霄(ちゃうせう)の上に出(い)づ
飛閣(ひかく)流丹(りうたん) 下(した)を臨(のぞ)むに 地(ち)無(な)し
鶴汀(かくてい)鳧渚(ふしょ) 島嶼(たうしょ)之(これ)を縈回(めぐら)して窮(きわ)まり
桂殿(けいでん)蘭宮(らんぐう) 即(すなは)ち岡巒(かうらん)の体勢(ていせい)なり
繍闥(しうたつ)を披(ひら)き 雕甍(てうばう)を俯(ふ)すに
山原(さんげん)の広(ひろ)きこと 其(まさ)に盈視(ばんもく)にして
川澤(せんたく)の盱(う)ねること 其(まさ)に駭矚(がいしょく)たり
閭閻(ろえん)は地(ち)に撲(み)ち、鍾鳴(しょうめい)鼎食(ていしょく)の家(いへ)あり
舸艦(かかん)は津(つ)に迷(み)ち 青雀(せいじゃく)黄龍(くわうりゅう)の舳(へさき)あり
雲(くも)銷(と)け 雨(あめ)霽(は)れて 彩(ひ)徹(あまね)く 区(そら)明(あきら)かなり
落霞(らくか)孤鶩(こぼく)斉(ひと)しく飛び 秋水(しうすい)長天(ちゃうてん)共(とも)に一色(いっしき)
漁舟(りょうしう)晩(くれ)に唱(しょう)し 彭蠡(はやう)の浜(はま)  響(ひび)き窮(きわ)まれり
雁陣(がんぢん)寒(かん)に驚(おどろ)き 声(こえ)断(とど)む 衡陽(かうやう)の浦(うら)

遙(はる)か 襟(きん)を 甫暢(ほちゃう)して 興逸(きょういつ)遄飛(たからか)なり
爽籟(さうらい)発して 清風(せいふう)生じ 纖歌(せんか)凝(み)ちて 白雲(はくうん)遏(とど)む
睢園(すいえん)緑竹(りょくちく) 氣(き) 彭澤(はうたく)の樽(たる)を凌(しの)ぎ
邺水(ぎょうすい)朱華(しゅくわ) 臨川(りんせん)の筆(ふで)に 光照(はくちゅう)す
四美(しび)具(そな)はりて 二難(になん)并(なら)べり
中天(ちうてん)睇眄(ていべん)を窮(きは)め 暇日(かじつ)娯遊(ごいう)を極(きは)む
天(てん)高く 地(ち)迥(はる)かに 宇宙(あめつち)の 無窮(むきゅう)なるを覚(おぼ)ゆ
興(きょう)尽(つ)き 悲(うれ)ひ 来(きた)りて 盈虚(ばんしゃう)有数(いうすう)なるを識(し)る
長安(ちゃうあん)日下(くさか)に望(のぞ)み 吳会(ごくわい)雲間(くもま)に目(もく)す
地勢(ちせい)極(きは)まりて 南溟(なんめい)深く 天柱(てんちゅう)高くして 北辰(ほくしん)遠(とほ)し
関山(くわんざん)越へ難く 路(みち)失(うしな)ふ人の 誰(たれ)ぞ 悲しまむ
萍水(へいすい)相逢(あひあ)ふは 尽(ことごと)く 是(こ)れ 他郷(たきゃう)の客(かく)なり
帝阍(みかどもり) 懷(なつ)かしむも見えず 宣室(せんしつ)に奉(ほう)ずるは 以(もつ)て何年(いつとし)ぞ

嗟乎(ああ)時運(じうん)斉(ひと)しからず 命途(みちゆき)多舛(たなん)なり
馮唐(ふうたう)老(お)い易く 李広(りくわう)封(ふう)じ難(かた)し
賈誼(かぎ)長沙(ちゃうさ)に屈(くつ)するは 聖主(せいしゅ)の無(な)きに非(あら)ず
梁鴻(りゃうこう)海曲(うみべ)に竄(かく)るは 豈(あ)に 明時(じせい)の乏(とぼ)しからんや
君子(くんし)の頼(よ)る所(ところ) 機(き)を見(み) 達人(みちびと)の頼る所 命(めい)を知るにあり
老いて當(まさ)に 益壯(いさう)なり 寧(なん)ぞ 白首(はくしゅ)の心(こころ)移(うつ)さんや
窮(きゅう)して且(まさ)に 益堅(いけん)なり 青雲(せいうん)の志(こころざし)墜(おと)さざらん
貪泉(たんせん)を酌(く)みて而(な)ほ 爽(さう)を覚(おぼ)え
轍(わだち)の涸(か)れる処(ところ)を以(もつ)て 猶(な)ほ 歓(くわん)となすがごとし
北海(ほくかい)は 賒(とほ)しと雖(いへど)も 搖(かぜ)に扶(の)りて 接(たつ)すべし
東隅(さうねん)已(すで)に逝(ゆ)けども 桑榆(らうねん)晩(おそ)きに非(あら)ず
孟嘗(まうしゃう)高潔(こうけつ)なれども 空(むな)しく餘(のこ)す 報国(ほうこく)の情(じゃう)
阮籍(げんせき)猖狂(しゃうきゃう)にして 豈(あ)に窮途(きゅうと)の哭(こく)を效(なら)はんや

