紫禁城


紫禁城は、北京市に所在する明清朝の旧王宮である歴史的建造物。

面積は 725,000m2 あり、世界最大の宮殿の遺構である。

別称の故宮とは 「古い宮殿、昔の宮殿」 という意味で、現在は博物館になっている。

元がつくったものを明の成祖永楽帝が1406年から改築し、1421年に南京から北京へ都を遷してから、
清朝滅亡まで宮殿として使われた。

1644年の李自成の乱で明代の紫禁城は焼失したが、李自成の立てた順朝を滅ぼし
北京に入城した清朝により再建され、清朝の皇宮として皇帝とその一族が居住するとともに政治の舞台となった。

1908年12月に、西太后が光緒帝の後継者として愛新覚羅 溥儀 (あいしんかくら ふぎ) を指名したことにより、
溥儀はわずか2歳10か月で皇帝に即位させられ、清朝の第12代宣統帝かつ紫禁城に居を構える最後の皇帝となった。

1911年10月に辛亥革命が起き、袁世凱の求めを受けて1912年2月に溥儀は退位したが、
中華民国臨時政府の 「優待条件」 として溥儀とその一族は、紫禁城の内廷での居住を許された。  

(写真は、紫禁城 後左門と崇楼)




天安門から午門 (ごもん) へ

バスを降りて天安門広場へ歩いて向かう。
ご存じ革命や事件など歴史的大事のときにもよく登場する世界的な広場である。

地下通路を通って広場に向かうが、この地下通路にも怪しいものを売る売り子さんたちがいて、声をかけてくる。

天安門広場から、毛沢東の巨大な肖像画が掲げられた朱塗りの門を見る。
天安門は、二層の楼閣が載った立派な建物である。


紫禁城に入るにはまず、南の天安門広場の前門から入る。
御存じのとおり天安門広場は大変広く、歩けども歩けども天安門が近づいてこない。



ようやく天安門の前に来たかと思うと、兵隊のような格好をした係員から、荷物検査、
入場手続等を経て入口に辿り着く。天安門を通過するのも大変な行列に並ばなければならない。

それよりも過酷だと思ったのが、警備の兵隊さんたちである。
少なくとも10mおきには立っている。

しかも微動だにせずにまっすぐに立っている。
ガイドさんに聞くと、「3時間交替」 なのだそうだ。

紫禁城は真上から見ると良く分るが、主要な建物が南北一直線に並んでいる。
そして、東西は左右対称に出来ている。

端門
天安門と午門の間にある門、立派な楼閣が載っている。


午門
午門に到着。この門の名称は、紫禁城からして午 (うま) の方角、つまり南の方角にある事から名付けられた。
この門の特徴は、コの字型に両翼がせり出した独特の形をしている事である。

また、この午門に囲まれた広場では、官吏が午前4時に皇帝を遥拝する事になっていた。
百叩きの刑などの刑の執行も行われたという。

ここから先は有料で午門を抜けると、いよいよ紫禁城の中に入る。



外朝へ

立派な楼閣門を幾つも潜り抜け、ようやく太和門 (たいわもん) 前広場に出る。

太和門は、更に立派な楼閣門で、両翼に回廊と門がありこの広いスペースを四方に包み込んでいる。
もはや門と言うより立派な宮殿である。

 
太和門を抜けると、もうそこはかなりの広さで、ここで国家的な式典が行われたという。
この時代の諸外国や地方の使者がここに訪れたらきっと、皇帝の権力に度肝を抜かれただろう。

外朝は、太和殿と中和、保和三殿から構成されていて、それぞれに玉座がある。





太和殿 (たいわでん)

