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天津市概要 (http://wiki.chakuriki.net)


天津市街図


狗不理包子 (ごうぶりぱおず)

天津名物の包子 (パオズ 肉まん) のこと。
中国で最も歴史の古いブランドの一つである。

「狗不理」 (犬も食わない) という名前は、商売が繁盛したゆえに客への気配りが
できなくなったことから人々にこう呼ばれたのがはじまりだという。

かぶりつくと肉汁が口の中にじゅわぁと広がり、思わずため息が出るぐらいの美味しさらしい。


(天津市までの交通)

関西から直行便で天津濱海国際空港(TSN)まで3時間。


ウィキトラベル(天津市)





1.天津に天津飯はない。 でも甘栗はある。

さすがに 「天津」 の文字はついていない。
そもそも天津飯も天津甘栗も、中華風の食べ物に日本人が 「天津」 と名付けたもの。

2.最近トヨタが進出したため、中部-天津直行便を増やすために関空-天津便は廃止されてしまったらしい。
名古屋~北京線も消えた。

3.神戸市と姉妹都市なのに神戸空港に天津直行便の予定はないらしい。
船なら神戸から天津までいくのがあるらしい。

4.天津空港では滑走路脇の空き地で鶏を飼っているらしい。
飛行機の横を併走する鶏が何度か目撃されている。

5.上海の友人と仕事で行ったら 信じられない、見たいな顔をしていた、いろんな意味で。

6.揚げひねりドーナツみたいなのが実は名物で、天津駅の土産菓子はこればかり。
(油っこすぎて食えたものではない) ↑麻花とかいてマーファーというお菓子です。

7.天津名物・狗不理包子は日本人でも食べられる味。市内に数店舗あり。

8.自転車生産国内 No.1で自転車の数が異様に多い。
初夏になると街中に浮遊する柳絮 (柳の綿毛) と黄砂を防御するため自転車族がスカーフを顔面に巻き付けて走り回るOLが多数続出

9.北京オリンピック開催にあたり、市内のボロいハッチバックのタクシーは全てセダン型のタクシーに変えられた。

10.市内の最高ランクのホテルは日航ホテル。しかし、ウチの会社はここに泊めさしてくれない。

11.北京から天津まで超短距離高速列車が走っている。
ここは上海行きの列車と平壌、モスクワ行きの列車が枝分かれする。

12.津門十景と呼ばれる観光スポットがある。
①.天津テレビ放送タワー ②.薊北雄関-黄崖関 ③.盤山 ④.独楽寺 (十一面観音) ⑤.大沽口炮台
⑥.海河⑦.古文化街 ⑧.南食品旅館街 ⑨.水上公園 ⑩.中環



略称
津 jin


位置
華北平原の東北部に位置し、北は北京市と残りの部分は河北省と隣接している。


面積
1.13万平方キロメートル。 (日本の秋田県の面積とほぼ同じ)


気候
暖温帯半湿潤の大陸季節風気候に属し、年間平均気温は12.2℃。
1月の平均気温は-4.2℃、7月の平均気温は25.5℃ぐらい。


人口
1,004万人。(2001年)


市内区域 10区

和平 (わへい) 区、紅橋 (こうきょう) 区、河北 (かほく) 区、河東 (かとう) 区、
河西 (かせい) 区、 南開 (なんかい) 区、北辰 (ほくしん) 区、
東麗 (とうれい) 区、津南 (しんなん) 区、西青 (せいせい) 区。


郊外の地区 3区3県

薊 (けい) 県、宝柢 (ほうてい) 区、寧河 (ねいか) 県、武清 (ぶせい) 区、
静海 (せいかい) 県、浜海新 (ひんかいしん) 区。



概要

天津市は河北省に囲まれ、北京市とも境を接している。
北には燕山山脈、東には渤海があり、華北平原の東北部に位置している。

歴史は古く、隋代に全国が統一されると南北を結ぶ永済渠 (えいせいきょ 運河) が開かれ、揚州から天津を経由して北京に通じた。
町は、遼・宋時代から栄えだし、元代には運河が更に整備されたことにより、海上輸送と河川輸送の重要な中継点となった。

明代になると、永楽帝が天津の港から出港し、南方征伐に向かった事から、「天子の通った津」、
天津と呼ばれるようになり、1404年には城郭も築かれた。


清代にも、商業都市としても多いに栄えた。
清末期のアロー号事件 (第二次アヘン戦争) 後の、天津条約・北京条約で天津が開港し、イギリス・日本を含む9ヶ国の租界が設けられた。

