Top Page  中国語講座

山西省概要 (http://wiki.chakuriki.net)


黄河大鉄牛 (運城市)

1989年、運城市の唐代城砦遺跡で、鉄製の像が発見された。

鋳造の鉄牛4頭とそれを守る鉄の武士像である。
(高さ7メートル、重さ40トンもある)

これらは、黄河を渡るために船を並べて造った
長い浮橋を固定するのに使われたものである。

鋳造は精美で、生き生きとしており、4つの民族、ウイグル族と
蒙古族、チベット族、漢族を表している。

当時の朝廷は、全国各地から鉄を集めてこれらの巨大な
彫像や鉄牛を造り、橋を支えるために河の両岸に置いたという。

これは唐朝の富と権力の証しでもある。


(山西省までの交通)

成田から北京首都国際空港(PEK)まで4時間。

北京から太原武宿国際空港(TYN)まで1時間30分。



1.省内を南北に流れる汾河 (ふんが)は、全長 716km、省最大の河川である。
中国四大名酒の一つ、汾酒(ふんちゅう)は、その水源である汾河に因んで命名された。

良質な水源に加え、流域は原料となるコウリャンの一大産地であることから、古くから
酒造りに適した土地とされてきた。


2.中国四大美人の一人、楊貴妃は山西省南部の永楽県(現在の運城市)出身である。
彼女はもともと玄宗の息子の嫁だったが、玄宗に目をつけられ横取りされてしまった。


3.中国五大麺の一つ、刀削麺(とうしょうめん)は、山西省が発祥地である。
中国では、小麦粉をこねた生地を、本物の刀で削りながら鍋に放り込んで作っている。


4.北部の大同市には、断崖にある仏教寺院として知られる雲崗石窟(うんこうせっくつ)がある。
敦煌の莫高窟(ばっこうくつ)、河南省の龍門石窟とともに「中国三大石窟」と称される。


5.北東部の忻州(きんしゅう)市五台県には、文殊菩薩の聖地として知られる五台山がある。

古くから霊山として信仰を集めており、四川省楽山市の峨眉山、安徽省池州(ちちゅう)市の
九華山(きゅうかさん)、浙江省舟山市の普陀山とともに「中国四大仏教名山」と称される。




略称
晋 jin


省都
太原 たいげん


位置
中国北部、黄土高原の東部に位置する。


面積
15万6000平方キロ。(日本の面積の41%)


気候
気候は北側が半乾燥性温帯気候、南側が暖温帯気候に属し、1月の平均気温が-16から-2度、7月の平均気温が19から28度。無霜期は5~7ヶ月。
年間降水量は400から700ミリで、地表の水資源も少ないことから水不足が年々深刻になっている。


人口3,272万人。(2001年)
回、蒙古、満州族等の少数民族が住んでいる。



主な都市

太原 (たいげん) 市 、大同 (だいどう) 市、陽泉 (ようせん) 市 、晋中 (しんちゅう) 市。
長治 (ちょうじ) 市、晋城 (しんじょう) 市、臨汾 (りんふん) 市、呂梁 (ろりょう) 市。
運城 (うんじょう) 市、忻州 (きんしゅう) 市、朔州 (さくしゅう) 市。



概要

旧石器時代から集落があり、中華民族発祥の地と言われている。

古代は并州 (へいしゅう) に属する。春秋時代は晋国がここに都を定めていた。
略称の晋は、晋国があったことに由来する。

618年、唐の開祖・李淵が太原で挙兵、後唐、後晋、後漢が太原に都を定め、『北京』 と称した。

元代には大陸支配の拠点となり、明・清代には中国随一の商都として栄えた。
戦国時代は 「趙地」、秦代に 「太源郡」、漢代に 「并州」、唐代に 「河東道」 と呼ばれてきた。
元代に入って 「山西」 と称する。清代に山西省と なった。

北は万里の長城、東は太行山脈に囲まれた黄土高原など黄土に覆われた山や丘陵などの高地が省面積の72パーセントを占める。
恒山 (北岳)、五台山などの名山も多い。
省名の山西は太行山脈の西にあることから。