勃(ぼつ)三尺(さんじゃく)微命(びめい) 一介(いっかい)の書生(しょせい)なり
請纓(せいやう)の路(みち)無(な)く 終軍(しゅうぐん)弱冠(じゃくくわん)に等(ひと)し
投筆(とうひつ)の懷(おも)ひ有りて 宗愨(そうかく)の長風(ちゃうふう)を慕(した)ふ
簪笏(さんさく)百齡(ひゃくれい)に捨(す)て 晨昏(しんこん)萬里(ばんり)に奉(たてまつ)る
謝家(しゃか)の宝樹(ほうじゅ)に非(あら)ずも 孟氏(まうし)の芳鄰(はうりん)に接(せつ)す
他日(たじつ)庭(には)に趨(おもむ)き 鯉對(りたい)叨陪(たうはい)す
今茲(いまここ)に 捧袂(ほうへい)し 喜(よろこ)びを 龍門(りゅうもん)に托(たく)す
楊意(やうい)逢(あ)はざれば 凌雲(りょううん)を撫(な)でて 自(みずか)ら惜しむ
鐘期(しょうき)既(すで)に遇(あ)ひ 流水(りうすい)奏(そう)し 以(もつ)て何(なに)を慚(は)ぢん
嗚乎(おお) 勝地(めいしょう)常(つね)ならず 盛筵(せいえん)再び なり難(かた)し
蘭亭(らんてい)已(すで)になく 梓澤(したく)の丘(おか)は墟(はて)たり
別れに臨(のぞ)んで 言(げん)を贈(おく)り 偉餞(はなむけ)を承恩(しょうおん)するを幸(さち)とす
登高(とうかう)して賦(ふ)を作(つく)るは 是(こ)れ 群公(ぐんこう)の望(のぞ)む所(ところ)なり
敢(あ)へて鄙懷(ひくわい)を竭(つ)くし 恭(かしこ)みて 短引(たんいん)を疏(そう)す
一言(いちげん)均(ひと)しく賦(ふ)し 四韻(しいん)俱(とも)に成(な)したり
請(ねがは)くは 各(おのおの)潘江(はんかう)陸海(りくかい)の云尔(ごと)き 灑(れいひつ)を 傾(ふる)はれんことを


滕王(とうわう)高閣(かうかく) 江渚(かうしょ)に臨(のぞ)み
珮玉(はいぎょく)鳴鸞(めいらん) 歌舞(かぶ)罷(や)みたり
画棟(ぐわとう) 朝(あした)に飛(と)ぶ 南浦(なんぽ)の雲(くも)
朱簾(しゅれん) 暮(くれ)に捲(ま)く 西山(せいざん)の雨(あめ)

閑雲(かんうん)潭影(たんえい) 日(ひ)に悠悠(いういう)
物(もの)換(かは)り 星(ほし)移(うつ)りて 幾度(いくたび)の秋(あき)ぞ
閣中(かくちゅう)帝子(ていし) 今(いま)何(いづ)くにか在(あ)る
檻外(かんぐわい)長江(ちゃうかう) 空(むな)しく自(おの)づから流(なが)る



【口語訳】

南昌は漢代の豫章(よしゅう)郡のあった地であり、今は洪州(こうしゅう)の都督府である。
方角は翼軫(よくしん 南)に属し、その地は衡山(こうざん)と廬山(ろざん)の間に位置する。
近くを三江が流れ、周囲に五湖をめぐらし、楚の地をおさえ、古越を結ぶ要衝である。
物産の豊かさは天の精華であり、かつてこの地で産した宝剣の光芒は牛、斗二星の間にまで走らせたと伝わる。
この土地にひとりの英傑がいて、名を徐孺(じょち)と言う。彼は、豫章太守の陳蕃(ちんばん)から賓客として遇されている。
雄大な洪州は、家々が雲霧のように立ち並び、すぐれた人材が星くずの如く傑出する名勝の地である。
城壁は、異民族が住む地域にまたがっており、今日の宴席は、それらにふさわしく、主と賓客も各地の俊英をよりすぐったものである。