1928年には天津特別市、1930年天津市になり、1945年までは多くの日本人も居留していた。
戦後は一時期、河北省に組み入れられたが、1968年に直轄市になった。

その後も、資源にも恵まれ、交通の要衝でもあるため、中国の第二の工業都市として発展を続けた。
しかし改革・開放後は、一時期広東省や上海市に遅れをとり、目立たない存在になってしまった。


1994年からは、再び外貨を積極的に導入し、「北方の浦東」 を目指して浜海ニュータウン計画が進められた。
その結果、数千社の企業、代表的な企業としてはアメリカのGM・モトローラ、日本のダイハツ・ヤマハがが進出した。
特にモトローラ社は中国の最大の外資企業として知られている。

農業特産品は、小站稲 (しょうたんいね うるち米の一種)、武清紅 (ぶせいこう) 小豆、
薊県 (けいけん) の栗、宝柢 (ほうてい) ニンニク、タイシュウエビ (東方タイシュウエビ)。

郷土料理は、狗不理 (ごうぶり) 肉饅頭と十八街 (じゅうはちがい) お菓子、
民間工芸品は、
楊柳青 (ようりゅうせい) 年画、彩色泥人形、魏凧 (ぎだこ) など。





観光スポット










① 天后宮  (てんこうきゅう) (紅橋区古文化街80号)

天津の古文化街の通り沿いにある天后宮。
俗に娘娘宮 (にゃんにゃんきゅう) とも呼ばれる。創建は1326年 (元の泰定3年)。

「天后」 とは、海の守り神のこと。

もともとは、宋の時代、福建のあたりに住んでいた林名黙という女性が、
海に出ては遭難者をことごとく救ったという言い伝えから、
のちに海上の女仙人として祭られたことに由来する。

以来、漁師や船乗りたちの信仰の対象となった。

元朝は、大量の食糧を南方から都 (現北京) へ輸送させていたが、
その際、まず海路で天津まで運び、それから運河をつかって都へと運んでいた。

そこで元朝は、海上・航海の安全を祈願するため、海の守り神を祭る天后宮をこの地に建立した。

毎年旧暦の3月23日 (天后の誕生日) には、天后宮を含む古文化街一帯で、「皇会」 というお祭りが盛大に行われる。

龍舞、獅子舞、太鼓、芝居、武術などが上演され、大変な賑わいを見せる。










② 古文化街 (こぶんかがい) (紅橋区古文化街)

天后宮から南へ延びる門前町。

1986年、清代の建物を模して修復し、歴史物語や花鳥の絵、彫刻などで飾っている。

天后宮を中心とする古文化街は、骨董品や民芸品の店が並ぶ800年以上の歴史を持つ古い町並み。


その起源は金代に設置された直沽寨 (ちょくこさい 集落) にさかのぼる。

現在の古文化街の長さは約600メートル。

清代の町並みを再現しており、古い書類、古玩具や伝統的な手工業製品、さらには天津を代表する民間芸術品である
天津泥人形、楊柳青 (ようりゅうせい) 年画 (版画)、魏記風筝 (ぎきふうそう 天津凧) などを扱う専門店が並んでいる。











③ 周恩来鄧穎超紀念館  (しゅうおんらいとうえいちょうきねんかん) (南開区水上公園北道1号)

中国共産党の指導者であり、中国初代総理である周恩来とその妻鄧穎超に関する記念館。

隣に、周恩来が青年期に現在は大学となっている当時の南開中学校がある。

写真や資料など8千点が展示されている。
江蘇省淮安出身の革命家、政治家である周恩来が青年時代に学んでいた南開学校を記念館として1978年に創設された。

周恩来は1913~1919年の間南開中学校 (現在の南開大学) に在学し、ヨーロッパや日本にも留学していたことがあり、
天津、ヨーロッパや日本での文献や写真などが数多く展示されている。

館内にある西花庁は、かつて周恩来が執務した中南海にある北京の西花庁を復元したものである。
中国で唯一、西花庁の観光ができるスポットといえる。









④ 天津水上公園  (てんしんすいじょうこうえん)  (南開区水上公園北路33号)

敷地の半分を湖が占める天津で最大の公園。

別名、青龍潭 (せいりゅうたん) と呼ばれ、東湖・西湖・南湖という三つの湖に
十三の島があり、橋と堤で繋がっている。

九番目の島には天津動物園があり、パンダを見ることができる。
園内はレンタル電気自動車で移動可能。











⑤ 大沽口砲台遺址 (だいここうほうだいいし) (浜海新区東砲台路1号)