『石炭と鉄の里』 といわれるほど、豊富な地下資源に恵まれている。
鉄鋼、重機、自動車、化学工業が発達し、麦、トウモロコシ、高粱、柿、葡萄などの生産も盛ん。

市内には 汾河 (ふんが)、沁河 (ちんが)、桑幹河 (そうかんが) などがある。

特産物は、杏花村汾酒、竹葉青酒、長治路酒、六曲香酒、
陳酢、楡次 (ゆじ) 大曲酢、陵川玉泉陳酢、
平遥牛肉、刀削面、臨猗 (りんい) ザクロ、汾陽クルミ、長治サンザシ、
平遥推光漆器 (へいようすいこうしっき)
弁州刃物、陽泉鉄鍋など。





観光スポット




太原市は、山西省中央部の盆地にある商業都市。
北京と洛陽の中間点にあたり、交通の要衝である。

紀元前4世紀頃の春秋戦国時代に、晋の国の都が置かれていた歴史の古い街。
標高800mの高原地帯で、周辺は黄土地帯で非常に乾燥する。
日本にも春先来る 「黄砂」 を直接かぶる町である。

市の人口は366万人。特産物は鋏、刃物とガラス製品。
観光地は晋祠、山西省博物館 (純陽宮)、双塔寺など。






① 双塔寺 (太原市迎沢区)

双塔寺の元名は永祚寺 (えいそじ)。
寺の中にふたつの塔が聳え建っていることから双塔寺と呼ばれている。

寺内の建築物はすべてレンガ造り。升組みや瓦の構成が精巧で美しい。
大殿は2層の楼閣式になっている。

大殿内2階の天井のしっとりした美しさは一見の価値がある。
寺の端にあるふたつの塔は八角13層。
塔内には階段があり、最上階まで上ることができる。

塔内の窓からは、太原市内が一望のもとに見渡せる。
また、寺内には牧丹が植えられており、花が開く6月には牧丹を鑑賞できる。







② 晋祠 (しんし) (太原市晋源区)

晋祠は、周の武王の次男唐叔虞 (とうしゅくぐ) を祀るため、北魏代に創建された。

その後もしばしば修理が行われ、北宋代に唐叔虞の母である邑姜 (ゆうきょう) を祀るために聖母殿が建立された。

殿内に置かれる宋代の侍女像は、それぞれ独特の表情をしている。

殿柱には木彫の龍が絡まっていて、訪れる者を威嚇している。

現在では晋祠は博物館となり、周囲は公園として整備されている。

また、晋祠は緑の木々と水が美しくマッチした場所でもある。

聖母殿に向かって左にある難老泉では、年中休むことなく水が湧き出ている。

泉から湧き出る水は澄みきっており、水底を見ることができる。

緑の木々の代表としては、聖母殿に向かって右の横に飛び出すように建っている周柏、
関帝廟内にどっしりと立つ隋槐が挙げられる。

難老泉、美しい宋代の侍女像、そして周柏は晋祠三絶と称せられる。










大同市は、晋北地区の商業、工業と交通の要で、石炭基地がある。
398年に鮮卑族が建国した北魏の都だった地で、「万里の長城」 も近く、かつて北方民族との争いが頻繁にあった地である。

市の人口は97万人。特産物は絨毯、陶磁器など。
観光地は雲岡石窟、華厳寺など。





③ 雲崗石窟 (大同市砿区武周山麓) (世界遺産)




雲崗石窟は大同市の西16kmにある武周山南斜面にある仏教石窟遺跡。

北魏 (ほくぎ) 時代の460年から約60年かけて造営されたもの。
大小53窟、仏像5万1,000体からなる。

敦煌 (とんこう) の莫高窟、河南省の龍門石窟とともに中国の代表的仏教石窟である。
2001年、世界遺産 (文化遺産) に登録された。






④ 華厳寺 (大同市華厳街)

大同市の西部にある寺。
同じ敷地に12世紀の金代に建てられた 「上華厳寺」、11世紀の遼代に建てられた 「下華厳寺」 がある。

上華厳寺の 「大雄宝殿」 は金代のものとして最大規模といわれる。
また下華厳寺の 「薄伽教蔵殿 はっかきょうぞうでん」 には 「東洋のビーナス」といわれる仏像 「脇侍菩薩」 がある。

院内には、大同からの出土品が歴史順に並んでいる博物館も併設されている。







⑤ 平遥古城 (晋中市平遥県北大街)  (世界遺産)