都督の閻公(えんこう)は、名声の士であり、このたび遠路はるばる洪州を訪れた。
また新州の長官、宇文(うぶん)は、その見識徳望の高さを以て知られ、彼もまた、しばらく洪州に留まることになった。
千里の賓客をもてなす宴席には、それぞれ十日ほどの休暇をとられた一流人士が座をうめつくしている。
文壇の指導者である孟(もう)学士は、その麗筆を振るうや、雲を得て空に昇る龍、また風を得て舞い上がる鳳のようだとされている。
また王将軍の武器庫には、紫電や青霜のような鋭利な宝剣が収められているといわれる。
なお、この私は、県令をしていた父のもとへ帰省する途中で、当地を通りかかったところ、
年少の身ながら、思いもかけず、この盛大な宴席に参列することができたのだ。

時は九月、まさに秋晴れの日和であった。
道辺のたまり水は消え、河水は澄み、空は淡い雲煙を湛え、夕闇の山は紫色を呈していた。
山道で馬車に乗り、険しい山中であたりの風景をながめると、眼下に滕王の広大な庭園が広がり、神仙が住むといわれる旧い館(滕王閣)が見えた。
ここは山が重なり合い、青々とした峰が空を浮き立たせている。紅漆の楼閣は、天にそそり立つようであり、直下を臨んでも地上は見えない。
丹鶴や鴨の止まる小洲など、島々はさまざまな曲線をきわめており、桂や木蘭を用いた宮殿は、起伏する山々と調和している。
彫刻で彩られた門を開けると、色とりどりの屋根は高く傾斜しており、そこから山や平野が眼下に見え、湖川などは驚くほど曲がりくねり広々としている。
いたるところに人家が軒を並べ、鐘を鳴らして鼎で食事する裕福な家が多い。
舟は渡し場を埋め尽くし、それらは青雀や黄竜の模様が彫られた大きな舟ばかりだった。
ちょうど雨が晴れ、雲は消え、陽ざしは暖かく、霞が孤雁とともに空を翔けり、秋の澄み切った河水は青く遥かな天空に連なっている。
夕方の漁舟から聞こえてきた歌声が、翻陽湖(はようこ)の浜に響き渡り、雁の群れの悲しげな鳴き声が、衡陽の浦まで響いている。

遠くに目をやれば、その快さに、たちまち心は高ぶるようである。
すると、すずやかな風とともに楽の音が起こり、快い旋律があたりをさまようと、白雲は去りもやらず、中空にとどまる。
緑したたるこの庭園は、竹林の集まりにも似て、集う俊英の酒量は、彭沢(ほうたく)県令である陶淵明のそれを凌ぎ、
また赤い芙蓉を愛でる詩人たちの文才は、臨川内史の謝霊運の筆に勝るとも劣らない。
さて本日の宴席には、四つのすばらしいもの(音楽と食事、文章と言葉)がそろっていて、二つの得難いもの(景色、歓楽)を合わせて、
客人たちは、ほしいままに空を眺め、ひとときの休日を楽しんでいる。
天は高く、大地は広く、私は、宇宙の無窮を悟ることができたような気がした。
そして興趣は尽き、哀愁の情が湧き起こり、物事の盛衰には天の定めがあることを知った。
高殿より、西は長安を望み見て、東は呉会に目を向ける。
陸地の果てるところに、深い南方の海があり、北の方、天を支える柱高く建つあたりに、北斗星が光を放っている。
国境の山は、越えるに難しく、私のような志を得ざる旅人の哀しみを誰が知ってくれようか。
水の流れに身を任す浮草のような境遇では、たまにめぐり会う人とて、全て異郷の客ばかり。
王城を恋い慕うも、召されることはなく、王に仕えるのは、一体いつになるのであろうか。