天津市内から東南へ約60キロ、浜海新 (ひんかいしん) 区を流れる海河の河口部にあたる大沽口に築かれた砲台跡で、
天津の海防の要所として知られた。

すでに明代からここに軍が駐屯していたが、清の朝廷は海防を強化し西洋列強の侵略に備えるため、
1858年 (清の咸豊8年) に六つの大砲台を建設し大砲を配備した。
そのうち三つは南岸に、二つは北岸に築かれ、それぞれ“威”、“震”、“海”、“門”、“高”という名称を持っていた。

残る一つは、北岸の石壁の上に築かれ、また、これらにあわせて25の小砲台も建設された。
第二次アヘン戦争のさなか1859年6月25日、史栄椿 (しえいちゅん) 提督率いる部隊が
ここでイギリス軍と激戦を繰り広げた (第一次大沽口防衛戦)。

また、1900年には羅栄光提督率いる部隊が義和団と共に八国連合軍に抵抗し反撃を加えるも列強によって占領された。
1901年の辛丑条約 (しんちゅうじょうやく) によって大沽口砲台は取り壊され、現在では南岸の“海”砲台が残るのみとなった。










⑥ 独楽寺 (薊県武定街41号)

天津市薊 (けい) 県西関の北におり、北京中心部より東100キロ離れる。
この寺は唐代に建立、また遼代に造り直されたため、千余年の歳月を経て来た。
唐代の安禄山がここで叛乱を起こした説がある。

彼は一人で楽しむことが好きであるため、この寺に「独楽」の名を付けた。
寺内の観音閣は高さ23mあり、国内に現存している最古の木製楼閣である。

外観では2階建てに見えるが、実は3階建ての構造である。
この観音閣内に高さ16.27mの観音像があり、遼代の芸術的な珍品とも言える。
また、中国現存の最大な観音塑像でもある。

また、塑像の頭上に小さな観音像を10体ほど一回り並べてあるため、「十一面観音」 とも呼ばれる。
独楽寺は昔から中国北方の宗教活動の中心であり、1961年、国務院に全国重点文物保護先にも指定された。









⑦ 天津旧租界 (和平区馬場道)

北京の南東115キロにある直轄地・天津は、首都北京の対外窓口となった湾岸都市である。

天津市内には租界時代の洋館が立ち並び、東西文化が融合した独特な街並を形成している。

その成り立ちは、19世紀の半ばから中国が西洋列強に次々と不平等条約を結ばされ、天津がそ
の対外通商の窓口となったことにあった。

1858年、第二次アヘン戦争 (アロー号事件) で英仏連合軍に破れた清朝は、1860年に天津を開港。

これを契機に英、仏、米、独、露、日本など9ヵ国が相次いで進出。

これら諸国が租界に建設した建物は、各国特有の建築様式を備え、その一帯は上海の外灘と同様に 「世界建築博覧会」 と呼ばれている。

和平区馬場道にある五大道エリアは、イギリス租界にある英国式の住宅街である。

政府の要人や著名人が住んでいた洋館が現在でもホテルや民家として残り、
さながら街全体が美術館のようである。

馬場道を中心に町並みが改修され、洋風の馬車に乗ってこの界隈を観光することもできる。


天津英租界利順徳大飯店 (Aster Hotel 解放北路)










⑧ 黄崖関長城 (こうがいかんちょうじょう) (薊県下營鎮黄崖関村) (世界遺産)

天津市薊 (けい) 県城から北へ30キロにある長城。
隋代に創建されたもので、東は河北省遵化県の馬蘭峪長城、西は北京平谷県の将軍関長城へとそれぞれつながっている。

全長は約42キロ。1987年になって、天津市が万里の長城再建に乗り出し、この区間の長城が再びその雄姿を現すこととなった。
黄崖関は、薊県域内で唯一の関所で、薊県と河北省興隆県の間を結ぶ主要な街道でもあった。

北方からの侵入を防ぐのに適した非常に険峻な地形が利用されている。
標高300mにある関城は、その東西両側の崖がまるでえぐり削られたかのように険しいところに築かれている。

