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遼寧省概要 (http://wiki.chakuriki.net)


満州族 (遼寧省)


(遼寧省までの交通)

成田から北京首都国際空港(PEK)まで4時間。

北京から瀋陽桃仙国際空港(SHE)まで1時間30分。

成田から直行便で大連周水子国際空港(DLC)まで3時間。



1.遊覧船で北朝鮮見物が出来る。

ひそかに上陸もさせてもらえるらしい

2.朝鮮との国境付近は高層ビルが立ち並ぶ。

おそらく北朝鮮へのあてつけ

3.観光地図の裏は朝鮮への旅行案内。

4.読みは中国語で 「リャオニン」

5.遼寧 (特に大連) と吉林は、中国の他地域に比べて極めて親日的である。
満洲国だった影響だろう。内モンゴルも親日だろう。

帰国した駐在員から聞いたけど、大連でも反日デモは起きてたそうな。

特に2012年3月11日は「もう1回地震来い!」とか騒いでたとか。失業者っぽい若者が主体だそうで。

6.北朝鮮と隣接するから朝鮮族も多く住んでいる。
また朝鮮料理も美味しい。 脱北者も多くいる。

朝鮮族は韓国人と違い露骨な反日でない。
国境で北朝鮮美女と握手をするというツアーがあるらしい。

7.遼寧省の高等教育の普及率は中国で最高。

8.旅順の軍港地区は外国人立ち入り禁止だが実際は結構緩い。 日本人なら日本語で話さなければまずばれないし。
バレても50元程度の口止め料取られるくらい。


大連の概要

1.大連周水子空港で両替をすると1割以上ごまかされる。

2.大連出身のモデルや女優は多いらしい。(ロシアの血が入っている人が多いらしく、肌が白く高身長が多い)

ある日突然 「実は私、俄羅斯族でした」 とカミングアウトするんだろうか?
(もちろん少数民族への優遇措置目当て) 満族みたいに一気に倍増したりして。

3.経済成長率が高い。 2008年に大連は一人当たりは9000ドル以上になった。おめでとう。

中国人は勤勉だけど人口が多すぎるために発展しにくいんだな。
都市部は経済成長しても日本の一人当たりのGDPの2・3分の1くらい。

4.大連市の市区人口は約210万人。都市圏では320万人超の副省級市。 在留邦人数は約4000人。

仙台市とほぼ同緯度で、四季が存在する。
気候は意外と (?) 温暖で非常に過ごしやすいらしい。



略称
遼 liao


省都
瀋陽 しんよう


位置
中国東北地区の南部に位置している。
この省の東南部は北朝鮮と隣接している。


面積
15万平方キロメートル。(北海道+九州+四国の面積)


気候
丹東-営口-錦州一帯から南部が暖温帯湿潤半湿潤モンスーン気候に属し、その他の広大な遼東、中、西部がそれぞれ温帯湿潤、半湿潤、半乾燥モンスーン気候に属する。
春と秋は短く風が強い。
1月の平均気温が南部から北部へかけて-5℃から-15℃に下がり、7月は平均気温は27℃。年平均気温は、7.8℃。


人口
4,194万人。 (2001年)。 朝鮮、満、回、蒙古、シボなどの少数民族が住んでいる。



主な都市

瀋陽 (しんよう) 市、大連 (だいれん) 市、鞍山 (あんざん) 市、撫順 (ぶじゅん) 市、
本渓 (ほんけい) 市、丹東 (たんとう) 市、錦州 (きんしゅう) 市、営口 (えいこう) 市、
阜新 (ふしん) 市、遼陽 (りょうよう) 市、盤錦 (ばんきん) 市、鉄嶺 (てつれい) 市、
朝陽 (ちょうよう) 市、葫芦島 (ころとう) 市。



概要

東部は長白山脈に続く山地で、その支脈の千山山脈は遼東半島を形成している。
西部は内モンゴル高原に続く山間丘陵地区で、北東から南西方向の山脈が並行する。

山間丘陵地区の東端にある海沿いの狭くて長い平原は一般に 「遼西回廊」 と言われ、
中国の東北地区から華北地区に通じる主な陸上ルートである。

中部の遼河平原は東北平原の一部分で、遼河およびその支流の沖積によって形成され、
地勢は平坦、土壌は肥沃、水源が豊富で、遼寧省の主要な食糧生産基地である。


6000年前の新楽遺跡 (新石器時代の定住集落遺跡) の発見により、この地に古代文明が栄えていたことが判明した。
戦国時代には燕国に属し、秦では遼東、遼西等の郡を設置。