ああ、めぐりあわせはままならず、人の運命は、何かとうまくいかないことが多い。
馮唐(ふうとう)は老いやすく、李広(りこう)はなかなか侯を封じられず。
賈誼(かぎ)が長沙に左遷させられたのは、高徳の君主がいなかったからではなく、
梁鴻(りょうこう)が僻地で逃亡生活を続けたのは、決して時代が良くなかったからではない。
君子は機を見て計らい、有徳の士は天命を知るとの道理を、心得ていたからにすぎない。
それ故、彼らは老いても、ますます精気にあふれ、境遇は苦しくとも、節操は強く、青雲の志を捨ててはいない。
貪泉の水を飲んでも、彼らの心は依然としてさわやかで清廉である。
それは轍の水たまりで泳ぐ鮒のように、依然として歓びの心を忘れなかったからであろう。
思うに、遥か北海は遠くても、旋風に乗ずれば速やかに行きつくことができるであろうし、
青年時代は、無為の内に過ぎ去ったが、晩年はせめて実りのあるものであって欲しいものだ。
孟嘗君は、心が高潔でありながら、重用せられず、空しく国に報じる情熱のみを抱いていた。
また阮籍は、人となりが放縦不羈であり、どうして彼のあのような奔放な生き方に学ぶことができようか。

私は身分が低く、ただの書生である。
あの終軍と同じ二十歳になったが、彼のように弱冠で大功を挙げるような才はない。
私は宗愨(そうこく)の「長風に乗って万里の浪を破る」という英雄気概をうらやましく思ったし、文筆を捨て、軍事に従おうかとも思ってみる。
今私は官途の功名を棄てて、遠く万里を越えて朝夕父母に孝養を尽くすのがよいと考えている。
私などは、とてもあの宝樹にたとえることはできないが、それでもこれまで賢者と付き合える幸運に恵まれてきたといえる。
私は間もなく父に会い、その教えを聞くことになる。
そして今日は幸運にも、この一つの登竜門と言うべき宴席に身を寄せられた喜びを噛みしめている。
そして楊得意のような人物(参席の方々)にめぐりあわなければ、自分の文章を讃えられることなく、嘆きつつ世に埋もれていたであろう。
また鐘子期(しょうしき)のように、またとない知己を得れば、才能を十分発揮できて、悔いを残すことはないであろう。
ああ 名勝の地は不変ではなく、盛大な宴は再度を期し難い。
かの蘭亭(らんてい)の集いはすでに過去のものとなり、梓沢(したく)の庭園もすでに廃墟と化した。
このたび送別の宴、並びに激励の言葉を賜わったこと、誠に望外の幸い。
また高所より賦を作ることは、参列された諸賢の誰もが願って止まないところ。
私は僭越ながら、この序文を書かせていただいたが、最後に、諸賢から賜った韻字に賦をのせ、四韻八句の詩を書き上げた。
これを機縁に、各位におかれては、潘岳(はんがく)、陸機(りくき)の如き才筆を振るわれんことを。


滕王(とうわう)の建てたる高殿は 江水(かうすい)の渚に臨みてあれど 滕王既に逝(ゆ)きて 世に在らず
貴人の帯(おび)の飾り玉 馬車に付けたる鈴の音 在りし日の歌舞も亦(ま)た 既に罷(や)み果てぬ

美しき絵の 画(えが)かれし 棟木(むなぎ)の辺り 朝の南浦(なんぽ)の入り江より 雲湧きたちて通ひ
珠簾(たまみす)の 日の暮れに巻きたるとき 西の彼方(かなた)の山あひに そぞろに雨の降るを見たり

閑(しず)やかに 空ゆく雲 淀(よど)みし川面 明け暮れに変はらざれども 世事(せじ)は早や 
移(うつ)ろひ換(か)はりて 歳月(とし)は逝(ゆ)き 幾度(いくたび)の秋 経たりしか 知れぬほどなり

滕王は 今何処に在(あ)りや 高殿にいませし帝子(みかど) 終(つひ)に見るべからず

唯だ高欄(おばしま)の 彼方(かなた)に見ゆる江水(かうすい)の 空しく流れて 人をして 
嘆(なげ)きを 興(おこ)さしむる あるのみ



滕王閣序】téng wáng gé xù 滕王閣序文(とうおうかくじょぶん)

