Top Page   中国語講座

陜西省概要 (http://wiki.chakuriki.net)


大唐芙蓉園 (西安市芙蓉西路99号)

2005年にオープンした唐の都を再現したテーマパーク。

唐の時代の芙蓉園の跡の上に造られ、総敷地約67万㎡の中国で初の
唐代の様子を再現している大型の皇室庭園である。

園内には楼閣、湖、庭園、劇院など唐の街を造り、世界最大の水幕映画や
ショーが上演され、楽しみながら唐の都を体験できる。

大唐芙蓉園は 「国民を震撼させ、世界中の人々を驚かせる」 とも言われており、
見逃せない観光地になっている。



(陝西省までの交通)

成田から北京首都国際空港(PEK)まで4時間。

北京から西安咸陽国際空港(XIY)まで8時間。









1.正直いって 「長安があった処」 と説明してもらわないと分からない。

いっそのこと 「長安省」 にすれば良かったのに…。
それこそ 「中原省」 では。
それだったら 「関中省」。
中原は河南省あたり。

2.洋県というところに、学名:ニッポニア・ニッポン (保護育成されているらしい) が飛び回っているらしい。
高速道路の建設で、今後どうなるか微妙らしい。

秦嶺 (しんれい) 山脈にはパンダもいる。
乾燥したシルクロードの出発点みたいなイメージがあるけど、西南部と意外に近いんだな。

3.延安 (共産党発祥の地) の先に行けば土の崖に掘られた穴マンションに住んでいる人たちがたくさんいる。
穴だけど電気水道完備。 常寧宮には洞窟ホテルがあるよ。

4.省の形がムーミンに似ている。

5.隣の山西省 (Shanxi) とピンイン (ローマ字) が同じになるため、区別するため Shaanxi としている。

6.陜西と言えば西安、西安と言えば兵馬俑。
兵馬俑を見つけた農民 [李さん] は兵馬俑博物館の名誉館長らしいが、サインを売って収入源としていて、なぜか3人いるらしい。

彼は中国語だと自分の名前しか書けないし読めないが 「写真ダーメ」 や 「はい、どうぞ」 などのような日本語をいえるようである。
兵馬俑博物館では中共のプロパガンダが見え隠れする。

7.路線バス 「長安通」 というICカードだと半額になる。
他都市より比較的安い。K表示路線はエアコン付き。

二階立てバスが走ってる。 運転がとにかく荒い。
急発進、急ブレーキ、急ハンドル。

8.「鐘楼」--(中心街)--「城壁」--(都市)--「二号環状」--(街)---「三号環状」-(スラム)-「荒野」-(農村)

9.2011年に地下鉄ができた。
利用客の素養の低さが時々問題になっている。
国際展示場から長安区方面になかなか延線しないのもそのためか。

10.名物・特産品 ここではプチトマトはフルーツとして分類される。

中華式ハンバーガー 「ロウジァモー」 は美味しい。
肉汁がしょっぱくて水気が無い。 「[冰峰] (ビンフォン)」 を飲むが良い。

ビァンビァン麺も有名。
漢字の王様。一体何画数あるんだ。
辞書にも載ってない発音だし。

11.陝西語 イントネーションが標準中国語と違う。
多少の例外はあるが、西安では1→3もしくは軽声、3→4、4→1に置換される。第2声は変化なし。

郊外では陝西イントネーションでないとよそ者扱いされる。
陝北地方、秦嶺山脈以北・以南ではまた言葉が違う。

語気助詞の 「了」 は 「リエ」 と発音する。
我は 「んが」 と第四声で発音する。日本語の 「わが」 の語源かもしれない



城市の概要

西安

1.日本でいうところの奈良。過去の遺物その1。 大昔はとても栄えていたのに今は・・・
旧称は長安。西安に改称されたというのが 「地方都市への転落」 を物語っている。

2.シルクロード。

3.かつては西京とも。このままだったら東西南北揃った。 東京は中国じゃないアル!

4.・・・すでいたしがケスバ・・・生先
5.日本語では 「せいあん」 が一般的なんですか?てっきり 「しーあん」 やと。一応変換できるし。




略称
陜 shan

省都
西安 せいあん

位置
中国中央、黄河中流、黄土高原の中部に位置する。

面積
20万5600平方キロメートル。(日本の半分より若干広い面積)

気候
高原乾燥気候。

人口
3,659万人。(2001年) 。
回、満州、蒙古、チベットなどの少数民族が住んでいる。


主な都市
西安 (せいあん) 市、渭南 (いなん) 市、咸陽 (かんよう) 市、銅川 (どうせん) 市、 宝鶏 (ほうけい) 市、
延安 (えんあん) 市、漢中 (かんちゅう) 市、楡林 (ゆりん) 市、安康 (あんこう) 市、商洛 (しょうらく) 市。