平遥古城は山西省太原市の南90キロの所にあり、もともと無名の小さな町だったが、
中国国内で最も完全に保存されている古城として、世界文化遺産の一つとなっている。

古城の創建は西周時代にさかのぼり、すでに2000年余りの歴史を刻んでいる。

内部には保存状態の良い、古城壁や、五代の時期に建てられた木造建築、鎮国寺、金代の建築文廟大成殿などが残っている。

これらの古跡以外にも、平遥城のもう一つの特徴的な建築、四合院の民家が、城内に3797ヶ所現存しており、
そのうちのほとんどが今もなお人が住んでいる。

このような門の大きな大邸宅から、平遥のきらびやかな歴史を垣間見ることができる。

清代には、実業家が多く住んでいたことから、「小北京」 と称されていた。




⑥ 五台山 (ごだいさん) (忻州市五台県) (世界遺産)

山西省東北部の五台県にある霊山で、峨嵋山、九華山、普陀山と並ぶ中国四大仏教名山の一つ。
標高3,058m。仏教では、文殊菩薩の聖地として、古くから信仰を集めている。

五つの峰が聳え立ち、その五つの峰は頂部が平で広いことから「五台」と呼ばれる。
約50の寺院があり、有名なものは、顕通寺 (けんつうじ)、塔院寺 (とういんじ)、菩薩頂、黛螺頂 (たいらちょう)、
广済寺 (こうさいじ)、万佛閣 (ばんぶつかく)などがある。

五台山は、中国で唯一、仏教とラマ教の二つの宗教を兼ね備えた道場である。
そのため、チベットや内モンゴルの少数民族からも崇めらている。

古来より敦煌の壁画に描かれたり、ダライ・ラマがわざわざ訪れたりするほど名をはせている。

五台山は、避暑地としても歴史が古く、「清涼山」 という別名があり、夏季の平均気温は、平地より10℃ぐらい低い。
山中の気候は冷涼で、4月にようやく雪解けを迎え、9月には雪が積もる。

東台 (望海峰 ぼうかいほう) からは雲海の上の日の出が美しい。
西台 (挂月峰 けいげつほう) の上からは、秋の夜月見をするのが最高である。

北台 (葉頭峰 はとうほう) の上からは、雪景色を眺めるのが美しい。(最高峰。海抜3058m)
南台 (錦綉峰 きんしゅうほう) の上からは、草木を鑑賞できる。
中台 (翠岩峰 すいがんほう) は天体観測に最適の場所である。







山西省アラカルト


1. 楊 貴妃 [ようきひ 719年-756年]

山西省蒲州 (ほしゅう)永楽県 (現在の山西省運城市) 出身。

唐の玄宗の妃。
中国四大美人 (楊貴妃・西施・王昭君・貂蝉) の一人とされる。

才色すぐれ歌舞をよくし、初め玄宗の皇子の妃となったが、玄宗の寵愛をうけて第二夫人の貴妃とされた。
楊氏一族もみな高位にのぼった。

玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたと伝えられたため、傾国の美女と呼ばれる。
安禄山の乱を逃れる途上、官兵に殺害された。

白居易の長恨歌 (ちようごんか) をはじめ多くの詩や小説の題材となった。






2. 貂蝉 (ちょうせん)

山西省忻州 (きんしゅう) 出身
楊貴妃・西施・王昭君と共に、中国四大美人の一人に数えられる。

後漢の司徒・王允の養女であり、王允に仕えた歌姫。
歌舞に優れており、 その容姿は演義に登場する女性の中でも1、2を争うほどの絶世の美女として描かれている。

貂蝉が16歳の時、董卓の暴虐に心痛めた王允が画策する 「連環の計」
その類稀なる容姿を利用して董卓の眼に止まり、董卓と呂布の前で歌舞を披露して両雄の心を奪う。

董卓の屋敷に連れ込まれるが、呂布に董卓殺害を促し、ついには呂布に董卓を討たせた。





3. 関羽 (かんう) [? - 219年]

蜀の武将。字は雲長。司隷河東郡解良県 (現在の山西省運城市塩湖区解州鎮常平村) 出身。
張飛とともに劉備に仕え、勇名をはせる。

魏を攻撃中、呉軍に背後をつかれ謀殺された。
後に、軍神、財神として神格化され、関帝と呼ばれ、民衆の信仰があつい。

関羽の出身地である運城市解州鎮の関帝廟は、全国最大のものとして知られている。
孔子を祀る孔子廟を 「文廟」 というのに対して、関帝廟を 「武廟」という。

中国国内はもちろん、世界中の中華街 (チャイナタウン) に必ずあるといってよい中国寺院である。
この廟堂は、隋の時代の590年に創建され、宋、元、明、清時代に拡張や再建が繰り返されながら、今日にいたった。
現在、世界遺産への登録準備が行われている。