漢代には幽州の領土で、唐代に安東都護府、河北道がおかれた。
遼・金代には上京、東京、中京に所属、元代には遼陽行省がおかれた。

清代には都市が造られ、「盛京」 と称し、清末には 「奉天省」 と改称された。
1931年、関東州 (大連) を根拠地とした日本は満州事変を起こし、清朝最後の皇帝溥儀を擁立して満州国を樹立。

中華人民共和国建国後、遼寧地域は遼東省と遼西省及び瀋陽、旅大、鞍山、撫順、本溪の中央直轄市が成立。
1954年8月遼東、遼西両省や中央直轄市は廃止され、遼寧省に統合された。


主要農業地域は遼河平原で、食糧作物はコーリャン、トウモロコシ、アワを主とし、水稲の作付けも増えている。
工芸作物はダイズをはじめワタ、タバコ、ナンキンマメが多く、アブラナも栽培される。

遼東半島は中国の代表的な蚕糸の産地で、リンゴ、ナシなどの果樹作も盛ん。
沿岸では漁業、製塩、コンブなどの養殖が行われる。
長山群島付近は好漁場として知られる。

地下資源は鉄と石炭がきわめて豊富である。
鉄鉱山は鞍山市、本渓市、遼陽市、炭鉱は撫順市、阜新市、本渓市、朝陽市北票 (ほくひょう) 県などにある。
オイルシェール、マンガン、マグネシウム、モリブデン、滑石などにも富む。

これらを背景に、中国有数の工業地帯となっており、瀋陽市が機械を中心とした総合工業都市、
鞍山市が製鉄都市として知られるほか、各鉱山都市にも重工業が立地している。

大連市は中国の主要貿易港の一つで、造船、機械などの工業が発達。
京哈鉄道が通る瀋陽市を中心に鉄道網が発達している。

特産物は、大連、営口の国光リンゴ、大連の紅玉と黄元帥、綏中 (すいちゅう) の秋白梨、
北寧の鴨梨、遼陽のサンザシ、大連の黄金桃。
工芸品は撫順の黒玉彫りと琥珀工芸品、大連の貝殻細工、ガラス工芸品、
瀋陽の羽毛画 (羽毛を貼って図柄を描いたもの)
名酒は凌河 (りょうが) 白酒、鞍山大曲酒、大連黄酒、瀋陽の雪花ビール、サンザシ酒など。



観光スポット




瀋陽市は、遼寧省の省都で東北地区最大の総合工業都市である。
市名は、「瀋水の陽」 の意味で、市内の南部を流れる渾河 (こんが) の古名-瀋水の北に位置することから由来した。

瀋陽は清朝発祥の地である。
1625年、ヌルハチ (清の太祖) が女真族を統一し、後金を建国、瀋陽の地を都と定めた。
1634年、盛京と改称。
1636年、ヌルハチの子であるホンタイジ (太宗) が国号を清と改称。
1644年、ホンタイジの子、第三代・順治帝が長城を越えて明朝を滅ぼし北京に遷都。

盛京は北京遷都後も副都とされ、1657年には奉天府が設置された。
日本が戦前、奉天と呼んだのは、これに由来している。

満州事変勃発のきっかけとなった柳条湖事件 (1931年) の現場近くには旧日本軍の中国侵略の歴史を伝える 「九・一八歴史博物館」 が建てられている。

清の太祖ヌルハチが建てた後金の宮殿である瀋陽故宮やその墓である福陵、太宗ホンタイジの陵墓である昭陵など、満州族の故地としての遺跡と、
東京駅を模したと言われる旧奉天駅 (現瀋陽南駅) や旧大和ホテル (現遼寧賓館) など旧満州に関わる建物は街の観光名所となっている。

市の人口は726万人。
特産物は、不老林 (お菓子)、雪花ビール、羽毛画など。
観光地は、故宮博物館、盛京三陵など。




① 瀋陽故宮 (瀋陽市)  (世界遺産)

清朝初代皇帝、太祖 (ヌルハチ) により創建され、第2代皇帝 太宗 (ホンタイジ) の時代の1636年に落成した宮殿。
清の太祖ヌルハチは、1616年に女真国家後金を建て、1625年に遼陽から瀋陽に遷都、以降瀋陽が東北の中心地となった。