概要

周の時代に陝源 (せんげん 河南省陝県) の西にあることから陝西の名が付き、戦国時代には秦の領土となった。
全国を統一した始皇帝は関中 (函谷関西部) の咸陽に都を置き、続く漢も長安に都を置いた。

その後の南北朝時代を経て再び全土を統一した隋·唐の二王朝も長安に都を定め、特に唐代には世界帝国の都として世界最大の繁栄を誇った。
しかし唐の滅亡を最後に、南方の稲作経済が北方の小麦を主とした経済を凌駕するようになると、中国の政治の中心は陝西を離れて東方に移った。

その後、元代には陝西行省が置かれ、清代康熙二年 (1663年)、現在の省域が形成された。


地形は南部秦嶺山地、中部の渭河 (いが) 平原 (関中盆地) 、北半を占める黄土高原に大別される。
秦嶺山脈は黄河水系と長江水系の分水嶺をなし、また中国を自然地理上で南北に分ける境界となっている。

渭河平原は要害の地であるとともに、きわめて肥沃で、秦の国都であった咸陽市、漢、隋、唐の各代にわたり国都のおかれた西安市などが立地する。
北部の黄土高原は厚い黄土層におおわれるが、浸食によって高原面が破砕されている地域が多い。

気候は、北部は気温の年較差の大きい内陸型で、年降水量は 300~600mm。
南部は一月の平均気温が0℃をこえ、年降水量は 750~1200mmである。


渭河平原は小麦と綿花の大産地。
南部の山間に開けた漢中盆地などでは水稲とアブラナ、トウモロコシ、柑橘類、茶などを栽培。

北部の高原ではヒツジとヤギを中心とする牧畜を行い、雑穀とゴマを栽培。
渭河平原と漢中盆地では水路の改修、開削とともに地下水の汲上げによって灌漑面積を拡大している。

黄土高原では旱魃と土壌の流失を防ぐために植林や灌漑施設の建設、段畑の造成に力を入れている。
万里の長城に沿う北端には、長大な防砂林が設けられた。


地下資源は銅川市を中心に石炭が豊富に埋蔵されるほか、石油、鉄、マンガン、銅、ボーキサイトなどがある。
工業は西安市、咸陽市、宝鶏市を中心に鉄鋼、機械などの工場があり、特に綿紡織、毛紡織工業が発達している。

隴海鉄道 (ろうかい 連雲港-蘭州) が東西に通るほか、宝成鉄道 (宝鶏-成都)、陽安鉄道 (陝西省陽平関-安康市)、
襄渝鉄道 (じょうゆ 湖北省襄樊市-重慶市)、同蒲鉄道 (山西省大同市-山西省運城市芮城 ぜいじょう 県风陵渡 ふうりょうと) が乗入れている。


北部の延安市は、1930年代、江西省からの大長征を終えた中国共産党の軍隊が根拠地を構え、
毛沢東や周恩来などの指導者が抗日戦争、解放戦争の指揮を執った革命聖地である。

特産品は、
藍田玉 (らんでんぎょく)、宝鶏煙草、韓城花椒 (かんじょうかしょ 山椒の一種)、
紫陽茶、甘草、商洛核桃 (しょうらくかくとう クルミ) など。




観光スポット



西安市は、陜西省の行政、商工、交通、文化教育の中心都市。
西安の歴史は、紀元前11世紀に遡り、西周がここを都と定めて以来、秦・漢・隋・唐など12の王朝の都として栄え、
また、シルクロードの起点として、三蔵法師が旅を始めた場所としても有名。

古代からの文化遺産は豊富で、秦の始皇帝陵、兵馬俑坑、楊貴妃で有名な華清池などが世界中の人々を惹きつけている。
現在も市の中心部は明代に築かれた城壁に囲まれ、工業を始め、あらゆる産業と流通の中心都市として、活気にあふれている。 

市の人口は796万人。特産物は、日用の陶磁器、柿の餅、ザクロなど。
観光地は秦始皇帝陵、兵馬俑坑、大雁塔、鐘楼など。




  

1. 秦始皇帝陵 (西安市臨潼区驪山北麓) (世界遺産)

華清池の東5km にある秦の始皇帝の陵墓。

東西、南北とも350m、高さ40mの丘のような陵墓で、紀元前209年の没後に38年をかけて70万人の囚人を使って造られたといわれている。

墓室の天井には宝石がちりばめられ、盗掘を防ぐために水銀の海や川を造り、機械仕掛けの弓矢も置かれたといわれている。











2. 兵馬俑坑 (へいぱようこう) (西安市臨潼区秦陵北路) (世界遺産)

