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内蒙古(モンゴル)自治区概要 (http://wiki.chakuriki.net)


モンゴル族 (内蒙古自治区)


(内蒙古自治区までの交通)

成田から北京首都国際空港(PEK)まで4時間。

北京からフフホト白塔国際空港(HET)まで1時間30分。


ウィキトラベル
(内モンゴル自治区)






1.道端でダンボール上にアイスを広げて売っている。

2.モンゴル本国よりもモンゴル系民族が多い。

3.妙に長い変な地名が多い。

ダルハンムミンガンリエンホウチー。
よせばいいのに漢字で書くからなおさらわかりにくい。
「翼」 「旗」 だけは漢字のほうがいい。「~右翼後旗」 とか。

4.別名 「南モンゴル」

5.地図上ではどうみてもこっちが 「外」 でモンゴルが 「内」 にしか見えない。
中国から見て内側にあるから 「内」。 中華思想だから。


6.嘗て、ここのフルンボイル大草原で、関東軍とソ連軍が激闘を演じた、ノモンハン事件。

関東軍のボロ負けと言うことが言われていたが、ソ連軍も相当被害を被ったとも言われている。

戦場となった場所には80年代くらいまで銃、鉄兜、戦車の残骸などが散らばっていたらしい。

7.読みは中国語で 「ネーモンクー」

8.ゼルダと同じ地名 「ハイラル」 がある。
ちなみに漢字表記は 「海拉爾」。 ラテン文字表記は ?音:Hailaer 英:Hailar 対してゼルダに出てくるのは 「Hyrule」

9.シナマ・ポンゴルとは無関係 サッカーファン以外分かるのか?これ。

10.呂布の故郷。

11.内モンゴルと名のつくものの現在は全人口の9割が漢民族でモンゴル人は少ししか生き残っていない。

12.時代により領域が狭まったり広がったりしている。

13.モンゴル人もたいてい中国語を話せるが、年配の人はけっこう声調が適当らしい。

14.シベリア鉄道直通のK3・K4次はエレンホト駅で台車交換を行う。(中:1435mm 蒙・露:1520mm)

15.日本でも有名な昔話 「スーホの白い馬」 はモンゴル国ではなくここ内モンゴル、シリンホト付近の民話。



略称
内蒙 neimeng


省都
呼和浩特 フフホト


位置
モンゴル人民共和国と国境を接する中国北部辺境にある。


面積
118.3万平方キロメートル。 (日本の面積の3倍)


気候
温帯大陸性モンスーン気候を主とし、
春:気温が急上昇し、強風が吹く天気が多い。

夏:短くて暖かく、降雨量が集中。
秋:急激な冷え込みと霜。
冬:長くて厳寒、寒波が襲来する天気が多い。

フフホトの平均気温
 1月  2月  3月  4月  5月  6月  7月  8月  9月 10月 11月 12月
-11.6 -7.2 0.3 9 16.1 20.7 22.6 20.6 14.6 7 -2.1 -9.4



人口
2,377万人。(2001年)。
蒙古、ダフール、エヴェンキ、オロチョン、回、満州、朝鮮などの少数民族が住んでいる。


主な都市

フフホト (呼和浩特) 市、パオトウ (包頭) 市、ウーハイ (烏海) 市、ウラーンハダ (赤峰) 市、
トゥンリヨー (通遼) 市、オルドス (鄂爾多斯) 市、フルンボイル (呼倫貝爾) 市、ウランチャブ (烏闌察布) 市、
バヤンノール (巴彦淖爾 )市、ヒンガン盟 (興安盟)、シリンゴル盟 (錫林郭勒盟)、アルシャー盟 (阿拉善盟) 。



概要

地形は、広大な高原地帯で、東部には大興安嶺山脈が南北に走り、南部は陰山山脈が東西に延び、小さな湖が多い。
北東部にはフルンボイル (呼倫貝爾) 高原が広がり、大興安嶺山脈の南東部の西遼河流域は平野で、農業に適している。

北部のモンゴルとの国境一帯にはゴビ砂漠が広がる。
気候は、寒暑の差が激しく、ソ連との国境付近では冬季には平均零下28度にも達し、夏季には35度以上になる。
また降雨は少なく (年平均約300~400mm)、非常に乾燥し、草原と砂漠が多い。