1636年太宗ホンタイジの時に清と国名を改め、3代目の順治帝の1644年に明朝を倒し、北京に遷都。
それ以降も遼寧省は、民族の故地として敬われた。

6万平方メートルにも及ぶ故宮には、庭園や数多くの建造物で構成されている。
太祖によって建てられた 「大政殿」 は、モンゴル族のパオ (蒙古包) をモデルにした八角二層の建物で、ここで式典等が執り行われていた。

大政殿前には10の小殿が並んでいる 「十王亭」 があり、ここは大臣達の執務室であり軍隊の詰め所となっていた。
旗と武器、衣装や壺など当時のものが数多く展示されている。





② 北陵公園(ほくりょうこうえん) (瀋陽市)  (世界遺産)    瀋陽市皇姑区泰山路12号

清朝二代皇帝の太宗ホンタイジ夫妻の陵墓。総面積は3300平方キロメートル。正式名称は昭陵(しょうりょう)。市の北部にあるため北陵と呼ばれている。
陵を中心として広々とした湖、松林が広がり、山紫水明の庭園の趣きがある。敷地内には大理石の参道が続き、左右対称に馬や獅子などの石像が立ち並ぶ。


   



游客朋友您好,在您面前的就是北陵公园了,当您进入其中,一定感受到了扑面而来的历史气息,
希望您可以在我的讲解中,领略到它背后的故事。

北陵公园原名为“昭陵”公园,是因为位于沈阳市的北郊,所以又称为北陵。

这里是清朝第二代皇帝清太宗皇太极和孝端文皇后博尔挤吉特氏的陵墓,
是清朝“关外三陵”中规模最大、气势最宏伟的一座,也是我国现存最完整的古代帝王陵墓建筑群之一。

皇太极是清太祖努尔哈赤的第八个儿子,出生于现在的辽宁省抚顺市新宾县永陵镇。
他是历史上著名的政治家、军事家,一生勤于政事,勇于战阵,在位17年,完成了东北统一大业,建立起关东一统的大清帝国。

崇德八年,也就是公历1643年的八月初九深夜,在沈阳故宫的清宫东屋南炕上“端坐无疾而终”,享年52岁。
死后的梓棺移至陵寝暂安。

顺治六年也就是公元1649年四月十七日,孝端文皇后博尔济吉特氏死去,第二年梓棺移至昭陵与皇太极合葬。

昭陵建于崇德八年即1643年,竣工于顺治八年即1651年,以后历经多次改建和增修而形成现在的规模。
在建筑风格上,昭陵既吸取了明陵的建筑长处,又具有满足陵寝建筑的特点,是汉满文化交融的典范。

昭陵占地面积45万平方米,平面布局遵循“前朝后寝”的原则,自南向北由前、中、后三部分组成,其主要建筑都建在一条中轴线上,
两侧建筑采取对称形式分布,中轴线的最后面是全部建筑的主体。

好了,游客朋友,马上进入北陵公园好好参观一番吧?



【太宗皇太极】qīng tài zōng huáng tài jí  太宗ホンタイジ(1592~1643年)。清朝の第二代皇帝。(在位1626~1643年)
【孝端文皇后博尔挤吉特氏】xiào duān wén huáng hòu bó ěr jǐ jí tè shì
孝端文(こうたんぶん)皇后。モンゴル出身。姓はボルジギン氏(Borjigin)

【关外三陵】guān wài sān líng  関外(長城の外)三陵(他の二陵は東陵と永陵)
【太祖努尔哈赤】tài zǔ nǔ ěr hā chì  太祖ヌルハチ(1559~1626年)。清朝の初代皇帝(在位1616~1626年)
【沈阳故宫的清宁宫】shěn yáng gù gōng de qīng níng gōng  瀋陽故宮の清寧宮

【端坐无疾而终】duān zuò wú jí ér zhōng  (オンドルに)座ったまま自然死した
【梓棺移至陵寝暂安】zǐ guān yí zhì líng qǐn zàn ān  帝の棺は北稜の寝殿にしばらく安置された
【陵寝建筑】líng qǐn jiàn zhù  墓の近く(帝の近くの意)に寝殿を建て、儀式を行なう制度