4. 刀削麺 (とうしょうめん)

小麦粉を水で練った生地の塊を持って湯の沸いた鍋の前に立つ。
くの字型に曲がった包丁を用いて生地を麺状に削り落として直接鍋の中に入れ、茹でて作る。

曲がった包丁で削るため麺に薄いところと厚いところができ、それが独特の食感を生み出す。
ラーメンと同じようにスープに入れたり、あんや黒酢に絡めて食べる。

日本国内で日本人向けにアレンジされた刀削麺はラーメンのようなスープを用いることが多い。
現地では釜茹で麺に酸味の利いたトマトソースをかけたり、豚肉の脂身とニンニクの芽が入った肉あんをかけて食べることが多い。

生地を同じ長さ、太さに削り、鍋に入れるのを素早く行うには高い技術が必要とされる。
そのために中国では、刀削麺ロボット(機甲厨神)が普及し始めている。




5. 汾酒 (フンチュウ)

白酒 (パイチュウ) と呼ばれる蒸留酒の一種。
原料は高粱 (コーリャン)・大麦・エンドウ。

香気が高く、アルコール分60パーセント。風味はまろやか。
山西省呂梁 (ろりょう) 市汾陽県杏花村を中心に生産される。

杏花村汾酒廠は、中国酒に興味のある人なら一度は訪れたい場所。
広々とした工場の敷地内には、学校、病院、職員宿舎などが置かれひとつの町となっている。

工場見学の際は、現在市場では飲むことのできない60度の高梁酒汾酒の利き酒ができる。

そのほか、酒史博物館では、夏、殷、周代からの美しい酒器が並べられている。
酒飲みにとっては一度は使って見たい幻の酒器といえる。







(漢詩)  清明 (唐)杜牧  

清明时节雨纷纷 qīng míng shí jié yǔ fēn fēn
路上行人欲断魂 lù shàng xíng rén yù duàn hún
借问酒家何处有 jiè wèn jiǔ jiā hé chù yǒu
牧童遥指杏花村 mù tóng yáo zhǐ xìng huā cūn


【注 釈】

清明(せいめい)の時節(じせつ)雨粉粉(あめふんぷん)
路上(ろじゃう)の行人(かうじん)魂(こん)を断(た)たんと欲(ほっ)す
借問(しゃもん)す酒家(しゅか)は何(いづ)れの処(ところ)にか有(あ)る
牧童(ぼくどう)遥(はる)かに指(さ)す 杏花(きゃうくわ)の村


【清明】qīng míng  清明節。 4月4日から6日ごろに当たり、墓参りをする習慣がある
【断魂】duàn hún   物思いに沈む

【杜牧】dù mù (とぼく) (803~853年)晩唐の詩人。字は牧之(ぼくし)陝西省西安の人。

詩は豪放にして洒脱。杜甫(老杜)に対して小杜と呼ばれる。
書画にも秀で、また兵法をよくし孫子の注釈がある。代表作に詩文集 「樊川(はんせん)文集」(二十巻)



【口語訳】

墓参りの清明節というのに、どうしたことかこぬか雨がしきりに降っている。
雨は、道行く人々の心をすっかり落ち込ませてしまった。

そこで気晴らしのために、一杯引っ掛けようと思い、「酒屋はどこにあるのかね?」と牧童に訪ねた。
すると「向こうにあるよ」と、はるか彼方の杏(あんず)の花咲く村を指さして教えてくれた。


なお、山西省汾陽県の杏花村は、この杜牧の詩に因んで命名されたとされている。








中国語講座 「黄河大鉄牛を引き上げる」  


捞铁牛

宋朝时候,有一回黄河发大水,冲断了河中府城外的一座浮桥。
黄河两岸的八只大铁牛是拴住浮桥用的,也被大水冲走了,陷 xiàn 在河底的淤泥里。
洪水退了,浮桥得重修。
可是笨重的铁牛陷在河底,有哪个大力士能把它们一只一只捞起来呢?