二万年前にはこの地にオルドス人 (旧石器時代) が登場している。

戦国時代には趙、燕、匈奴、東湖などの領土となる。
秦・漢代には郡がおかれ、唐代には多州が置かれた。

12世紀末、指導者テムジンの出現によって、モンゴル高原東北部で遊牧生活をしていたモンゴル族が統一された。
タタール族、ケレイト族、ナイマン族などの諸部族を従えて、1206年にモンゴル帝国を建国。
その後1271年に国号を元と定め、大都 (現在の北京) に遷都した。

明・清代には各路の管轄下におかれ、清の初めに現在の 「蒙古」 という名前がつけられる。
第二次世界大戦で日本に占領されたが、その敗退によって独立運動が起り、1947年内蒙古自治区が成立した。


牧畜が主産業で、ヒツジ、ヤギが広く飼われているが、東部のフルンボイル高原はウシ、ウマの大型家畜に適し、西部にはラクダもみられる。
中部を黄河の湾曲部が東流するが、流域の河套 (かとう) 平原は古くから灌漑農業が行われ、「塞上の江南」 と呼ばれてきた。

食糧作物はコムギ、ハダカエンバク、アワ、ジャガイモで、工芸作物はゴマとテンサイが多い。

大興安嶺山脈は針葉樹の原生林におおわれ、林業が盛んで、森林鉄道が北端まで延びている。
包頭(バオトウ)市北部のバヤンオボー (白雲鄂博) 鉱区に鉄鉱山、烏海 (ウーハイ) 市、満洲里市に炭鉱がある。
石炭や鉄鉱石だけでなく、イットリウムやランタンなどのレアアース (希土類) の宝庫。
天然塩類の生産量は全国一。

高原は内陸河川の流域で、塩湖が多く、塩、ソーダ、硫酸ナトリウムを産する。
工業は毛紡織、皮革、食肉加工、乳製品、製糖などを主とする。

省都のフフホトは毛織物工業で、第二の都市包頭は鉄鋼コンビナートで有名。
エレンホト、満州里などの国境地域が国境貿易の窓口として開放され、ロシアやモンゴルとの貿易が発達している。

南西部を京包鉄道、包蘭鉄道が横断し、国境にある満洲里市に浜洲鉄道 (ハルビン-満洲里)、
エレンホト (二連浩特) 市に集二鉄道 (集寧 市-エレンホト) が通じる。

特産物は、烤全羊 (こうぜんよう 羊の丸焼き)、しゃぶしゃぶ、、昭君酒、馬奶酒 (馬乳酒)、奶茶 (乳茶 ミルクティー)、
酥油 (そゆ 牛乳から制した油)、クコ、鹿茸、熊胆、蒙古靴、チンチラの毛皮、オオヤマネコの皮、マーモットの皮、

馬頭琴
(ばとうきん モンゴル琴) など。





観光スポット



フフホト (呼和浩特) 市は、北京の西北西480km、内蒙古自治区の区都。
黄河の支流、大黒河の北方の草原地帯に開けた町である。
「フフホト」 とは、モンゴル語で 「青い城」 という意味。

人口は231万人。異国情緒あふれるその響きにふさわしく市内にはモンゴル族をはじめ、約20万人もの少数民族が暮らしている。
気候は、内陸特有の大陸性気候で夏でも比較的涼しい。
しかし、冬になると氷点下30~40度にも下がり、昼夜の温度差が大きな地域である。






① 大草原ツアー (フフホト市)

フフホト観光のメインは、なんといっても大草原ツアー。

6月中旬から9月上旬がもっとも美しいと言われている。

典型的な草原ツアーは1泊2日。

専用バスで草原に行き、宿泊場所に着いたらモンゴル族の民家を訪問したり、馬に乗ったりして遊ぶ。

夕食は羊料理主体のモンゴル料理。

この時にモンゴル舞踊や歌を披露してくれる。

宿泊はモンゴルのテント式住居 「デラックスパオ (シャワー・トイレ付き)」。

天気が良ければ満天の星空を満喫できる。

翌日はモンゴル相撲を見てフフホトに帰る。

昼食は市内でとり、午後は市内観光。
3日コースだと、チンギスハン陵見学、ゴビ砂漠観光などが加わる。

手配は、内蒙古中国国際旅行社や内蒙古中国旅行社のツアーカウンターを利用するのが、
便利かつ安心でおすすめである。









② 大召寺 (だいしょうじ) (フフホト市)

大召寺は、明代の1580年、モンゴル・タタール族の首領アルタン・ハンが建造したチベット寺院。

本堂で銀色のお釈迦様の仏像を祭っていることから、「銀仏寺」 とも呼ばれている。

大召寺で収蔵されている多くの文物は、モンゴル族の歴史と宗教文化を研究する上での貴重なデータである。









③ 五塔寺 (フフホト市)