「金鑾殿 (きんらんでん)」 とも。明代の永楽18年 (1420) に創建。

創建当時は奉天殿と名付けられ、嘉靖 (かせい) 年間に皇極殿、さらに清代の順治年間に太和殿と変更された。

今の建物は殆ど清の康熙 (こうき) 34年 (1695) に再建されたもの。

宮殿の高さは35.05メートル、面積は2,377平方メートルで、「重檐廡殿式 (ちょうえんぶでんしき)」  
という宮廷建築様式で建てられてた。

72本の巨大の柱が建物を支え、その中の6本は雲龍文様を漆で盛り上げて金箔で覆った金柱である。

太和殿は故宮の中で一番大きな宮殿である。
この宮殿は皇帝の即位、結婚から皇后の冊立 (さくりつ)、皇帝の誕生日、科挙の成績発表、大将の出征、
毎年の春節や冬至節などまで、重大な行事が行なわれた場所である。

行事の日には太和殿から天安門まで儀仗が並べられ、太和殿の外に中和韶楽 (ちゅうわしょうがく)、
太和門内に丹陛大楽 (たんへいたいらく) の楽器が設置される。

一品 (いちほん) から九品までの文武百官が官位別に御道の両側に立ち並ぶ。

皇帝が太和殿に着くと、午門にある鐘と太鼓が一斉に打ち鳴らされ、楽隊が相次いで演奏し、香の煙が宮殿内外に漂い、
厳かな雰囲気の中で封建帝王の高貴さ、威厳が示されたという。






中和殿

中和殿は明代の永楽18年 (1420) に建てられて以来、2度の火災に遭い、
現在の建物は明代の天啓7年 (1627) に再建されたものである。

創建当時には華蓋殿と名付けられ、その後、中極殿、さらに清代の順治2年 (1645) に中和殿と改名された。

ここは皇帝が太和殿に赴いて行事を行なう前に休息をとったり、執事の官員の朝拝を受ける場所である。

そのほか、皇帝が毎年の春に農壇を祭る前にここで祭文を読み。地壇、大廟、社稷壇 (しゃしょくだん)
を祭る前にもここで祝板に書かれた祭文に目を通したという。









保和殿 (ほわでん)

明代の永楽18年 (1420) 年に建てられ、清代の乾隆時期に改築された。

明初は謹身殿といい、嘉靖年間に建極殿、清代の順治年間に保和殿と変更された。

皇帝は大晦日に保和殿で少数民族の王侯、大臣をもてなし、乾隆年間以後、ここは 「殿試」 の場所となった。

「殿試」 とは科挙制度の中で最高級の試験のことであり、3年間おきに行なわれ、合格した者は 「進士」 となり、
最も成績のよい3名はそれぞれ 「状元」、「榜眼 (ぼうがん)」、「探花 (たんか)」 と呼ばれた。









紫禁城レストラン

敷地内には、故宮博物院の経営するカフェ、レストランが保和殿の東西に点在している。

軽食やドリンクを楽しむことができるので広大な博物館観光の休憩に便利である。







乾清門

内廷の正門。宮殿の造りで、内部には孔子を祀った一室があった。

紫禁城を居城とした清朝の歴代皇帝は、ここで 「御門の政」 (日常の政務を執る事) を行った。

現在は、記念品を販売する店がある。







乾清門をくぐり、内へと入っていく。
この門をくぐれるのは、皇帝以外には皇后に仕える宮女と宦官だけだったとされる。

また乾清門前には、一対の塗金青銅獅子像がある。
皇帝の早い帰還を祈る意味があるという。

左 (東) が子供をあやす雌、右 (西) が右足で手毬を抱えて遊ぶ雄の像。
この一対の獅子の像は、 中国ではレストランやお店の入り口でよく見かける。

内廷は、中央に乾清宮・交泰殿・坤寧宮の後三宮と東西六宮の三宮六院と養心殿、奉先殿等で構成されている。
ここで皇帝は、皇后や妃、官女、宦官らと暮らしていた。


 