秦始皇帝陵の東1.5km にある、始皇帝の陵墓を守る兵馬俑 が並ぶ坑。

兵馬俑とは、古代中国で死者を埋葬する際に副葬された俑 (人形) のうち、兵士及び馬をかたどったもの。

1974年に井戸を掘っていた農民が偶然発見し、3つの坑から1万体の像が発見された。

1979年に坑の上にアーチ型の展示ホールを設置してそのまま博物館となっている。









3. 大雁塔 (だいがんとう) (西安市雁塔区雁塔南路) (世界遺産)

大興善寺の南東2km、慈恩寺の境内にある塔。

慈恩寺は648年創建で、玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典を納めるため、唐の高宗に願い出て652年に建てられたもの。

当初インド様式の5層だったが以後10層まで拡張され、崩壊により現在7層で高さ64mとなっている。












4. 鐘楼 (しょうろう) (西安市大街中心)

西安城壁の東西南北の4門に通じる大通りが交差する、市街の中心にある楼閣。

明代の1384年に建てられ、釘を1本も使っていないのが特徴。

高さ8mのレンガ造りの基壇の上に、3重の屋根を持つ2階建ての建物が建ち、全体で高さ36m。

かつては大鐘があって朝を告げたといわれている。









5. 楊貴妃墓 (咸陽市興平県)

西安から西に約60kmの興平県の馬嵬坡にある。

楊貴妃の墓は、楊貴妃の衣装を入れたレンガで覆ったかまくら状になっている。

半球状を呈し、3メートルの高さで、青レンガで積まれている。

後ろに高さ6メートルの楊貴妃の大理石塑像がある。














陝西州アラカルト



1. あほうきゅう (阿房宮) (西安市)

広辞苑によれば、「阿呆」 という言葉は 「阿房」 とも書く。

その云われは、秦の始皇帝が彼の権勢を誇り、中国全土統一した皇帝にふさわしい宮殿を建てるため、
「阿房宮」 という豪華絢爛な大宮殿を建てたことに由来する。

その後、末期の乱脈な財政ために、二代で秦帝国は滅びてしまうが、秦帝国の象徴であるその馬鹿でかい 「阿房宮」 を引用して、
愚かで馬鹿なことをする人間を  「阿呆」 と呼ぶようになったという。

阿房宮の規模は、東西500歩 (680m)、南北50丈 (113m) あり、堂上には1万人が座れ、堂下には5丈の旗を立てることができたといわれる。

始皇帝の在位中には完成せず二世皇帝の代にも工事は続行されたが、前206年に秦を倒した項羽によって焼かれてしまった。

現在は、映画 「始皇帝暗殺」 のロケ地として建設された建物が歴史テーマパークとなっている。









2. 九紋竜史進 (くもんりゅうししん) (水滸伝)

「水滸伝」 の中で一番最初に登場する豪傑。

肩・腕・胸に九匹の竜の刺青をしていることから 「九紋竜」 と呼ばれる。

華州華陰県 (現在の陝西省渭南市) 史家村の大庄屋のひとり息子として生まれ、子供のころから武芸が好きで、毎日鍛錬していた。

東京 (とうけい) から逃げてきた禁軍の武芸師範・王進と出会い、武芸の腕を上げた。

その後朝廷に逆らった朱武らをかばったことで村にいられなくなり、梁山泊の仲間に入る。










3. 徐福伝説

秦朝の道士であった徐福 (じょふく) は、秦の始皇帝の命により、東方海上の三神山にあるという不老不死の霊薬を求め、
3000人の童男童女を引き連れ、熊野 (現在の和歌山県新宮市) に渡来したと伝えられている。

徐福一行は、この地に自生する 「天台烏薬 (てんだいうやく)」 という薬木を発見しが、気候温暖、風光明媚、
更には土地の人々の暖かい友情に触れ、ついにこの地を永住の地と定め、土地を拓き、
農耕、漁法、捕鯨、紙すき等の技術をこの地に伝えたと言われている。

なお、徐福の渡海は、歴史書である 「史記」 にも記されている。


徐福像  和歌山県新宮市 









中国語講座 「兵馬俑」 


1974年3月的一天,在陕西省临潼 líntóng 秦始皇陵园东边的一个偏僻的小村,几位农民正在打井。
他意外地发现了许多破碎的陶俑 táo yǒng,于是,一个沉睡 chénshuì 千年的庞大地下军队展现在世人面前。

秦兵马俑一号坑的重大考古发现,震惊了世界,也将世人的目光引向了这座寂静 jìjìng 的山村。
1976年,专家又在一号坑的北侧相继发现了二号坑和三号坑。

这三个坑从北向南排列成一个“品”字,总面积达两万多平方米。
坑内8000多个与真人真马一般大小的陶俑陶马,排列成整齐的方阵,再现了秦始皇当年率千军万马、驰骋 chíchěng 疆场 jiāngchǎng、
内平六国、外却 wàiquè 匈奴 xiōngnú、横扫 héngsǎo 残余势力、统一中国的壮观场面。