五塔寺はフフホト市の旧城と呼ばれる地域にある。

清代の18世紀前半に建てられ、正式には 「金剛座捨利宝塔 (こんごうざしゃりほうとう)」 と言う。

大きな塔の上に、四角形の小さい塔が5つ立ち並び、塔には上から下まで全部で千余りの仏像の彫刻がほどこされていることから、
またの名を 「千仏塔」  という。

内部には、モンゴル文字による天文図の石刻も残っており、天文学史研究でも重要な資料となっている。






④ 内蒙古博物館 (フフホト市)

内蒙古博物館はフフホト市街中心に位置する。

博物館の屋上には空高く疾走する白い駿馬の像が捧げられ、内モンゴル自治区の飛翔、吉祥を象徴している。

「内モンゴルの古代生物」 「内モンゴルの歴史」 「内モンゴルの近現代」 「内モンゴル民族文化」 などの4部門に分かれている。

この博物館の目玉でもある古代生物のコーナーの恐竜の化石は 、高さが10数メートルにも達する。

また、モンゴル民族の衣装や、生活に使われた道具なども陳列されている。

ここにくれば、恐竜の化石から、モンゴル族の歴史、風俗に触れることができ、フフホト、内モンゴル、モンゴルに関する知識を深めることができる。






⑤ 王昭君墓  (フフホト市)

王昭君は中国四大美女の一人である。
昭君墓は、市の南9キロの大黒河南岸にある。

王昭君は前漢元帝の後宮だったが、当時中国では匈奴の侵入に対する友好政策で女を送って結婚させていた。

王昭君は竟寧元年 (前33年) に匈奴の呼韓邪単干 (こかんやぜんう) が和親を求めて入朝すると、みずから匈奴への嫁入りを申し出た。
彼女が単于に嫁いだおかげで、漢と匈奴が60年も友好的に付き合うことができたといわれている。

陵墓の近くには、王昭君に関係のある文物を展示する文物陳列室があり、墓前に董必武 (とうひつぶ) の 「昭君墓に謁す」 の詩碑が建つ。
秋になると、周りの草木がみんな枯れてしまうが、昭君墓だけが依然として濃い緑色で覆われているので、「青墓」 とも呼ばれている。






パオトウ (包頭) 市は、内モンゴル自治区最大の工業都市として発展してきた町である。
「バオトウ」とは、モンゴル語でシカのいる所という意味。

1923年の京包鉄道の開通によって一躍内モンゴルエリアの商工業の中心となった。
新中国成立以降は、中国有数の鉄鋼業基地として 「草原鋼城」 と呼ばれている。





⑥ 成吉思汗陵 (チンギスハン陵) (パオトウ市)

チンギスハン陵は、モンゴルの英雄の陵墓である。
チンギスハン (1162年頃 - 1227年8月) は、モンゴル帝国の初代皇帝 (大ハーン) (在位1206年 - 1227年)。

一代で大小さまざまな集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を統一。
中国北部、中央アジア、イランなどを次々に征服してモンゴル帝国を築き上げた。

その帝国がチンギスの死後百数十年を経て解体した後も、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、
遊牧民の偉大な英雄としてチンギスは賞賛された。





⑦ 元上都遺跡 (げんじょうといせき) (世界遺産)

シリンゴル盟 (錫林郭勒盟) ドロンノール (多倫諾爾) 県北西にある元の都城址。

フビライ・ハンが憲宗6 (1256) 年、劉秉忠に命じて居城として建築、開平府といった。

のち即位して都としたが、至元2 (1265) 年に新城大都が築城されると上都と改称、元朝歴代の皇帝の避暑地となった。

1275年に上都を訪問したマルコ・ポーロが 『東方見聞録』 に記録したことによりヨーロッパ人にその存在が知られるようになった。

西洋ではザナドゥ (Xanadu  伝説の都) とも呼ばれる。





内蒙古自治区アラカルト




1. モンゴル族 (蒙古族 人口約480万人)

1206年にテムジンが蒙古の大汗に推戴され、号をジンギスハンとし、蒙古国を建国。
それ以後中国北部には、はじめて強大でしかも安定的に発展をとげる民族、蒙古族が現れた。

ジンギスハンは蒙古族の各部落を統一し、中国を統一し、元朝を築いた。
その後また大規模な軍事行動を通じて、その領域を拡大した。

モンゴル族は、歌と舞踊を愛好する民族であり、大多数がチベット仏教 (ラマ教) を信仰している。



2. モンゴル相撲 (ブフ 搏克)