初唐の詩人、王勃が、故郷の交趾(こうし 南越)へ向かう途上に、南昌(江西省)都督が滕王閣で開いた
宴会で作ったという散文並びに詩文である。

滕王閣は、唐の太宗の弟の滕王李元嬰(りげんえい)が、洪州(江西省南昌)の西南に建てた高殿の名。
後の時代には絵画の題材に好んで描かれた。

豫章】yù zhāng 豫章(よしょう)漢代から唐代(前202~622年)にかけて、現在の江西省北部に設置された郡名。
洪都】hóng dū 洪州都督府(こうしゅうととくふ)622年、豫章郡は洪州と改められ 都督府が置かれた。
星分翼轸】xīng fēn yì zhěn 方角は翼軫(よくしん 南)の星の方角。古人は天上の星を地上の領域に対応させて、
「あるところはある星に属する」と呼んでいた。星名は二十八種類(二十八宿)に分類される。
】héng 衡山(こうざん)衡州(湖南省衡陽市)
】lú  廬山(ろざん)江州(江西省九江市)
】jīn 豫章は三江荊江、松江、浙江)の上流にあって、衣の襟のようであることから名づけられた。
五湖】wǔ hú 五湖太湖・鄱陽湖・青草湖・丹陽湖・洞庭湖)は豫章郡の周囲を帯のように廻っている。
蛮荆】mán jīng ばんけい。古楚の地(湖北・湖南一帯)
】yǐn つながる。(连接
瓯越】ōu yuè おうえつ。古越の地(浙江省)。越王は東甌(今の浙江省永嘉県)に都を建て、領内に甌江(おうこう)がある。
物华天宝】wù huá tiān bǎo 物産が豊富である。
徐孺】xú rú じょち。豫章郡南昌の隠士。
下榻】xià tà 宿をとる(賓客として迎えられるの意)
雾列】wù liè 繁栄する。
台隍】tái huáng 城壁。
】zhěn  占有する。(占据
夷夏】yí xià 蛮族と中原の地。(蛮夷与中原地区
东南之美】dōng nán zhī měi 各地の英雄才俊。

都督】dū dū 都督 軍事をつかさどる官名。
阎公】yán gōng 閻公(えんこう)当時の洪州都督。
棨戟】qǐ jǐ 儀仗。古代の大官が外出の際に用いた。
宇文新州】yǔ wén xīn zhōu 宇文(うぶん)新州。新州(今の広東省)の刺史(地方官)。
懿范】yì fàn 立派な手本。(好榜样
襜帷】chān wéi 車上の幕、ここでは車馬のことを指す。(车上的帷幕,这里代指车马
十旬休假】shí xún xiū jià  十日の休暇。唐の制度では、十日を旬とし、官吏のその間の休暇を「旬休」と称した。
胜友】shèng yǒu 才能のある朋友。(才华出众的友人
腾蛟起凤】téng jiāo qǐ fèng  蛟竜(みずち)が飛び、鳳凰が舞うように、文才がある。(宛如蛟龙腾跃、凤凰起舞,形容人很有文采
孟学士】mèng xué shì もうがくし。名は未詳。学士は文献の執筆をつかさどる朝廷の役人。
词宗】cí zōng  文壇の宗主。
紫电青霜】zǐ diàn qīng shuāng  紫電や青霜。古代の宝剣の名称。
家君作宰】jiā jūn zuò zǎi  家父長は宰相を作(な)す。王勃の父は交趾県(南越)の県令を務めている。
路出名区】lù chū míng qū  路ゆきて名勝(洪州)に出づる。(自分が父の見舞いで)この有名なところを通りかかる。
童子何知,躬逢胜饯】 年幼く無知なれども、自ら盛大なる宴席にめぐり逢う。

】wéi まさに。
】xù 時序。時節。
三秋】sān qiū 九月。古人は、七、八、九月を孟秋仲秋季秋と呼び、季秋をまた三秋(三番目の秋)と呼んだ。
俨骖騑于上路】yǎn cān fēi  山道で馬車に乗る。(在上路驾马车
崇阿】chóng ē 高い山陵。(高大的山陵
鹤汀凫渚】hè tīng fú zhǔ  鶴の棲む水辺の平地や鴨の集まる中州。
萦回】yíng huí  さまざまな曲線を描いている。
即冈峦之体势】 連なる丘陵の起伏に合わせて一体となっている。(随着冈峦高低起伏的态势
盈视】yíng shì  見渡す限り。(极目远望
】yū  曲がりくねる。
川泽纡其骇瞩】 湖川の紆余曲折の景観に驚きを覚える。(河流和湖泽的曲折使人感到惊讶
闾阎】lǘ yán  家屋。
】pū 軒を連ねる。
钟鸣鼎食】zhōng míng dǐng shí  裕福な名家。古代の貴族の食事は、鐘を鳴らして鼎を並べて食べていた。
彩彻区明】 日が行き渡り、空が明るくなる。(阳光普照,天空明朗
】cǎi 日光。日光。
】qū 空。天空。
】chè 行き渡る。(通贯
彭蠡】péng lí  翻陽湖(はようこ)江西省
衡阳】héng yáng  衡陽(こうよう)湖南省
】duàn  止まる。