この崖を夕陽が照らすと幾筋もの黄金色の光が反射して見えることから、黄崖関という名になったといわれる。












天津市アラカルト


1. 天津飯

かに玉をご飯にのせ、片栗粉でとろみをつけた中華餡をかけ、グリーンピースを載せて提供される料理。
しかし、この天津飯は天津が発祥の地ではない。

天津丼なども、ご飯にのっけた 「どんぶりもの」 であるが、中国料理にはこの 「どんぶりもの」 がない。
つまり日本の中華レストランの「創作」である。

天津ではこんな中華風丼が提供されているのだろう、と日本人が想像して作り上げた日本風中華料理である。

一説には、大阪の大正軒が、終戦直後に天津で多く獲れたワタリガニを使って作ったのが由来といわれている。






2. 天津甘栗


中国栗をなべの中で小石といっしょにいり、熱がよく通ったときにゴマ油と砂糖を加えていり上げたもの。

中国では糖炒栗子 (tang chao li zi) と呼び、中国北部の重要な間食である。

栗は天津市周辺ではなく、河北省の燕山山脈一帯で収穫される。

それを天津港に集めて日本へ輸出したことから「天津甘栗」 とよばれるようになった。

(なお、写真の屋台は日本のものである、念のため)











3. 天津泥人形

泥人形は中国各地でみられる泥を原料とした人物や動物の形をした置物である。
天津泥人形の歴史は長く、清の時代に張明山(ちょうめいざん)という職人により始められた。

彼が本来庶民文化に過ぎなかった人形を芸術の領域まで高めたと言われている。
のちに代々、継承した「張家」の名をとって「天津泥人張」と呼ばれるようになった。



   


天津泥人张

天津泥人张是近现代天津民间彩塑艺术家的俗称。
清末民间发展起来,最早指晚清案头泥塑的代表人物天津张长林,他将天津泥塑提高到崭新的艺术境界,世称「泥人张」。
他所塑造的作品细致工整,健康 清新,富于生活实感。

张长林以后,「泥人张」彩塑艺术经过了他的儿子张兆山、其孙张景祜、曾孙张铭的数代积累更加完美,
在原有的基础上吸收了古代「泥俑陶俑」和宗教彩色艺术的优长,又吸取了现代雕塑的技巧,成为近代民间发展起来的著名工艺美术流派。
它充分体现了天津的地域文化特色,一体现出了民间美术发展的精致和雅化的倾向。



【天津泥人张】tiān jīn ní rén zhāng  張式天津泥人形
【案头泥塑】àn tóu ní sù  泥を原料とした置物
【张长林】zhāng cháng lín  張長林(ちょうちょうりん)(1826~1906年)天津泥人形の創始者。字は明山(めいざん)

【富于生活实感】fù yú shēng huó shí gǎn  現実の生活実感に溢れた
【泥俑陶俑】ní yǒng táo yǒng  泥俑と陶俑。殉死者の代わりに埋めた土偶や陶偶



天津泥人形は、近現代では、天津の民間彩色彫刻家の俗称となっている。

清末に民間工芸が発展すると、いち早く注目されたのは、置物用粘土彫刻の代表人物である天津の張長林である。
彼は天津粘土彫刻を斬新な芸術の境地に高め、それは世に「泥人形」と呼ばれるようになった。

彼の作った作品は細やかで上質、生き生きとしており、現実の生活実感に溢れたものであった。
張長林の後、「泥人形」の彩色工芸は、彼の息子の張兆山、その孫の張景祜、ひ孫の張銘へと、途絶えることなく引き継がれている。

従来の工芸技術の基礎の上に、古代の宗教芸術である「泥俑と陶俑」の優れた特長を取り入れた「泥人形」は、
さらに近代的な彫刻の技術が加えられ、民間工芸美術の著名な流派として発展を遂げてきた。

天津の地域文化の特色を体現した「泥人形」は、精致で格調高い民間工芸美術品として、広く社会一般に知られている。









4. アヘン戦争  (Akyちゃんねる)https://www.youtube.com/channel/UCq_hThET7fCfpGe2cbg3lhA 



清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われた戦争。

ケシの実から作られるアヘンには鎮静作用があり、中国ではパイプで喫煙する習慣があった。
しかし、風紀の問題などから清朝はたびたびアヘン禁止令を出してきた。

一方、18世紀後半には産業革命を経たイギリスで紅茶を飲む習慣が庶民に広がり、中国から大量に茶を購入し、貿易赤字となった。
このためイギリスはアヘンを植民地だったインド (東インド会社) でつくらせ、中国に密輸して、貿易の不均衡を解消しようとした。

