2月11日             源氏物語  (桐壺)
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いづれの御時(おんとき)にか、女御(にょうご)、更衣(かうい)あまたさぶらひたまひける中に、

いとやむごとなき際(きは)にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。

はじめより「我は」と思ひ上がりたまへる御方がた、めざましきものにおとしめ、嫉(そね)みたまふ。


御局(みつぼね)は、桐壺(きりつぼ)なり。

あまたの御方がたを過ぎさせたまひて、ひまなき御前(まへ)渡りに、人の御心を尽くしたまふも、げにことわりと見えたり。


参(ま)う上(のぼ)りたまふにも、あまりうちしきる折々は、 打橋(うちはし)、渡殿(わたどの)のここかしこの道に、

あやしきわざをしつつ、御送り迎への人の衣(ころも)の裾(すそ)、堪へがたく、まさなきこともあり。


またある時には、え避(さ)らぬ馬道(めだう)の戸を鎖(さ)しこめ、こなたかなた心を合(あ)はせて、

はしたなめ、わづらはせたまふ時も多かり。


事にふれて、数知らず苦しきことのみまされば、いといたう思ひわびたるを、いとどあはれと御覧じて、後涼殿(こうらうでん)に

もとよりさぶらひたまふ更衣の曹司(ざうし)を、他に移させたまひて、上局(うへつぼね)に賜はす。その恨み、ましてやらむ方なし。



                    (源氏物語 朗読)
   

(現代語訳)


どの帝(みかど)の頃であったかはわからないが、宮中には女御(にょご)や更衣(こうい)と呼ばれる何人もの妃(きさき)が仕えていた。

その中の一人は高貴な生れではなかったが、誰よりも恵まれ、帝(みかど)の寵愛を独り占めしている妃がいた。


他の妃たちは、自分の実家が由緒ある名家だったので、帝の寵愛を受ける者は自分しかいないと思い込んでいた。

まさか帝が、その更衣を寵愛していたとは思わなかったので、彼女らは妬(ねた)ましさのあまり、この更衣を見下すようになった。


更衣が住む部屋は、桐壺(きりつぼ)と呼ばれた。

帝がこの部屋を訪れるたびに、他の妃たちの部屋の前を通ることになる。

それが毎日のように続くのだから、妃たちの妬み嫉(そね)みがひどくなるのも無理のないことであった。


彼女たちは、更衣が通る廊下や架け橋に汚物を撒き散らし、更衣を送り迎えする宮女たちの着物の裾を台なしにしてしまうのである。

ときには、避けては通れない廊下の両端の扉に鍵をかけて、更衣を閉じ込めて戸惑わせたりするといういじめもよく行われた。


何かにつけ、このような悪ふざけの連続は、苦労の種が増えるばかりなので、更衣はすっかり気が滅入ってしまった。


それを見かねた帝は、ますますふびんに思い、清涼殿(せいりょうでん)のすぐ隣の後涼殿(こうりょうでん)に住んでいた妃に、

別の場所に移るように命じた。そして、空いた部屋を桐壺の更衣が利用できるようにした。

追い出されて他所(よそ)へ移った妃のはらわたが、煮えくり返ったのは言うまでもない。


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源氏物語について


平安時代、藤原氏をはじめとする貴族の間では、天皇家に自分の娘を嫁がせようと必死になっていた。

自分の娘を後宮に押し込み、息子を産んで次の天皇に封ぜられれば、孫であるその天皇を扶けて、

朝廷を牛耳ることが出来るからである。


そのため、当時の天皇は、一夫多妻制であり、複数の妃を有していた。

寵愛の順位は、妃の家柄を優先させることが、天皇の義務であった。


次代の天皇となる跡継ぎは、どの妃の子でもよいという訳ではない。

即位の暁には、貴族たちの合意を得て、円滑に政治を執り行うことのできる、そんな跡継ぎでなくてはならない。



ならば天皇は、第一にそうした跡継ぎをつくれる女性を重んじなくてはならなかったのだ。

だがしかし、家柄の低い桐壺更衣が、天皇の寵愛を一身に集めてしまった。


そのため彼女は、後宮の妃たちの嫉妬を受ける矢面に立たされてしまう。

天皇にしても、一人の男性として抱く愛情と、天皇として守るべき立場とに挟まれて、葛藤の日々を過ごすことになる。


この苦悩する天皇の姿は、実に人間的だ。人間を見据え、天皇という存在までもリアルに描く。

それが「源氏物語」だといえるだろう。




【源氏物語】

平安中期の物語。54帖。紫式部作。1008年(寛弘5年)頃成立。

光源氏という皇族の男性の誕生から、成長し栄華を極める過程と、その後、憂いに満ちた晩年から死までを描き、

さらに光源氏の死後、その子供達の恋愛模様が綴られる。


なお作者の「紫式部」という名称はペンネームである。「紫」は、源氏物語の作中人物「紫の上」に由来する。

「式部」は、儀式などを司る官名である。

彼女は藤原一族の出身であるため、苗字は「藤原」であることは判明しているが、実名は不詳となっている。