遥襟甫畅,逸兴遄飞】遥か遠くを見渡せば、胸(胸襟)晴れやか(甫暢)に、情緒(兴致)高ぶる(遄飞)。
爽籁发而清风生】澄んだ楽の音(爽籁)が聞こえ、爽やかな風(清风)が起こる。
纤歌凝而白云遏】周囲に立ち込めた()快い楽の音(纤歌)が雲の流れを押しとどめる(白云遏)。
睢园绿竹,气凌彭泽之樽】緑竹の庭園(睢园)に集う彼らの気勢は、彭沢(ほうたく)県令である陶淵明の酒の量()を凌ぐ。
彭沢県(江西省)は、東晋の陶淵明を指す。彼は、かつて彭沢県令を官し、世は陶彭沢と称した。
また睢園(すいえん)とは、梁の孝王の庭園のことで、孝王は庭園に文人を集めて酒を飲み、詩を詠んだとされる。
邺水朱华,光照临川之笔】赤い芙蓉(朱华)を愛でる詩人たち(邺水)の文才は、臨川の謝霊運(临川)の文章()に比肩(光照)する。
邺水(ぎょうすい 河北省)は、魏の勃興した所で、芙蓉を愛でる詩人たちとは、文才すぐれた曹操、曹植らを指す。
芙蓉(しゅか 朱华)は、曹植の「公宴詩」を典拠とする。(秋兰被长坂,朱华冒绿池
また、臨川(江西省撫州市)は、臨川内史を務めた謝霊運(しやれいうん)を指す。彼は山水詩の巨匠として知られる。
穷睇眄于中天】遠く()空(中天)を見上げる(睇眄)。(极目远望天空
识盈虚之有数】物事の盛衰(盈虚)には天の定めがある(有数)ことを知る。
目吴会于云间】東(云间、西の長安の対句)は呉会(呉の会稽、現在の紹興市)に目を向ける。
南溟】南の海。
天柱高而北辰远】天を支える柱(天柱)高く建つあたりを遠望すると北斗星(北辰)が見える。
天を支える柱は、崑崙山(こんろんさん)にそびえるという伝説の銅柱。出典は、東方朔「神異経」(昆仑之山,有铜柱焉
失路之人】出世の道を失った者。若くして朝廷に仕えた王勃だが、その後、戯れに書いた文章が高宗の怒りに触れ、
四川の成都に左遷となった。遠い異郷の地に流された彼は、帝都長安に身を寄せて国のために尽くすことができない
自らの運命を、本作の中で嘆いている。
萍水相逢,尽是他乡之客】浮草と水が出会うように、たまにめぐり会う人は、全て異なる土地の人ばかりである。
帝阍】天帝の門番。(天帝的守门人