国の祭典であるナーダム祭りや旧正月のお祝いなどに催し物としてトーナメント戦が開催される。

ブフ (力士のこともブフと言う) は、日本の大相撲力士のようなプロではない。
各大会に賞金、賞品があるが、それで生計を立てることはなく、警察官や軍人など別に職業を持っている。

ルールは、土俵がなく、組んだ状態から試合が始まる。
土俵が無いので「押し出し」といった技は無く、投げ技や足技を使って相手を地面に押し倒すと勝ちになる。

衣装は、帽子 (マルガイ) をかぶり、絹製のチョッキ (ゾドク) に短いパンツ (ショーダグ)。
そしてゴタルと呼ばれるブフ専用のブーツを履く。

神事として試合の前には鷹やライオンを表現した動きや舞が行われる。

テレビで大相撲が見られるようになり、モンゴル相撲で鍛えた人が日本の相撲部屋に入門するようになったようである。




3. パオ  (蒙古包)

モンゴル人の組立式テント。

その形が包子 (パオズ 饅頭) に似ているので、
中国人がつけた呼名である。

モンゴルの草原で暮らす遊牧民は、毎年一定の
サイクルで決まった場所を移動する場合が多い。



なぜ移動するかといえば、家畜のえさである牧草を
一気に食べつくさないようにするためである。

まず、ある場所で家畜を飼い、そこで家畜が牧草をある程度食べる。

そして別の場所に移動し、そこでまた家畜が牧草をある程度食べる。
そして、また元の場所に戻る頃には新しい牧草が生えているという訳である。

柳やニレなどの木材を組み合わせて骨格を作り、外側を羊毛のフェルトで覆う。
床に炉を作り、頂上に明りとりと煙出しの穴をあけ、側面にはめこんだ扉から出入する。

組立て、分解が自由で、動物の背に積んで簡単に移動できるのが特徴である。










中国語講座 「しゃぶしゃぶ」 

1984年,在内蒙古出土了一幅墓葬壁画,画中描绘的是辽代初期,
契丹 qìdān 人吃涮羊肉 shuàn yáng ròu 的情景。

这意味着在1100年前就有涮羊肉的吃法。
但按民间的传说,涮羊肉则起源于元代。

当年元世祖忽必烈 hūbìliè 统帅 tǒngshuài 蒙古大军南下远征。


这天,经过多次战斗,已人困马乏 rénkùnmǎfá,饥肠辘辘 jīchánglùlù,
他突然想起家乡的清炖 qīngdùn 羊肉,就吩咐部下杀羊炖肉。

可正当伙夫 huǒfū 宰羊割肉时,探马飞奔来报,敌军大队人马冲杀过来了。
饥饿难忍的忽必烈下令部队开拔的同时,大声叫喊:“羊肉!羊肉!”

厨师知道他性情暴躁,于是急中生智,飞刀切下十多片薄肉,放在沸水 fèishuǐ 里搅拌几下,
待肉色一变,马上捞入碗 wǎn 中,撒上 sǎshàng 点儿细盐 xìyán。

忽必烈接连吃了几碗后,翻身上马率 shuài 军迎敌,结果旗开得胜。
在庆功酒宴上,忽必烈特意点了那道羊肉片。
厨师选了绵羊 miányáng 嫩肉,切成薄片,再配上各种佐料,将帅们吃后都赞不绝口,忽必烈更是喜笑颜开。

厨师忙迎上前说:“此菜尚无名称,请帅爷赐名 cìmíng。”
忽必烈一边涮着羊肉片,一边笑着答道:“就叫‘涮羊肉’吧!”
从此“涮羊肉”就成了宫廷 gōngtíng 美食。

由于满族在历史上与蒙古族的渊源 yuānyuán 关系,到了清代,涮羊肉也成了宫廷中的冬令佳肴。

在十八世纪,康熙 kāngxī、乾隆 qiánlóng 年间举办了几次千人大宴 dàyàn,席间就有羊肉火锅。
后来由于太监 tàijiàn 泄漏了涮羊肉的佐料配方,涮羊肉这才得以在民间流传。