【前朝后寝】qián cháo hòu qǐn
墓の中庭に前後合わせて三つの廟が配置され、前から順に二つが「前朝」(前に朝廷)、一つが「後寝」(後ろに寝殿)と呼ばれる
【中轴线的最后面】zhōng zhóu xiàn de zuì hòu miàn
三つの廟のうち、最後列の寝殿は祭祀などの儀式が行われる主要な建築物となっている



観光客の皆さんこんにちは、今あなたの目の前に北陵公園があります。ここであなたは、きっと歴史の息吹を感じることでしょう。
また私の説明を聞いて、その歴史の背後にある物語を味わっていただきたく思います。

北陵公園はもともと「昭陵」(しょうりょう)という名の公園で、瀋陽市の北郊にあることから北陵とも呼ばれています。

ここは清朝の第二代皇帝ホンタイジ(太宗)と孝端文(こうたんぶん)皇后ボルジギン氏の陵墓がある場所です。
清朝の関外三陵(他の二陵は東陵と永陵)の中では最大規模を誇り、現存する古代帝王の陵墓建築物の一つでもあります。

ホンタイジは清の太祖ヌルハチの八男で、現在の遼寧省撫順市新賓県永陵鎮に生まれました。

彼は歴史上著名な政治家、そして軍人でもあり、生涯政務に精勤し、武勇の誉れも高く、在位十七年、
東北統一の大業を完成し、関東一円の大清帝国を打ち建てました。

崇徳八年、西暦1643年の八月九日深夜、瀋陽故宮の清寧宮東屋の南オンドルの上で座ったまま逝去しました。
享年五十二歳。帝の棺は昭稜の寝殿にしばらく安置されました。

順治六年、西暦1649年四月十七日、孝端文皇后ボルジギン氏が亡くなり、翌年に棺を昭陵に移してホンタイジと合葬しました。


昭陵は崇徳八年の1643年に造営が始まり、順治八年の1651年に完成し、その後何度も改築や増修を経て現在の規模になっています。

昭陵の建筑様式は、明陵(北京)の建筑の長所(建物と自然の調和)を取り入れているだけでなく、
陵寝建筑(陵墓の周囲に寝殿を配置)という特徴的な建築制度を採用しており、漢満文化を融合した様式となっています。

昭陵の面積は、45万平方メートルに及び、「前朝後寝」という平面配置の原則に沿って、南から北に、前後合わせて三つの建物が配置されています。

一直線上に配置された主要な建物の両側には、付属建築物(宝塔や石獣など)が設置され、それらは左右対称に配置されています。
また三つの主要建物のうち、最後列の寝殿は(祭祀などの儀式が行われる)主要な建築物となっています。

さあ、観光客の皆さん、さっそく北陵公園に入って、ゆっくり見学してみませんか?


写真1 北稜公園入口
写真2 太宗ホンタイジとその妻・孝文端皇后の陵墓
写真3 参道に配置された石獣







大連市は、遼東半島の最南端に位置する対外開放都市。

大連は長い間、三山浦と呼ばれる小さい漁村にすぎなかった。
19世紀後半、ヨーロッパ列強の侵略が本格化すると、清朝政府はその圧力に屈し、1898年、帝政ロシアとの間に旅順と大連を租借地とする条約を結ぶ。

帝政ロシアは、ハルピンから東清鉄道を遼東半島の南端まで伸ばし、旅順を軍港に、大連を商港とした。
その時の呼び名は、ロシア語で遠方を意味するダーリニーであった。

1905年、日露戦争が日本の勝利で終わると日本の直接統治 (租借地) が始まった。

日本は、ロシアが巨額の資金を投入して建設途中であった街を手中に収めると、町の名を大連に改め、ニコライフスカヤ広場 (中山広場) を大広場と変え、
その周りに、大連民政署、市役所、朝鮮銀行、大連ヤマトホテル、横浜正金銀行など石造りの堂々たる洋式の建造物を建てていった。

それらの建物は名を変えてはいるが今でもそのまま残っていて、独特の風采を放ちつつ広場を囲んでいる。

また市街地にある大連港は、冬も凍らぬ良港で1万トンクラス以上の深水バースを28個有する東北地方最大の国際貿易港である。
大慶油田から鉄嶺市を経て大口径の地下パイプラインが通じており、原油、石油製品を海外に輸出している。