时运不济,命途多舛】時運は巡り合わず(不济)、人の一生は挫折の連続(多舛)である。
冯唐】féng táng  馮唐(ふうとう 漢の文人)は、景帝のときに重用されず、武帝のときにやっと推挙されたが、
すでに九十代になっていた。出典は「史記馮唐列伝」(冯唐在汉文帝、汉景帝时不被重用,汉武帝时被举荐,已是九十多岁
李广】lǐ guǎng  李広(漢の軍人)は、武帝の時の名将で、何度も匈奴と戦って、軍功を立てたが、ずっと推挙されなかった。
出典は「史記李将軍列伝」(李广,汉武帝时名将,多次与匈奴作战,军功卓著,却始终未获封爵
屈贾谊于长沙,非无圣主】賈誼(かぎ)が長沙に左遷()されたのは、徳のある君主(圣主)がいなかったからではない。
賈誼(漢の文人)は、文帝のとき、その才を他の重臣に妬まれ、濡れ衣によって長沙に左遷された。
出典は「史記屈原賈生列伝」(贾谊在汉文帝时被贬为长沙王太傅
窜梁鸿于海曲,岂乏明时】梁鴻(りょうこう)が僻地(海曲)へ逃亡()したのは、時代が良くなかったと言えようか(岂乏明时)。
梁鴻(漢の詩人)は、著作「五噫歌」で朝廷を風刺したため、章帝の怒りを買い、斉、魯、呉の海浜に逃げ込んだ。
出典は「後漢書 逸民伝」(作五噫歌,讽刺朝廷,因此得罪汉章帝,避居齐鲁、吴中
宁移白首之心】白髪(白首)なれども、何ぞ()移さん、壮年の志(之心)を。
酌贪泉而觉爽】貪泉(たんせん)の水を飲んでも、心は依然として爽やかである。
貪泉は、飲むと欲張りになると言い伝えられている水。出典は「晋書 呉隠伝」(贪泉在广州附近的石门,传说饮此水会贪得无厌
处涸辙以犹欢】艱難困窮(处涸辙)にあってもなお(以犹)心は清廉()である。
涸辙(乾いた轍)は、困窮の境遇の意。出典は「庄子 外物」(有鲋鱼处干涸的车辙的故事,比喻困厄的处境
东隅已逝,桑榆非晩】壮年(东隅)已(すで)に逝(す)ぎ、老年(桑榆)となれども、晩(おそ)きに非(あら)ず。
孟尝】mèng cháng 孟嘗君(もうしょうくん 漢の文人)は、後漢で太守を務めたが、病のため隠居した。
桓帝のとき、幾度となく推挙されたが、ついに出仕できなかったという。出典は「後漢書 孟嘗伝」
孟尝字伯周,东汉会稽上虞人。曾任合浦太守,以廉洁奉公著称,后因病隐居。桓帝时,虽有人屡次荐举,终不见用
阮籍】ruǎn jí 阮籍(げんせき 竹林の賢人の一人)は、晋の名士だったが、世間に不満を持ち、放蕩を装って馬車を走らせ、
道が通じないと泣いて帰ったという。出典は「晋書 阮籍伝」(晋代名士,不满世事,佯装狂放,常驾车出游,路不通时就痛哭而返
岂效穷途之哭】道に窮して慟哭する(穷途之哭)ような生き方に、どうして学ぶことができようか(岂效)。

三尺微命】まだ未熟(三尺)であり、身分も低い(微命)。
尺は、帯が垂れている長さであり、古人は大人を「七尺の体躯」、物心のつかない子供を「三尺の童児」と呼んだ。
また命は官職の意であり、官位制度では一命から九命までで、一命は最下位の官職であった。
无路请缨】大功を挙げる(请缨)ような機会はない(无路)。(没有立功报国的时机
终军】zhōng jūn 終軍(しゅうぐん 漢の文人)は、漢と南越との和睦に貢献した。「请缨」の由来は、彼が南越に
使者として派遣された際、「長い紐をいただければ(请缨)南越王をつないで連れて参りましょう」と言ったことによる。
出典は「漢書 終軍伝」(武帝时出使南越,自请“愿受长缨,必羁南越王而致之阙下”,时仅二十余岁
宗悫】zōng què 宗愨(そうかく 宋の軍人)は、年少のとき、叔父に志望を問われて「願わくは長風に乗り万里の浪を破らん」と答えた。
彼は、後に戦功で封を受けた。出典は「宋書 宗愨伝」(年少时向叔父自述志向,云“愿乘长风破万里浪”。后因战功受封
舍簪笏于百龄,奉晨昏于万里】生涯(于百龄)官職を捨て(舍簪笏)万里の先にいる(于万里)親に仕える(奉晨昏)。
非谢家之宝树】謝家の宝樹に非(あら)ず。宝樹は、晋の将軍、謝玄(しゃげん)を指す。数々の大功を挙げた晋の名将として知られる。
謝玄が幼少の頃、叔父に将来の抱負を問われた際、彼は「庭の美しい木や草を、家の階段にまで生じさせたい」と答えた。
叔父は、これを一族を繁栄させたい希望と理解し、大いに喜んだという。
出典は「世説新語 言語」(谢玄答曰“譬如芝兰玉树,欲使其生于庭阶耳”
接孟氏之芳邻】孟子の母親のような才ある隣人と付き合うことができた。(受过孟轲的邻居那样好环境的影响
他日趋庭,叨陪鲤对】間もなく(他日)父の家に戻り(趋庭)、子として(鲤对)その教えを聞く(叨陪)。
出典は「論語 季氏」(孔鲤(孔子之子),趋庭,受父亲教诲
今茲捧袂,喜托龙门】今ここに(今茲)幸いにも(捧袂)登竜門と言うべき宴席に参列できた喜びを噛みしめている(喜托龙门)。
出典は「後漢書 李膺伝」(膺以声名自高,士有被其容接者,名为登龙门
杨意不逢,抚凌云而自惜】楊得意に逢わなければ、自分の文章(凌云)が埋もれたまま()となり嘆いたであろう(自惜)。
杨意】yáng yì 漢の文人、楊得意(ようとくい)を指す。彼は武帝の側近であったが、武帝が文学を大変好んでいたため、
同郷(成都)の文章家、司馬相如(しばしょうじょ)を武帝に紹介した。
武帝に仕えた司馬相如は、賦の名人として知られるようになり、その才能を高く評価された。
出典は「史記 司馬相如列伝」(司马相如经蜀人杨得意引荐,方能入朝见汉武帝
锺期既遇,奏流水以何惭】鐘子期のような知己を得れば(既遇)、才能を発揮でき(奏流水)、悔いを残さない(以何惭)。
锺期】zhōng qī  楚の文人、鐘子期(しょうしき)を指す。彼は、琴の名人伯牙(はくが)の音楽の理解者として知られ、
その死後、伯牙は琴の糸を切って生涯演奏しなかったといわれる。出典は「列子 湯問」(伯牙善鼓琴,钟子期善听。
伯牙鼓琴,志在高山,仲子期曰“善哉,峨峨兮若秦山,志在流水”,曰“善哉,洋洋乎若江河”伯牙所念,钟子期必得之