乾清宮

明代の永楽18年 (1420) に創建され、清代の嘉慶3年 (1798) に再建された。

明代から清代の康熙年間まで皇帝がここに住み、日常の政務を執っていた。

清代の雍正帝が即位し、寝宮を養心殿に移してから、乾清宮は内廷式典を行ない、
皇帝が臣下や外国使節に会見する場所となった。

雍正帝の時代以来、皇帝が後継者を指名する方法として「太子密建の法」が定められた。

その方法とは、皇位後継者の名前を記した詔書を匣に納め、乾清宮の中の 「正大光明」
の扁額の後ろに置き、皇帝崩御の後、匣が開けられ、指名された皇子が皇帝の位に即くというものだった。

清代には皇帝が崩御すると、暫くの間、棺はこの宮殿に安置され、弔いの儀式が行われた。
棺はそののち、景山の観徳殿に移され、正式な葬式が行われ、皇室の墓地に葬られた。






交泰殿

交泰殿の創建は明代の永楽18年 (1420) であるが、現在の建物は清代の嘉慶年間に再建された。

元旦や千秋 (皇后の誕生日) などの祝日に皇后がここでお祝いを受けた。

乾隆皇帝が皇帝の権力を象徴する25種の印璽をここに納めて以来、交泰殿は印璽の保存場所となった。












坤寧宮 (こんねいきゅう)

明代の永楽18年 (1420) に建てられた皇后の寝宮である。

清代の順治12年 (1655) に盛京の清寧宮を模して、建て直された。

西の間はシャーマン教祭祀の場所となり、東の間は皇帝の結婚式の時の寝室となった。

清代の康熙、同治、光緒三帝の結婚式では、共にここを寝室とした。








養心殿

明代の嘉靖16年 (1537) に建てられ、清代の雍正年間に改築された。
建物自身は 「工」 字形建築物で、二つの宮殿からなっている。

雍正年間に皇帝の寝室は後ろの宮殿に移され、前の宮殿は皇帝が日常の政務を執り、
臣下に会見する場所となった。

養心殿の西の間 (西暖閣) は皇帝が役人の上奏文書を決裁し、「殿試」 の試験答案を審査、
閲覧する場所だった。
また、軍機大臣を召見し、軍政の実務について相談するのにも使われた。

養心殿の東の間 (東暖閣) は、同治、光緒年間に慈禧皇太后 (西太后) が慈安皇太后と共に
「垂簾の政」 した場所である。
宣統3年 (1911) 辛亥革命の際、溥儀がここで 「御前会議」 を開き、退位を決めた。









軍機処
清代の雍正7年 (1729)、雍正帝が、中央集権を強化し、軍隊に対する指揮権を強めるために軍機房を設立した。

乾隆帝が即位してから総理処と改名し、そして三年後に軍機処と命名した。

軍機処には軍機大臣、軍機章京などの官職が設けられ、これらの役人が軍機処で待命し、
皇帝の召見に応じて軍政の要事について相談し、軍政務に携わった。









御花園
坤寧門を抜けると、今までとは違う緑のあるこじんまりした空間に出る。

紫禁城を居城とした明・清両王朝の歴代皇帝や后妃達が花を愛で、月見を楽しんだ御苑。
明代1417年に造られた。

幼いころの溥儀もここで遊んだといわれている。





中央にある欽安殿は、防火のために水神の玄武を祀った神殿。

一度も火災に合わず、故宮で唯一明朝時代の建築物である。

御花園も欽安殿を中心に建物を、左右対称に配置してある。





神武門へ

紫禁城の北側の門として構える神武門。
皇帝に仕えた官吏や宦官などが、夕刻の鐘とともにここから宮殿を出ていった。

神武門の入り口には、中国の文学者・詩人・作家・歴史家で、日本ともゆかりの深い郭沫若の書による
「故宮博物院」 という文字の扁額がかかっている。



この後、景山公園に登り万春亭より紫禁城を一望する。


これにて紫禁城観光は終了。