人们正在议论纷纷 yì lùn fēn fēn,
一个和尚说:“让我来试试。铁牛是被水冲走的,我还叫水把它们送回来。”
和尚先请熟悉水性的人潜到水底,摸清了八只铁牛沉在哪儿。
然后让人准备了两只很大的木船,船舱里装满泥沙,划 huá 到铁牛沉没的地方。
船停稳了,他再叫人把两只船并排拴得紧紧的,用结实的木料搭个架子,跨在两只船上。

又请熟悉水性的人带了很粗的绳子潜到水底,把绳子的一头牢牢地拴住铁牛,绳子的另一头绑在两只大船之间的架子上。
准备工作做好了。和尚请水手们一起动手,把船上的泥沙都铲到黄河里去。
船里的泥沙慢慢地减少,船身慢慢地向上浮,拴住铁牛的绳子越绷越紧。
船靠着水的浮力,把铁牛从淤泥里一点儿一点儿地向上拔。

船上的泥沙铲光了,铁牛也离开了河底。
和尚不急着把铁牛捞上船,而是让水手们使劲把船划到岸边,再让许多人一齐用力,把水里的铁牛拖上了岸。
和尚用这样的办法,把八只笨重的铁牛,一只一只地拖了回来。
这个和尚名叫怀丙,是当时出色的工程方面的专家。



【注釈】

【河中府】 hé zhōng fǔ  河中府 (かちゅうふ)。
長安と洛陽の中間、黄河の北岸にあった交通上の要衝都市。現在の山西省永済県。
【宋朝】 sòng cháo  朝代名,从公元960年至1279年,为赵匡胤 zhào kuāng yìn 所建。

【铁牛】 tiě niú  铁铸 zhù 的牛。(鋳鉄製の雄牛)。
古人治河或建桥,往往铸铁为牛状,置于堤下或桥堍 tù,用以镇 zhèn 水。

【拴】 shuān  用绳子等绕 rào 在物体上;再打上结。如:把马拴在一棵树上。
【淤泥】 yū ní  河流、池塘水底沉积的泥沙。(沖積した土砂)
【笨重】 bèn zhòng  本课指铁牛庞 páng 大沉重。(鈍重な。かさばって重い)
【水性】 shuǐ xìng  本课指游水的技能。 (潜水術)



【口語訳】

宋朝年間、黄河が氾濫し、河中府(運城市永済)郊外に架かっていた浮橋が流された。

黄河の両岸には浮橋を支える8基の鉄牛が設置されていたが、これらも河中に引きずり込まれてしまい、川底の沖積した土砂の中に埋もれてしまった。
洪水がひいて、浮橋はすぐに再建する必要があった。

しかし、いかなる怪力の持ち主といえども、川底に埋もれている重い鉄牛を、ひとつひとつすくい上げることは不可能であろう。

人々がまさに議論紛々のさなかにあるとき、「私がやってみよう」 と、ひとりの和尚が言った。
「鉄牛は水に押し流されたのだから、やはり水にそれらを送り返してもらおう」

和尚はまず、潜水の巧みな者を潜らせ、8基の鉄牛がどこに沈んでいるか探らせた。
次に、2隻の大きい木造船を用意させ、船倉の中に大量の泥土を積み、鉄牛が沈んでいる場所まで移動した。

船をしっかりと停止させた後、彼は2隻の船をきつくつないで並ばせ、船と船の間に丈夫な木材を跨るようにさし渡した。
ふたたび潜水の巧みな者に太い縄を持たせ、川底に潜らせた。

そして縄の一端をしっかりと鉄牛につなぎ、縄のもう一端は、2隻の船の間の木材の上に縛り付けた。
準備作業はすべて整った。

和尚は水夫達に、一斉に船上の泥土をすくい、黄河に投げ捨てさせた。
船中の泥土は徐々に減り、船体がゆっくり上に向かって浮き上がると、鉄牛をつなぐ縄はぴんときつく張った。

船は水の浮力によって、鉄牛を土砂の中から少しずつ上へ引き上げていった。
船上の泥土は全て捨てられ、鉄牛も川の底を離れた。

和尚は落ち着いて、鉄牛を船まで引き寄せると、水夫達に全力で岸まで向かわせた。
さらに人夫たちを使い、水中の鉄牛を一斉に岸まで引きずり上げた。

和尚はこの方法で、8基の重い鉄牛を、ひとつひとつ回収した。
この和尚は名を懐丙と言って、当時のすぐれた土木技術の専門家である。










先頭へ戻る