胜地不常,盛筵难再】名勝の地(胜地、ここでは滕王閣)は不変ではなく、盛大な宴(盛筵)は再度を期し難い。
兰亭已矣,梓泽丘墟】蘭亭の集い(兰亭)は過去(已矣)となり、梓沢の庭園(梓泽丘)もすでに廃墟と化した。
蘭亭(らんてい)は、晋の王義之など文人の集いが開かれた会稽(浙江省紹興)の庭園。
梓沢(したく)は、晋の石崇(せきすう)の別荘である金谷園(きんこくえん 河南省洛陽)で開催された文人の集い。
出典は「王義之 蘭亭詩集」「潘岳 金谷集詩
临别赠言,幸承恩于伟饯】送別の宴(伟饯)、激励の言葉を賜わった(临别赠言)こと、望外の幸い(幸承恩)である。
登高作赋,是所望于群公】高所に登り賦を作る(登高作赋)ことは、参列の諸賢が願って止まないところ(所望于群公)。
出典は「韓詩外伝 巻七」(孔子曰“君子登高必赋”
敢竭鄙怀,恭疏短引】僭越ながら(敢竭鄙怀)、序文(短引)を書かせていただいた(恭疏)。
一言均赋,四韵俱成】諸賢から賜った韻字(一言)に賦をのせ(均赋)、四韻の詩を書き上げた(四韵俱成)。
请洒潘江,各倾陆海云尔】各位には、潘岳(はんがく)、陸機(りくき)の如き才筆を振るわれんことを。
洒潘江,倾陆海云尔】才筆を振るうや、潘岳の江、陸機の海の如し。(筆を振るう)云尔(如し 如此
潘岳、陸機ともに、晋の代表的詩人。出典は「鐘嶸 詩品」(陆才如海,潘才如江


滕王阁】 téng wáng gāo gé    滕王閣(とうおうかく)    江西省南昌市
唐の永徽4年(653年)李元嬰(りげんえい)によって創建。
岳陽楼(湖南省岳陽)、黄鶴楼(湖北省武昌)と並んで、江南の三大名楼とされる。

】 jiāng    贛江(かんこう)  江西省を南北に貫く江西最大の川
佩玉鸣鸾】 pèi yù míng luán    貴人が腰帯に下げる飾り玉と天子の車につける鈴。(身上佩戴的玉饰、响铃

南浦】 nán pǔ    地名、江西省南昌市
】 jiàn    滕王閣の欄干。(栏杆



王勃 wáng bó  (おうぼつ)   (649~676年)
初唐の詩人。字は子安(しあん)山西竜門の人。
幼小より詩文にすぐれ、664年、15歳の時、その才を認められ高宗に仕えた。

その才気にあふれた華麗な詩で詩壇を圧倒し、楊烱(ようけい)、盧照鄰(ろしょうりん)、
駱賓王(らくひんのう)とともに「初唐の四傑」と称された。
作風は、律詩にすぐれ、感情のほとばしりを新鮮な詩風にうたい盛唐詩へのさきがけとなった。
著作に詩文集「王子安集(おうしあんしゅう)」(十六巻)