アヘン流入によって、中国の国内経済は混乱した。
清朝の皇帝は1839年、林則徐を欽差大臣 (特命全権大臣) に任命し、貿易の拠点・広州に派遣した。

林は大量のアヘンを没収して廃棄処分にし、イギリス商人らを追放した。
イギリス政府はこうした措置に反発し、開戦を決定。

議会では、後に首相となるグラッドストンらが開戦に反対したが、小差で派兵関連の予算を承認。
1840年に最新鋭の軍艦で広州など沿岸部から攻撃を始めた。

1842年、イギリス軍は北京に近い天津の沖に迫ったため、清は屈服。
南京条約を締結し、賠償金の支払い、香港の割譲、上海、広州などの開港を受け入れた。






5. 不平等条約と清国の分割

アヘン戦争によって、アヘン取引を黙認させたが、中国人の反英意識が高揚し、イギリスの商業的利益は期待されたほどのものではなかった。
もう一度、戦争を起こして清にさらなる開国をさせるべく圧力を加えるべきだとの議論がイギリス国内で沸き上がっていた。

1856年10月、広州港に停泊中だったアヘン密輸船のアロー号に対して、清朝官憲は海賊の容疑で立ち入り検査を行い、船員を逮捕した。
イギリス側は、アロー号は (イギリス領の) 香港船籍の船であり、掲げていたイギリス国旗が引きずり下ろされたことは
イギリスへの侮辱であるとして抗議した。

アロー号事件を口実に、イギリスは再び清との戦争に踏み切り、同年に起こったフランス人宣教師殺害事件を口実として
清への侵出を狙っていたフランスと共同で出兵した。

1857年、英仏軍は広東を占領、1858年、天津に迫ったので、清朝は屈服し天津条約を結んだ。
天津条約の受け入れには清国内でも反対が多く、こうした内部の混乱から1859年に英仏の使節が
清軍により砲撃を受けたため、戦争が再開された。

1860年、英仏連合軍は北京を占領、円明園を焼打ちし、清帝は熱河に避難した。
同年の北京条約で英仏の要求を認め、さらに和議の仲介をしたロシアとも条約を結んで落着した。


19世紀は弱肉強食が露骨に行われる野蛮な時代だった。
強い国が弱い国を倒して国土と国民を支配する、切り取り御免の植民地時代である。

清はその末期において、列強諸国とさまざまな条約を結ぶことになった。
これらの条約の締結によって、中国は列強諸国に分断されてしまうのである。

清国は遂に死にかけた象のような有様で、英仏露米日独などの列強が腐肉をあさる禿鷹のように軍をたむろさせ、
国土分捕りの睨みあいを続けたのである。


不平等条約


南京条約 (1842年) (イギリス)

1. 香港島の割譲 
2. 賠償金の支払い 
3. 広州、福州、廈門、寧波、上海の5港開港



天津条約 (1858年) (英仏露米)

1. 賠償金の支払い
2. 外交官の北京駐在
3. キリスト教布教の自由と宣教師の保護
4. 南京(長江沿岸)、潮州(広東省東部)など10港の開港



北京条約 (1860年) (英仏露)

1  .賠償金の支払い
2.  天津の開港
3.  英国へ九竜半島の南部 (香港島に接する部分) を割譲



天津条約 (1885年) (フランス)

1. 清はベトナムをフランスの保護国として認知する
2. 清が鉄道を敷設する際にはフランスの業者と商議する



下関条約 (1895年) (日本)

1.  遼東半島、台湾の割譲
2.  賠償金の支払い
3.  重慶、蘇州、杭州の開放
4.  日本に最恵国待遇を認める


日清戦争 (1894~95) によって清国の弱体ぶりを知った欧米列強は、あいついで同国に租借地を獲得し、各租借地を拠点に勢力範囲を設定していった。
まず1898年に、ドイツが山東半島の膠州湾を、ついでロシアが遼東半島の旅順・大連港を、さらにイギリスは九竜半島・威海衛を、翌年にフランスが広州湾を租借した。

租借とは、外国がその国の領土を借りるという名目で、一定期間実質的に植民地化することをいう。
ちなみにロシアは遼東半島南部を25年間租借の権益を得ている。

勢力圏とは、第三国にその一定地域を租借させないことを約束させ、そこを自国の勢力地域とすること。
この結果、清国は国土を分割され、事実上の半植民地状態に陥り、各国はこれらの勢力圏に鉄道建設などを進めていった。



これらの不平等条約は、列強諸国によって清朝の国権や財政力をもぎとる、まさに当時の中国に対する侵略を象徴する内容であった。
しかし一方でこの内容は日本などに留学して近代ナショナリズムを取り入れつつある若者 (孫文、魯迅、汪兆銘、蒋介石ら) に大きな屈辱感を伴わせ、
反清・革命運動に取り組む大きな理由の一つとなったのである。












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