1854年汉族人经营的第一家涮羊肉饭馆“正阳楼”,在北京前门外开业。
历史走到今天,“涮羊肉”的火锅名店已经遍布全国各地,甚至漂洋过海。

节庆假日 jiàrì,亲朋好友围坐一堂,谈笑风声,随性取食,营造出一种“同心、
同聚、同享 tóngxiǎng、同乐”的文化氛围 fēnwéi。



【注 釈】

【辽】 liáo   遼 (りょう)  (916~1125年)
10世紀、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人、耶律 (やりつ) 氏の王朝。

【契丹】 qì dān   契丹 (きったん)
4世紀以来、満州から中央アジアの地域にいた、モンゴル系にツングース系の混血した遊牧民族。
10世紀に耶律阿保機 (やりつあぽき) が諸部族を統一、その子太宗の時に国号を遼と称した。

【忽必烈】 元朝の初代皇帝。世祖。モンゴル帝国第5代の皇帝。チンギス汗の孫。
金を滅ぼし、宋を併合し、都を大都 (北京) に移し、1271年国号を元と定めた。
越南・占城・ジャワまで併呑を企図、高麗を服属させた。
日本にも2度遠征軍を派遣したが失敗。(在位1260~1294)

【清炖羊肉】 qīng dùn yáng ròu  羊肉の煮込み。
羊肉を塩味だけで長時間煮込んだ料理。

【同心、同聚】 tóng xīn、tóng jù    一緒に仲良く、一緒に集まり。
【同享、同乐】 tóng xiǎng、tóng lè   一緒に享受し、一緒に楽しむ。
【文化氛围】 wén huà fēn wéi    食文化の雰囲気。



【口語訳】

1984年、内モンゴルで墓の石室に描かれた壁画が出土した。
描かれていたのは、遼の時代の初期、契丹人が 「しゃぶしゃぶ」 を食べている姿だった。

これは1,100年前、すでに羊肉料理が存在していたことを意味する。
一方、民間の言い伝えによれば、しゃぶしゃぶは元朝の時代に起源があるとされている。

当時、元の世祖フビライは、モンゴルの大軍を率いて南に向かって遠征していた。
ある日、フビライは多くの戦により、すでに疲れ果て、非常に飢え乾いていた。

彼は突然、郷里の羊肉の煮込みを思い出し、部下に羊を屠殺し、肉を煮込むよう命じた。
炊事夫が羊を屠殺し肉を切っていた時、見張り番があわてて駆けつけ、敵の大軍が押し寄せて来たと告げた。

部隊に出動を命じながらも、空腹に耐えかねていたフビライは、「羊肉!羊肉!」 と、大声で叫んだ。
フビライの気性が短気であることを知っていた料理長は、とっさにひらめき、刀をふるい、肉を薄く十数切れに切り分け、熱湯に二三度くぐらせた。

肉が肌色に変わるまで待ち、素早くすくい取って碗の中に入れ、塩をひとつまみ振り掛けた。
フビライは、続けざまに何碗か食べた後、馬に飛び乗り、軍を率いて敵を迎えうった。結果、緒戦に大勝利を収めた。

勝利を祝う酒宴の席で、フビライはこの羊肉のスライスを用意させた。
料理長はメンヨウの柔らかい肉を選んで薄片に切り、更に各種の調味料を調合した。

将軍と元帥達が口々に美味しいと絶賛するので、フビライの顔も思わずほころんだ。
料理長はいそいそと前に出て言った。 「この料理はまだ名がついておりません。ぜひとも司令官から名を賜りたく存じます」

フビライは、羊肉のスライスを湯にゆすぎながら、笑って答えた。 「それでは、しゃぶしゃぶと名付けよう!」
これ以降 「しゃぶしゃぶ」 は宮廷のごちそうになった。

満州族は歴史上、モンゴル族と源が同じであったため、清朝の時期になると、しゃぶしゃぶも宮廷の冬季のごちそうになった。
18世紀の康煕、乾隆年間に、千人規模の大宴会が幾度か催されたが、席上には、羊肉のしゃぶしゃぶ鍋があった。

後に、宦官がしゃぶしゃぶの調味料の調合指図書を口外したため、しゃぶしゃぶは民間にも広く伝わることになった。
1854年、漢人経営のしゃぶしゃぶ料理店 「正陽楼」 が北京の城門前に開業した。

歴史は今日に至り、「しゃぶしゃぶ火鍋」 の専門店は全国各地至る所に店を構え、はるばると海を渡り、海外にまで見られるようになった。

祝祭日、親友たちが一堂に会し、和やかに談笑し、気の向くままに食べる姿には、「一緒に仲良く、一緒に集まり、一緒に享受し、一緒に楽しむ」
といった食文化の香りというものが感じられる。









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