俑坑中的陶俑武士,身高一般在1米80左右,个个身材魁梧 kuíwú,威武 wēiwǔ 雄壮,令人望而生畏 shēngwèi。
这些陶俑按兵种分为步兵俑、骑兵俑、车兵俑、弩弓 nǔgōng 手和将军俑等。

步兵俑或身穿战袍 zhànpáo,或身披 shēnpī 铠甲 kǎijiǎ,手里拿的青铜兵器都是实物。
骑兵俑、车兵俑威风凛凛,牵战马驾战车。
弩弓手有的单膝跪地,张弓搭箭,有的挺立阵前,凝视前方。

将军俑神态自若,表现出临阵不惊的大将风度。
俑坑军阵中的陶马高1米5、长2米,体形健硕 jiànshuò,表情机警,每匹都像即将奔赴 bēnfù 战场的骏马 jùnmǎ。

与兵马俑同时展出的还有两乘青铜马车,这是1978年在秦始皇陵墓西边出土的,造型精美,工艺精湛 jīngzhàn,
逼真 bīzhēn 地再现了当年秦始皇御用马车的原貌,被学界誉为“青铜之冠”、“世界马车史上的里程碑”。

秦始皇兵马俑,这个浩大的地下军事博物馆,自展出以来,已接待过数不清的中外游客,架起了中外文化交流的桥梁,被誉为 「世界第八大奇迹」。
1987年被列入世界遗产名录。



【注 釈】

【与真人真马一般大小的陶俑陶马】 táo yǒng táo mǎ 実物と同じ大きさの人馬の俑。

【弩弓手】 nǔ gōng shǒu  弩弓 (どきゅう) の射手。
弩弓は、ばねじかけで矢や石を発射する武器。

【战袍】 zhàn páo  戦闘用の長衣。

【青铜之冠】 qīng tóng zhī guàn  青銅の美、世界に冠たり。

【世界马车史上的里程碑】 lǐ chéng bēi  世界馬車史上の一大足跡。


【口語訳】

1974年、三月のある日、陝西省臨潼県の秦始皇帝陵園東方の辺鄙な小村で、何人かの農民が井戸を掘っていた。
彼らは偶然、たくさんの粉砕された陶製の俑を発見した。
これにより千年間眠っていた巨大な地下軍団が世に現れたのである。

秦の兵馬俑一号抗の考古学的重大発見は、世界を震撼させるとともに、世の人々の眼をこのひっそりとした山村に引きつけたのである。
1976年、専門家は一号抗の北側に相次いで二号抗と三号抗を発見した。
この三つの抗は北から南へ 「品」 の字に排列されており、総面積は二万㎡に達する広さであった。

抗内8000余りの実物と同じ大きさの人馬の俑は、方形の陣形に排列されており、
当時の秦始皇帝が千軍万馬を率い、戦場を駆け回り、
内に六国を平定し、外に匈奴を退却させ、残存勢力を打ち負かし、中国統一に向かう壮観な場面が再現されている。

俑抗内の陶製武士俑は、身長一メートル80余り、いずれも体つきがたくましく雄壮で、見ただけで恐ろしくなるほどである。
これらの陶俑は、歩兵、騎兵、車両兵、 弩弓 (どきゅう) 射手、そして将軍などに分けられている。

歩兵俑は、戦闘用の長衣あるいはよろいをつけ、手に青銅の兵器を手にしており、それらはすべて実物である。
騎兵俑、車両俑は威風堂々としていて、それぞれ軍馬を引き、戦車に乗っている。

弩弓射手は、片膝を地につけ、弓を張り矢を掛け、ある者はまっすぐに立ち、前線をじっと見つめている。
将軍俑は落ち着いて、戦場に臨んで恐れを知らぬ将軍の風格を表現している。

俑抗軍団内の陶馬は、一メートル半から二メートルの高さで、体形は頑健、表情は機敏で、それぞれがまさに戦場に駆けつけようとする駿馬のようである。

兵馬俑とともに展示されている二両の青銅の馬車は、1978年、秦始皇帝陵墓の西で出土したもので、造型は精巧で美しく、技術は巧みで、
当時秦始皇帝が使用する馬車の様子を写実的に再現しており、学界から 「世界に冠たる青銅の美」、「世界馬車史上の一大足跡」 と讃えられている。

秦始皇兵馬俑、この雄大な地下軍事博物館は、展示されて以来、すでに数え切れないほどの観光客を受け入れ、
国内外の文化交流の懸け橋となり、「世界の八大奇跡の一つ」 と讃えられるに至っている。
1987年、世界遺産の名簿に登録された。










先頭へ戻る