大連市の人口は591万人。
特産品は、服装、貝殻細工、ガラス工芸品及びリンゴ、海産物など。
観光地は、中山広場、二〇三高地など。





③ 中山広場 (大連市)

大連市街地の中心部にあるのが中心広場。

主要道路がこの広場を中心に放射状に延びているのがわかる。

日本統治時代は大広場と呼ばれ,現在でも当時の日本人が建てた欧風建築物がそのまま残っている。

ルネッサンス式建築物である大連賓館 (旧ヤマトホテル)、典型的な折衷様式の中国銀行大連分行 (旧横浜正金銀行大連支店)。

ゴシック様式の遼寧省対外貿易経済合作庁 (旧大連警察署)、中国工商銀行 (旧朝鮮銀行大連支店)、郵政局 (旧関東逓信曲)、中国交通銀行 (旧東洋拓殖大連支店) など日本と縁のある建物が並んでいる。







④ 二〇三高地 (にひゃくさんこうち) (大連市旅順口区)

中国北東部の遼東半島南端に位置する旅順 (現在の大連市旅順口区) にある丘陵。

日露戦争ではロシア海軍の基地のあった旅順港を巡る日露の争奪戦による激戦地となったところ。

第3軍の司令官として出征した乃木希典の漢詩には音を写して爾霊山 (にれいさん) と詠まれた。

現在も中国海軍の軍事施設に含まれており外国人の立ち入りは禁じられてきた。

1990年 (平成2年) 頃から観光客に開放されるようになった。







⑤ 高句麗前期の都城 「五女山城」  (本渓市桓仁満族自治県) (世界遺産)

高句麗は前漢 (紀元前206-25 年) から隋、唐 (581-907年) にかけて、中国北東部に現れた多大な影響力を持った辺境民族である。
その活動地域には 「五女山城」 (遼寧省本渓市)、「国内城」、「丸都山城」 (吉林省通化市) など40を越える多くの遺跡が残されている。

そのうち14 の古墳が王陵で、残りの26 の古墳が貴族の墓でこれらは高句麗文化に属する。
「五女山城」 は、高句麗の始祖である朱蒙が築いた山城である。

桓仁 (かんじん) 満州族自治県の県城 (県政府の所在地) から東北9㎞に位置し、山の標高は約800mで周りは切り立った岸壁になっている。
山城の周囲は5㎞弱で、そのうちの9割は山の尾根や絶壁を利用した城壁となっている。

城の東、南、西の3方向に城門を備えている。
これまでの調査で、山城の3ヶ所で、宮殿、倉庫、祭祀場所の大規模な建築遺跡が見つかっている。

城の中心部には、長さ12m・幅5m・深さ1.5m前後の生活用水用貯水池があり、多くの半地下式兵営や、歩哨所などの軍事施設の遺跡も発見されている。
「五女山」 の名前は、五人の姫が軍隊を駐屯させていたことに由来するという伝承が、現地に残っている。

五女山城には、中国北方民族の伝統的な山城建築の要素を受け継ぎながら、使う材料や配置、築城には山に沿って建てられるなど、高句麗の特徴が多く見られる。


五女山城西門





⑥ 虎山長城 (こざんちょうじょう)  (丹東市寛甸満族自治県虎山鎮虎山村)

虎山長城は、丹東市内から南に20キロ離れたところにある。
明代に造営され、明代の万里の長城の東端の起点であった。

長城が建てられている虎山鎮虎山村南麓の地名から、虎山長城と呼ばれている。
明の成化帝の成化5年 (1469年) に造られた。

建造した目的は勢力を強めた後金と海上の外敵の侵入に防ぐためであった。
しかし、明末期になると満洲人の後金 (のちの清) の勢力下になり、破棄された。

現在約200メートル、見張り台3つ、北の方角には、6つのの壁台が残っている。
南に鴨緑江を臨み、北朝鮮と赤島、義洲古城と面している。
地形は険しく、堅固な防衛の要衝だった。





遼寧省アラカルト




1. 李香蘭 (りこうらん) [1920-2014]



映画女優、歌手、政治家。本名山口淑子。奉天 (現在の瀋陽市) 出身。

昭和13年 (1938)、日本が中国に樹立した満州国の満州映画協会に入り、専属映画女優となる。
美貌と澄んだ歌声でたちまち人気を博し、「白蘭の歌」 「支那の夜」 などの主演映画は、劇中歌 「何日君再来 (1939)」 「蘇州夜曲 (1940)」  「夜来香 (1944)」 などと共に大ヒットした。

終戦時には 「日本に協力した中国人」 として処罰されそうになったが、軍事裁判で日本国籍であることが証明され国外追放となり、1946年に日本に帰国。
以後、「山口淑子」 名で女優やワイドショーの司会、参議院議員としても活躍した。


映画 「上海の女」 (1952年 昭和27年) は、李香蘭 (山口淑子)、三国連太郎主演による、戦時下の上海を舞台にした悲恋メロドラマである。

映画の中で、二人が喫茶店で語り合っているとき、店主が気を利かせて、李香蘭のヒット曲を流す。
すると、店に乱入して来た憲兵らが、その歌を抗日の歌として、店主を逮捕しようとする場面がある。

戦時中の上海は、日本軍の支配下におかれ、日本人は、安全を保障された居住地で快適に生活していた。
中国人とのトラブルが起きても、憲兵が現れるや、中国人たちはみな黙り込んでしまうのである。

たが日本の敗戦が濃厚になると、状況は一変する。日本人たちは、声をひそめて生活するようになり、
終戦とともに、命からがら引き揚げてくることになるのである。









2. 満州族 (人口1,038万人 2010年)

中国東北部に発祥したツングース (シベリア) 系民族。古くは女真族といった。

漢族が農耕民族なのに対し、満州族は狩猟民族であった。

満州族の伝統的な髪型である辮髪 (べんぱつ) とチャイナ・ドレス (旗袍 チーパオ)。
これは狩猟民族であった満州族が馬に乗って狩猟をするうえで邪魔にならない髪型や服装だった。

漢族の暮らす中国本土では早くから開発が進んでいたのに対し、近代以前の満州には深い森林が広がっていた。
満州族はそこで獣を追ったり魚を取ったりして暮らしており、言葉も漢族とは違い、満州語という独自の言葉を話していた。

17世紀前半、満州族の諸部族を太祖ヌルハチが統一。
その子孫が中国を征服して、現在の中国およびモンゴル国の全土を支配する清を興した。

清の成立後は、漢民族とともに生活し、密接に触れ合ったため、今の満州族は中国語を使うようになった。
なお戯曲「茶館」などの作品で知られる作家の老舎も同民族の出身である。







3. 坂の上の雲

2009年から放映されたNHK大河ドラマ 「坂の上の雲」 (原作は司馬遼太郎の同名小説) は、日露戦争時代の大連・旅順が舞台である。

明治維新から日露戦争勝利への38年間を描き、児玉源太郎 (高橋英樹)、東郷平八郎 (渡哲也)、乃木希典 (柄本明)などの将官たちの姿や、
当時の世界情勢、満州や日本海での各戦闘が時系列で描かれている。







4. 遼東半島


遼東半島は、遼寧省の南部に位置する中国第二の大きさの半島で、旅順・大連などの都市がある。
遼東という名称は、遼河の東岸に位置する半島という意味である。

清末期 (19世紀半ば) に列強の中国進出が始まり、日清戦争の際には日本軍が大連を占領した。

1895年、日清講和条約 (下関条約) で遼東半島全域を清に割譲させたが、露仏独の三国干渉により清にこの地を返還した。
代わって1898年、ロシア帝国が清朝から大連と旅順を租借、大連を自由貿易港、旅順を軍港とした。

1905年になると日露戦争に勝った日本が遼東半島を租借、東清鉄道の一部 (長春~旅順) を取得したことにより、
大連が貿易港、旅順が海軍の軍港としての役割を担い、大連には満鉄本社、旅順には関東軍司令部が置かれ、
敗戦までの約40年間にわたって統治した。

1932年の満州国建国以降も大連は発展を続け、1940年には大連の人口約60万人の内、日本人は約3割の18万人を数えるに至り、
旧満州最大の日本人居留地となった。

ロシア・日本に占領された遼東半島は、それだけ重要な町であったことを意味し、現在でもその評価は変わっていない。

遼東半島は、その先端に旅順・大連という重要な貿易港・軍港を持ち、遼寧省のGDPの7割以上を占め、中国の重要な重工業基地でもある。
それは後背地である東北地方内陸部の豊富な資源と工業力に因って支えられているためである。

二〇三高地(旅順)












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